第9話 神のちからを有した実のはなしⅠ

“アルルの実”というものがある。

 誰がそう名付けたのか、いつからそう呼ばれているのかは謎で、その正体はわからないことが多い。

 ただ一つ、はっきりしている事実があり、人々はその真実を渇望する。

 かつて人々は、この実を奪い合って争いを起こしたことがあった。

 ジェイが春の丘に住むようになって一年が経った秋ごろ、一人の青年が突然、現れた。

 彼は、確か……エリアスと言ったか――。



 四年前。

 秋の日差しは、冷え始めた大気と仲良く手を取って、暑くもなく寒くもなく、なんとも昼寝のはかどる季節がやってきた。

 周囲の山々は明るく色付き始めた葉を茂らせ、地上世界は深い紅葉の香りに包まれた。

 どこからか香ってくる金木犀の匂いは、ジェイや若草たちの心を晴れやかにし、澄んだ秋空を目で楽しみながら、移り行く四季の芸術を楽しむ。


 ジェイは、アルルの木の下で若草の上に寝転びながら、丸く膝を抱えてうとうとしていた。

 浮き上がったり沈み込んだり、海の真ん中をたゆたうような心地で、次第に意識が現から遠のいてゆく。

 そんな時、町から春の丘へ続く一本道を、ひとりの足音が登ってくるのに、やさしい風が真っ先に気付いた。


『誰か来たぜ』と、やさしい風がジェイの肩先にそっと触れ、現と夢を行ったり来たりしていた少年は、はっと目を覚ます。

 あわてて半身を起こすと、丁度その客人は坂を登り切り、ジェイの視界に入ってきたところだった。

 グレーがかった金色のワンレンボブヘアを風に揺らし、痩せた身体をカソックに包んだ若い青年は、やや幼さの残る顔に緊張の色を浮かべながら、ジェイに向かってぺこりと頭を下げた。


『神に仕える男の子だわ』

『ストイックで色っぽいわよね』


 長女がうっとりとした口調で言い、三女がそれに同意する。

 ジェイは重く下がってくる瞼を開いたり閉じたりしながら立ち上がると、お辞儀を返し、青年の傍へ近寄った。

 ここへは滅多に人が立ち入らないので、不思議に思いながら訊ねる。


「あのぅ、何か御用でしょうか?」


 眠気を押し殺した舌足らずな声に、若干の欠伸が混じる。

 青年は、声変わり前から大して変化が無いような透き通った声で、


「こんにちは。私は、エリアス・ドリアンと申します。神学校に通う十八歳で、今日は、お願いがあって来ました」


 エリアスが緊張で早口になりながらそう言うので、ジェイは椅子兼テーブルとして使っている平たい大石に彼を座るよう促し、二人で腰を落ち着けてから口を開いた。


「お願いとは何でしょうか」

「図々しくて申し訳ないのですが、譲っていただきたいものがあるんです」


 人見知りなのか、エリアスは話すときに目線を相手から反らす癖があるようだ。短い会話の中で、ちらちらとジェイの目を見ようとはしているが、視線が一箇所に定まることは決してなかった。


「譲って欲しい……? あの、僕、何も持ってないんですけど……」

「あれを――」


 彼は視線を下げながら、真っ直ぐに正面を指差した。

 彼の指先を追って振り返ると、そこには風に揺れてさざめくアルルの木が、昼下がりの空の下に佇立ちょりつしている。


「あの木に生っている実を、ひとつ譲っていただけますか」

「アルルの実を……?」

「はい」


 エリアスが言うには、アルルの木に生ったあの実が、聖書に出てくる「神の実」に似ているということだった。


「神の実は、胡桃のような殻の中に、艶やかなまん丸のかくが入っているのです。あの木に生っているものは胡桃に似ていますけど、胡桃の成長過程とは違いますよね。凹凸の激しい殻が剥き出しになって木に生っている。本物の胡桃は、でこぼこした固い殻の周りにもう一回り、梅の実の果肉のようなものを纏ってますもの」


「はあ、そうですよね」

「神の実も、アルルの実と同じ成長過程を経ていると、僕はにらんでいます」


 聖書の話になった途端、エリアス青年は急に饒舌を発揮した。


「アルルの実というのは正式名称……ではないですよね」

「さあ、僕にはなんとも……みんながそう呼んでいたもので」


 ジェイが首を傾げると、エリアス青年は、学校から出された課題のテーマに、神の実に似た外見を持つアルルの実を使いたいので、資料としてひとつ譲っていただきたい、と説明した。

 ジェイはそれを快く承諾し、自ら木によじ登ると、指先に触れる凹凸をしっかりと握り締めながら、エリアスにひとつ、手渡した。


          ☆


 その日から七日ほど経過した夜、エリアスは、手に入れたアルルの実を机の上に置き、ノートの切れ端に書き溜めたメモの束を、レポート用紙に清書する作業に追われていた(この世界に流通している紙の殆どが、私たちの世界で言う藁半紙のような紙である)。


 キルティングのガウンを着込み、机上のランプが手元を照らし出すこの空間が、エリアスは好きだった。

 みなが寝静まった深夜に、物音を殺しながら静寂に包まって息をするのが、とてもわくわくする。

 多くが夢の中にいる中、自分だけが現にいて、夜を支配する王の腕の中に招かれるのは、昼間を生きるよりも楽しかった。


 羽ペンをとったエリアスの手が不意に止まり、手元の聖書をぱらぱらと捲った。

 聖書に出てくるエピソードで、このような話がある。


 神の実は、人間を助けるために人の世に生まれた神の心である。

神の実を食した人間は、己の望みを叶えることができ、その身に神の御心を宿すことができるのだ。

 神の実に成せぬ願いは存在しえぬ。しかし、だからと言って、己の欲を満たすために、神の心を巡って争いを起こした人間の国は、滅びの一途を辿る。

 神は人間の心の中に希望を見出していたのだ。だから神は、人に幸せを与えたのだ。己の望みを叶えることは、人間の生命の目的の一つに数えられる。

 そんな神の下で、同族を傷つける争いを起こす人間たちは、余すことなく罪人である。


 神の実は、望みを持つ人間の願いを聞き届け、人に幸せを与える。

 神は人間に希望の道を歩んで欲しいと願った。誰一人例外なく、人間は神の宝物であった。

 しかし人間たちは、そんな神の心を裏切って神の実の奪い合いをはじめた。

 多くの血が流れ、また、多くの涙が、血に染まる大地を濡らした。

 刃は血に曇り、世界を悲しみで溢れさせた。

 幸福が欲望と憎しみに駆逐された。

 神は人々に失望し、人間を見捨ててしまう。


 聖書の中でもとりわけ有名なそのエピソードは、いつの時代も人間は人を蹴落としてでも手に入れたいものがある、愚かな国の住人であると語っている。

 それは後に大きな争いへと発展し、やがて終結を迎え、再び争いの種が成長するまでの期間、人々は平穏を歩む。

 人間は学んでも、時が経てば同じ過ちを繰り返してしまう。そんな、愚かな国の住人。



 筆で描いたような細い三日月が、西の空に傾きかけた頃、机上のランプから放たれるオレンジ色の灯りは、エリアスの眠気を瞼の表側に手繰り寄せた。

 ちらりと時計を見上げると、いつの間にか日付が変わって一刻半ほどが経過していた。

 明日(正しくは今日だが)も朝から講義があるので、そろそろ寝床に着こうと、筆を置く。


 エリアスはインク壺の蓋を閉め、ささっと机上を片付けると、ガウンを椅子の背凭れに脱ぎ捨て、ランプの中の炎を吹き消し、闇に閉ざされた部屋の中を爪先で探りながら寝台に潜り込んだ。

 布団の中は息を呑むほどに冷たかったが、課題の締め切りに追われ、ここ数日やむなく睡眠時間を削っていたエリアスが夢の底へ落ちてゆくのに時間はかからなかった。

 その夜にエリアス青年が見た夢が、アルルの実を巡っての争いの発端となることを、まだ誰も知らない。

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