第8話 狙われたアルルの実

『ここから先は、二人で行くんだ』


 ジェイとライゼは、サーデルバ山脈麓付近の街道に下された。大きな石がごろごろと転がった地面は、ブーツの堅い靴底でじゃり、と音をたてる。

 辺りは生きながらに静寂の底へ沈み、梟の鳴く声が聞こえなければ、無音によって増幅される恐怖に飲み込まれてしまいそうだった。


 春の丘よりも寒い夜の下で、ジェイの息は白く色付き、頬や手といった、露出した肌を冷えた空気が撫でてゆく。

 丸い月が雲の端から顔を覗かせた。今宵の月はいつもより大きく、その分、地上に降り注ぐ明かりの量も多いため、夜の街道は昼間にも劣らぬ明るさを手に入れた。


『いいか、ジェイ。お前はしばらく春の丘に近付くな。遠くへ行け。絶対に人間の手に渡さないと誓ったお前が、アルルの実を守るんだ。春の丘はおれらと、若草三人娘で守る』


 昼間とは違った冷たさを感じさせる光の下で見上げたやさしい風の顔には深く影が落ち、その表情をじっくりと確認することは難しかったが、急いたように発せられる短い言葉の端からは色濃い焦燥感がありありと伝わってきた。


「や、やさしい風……」


 思わず向けた縋るような視線と一緒に、不安に震える声でその名を呼ぶと、彼は冷徹な月明かりに照らされながら、太陽のように暖かく微笑んだ。『やさしい風』という名前は、ジェイが春の丘に来たばかりの頃に、今と同じ暖かな微笑を向けられた際になんとなく呼んだものだった。彼は、身元も知らぬ少年にも、春の丘に住人にも、分け隔てなくやさしかった。どうして彼のやさしさは、自分以外の人間には見ることができないのか、それを悔しく思うこともある。ジェイの隣にいるライゼには、彼のこのやさしい微笑が見えないのだと思うと、悔しくて胸が締め付けられる思いだった。


『春の丘を戦場になんかさせない。ほとぼりが冷めたら、絶対におれが迎えに行く。必ず』


 その途端、ジェイは目の奥がつん、と熱を持つのを感じた。直後に、じんわりと視野が歪み、両の目頭から小さくて温かいものが零れ落ちた。こみ上げてくる不安に胸が押しつぶされそうだった。

 やさしい風が困った顔をしながら『泣くなよ』と彼の頭の上に手を置くと、少年は嗚咽を堪え、深く息をしながら顔を上げた。瞳の中には、溢れんばかりの涙がゆらゆらと揺れていたが、外へ零れることはなかった。


「これは決意の涙だ。悲しみの涙でも、恐怖の涙でもない! 僕は自分の使命を全うする。その決意は、今できた。やさしい風、春の丘を頼む。僕が帰ってきたとき、五年前の朝を再現できるよう、みんな元気で。僕が愛してやまない春の丘を守って」


 ジェイは涙に濡れた瞳に強い意志を煌かせながら、真っ直ぐにやさしい風を見上げた。兎のように目が赤く色付き、白い頬を涙が伝った跡が残っている。

 ジェイは、流した数粒の涙の中に心の弱さを押し込めて、己の中から一片の欠片も残さず洗い流した。今、彼の中にあるのは、強固な決意と、それを成し遂げるための勇気。

 きゅっと引き結んだ唇と、目に浮かんだ涙に反射して映る月光の輝きは、精神に宿る武器の強靭さを物語っている。


 やさしい風は、弱さを跳ね除けることができた彼の中の強き精神に敬意を表し、

『ああ』

 と強く頷くと、森の風を伴って、今来た道を引き返していった。遠ざかってゆく二人の姿を地上から見送るジェイの隣で、ライゼはただただ黙って、彼の見つめる夜空の先に、二人の風の後姿を想像していた。


          ☆


 普段ではあまり見ない位置に月が浮かんでいる。あと三日で満ちる白銀の光は、手元に雲の裾を置き、時折その袂で顔を隠しながら、静謐な地上を見下ろしていた。

 正面に聳えるサーデルバの峰々は、春の丘から見るよりも高く、彼らをその腕に抱き込もうとするかのごとく荘厳な出で立ちだった。


 ライゼは山脈の方へ向けて、大陸の地図を広げると、難しい顔をしながら図面上の川や山脈を睨みつけている。

 遠くへ逃げる。そらが彼らの目的。

 遠くとは何処までのことを言うのか――春の丘周辺から出たことのないジェイには世界の広さなど計り知れない。


金星国ヴェヌスは通れない。軍が動いたということは顔が割れている可能性があるし……なるべく遠く……オータルタ大陸でも目指しとくか」


 ライゼの独り言に耳を傾けていたジェイだったが、彼の口から出た予想外の地名に、仰天して思わず声を上げた。


「オータルタ大陸! そんな遠くまで」

「おい、静かにしろよ。賊どもに気付かれるぜ」


 ジェイは慌てて口を噤む。


「ぞ、賊がいるんですか……?」

「ああ、いるね。ここは旅人が多く通る道だからな。毅然としとけよ、お前みたいなお人好し丸出しの面で、ひょろひょろした奴は間違いなく狙われるからな」

「は、はい……」


 オータルタ大陸は、ここ、水星国メルクのあるカラルナ大陸の次に大きな土地を有した地だ。カラルナとは文化も違えば、流行や言語も違う。


「オータルタまで行くのは念のためだ。より遠く、奴らの目から逃げおおせなきゃならんのだろ?」


 ジェイは返事の代わりに、肩に掛けた鞄の紐をぎゅっと握り締めた。


「よし、決めたぜ。見なよ」


 ライゼはジェイに見やすいように地図を大きく広げた。彼の指はサーデルバ山脈の麓を指している。


「今、おれたちはここにいる」

「わかるんですか?」

「あんま馬鹿にすんなよ。飛んでるとき、ちゃんと方向確認してたんだぜ、おれは」


 心外だ、とばかりにライゼは顔を顰めた。


「で、だ。本来ならば金星国ヴェヌスの端を突っ切ってしまいたいところを、ちょいと迂回してだな、ここ、火星国マルスを目指す」


 ライゼの指先が金星国の外側をなぞるようにして、地図の下の方へ滑る。

 火星国は、金星国の首都から見て南東方向に位置する国だ。カラルナ大陸の中では一番小さな国だが、大きな港があり、肥沃な大地と、おおらかで真面目なお国柄で他国からの旅行者が最も多い国である。


「火星国の港から出てる船で土星国サタナへ入る。で、土星国から再び海路でオータルタ大陸へ向かう。どーだ、何か気になることは?」


 ジェイは、首を振って、


「いえ、僕は春の丘から出たことがないし、地理もよくわからないので、ライゼが安全だと思う道を行きましょう」


 ライゼは、くっと喉を鳴らして笑った。


「安全ン? おれの旅路に安全なんていう拠り所はなかったぜ。ましてや、おれらは軍に追われてるんだぞ。気ィ抜いてられるかよ」


 その言葉は、世界を知らない少年の心を深く突いた。


(そうだ……何を考えているんだ。僕は――ヴェヌス国軍を敵に回してしまったんだぞ。そんな僕の行く道に、安全なんてあるはずがない……)


 ジェイは彼の言葉をしっかりと胸に刻みつけると、

「ええ、そうですね」と、深く頷いた。


「よし、歩けるか?」

「はい」

「この街道の先に宿がある。少しでも距離を稼ぎたいところだが、夜道は心もとないから、一泊した方がいいだろ?」

「はい」


 ジェイは、ライゼが指差した方角を見つめながら言った。胸中には拭っても拭いきれない不安が重く渦巻いていたが、それを腹の奥底へと押し込んで、鋼鉄の決心で蓋をすることで、ライゼの隣を、一歩、歩き出すことができた。


         ☆


 やさしい風と森の風が文字通り飛んで帰ると、春の丘を囲んでいた壁が、大きな掌でぐしゃぐしゃに握りつぶされたかのように無残に崩壊していた。

やさしい風は、上からその景色を見下ろしながら、


『なんだよ、これ……』

 と、声を詰まらせる。


 森の風は口を閉ざしたまま地上に降りると、滝壺の女丈夫を探した。壁の崩壊は春の丘に満ちつつあった滝壺の水までも、何処かへと消し去ってしまっていて、周辺に生えた木や道は土砂降りの翌日を思わせるほど水浸しだった。

 やさしい風も彼に続いて地面に降り立つ。地面を覆う草もびっしょりと濡れていて、彼の足元できゅっと鳴った。

 ヴェヌス国軍たちの姿はない。荒れ果てた春の丘だけが、静寂しじまの中に寂寞とあるだけだった。


『やさしい風!』


 そこへ現れた若草たちは、やさしい風の姿を見つけると、全身を滝壺の水で濡らしながら、彼に駆け寄った。


『長女、何があった?』


 やさしい風は、若草の一人、長女に詰め寄る勢いで訊ねた。次女・三女は、彼女の背中で不安そうに隠れるようにして身を寄せ合っている。そんな彼女たちの様子を見て、彼の胸中に暗雲が立ち込める。

長女は、長い髪からぽたぽたと水を滴らせながら、恐慌と悲痛を混ぜ合わせたような面持ちで口を開いた。


『魔法使いがいたわ……、軍の中に』

『魔法使い?』

『ええ。炎の魔法使いよ』

『木や、あたいたちの作った壁が焼き払われちまったんだ!』


 いつもは強気な目をした次女が、今は泣きそうに眉根を寄せた表情で訴えた。

 軍が魔法使いを伴って参上したということは、人間であるジェイだけでなく、ここにいる自然界の生き物たちをも敵に回す覚悟があるということだ。金星国の首都で宮廷仕えをする魔法使いは、政に関わる者、もしくは、軍の中で人知を越えたちからを存分に振るう者の二通りである。

 ここへ来たという炎の魔法使いは、ヴェヌス国軍と、自然界の加護の下にある春の丘との喧嘩に駆り出されたのだろう。軍にとって魔法使いとは、生きた兵器なのだ。


『おい、お前たち、滝壺の女丈夫はどうした?』


 森の風が若草たちに訊ねると、彼女たちの不安そうな顔に、更に暗い影が落ちた。やさしい風たちは、その表情に最悪の想像をする。

 町へ水が流れ出ていない。

 消えた女丈夫。

 焼き払われた壁。――高く、強固な壁を焼ききるだけの炎を持った魔法使い。

 水の主とも言える滝壺の女丈夫をも凌駕する強力な炎を操れる魔法使い――!


『まさか……』

『待ちなさいよ、アタシはここ』


 やさしい風が息を呑んだとき、木の陰からゆら、と姿を現したのは滝壺の女丈夫だ。


『女丈夫!』


 森の風が心配そうに彼女に駆け寄った。見たところ、彼女に目立つ怪我や異常は見受けられなかったので、風たちはほっと安堵する。


『事情を説明してくれ。ヴェヌス国軍たちはどうした』


 森の風が一息で訊ねると、彼女は顔の前でクロスするように垂れた、ガラス玉の連なった髪飾りの下で眉を顰めた。


『あの女、アタシのプライドだけでなく、アタシのかわいい子を汚ねぇ炎なんかで穢してくれやがった』


 女丈夫の噛み締めた奥歯がギリギリと鳴る。


『女?』

『炎の魔法使い――壁を焼き払う片手間で、アタシの水を蒸発させた』

『滝壺の水、全てをか?』


 やさしい風が信じられないといった風に言うと、女丈夫の瞳に憎悪が燃え上がった。

 怒髪天を衝くとはまさにこのこと。波打った藍色の長い髪は、寄り集まった針金が強力な磁力に吸い寄せられるかのように一斉に逆立った。しかしそれは一瞬で、怒気の波動で倒立した豊かな髪は、ざわざわと元の柔らかさを取り戻すと、月明かりの下で水に濡れて重く光った。


『い~や、アタシには人々の暮らしを支える水の守り主としての義務がある。あのまま突き進んでいたら、アタシは炎の威力に負けて枯れてた。やばいって思ったから早々に引かせたけど……。足止めできなくて悪かったよ、森の風』


 女丈夫は悔しそうに俯くと、尖った八重歯で下唇を噛み締めた。相当強く噛んだのか、薄い唇から一筋の赤い雫が顎に向かって滑り落ちる。


『いや、いいんだ。相手が悪かったよ。お前の手に負えなかったんだ、仕方ないさ』


 慰めるように言った森の風は、彼女の唇を汚す赤を指先で拭った。


『軍人たちは女丈夫が水を引かせると、大勢で乗り込んできたわ。でも、アルルの木に実がひとつも無いのとわかると、急いで引き上げて行ったの。きっと、ジェイたちを探しに行ったのよ』

『俺らがジェイたちを逃がしたこともばれているかもな』


 長女の言葉に頷きながら、森の風が言う。


『ヴェヌス国軍の目的はアルルの実。あの国は軍を動かしてでも、あれを手に入れたい理由があるらしいな。ここに実がないと知るや、早急に立ち去ったってことは、次、奴らはアルルの実を持って逃走したジェイを狙うか?』


 やさしい風が、荒れ果てた春の丘に響き渡る声で言うと、六人の足元に焦燥の炎が広がった。


『でも、アルルの木に実がなる頃に、またあの人たち、来るかも……?』


 三女がびくびくしながら言うと、長い腕を胸の前で組んだ森の風が、考え事をしながら口を開いた。


『そのことなんだが、ちょっと、気になることがある』

『気になること?』


 と、女丈夫。


『ああ』

『なんだよ、それ』

『アルルの実についてだ。この木は、聖書に出てくるものと、同じ木なのだろう?』


 森の風の口から放たれた、核心を衝く言葉に、一同は空気が一瞬にして凍りつくのを感じた。

 風や若草たちの記憶の泉に、あの夜の景色が浮かび上がる……。春の丘をオレンジ色に染め上げる松明の灯り。耳朶に蘇る喧騒と、『欲望』と名を頂いた群衆たちの中に投じられる、たった一本のマッチ。

 欲望の群集は、油でも被ったのかと思うほど、その一本のマッチという一声に燃え上がった。


“あれは――アルルの実は、神の実だったんです!”


 欲望は、よく燃えるのだ。

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