第7話 他国から来た使者
ライゼが春の丘へ来て五回目の朝を迎えた。
大怪我をした翌日から、朝早く起きて剣を振るうライゼを最初は止めていたが、
「もうなんともない。治ったのなら日課を怠るわけにはいかない」
と言って聞かなかった。
本人が大丈夫だと言っているのだから平気なのだろう、とそれ以上は止めることをせず、草の上に寝転んでライゼの剣が風を切る音に耳を傾けながら「水底の国」を朝陽の下で読んだ。
起きてすぐに、二人は互いに好きなことをして過ごし、四半刻ほど剣を振るい続けたライゼが町へ降り、自分とジェイの分の朝食を買ってくるという朝が五日続いた時、その二人はやってきた。
その日の朝、いつものようにライゼは早朝の陽光で刃を煌かせた後、財布を持って町の商店街へ向かった。その間、ジェイは滝へ水を汲みにいく。
ライゼの持っていた木の器は、表面に見事なアラベスク模様が彫られていて、自分が使っている器の貧相さが際立った。
ジェイが両手に水の入った器を持って春の丘へ戻ってくると、アルルの木の下に人が二人立っているのを見つけて、立ち止まる。器を持つ手に微かに力が入ったのは、二人とも、腰にサーベルを携え、紺色の軍服を纏っていたからだった。
(メルク国軍が着るのは白い軍服だったはず……)
ジェイの訝しんだ視線の先で二人の軍人は揃って敬礼し、
「ジェイ・エイリク・リフェール殿とお見受けする」
ジェイから見て右側に立った軍人が、敬礼したまま声を張り上げた。
ジェイは器を、いつも机代わりに使っている平たい石の上に置き、二人の傍へ小走りで駆け寄る。近くへ行ってはじめて、二人の顔が同じ造形であると知った。テールグリーンの虹彩と緑がかった黒髪が金の飾りのついた軍帽の下から覗いている。右側の軍人はつり気味の爽涼な眼差しと、隙の無い佇まいから厳しそうな印象を受けるが、もう一人の方は同じ造りの顔の中に、物静かで穏やかな雰囲気を持っている。
「はい。僕はジェイ・エイリク・リフェールですが……あなたたちは」
今度は左側の軍人が口を開く。
「私はヴェヌス国軍第一部隊所属・オクタヴィア・ヴィルヘルム大将です」
「同じく、ヴェヌス国軍第一部隊所属・ユリウス・ヴィルヘルム少将」
放たれたナイフのような鋭い声を耳にして、ジェイの表情は誰が見てもわかるほどに強張った。
心臓が急に重くなって、背中を低温の炎で炙られている気分だ。
「ヴェヌス国の……」
二人は敬礼を解くと、
「や、ごめんね。急にこんなのが二人押しかけてきてびっくりしたでしょ?」
オクタヴィア・ヴィルヘルム大将が口調を緩めて笑いかけてきたので、ジェイも少しだけ緊張を解いた。それでも背筋の強張りだけはいつまでもそこにしがみついていた。
「はい、少し……」
「ごめんね。そんな怖がらなくてもいいから」
「はい。……それで、あの、軍人さんがどうしてここへ? 何故、僕の名前を知っているのですか」
抜け切らない緊張感のせいで口調が急ぎ足になってしまい、少し恥ずかしかった。居心地の悪さも拭いきれず、膝の横に下げた右手を意味も無く閉じたり開いたりしてしまう。
「君はここで、あの木を守っているのだろう?」
そう言ったのは、ユリウス・ヴィルヘルム少将だ。グラス同士をぶつけたような硬質な声は、少し神経質そうな気配を含んでいた。
そして、そんな彼の口から放たれた言葉に、鎮めていた緊張が再び高まるのを感じた。
彼が『あの木』と称して指差したのは、春の丘一の大木であるアルルの木。
「あの……」
ジェイが俯き気味に口を開いたとき、
「おい、どうした」
と、後ろから声がかかり、それがライゼのものだとわかると、ジェイはほっとして振り向いた。朝食の入った紙袋を抱えたライゼが少しだけ足を速めて歩いてくる。
「ん、誰だ。……ヴェヌス国軍の服じゃねえかよ」
軍の人間相手に、普段の物怖じしない口調を貫く彼に、ジェイはハラハラした。
「ナニ、お前、軍人に目つけられるようなことやったの?」
「そんなことしてませんよ」
ジェイが周章狼狽といった様子で首を振る。
「ふぅん。……で、お宅ら、何用? 物々しい空気作ってくれちゃってよ」
「ちょ、ちょっとライゼ……言い方を考えてくださいよ」
慌ててライゼを肘で小突くも、彼は「お前は黙ってろ」と聞く耳持たない。
「まあまあ、そんな怖い顔しないでよ。別に君たちを取って食おうってわけじゃないんだから」
オクタヴィア大将が宥めるように言うが、尚も食って掛かろうとするライゼを背に押しやるようにして、ジェイは三人の中心に割り込んだ。
「大変申し訳ありません。連れが失礼なことを……」
オクタヴィア大将はにっこり笑って、
「構わないよ」と言った。
安心すると同時に冷や汗が背筋を滑り落ちてゆくのを感じながら、ジェイが本題を切り出す。
「ところで、僕らにどのようなご用件が……」
背中でライゼが警戒心を強める気配がする。この青年は何事にも動じない性格のわりに、他人をあまり信頼しないらしい。他国の軍人相手にここまでありありと喧嘩腰の態度を見せ付けるのは、物怖じしない以前に、礼儀がなってないと思われてしまっても仕方ない。誰彼構わず噛み付く狂犬を飼っている気がしてきた。
すると、オクタヴィア大将は振り向き様、自分の立つ背後――アルルの木を指差した。
「あれ、アルルの木っていうんだろ?」
このときジェイは、心筋を直に撫でられているかのような心地を感じずにはいられなかった。
この軍人たちの口から『アルル』という名前が出てくるのを心の底から恐れている自分がいることに気がついて、一呼吸置いてから、
「はい。みんなそう呼んでおりますが」と冷静に答えた。
「僕たち、あの木に用があって来たんだ。でも、春の丘には、自然共の主がいて、アルルの木に近付く人間は悉く人知を超えた力で追い払われてしまうって専らの噂さ」
「何言ってやがるんだ、お前」
「ラ、ライゼ……!」
「こいつら胡散臭え。回りくどい喋り方しやがってよ。さっさと本題に入りやがれ」
ライゼは今にも掴みかかりそうな勢いで犬歯を剥き出しにした。背中が冷たくなってきた。
「ごめん、ごめん。話が回りくどくなってしまうのは僕の悪い癖だ。では、単刀直入に言おうか。僕たちに、アルルの実を譲って欲しい」
その瞬間、ジェイは胸の内から何かが零れ落ちたような感覚を味わった。一つで失くせば、がらがらと崩れ去る巨塔の一部が地面に落下したような喪失感。途端にジェイの中で、平穏と名を頂く塔が砂塵を巻き上げて崩れ去った。
彼は眩暈を覚えながら、首を小さく落とし、
「それはできません」と静かに答えた。
「遥々ヴェヌス国からお越しいただいて、こんなことを言うのは大変心苦しいのですが、それだけは……できないのです」
オクタヴィア大将は眉尻を下げた。
「どうしても?」
その言葉にゆっくり頷く。
「申し訳ございません。……アルルの実を、どのような事にご使用なさりたいのかは存じ上げませんが、あれは幸福とは程遠いものです。人々から“神の実”などと呼ばれるに値しません。アルルの実は人を滅ぼします。繁栄から遠ざかるばかり」
ジェイは深く頭を下げると、「どうかお引取りくださいませ。僕は、力になれそうにありません。申し訳ありません」とひたすら謝罪する。その後ろでライゼが、
「帰れ、帰れ。おれたちゃ朝メシの時間だ」と虫でも追い払うように手をひらつかせた。
双子たちはそっくりな顔を見合わせたが、先にユリウス少将が踵を返したので、オクタヴィア大将は残念そうに苦笑し、
「わかった。食事時にすまなかったね」と言い残し、連れの後を追って行った。
二人の足音が遠ざかっても、ジェイは顔を上げることができなかった。ものを考える余裕も無く、彼の中に不穏な予感が渦を巻いて、ジェイの心を竜巻のように荒らしてゆく。
ヴェヌス国軍、アルルの実、目的は、どうして軍人が欲しがるのか、あっさり引き下がったのは何故だ、アルルの実をどうするつもりなのか……冷や汗が止まらない。首の後ろがちりちりと炙られるように熱い。針山の上に建てた紙の城に閉じ込められた気分だ。
耳の奥に心臓があるみたいにすぐそこに聞こえる鼓動音の外で、若草たちが一斉に大きなため息をついた。
『怖ぁい。見た? サーベル持ってたわよ』
『なーんか容赦なさそうな奴らだったなァ。大将の方、笑っちゃいたけど、随分シビアそうなセーカクしてるとみたぜ』
『ジェイ、大丈夫……?』
さわさわと若草が揺れる音に混じって少女たちの声が聞こえる。自分を心配してくれた娘たちに、
「うん、大丈夫」
と返すと、いくらか心は平静を取り戻した。ようやく上げた顔には玉のような汗が浮かんでいて、細い顎先へ向かって雫が滑り落ちていくところだった。
二人が消えた方向をきつく睨みつけたライゼの肩に、すう、と現れたやさしい風が手を置いていた。
『お前のその物怖じしない性格、気に入ったぜ』
自分が褒められているなど全く気付かないライゼは、尚も顔を顰めていたが、少年がふふ、と笑うと、
「なんだよ」
と表情がいくらか和らいだ。
「やさしい風が褒めてますよ。あなたのその物怖じしないところを気に入ったって」
そう言われてライゼは凶悪そうな目をしばたたいたが、徐々にその表情に照れのようなものが浮かんだと思うと、意味も無く頬に触れながら、
「そうかよ」
と、背中を向けた。
「さ、腹ごしらえしようぜ」
「はい。僕もお腹空きました」
一週間前の自分だったら絶対に言わなかったであろう言葉を口にして、ジェイは石の上から二つの器を拾い上げた。
「よしよーし、たくさん食えよな。半年後くらいにはおれの身長抜かしてみろ」
ライゼは可愛がっている弟にするみたいにジェイの頭を乱暴に撫でた。
手に持った器の中身が揺れて小さな津波が起こった。
二人は町が見下ろせるアルルの木の根元に座って、白い朝陽を存分に浴びながら朝食を摂った。
☆
己を旅人と自称しているライゼは、いたくジェイのことを気に入ったらしく、怪我がすっかり感知した五日目も出立の仕度をする素振りはなかった。
ジェイの方も、五回も彼と共に朝陽を拝む日々が続けば、彼が旅に出ると言ってこの春の丘を去って行くときは別れの涙を禁じ得ないだろう。
ライゼは今朝のことを話そうとはしなかった。きっと、「アルルの実とはなんだ?」「なぜ軍人が木の実なんて欲しがるんだ」等、聞きたいことは沢山あったろうに。
ジェイとライゼはアルルの木の下で横になると、宵闇に溶け込んだ木の葉の隙間から、星々が瞬く夜天のパノラマを見上げていた。
ジェイはライゼに新しく買ってもらった外套に、ライゼは使い古した毛布に包まっている。
辺りには時折吹く夜風が若草を揺らす音だけが満ちていた。ジェイは幾度と無く寝返りを繰り返した後、我慢できなくなって口を開いた。
「ライゼ、起きてますか?」
「なに」
背中越しに返ってきた声には、まどろみの欠片もなかった。
「……何も訊かないんですか?」
「何を訊いてほしいって?」
ジェイは言葉に困ってしまう。自分から話題を振ってしまった手前、何も答えないのはばつが悪い、と彼が懸命に返事を選んでいると、ライゼが寝返りを打ってこちらを向いた。
「訊いていいことなのか、それ?」
枕代わりにした鞄に肘を寝かせて、その上に頭を乗せたライゼは真剣な表情で問う。
なんと答えるべきか――一向に言葉が思いつかず、二人の間には静寂が満ちる。
すぐ傍でやさしい風と若草たちが聞き耳を立てている気配がして、ジェイは尚更口を開くのが億劫になった。
痺れを切らしたらしいライゼは、欠伸をしながら仰向けになると、
「言いづらいなら別にいいぜ。どんな秘密があろうと、お前がおれの命の恩人だって事は変わりねえし。ただ、一人で考えるのが辛くなったらおれでなくても、風たちなり相談しろよな」
あっさりした口調の中にある優しい言葉に、はっとしたジェイは彼の方を見たが、ライゼはもう目を閉じていた。
言いたかった。あなたを助けたのは、自分ではなく、あれのちからであるということを。そうすれば、自分ひとりでこの重い秘密を守らなくてはならないことから逃げ出せるような気がした。しかし、もし、この青年が、ジェイが恐れていることに欲を出してしまったら……そう考えると、ジェイは口を開くのが怖くなるのだ。だから、
「はい、ありがとうございます」
また今夜も、ひとりで秘密を抱えることを選んでしまう。
☆
春の丘に眠りの静寂が沈んだ真夜中。
やさしい風は妙な胸騒ぎに起床を促され、はっと目を覚ました。
みんな寝ている。世界が眠りの底で夢を見ている中、一人だけ現へと浮上した彼は、町へ降りる道の方からただならぬ気配が流れ込んでくるのを感じて、上空から道の先を見下ろした。
地面を踏み鳴らす大勢の足音。冷たく硬い靴底の音が、夜の闇の中に物々しく響き渡る様は、安息から目覚めた人々の不安を煽ることだろう。
そして、白い月光の下に浮かぶ夜空色の服。足音を揃える全員が皆、揃いの服に袖を通し、勇猛さを湛えた瞳を軍帽の下で煌かせている。
『うそだろ……』
思わず漏れた声は、同じく異変を感じて駆けつけて来た森の風の耳にも届いていた。
『昼間来てた奴らか……仲間を率いてきたのか……?』
珍しく声を出した森の風は、
『あの人間たちの目的はわかるか?』
と、声を潜めて訊いた。
『ああ、わかるぜ。アルルの実だよ。ジェイが譲らないとわかるや、あっさり去っていったが、まさかこんな形で戻ってくるとはな』
『……五年前と同じか』
『いや……今回の方が面倒だぜ。相手は民間人じゃねえからな。しかも数が多い。何人連れてきやがった』
『六十人はいそうだな』
『まずいな……。どうするべきか……』
『ジェイたちを起こせ。春の丘から一旦離れさせるんだ。どうやらあの中隊は武装しているみたいだぞ』
『なんだって!』
『早くしろ』
『……ああ』
やさしい風が急いで地上に戻ると、森の風は滝壺の方へと飛んでいった。
『ジェイ、起きろ、ジェイ!』
やさしい風が声を振り立ててジェイの胸倉を掴み上げた。
「わ、わ、何?」
揺さぶられて首を前後にがくがくさせながらジェイは、目を擦って不機嫌そうに目を覚ました。
『シャキッとしろ! やばいことになったぞ、ライゼの野郎を起こせ、荷物をまとめろ!』
「な、なに? 一体どうしたの?」
『昼間来た軍人がいたろ? そいつらが頭数増やしてここへ向かってくる。しかも武装してやがるぜ。ヴェヌスの奴ら、血を流してでもアルルの実を奪ってく気だ』
アルルの実の名前を耳にするや否や、ジェイの頭の中でけたたましい警鐘が鳴り響いた。眠たそうに下がった瞼が途端に持ち上がり、瞳の中に動揺が浮かぶ。
「あの人たち……また来たの?」
ジェイは立ち上がって、掛け布団代わりにしていた外套を素早く身に纏った。
「どうしよう、やさしい風」
『ひとまず逃げろ』
「逃げる? でも、そうしたら、アルルの実が……」
『だーれが手ぶらでって言ったよ?』
やさしい風は小さくジャンプしてアルルの木に手を伸ばすと、葉の茂みの中からアルルの実をもぎ取った。
『今なってる実を急いで全部採れ。それを持って逃げろ。ヴェヌス国が軍を動かしてこいつを狙ってる理由がわかるまで遠くへ行くんだ』
「理由がわかるまで……」
それはいつまでだ? ジェイは受け止めきれないほどの不安に落ちてゆく思いだった。
『早くしろ! 考えるのは後だ』
「う、うん……」
ジェイは力強く頷くと、くるりと踵を返して、ぐっすり眠っているライゼを叩き起こした。その間、やさしい風は不安そうに身を寄せ合っていた若草たちに、春の丘一体の植物たちを起こして、軍の侵入を少しでも遅らせるために、春の丘を囲むように壁を作れと指示を出した。
『みんな起きろ! 春の丘を守れ! どんなに責められても崩れない砦を築くんだ! 春の丘に続く道を全て塞げ! 高い壁を作れ!』
やさしい風の声はサーデルバ山脈を飛び越えて、世界中に広がってゆくようだった。
たちまち町へ降りる為の小道は、寄り集まった太い木の根や、どこから伸びてきたのか荊の蔦などでできた壁によって塞がれた。
「おいおい、何事だ? 意味がわかんねえぜ」
すっかり目を覚ましたライゼが春の丘を見渡しているすぐ頭上で、ジェイがアルルの木によじ登り、手当り次第に木の実をもいでは地面に落としてゆく。
「ライゼ、アルルの実を全て僕の鞄の中に詰め込んでください。全てです! 入りきらなかったら中の荷物を捨ててもいい! アルルの実だけは一つも取りこぼすことなくしまって!」
ただ事でない様子に、ライゼはわけもわからぬまま「わかった」と頷くと、枝に引っかかったジェイの鞄を地面に下して、上からぼとぼとと降り注ぐ木の実を詰め込みはじめた。
その時、滝壺へ続く道の上空を飛んで戻ってきた森の風が、みんなを急かす様な口調で言った。
『滝壺の女丈夫を呼んだ。間もなく彼女は春の丘に大量の水を連れてやってくる。若草たちは滝壺へ続く道のみを開放し、もっと壁を高くしろ。物凄いのが来るぞ。少しでも水が町へ流れようものなら、大洪水は免れない』
やさしい風はぎょっと目を剥いた。
『滝壺の
やさしい風は木の上の方に残っているアルルの実をせっせともぎ取り、ライゼの広げる鞄の中に投げ込んだ。
そうこうしている間に、春の丘は周囲をぐるりと囲い込む形で木の根が高い隔壁を築いていた。 唯一つ、滝壺へ続く道だけをきれいに切り離して。もし軍たちがこの壁を少しでも破壊しようものなら、滝壺の女丈夫が中隊を、下の町諸共容赦なく飲み込むだろう。
「やさしい風、もう実が残ってないか見てくれ」
やさしい風はアルルの木の周りをぐるりと旋回し、茂みの中を泳ぎまわりながら取り残しが無いかを確認した。
『無い』
「ありがとう。ライゼ、アルルの実は全部入りましたか?」
ジェイが木から飛び降りながら訊ねると、ライゼは「ああ」と頷いて鞄の口を締めるところだった。全部で二十個程あったと思われるアルルの実は全て鞄の中に収められたようだ。
「ありがとうございます」
ジェイが鞄を受け取ると、ライゼは訝しげな視線を送ってきたが、一旦それを無視し、やさしい風たちを見上げた。
「僕たちはどうやって逃げればいい?」
そう訊ねると、森の風が降りてきて、ライゼの頭にぽん、とソフトハットを被せ、彼をここまで運んできたときのように彼の身体を持ち上げた。
「うぉっ! なんだ!」
続いてやさしい風がジェイを背中に背負ったとき、春の丘に向かって男の声が投げ込まれた。
「ジェイ・エイリク・リフェール! 聞こえているのだろう!」
研いだ剃刀のような声で名指しされ、ジェイの肩は大きく飛び上がった。今のはユリウス・ヴィルヘルム少将の声だ。
『来やがったな』
やさしい風が荒々しく舌打ちをする。
『もうじき女丈夫が来る。その前に二人を逃がす』
森の風が冷静に言ったとき、滝壺へ続く道の方から地を揺るがす轟音が聞こえてきた。地震かと思うような地響きと共に足元がぐらぐらと揺れる。
『噂をすればだ。さ、行くぞ。ここはもうじき女丈夫の独壇場になる』
そう言うとやさしい風たちは、二人を乗せて空高く舞い上がった。
『ジェイ、気をつけて!』
『必ず帰って来いよ!』
『それまで、この春の丘は私たちが守るわ』
下で若草たちが叫んでいる。ジェイはそれに手を振ることで応えた。
すぐ隣で、森の風にしがみついたライゼがきつく目を閉じて高所への恐怖に耐えている。この間のように、恐怖の刃に脅されて無闇に絶叫しないのは、自分たちが置かれている状況の深刻さを察しているからなのだろう。本当は今すぐにでも叫びだして恐怖から脱却したいと思っているはずだ。
その時、思わず身体をびくつかせてしまうほどの水音が春の丘から轟いた。びっくりして見下ろすと、蔦や太い木の根でできた高い壁に覆われた丘の中を、みるみるうちに水が満たしてゆくのが見えた。
「た、滝壺の女丈夫……」
滝壺から続く道を蛇行して、大量の水が春の丘へ流れ込んでゆく。まるで水は命を吹き込まれたように意志をもって動き、春の丘という器の中にありったけの水を注ぎ込んでゆく。
いつも耳にする壮大で優雅な滝の奏でる音とは違い、今、彼らの下で狂ったように大地をのた打ち回っている滝壺の水は、言葉で表すのなら『獰猛』、その一言に尽きる。水は慈悲と野蛮の二つの仮面を持った多重人格者なのだ。敵に回してしまえば、人間に勝ち目は無いだろう。
次第に春の丘が遠くなってゆく。
沈む静寂の上を滑走するジェイたちも、溶け込むように無音をまとって息を潜めた。
耳元を横切ってゆく風音が、不穏の音色に聞こえる。
やさしい風たちは二人をどこまで連れてゆくのだろうか。
水の爆音が遠くへ後ずさりする中、肩に下げた鞄の中で揺れるアルルの実を、ジェイはそっと覗き込んだ。
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