第6話 春の丘で
かつて、この大地にも魔法使いと呼ばれる者たちは存在した。
己が血の中に流れる魔の粒子で人知を超えたちからを従え、人々の暮らしを支えることに尽力した者たちのことをそう呼ぶ。
ある者は人の寄り付かぬ荒野を肥沃にし、またある者は、狂ったように一つの土地に罰を下す天候の悪神に挑み、水底に沈む未来から村を救った者もいた。
しかし、時の流れに従って彼らの数は激減の一途を辿ることになるのだがその理由は、魔法使いの血統が、受け継がれた分だけ魔を従える血が薄くなっていったからだ。
魔法使いにとって重要なのは、魔法使いの子がいかに濃い血を受け継ぐかということだった。
今となっては数が減った魔法使いたちは、その殆どが
「魔法使い? 僕が? まさか、そんなわけないじゃないですか」
ジェイはぶんぶんと手を振って否定すると、すっと立ち上がって、
「見ててください」と得意げに顎を上げた。夜天を見上げて、星星の瞬きに想いを馳せるように、瞳を閉じる。
「森の風よ……」
夜の空へ向かって、高く飛ばすように声を投じると、一瞬の静寂を置き、丘へ続く道をヒョオオ……と風音が登ってきた。
「急に風鳴りが……」
ライゼが呟いて少年の方を見上げると、鋭く空を切る音を響かせていた風が、春の丘に飛び込んできた。ビョオオ、と地を這って真っ直ぐに向かう先には空を見上げるジェイの姿がある。
風はジェイの足元から腰へ、そして肩口へと、彼の細い身体の周りを螺旋状に渦を巻いて登り、月色の巻き毛を天へ靡かせた。
ジェイが風を纏っている!
ライゼは凶悪そうな三白眼を丸くしているが、その目にはジェイの他には誰も映っていない。それなのに彼は、ライゼに向かって不思議なことを言う。
「彼は僕の友達、森の風。怪我をしたあなたをここまで運んでくれたのは彼です」
「彼?」
ジェイの言う『彼』の姿を探すが、この場所に自分たちを除いて誰かがいる気配を感じられず、得心のいかぬ顔を崩さない。
その顔を見てジェイは、
「やはり、見えませんよね」と苦笑した。
「森の風、空を飛びたいんだ。連れてって」
ジェイの視線の先で、森の風は頷いたが、その様子もライゼには見えていない。するとその瞬間、少年の痩せた身体が目の前で空高く飛び上がった。
「んなっ!? ジェイ!」
思わず立ち上がって、遠くの空へ姿を消した少年を視線で追う。ジェイの身体はアルルの木のてっぺんほどの高さまで登ってようやく止まった。だがそれだけでは終わらず、春の丘全体を、鳥が空を飛んでいるときのような速さで、泳ぐように飛び回りはじめた。
ライゼは首が痛くなるほど高く空を見上げ、金の髪の残像で大輪の花を描くように飛びまわる少年の姿を見つめていた。
地上を、緑の香りがする風が撫でてゆき、若草やアルルの木がざわざわと音を立てた。ライゼのばさばさに伸びた髪も風に晒されて大きく乱れる。
ジェイは両手を羽のように広げ、正面から風の洗礼を浴び、眼下に広がる世界のパノラマを楽しみながら春の丘を旋回した。
しばらくの間、夜空の懐を泳ぐような空中散歩を楽しんだ後、地上にやってきた見習い天使のように、ライゼの目の前に降り立った。
「ただいま、ライゼ」
「あ、ああ……。ジェイ、今のは……」
ジェイはにっこり笑うだけで何も言わず、くるりと背後を振り返ったかと思うと、
「ありがとう、森の風! おやすみなさい」と空に向かって手を振った。そこには藍色の帳に散らばる星原が広がっているだけで、手を振り替えしてくれるような相手は見当たらない。
彼の手が下がるその瞬間まで、その先にいるのであろう風の姿に目を凝らしていたが、終ぞライゼの見る世界に、森の風とやらの姿を捉えることはできなかった。
ジェイは大好きな遊具を存分に楽しんだ子どものような表情で、白い頬を上気させていた。
「今の、見ましたでしょう? 僕は、風や大地、草花、海、川、滝、湖――世界に生きるあらゆる自然たちと話し、触れ合うことができるんです。僕には、彼らの姿が人の形をして見える……薄っすらとですけどね。ここへ来るまでのことを何も覚えていない僕が春の丘で目を覚ましたとき、ここの住人たちたちは優しく人間(僕)を迎えてくれました」
「……何も覚えてないって?」
ライゼの声音が深く沈む。
ジェイは一瞬、はっとした顔をしたが、たいした話ではないと思い直し、気楽な様子で、昨夜見た可笑しな夢の話をするような口調で答えた。
「五年以上前のことを覚えていないんです。以前に自分がどこで何をしていたのか全く思い出せなくて……。自分の名前もわかりませんでした」
「ジェイってのは?」
「世界を旅する風が教えてくれました。僕の名前は、ジェイ・エイリク・リフェールだと」
「それは、確かにお前の名前なのか?」
ジェイは小さく肩を上げ、首を横に振る。
「わかりません。初めは全然身に覚えが無い名前で……でも、風たちが僕をその名前で呼ぶので、いずれ慣れました」
以前の彼の名前を知っていた旅する風は、一体ジェイをどこまで知っていたのだろうか。名前以外にも知っていることがあったのだろうか。何人家族で、きょうだいはいたのか。恋人はいたのか。どこに住んでいたのか……。ジェイはここへ来た日のことを思い出すたびに、あの風が再び自分の前に現れてはくれないものかと考える。
……と、ライゼが頷きもしないで話を聞いているので、ジェイは彼が、自分の言っていることを信じていないのだと思い、少しむっとした。
「信じてませんね。僕を魔法使いだと思っていたときは、あんなに楽しそうな顔していたのに」
「えっ」
ライゼは我に返ったように肩を揺らした。少年の穏やかな双眸が不機嫌そうに歪んでいるのを見て、慌てて否定する。
「信じてないなんて言ってないだろ」
しかしジェイは、彼の弁解には耳を傾けず、仏頂面のまま、今度はやさしい風に声をかけた。すると彼は、音も無くライゼの隣に姿を現し、ジェイが何も言わずとも、少年よりも重く背の高い身体を乱暴に持ち上げ、一気に空へ飛び上がった。何事か、と口にする暇も無いほどにあっという間の出来事だった。
空へ消えたライゼと、もう一人の姿を見上げていると、首を絞められた鴉のような声が高いところから降ってくる。
ちとやりすぎたかな、といった風情で笑ったジェイは、
「夜空から見下ろす景色はいかがですか!」と空へ向かって叫んだ。
「でェェェい! 降ろせ! わかった! 信じてないわけじゃなかったんだよ! あまりにもいろんな要素がお前にあったんで混乱してたんだ。とりあえず降ろせ! おれは野生の狼も、海の怪物も怖かねえが、高いところだけは嫌いなんだ!」
じたばた暴れるライゼを抱えて地上に戻ってきたやさしい風は、『こいつ、うるさい』とでも言うように舌を出した。
ようやく安心して大地に足の裏をつけたライゼは、表情を固く強張らせていたが、
「見かけによらず、すごい奴なんだな、お前」という絶え絶えの息の合間に挟まれた賞賛の言葉は本音であった。
「風や花たちに意思がある? そんなの知らなかったね、おれは。今のは誰だ」
「僕たちはやさしい風と呼んでます」
それを聞いたライゼは、思い切り口元を歪めた。
「やさしい? 今のが? 嘘つけ。優しい奴があんな乱暴な翔び方するかよ。ついさっきまで大怪我してたんだぜ」
「そう言われましても……」
ジェイは斜め上を見上げるように首を持ち上げると、虚空に向かってこそこそと何事か囁いた。
(おれには見えないが、あそこにやさしい風とやらがいるのか)
彼の視線の先を負って、軽く見上げるように顎を上げたが、そこにはやはり誰もおらず、夜空に溶ける山脈の縁が薄っすらと見えるだけだった。月が雲に隠れているので、宵闇の深さは一層濃くなっている。
(ジェイは……おれとは違う景色が見えている。おれより多くのものが見えている。おれよりも多くの理解者もいるんだろう。この人柄だもんな)
そう考えると、ライゼは彼を羨ましく思った。自然界という大きな世界には、彼の友達がたくさんいるのだろう。そして、そのやさしい風という彼は、ジェイにとってとても頼りになる存在なのだろうというのがよくわかる。自分にそんな相手がいない。孤独のことは愛していたが、このまま一生を孤独と共に過ごすのは恐怖を伴う。誰からも忘れられた自分がたった独りで死に逝くときを想像し、胸が強く痛んだ。
気を紛らわそうとしたところで、ライゼはまだ胃が食べ物を欲しているということに気がつき、
「食い足らん」とアルルの木下に戻って、食事を再開しようとした。薄い紙に包まれた干し肉のサンドに手を伸ばす。
「なぁ、ジェイも食えよ。何も食ってないんだろ?」
「え、僕もですか」
「食わないの?」
「えーと……」
ジェイはなんと答えるべきか逡巡した。もう五年も何も口にしていない。そんな事を信じてくれるわけが無いと思ったのだ。しかし、他に嘘が思いつかないまま、仕方ないので正直に、
「僕は食事は摂りません」と言い、ライゼの傍に胡坐を掻いた。
「なんで。腹減ってねえの?」
「そういうわけでは……。僕はもう、五年間何も食べてないんです」
「はあ、なんだよそれ」
ライゼは手にした干し肉のサンドを落としそうになりながら身を乗り出した。そのあまりの剣幕に、ジェイは思わず背中を仰け反らせる。
「何も食ってねえの? 五年も? 嘘つくなよ、生きていられるわけねえ」
「僕もそう思ってました。でもこうして生きていられます。不思議ですよね」
ジェイは他人事のように「ハハハ」と笑った。そんな彼の顔に、ずい、と干し肉のサンドが突きつけられる。ギョッと目を丸くしていると、
「食べる?」
と、ライゼが首を傾げた。長めの前髪が揺れて、下から左目がちらりと覗いた。
「いえ、僕は大丈夫ですからライゼが食べてください」
「物が食えねえの?」
「さあ……」
「え、ナニ……? 自分が物食えるかどうかすらわからないのか」
「はい。昔の自分がどうだったかはわかりませんが」
彼の言う「昔の自分」は、言わずもがな、記憶を失う前の自分のことだ。彼はいつも、五年より前の自分――自分が知らない自分のことをそう呼んでいる。まるで他人を指すみたいに。
「そりゃ大変。食べろ、食べろ! 食ってみて胃が拒否すんなら食わんでいい。通りでチビなわけだ。それに痩せすぎ。ほら、試しに」
紙を剥がして差し出される干し肉のサンドを遠慮がちに受け取る。
「美味そうだろ」
食べ物が美味しそうかどうか――そんなことを考えたのは、ジェイ・エイリク・リフェール始まって以来のことだった。食事の重要性についてははじめに考えた。生きてゆく上で食事をするという行為は欠かしてはならぬということを。しかし、味については……。
「美味しそう……か。考えたことも無かった」
「これは美味いぜ。おれは肉が大好きなんだがな、だからと言って同じ肉ばかりじゃ飽きる。でも、干し肉のサンドは毎日食っても飽きない自信あるね」
ライゼが得意げに胸を張る。
「食事ってのはさ、もちろん生きてゆく上で大切な役割を果たしてくれる。栄養を直接身体に取りこめて、肉体を動かすための原動力になって、腹を満腹にしてくれる。だがそれだけじゃないぜ。食事は楽しくなきゃな。苦手な奴と一緒にする食事がどんなに苦痛か知らんだろ?」
「はい」
「あれは本当に辛い。どんなに腕のいい料理長が世界一の食材を使って作った料理だろうと、味なんて全くしないんだ。その時間が終わるのを待ちながら、砂で味付けされた飯を食う心地よ。食材が勿体無いったら……あ、悪い。話しすぎたな。ほら、食えよ」
「いただきます……」
ライゼに促されて、すっかり冷めてしまった干し肉のサンドを一口齧る。
その時だ。ジェイの頭の中にある記憶の木が、食事という風に吹かれ、大きくざわめいた。どこか懐かしい、歯で物を噛む感触や、舌の上に味が広がる感覚。かつての自分も、毎日こうして食事をしていたのだろうという、薄らぼんやりとした既視感がジェイの記憶を刺激するのだ。
一口、もう一口と食べ進めていくうちに、ジェイの腹は思い出したように食べ物を求め始めた。
そうだ。思い出した。と、ジェイは心の中で呟く。口の中の物を飲み込んでライゼに向き直ると、
「僕も、食事をしていました。昔、ここへ来る前。思い出せないけれど、確かに僕は、あなたと同じように、毎日食事をしていた。栄養を身体に取り入れて、生きていました」
ジェイは、今まで食べてこなかった分を取り戻そうとするかのように、干し肉のサンドを頬張った。
ライゼはそんな様子を、育ち盛りの息子をもつ父のような顔で見つめ、
「そうだろ? やっぱお前は食事できるんだよ」
と、乱暴に頭を撫でる。次の瞬間、ギョッと目を見開いた。
「おい、ジェイ……どうしたんだよ」
ライゼの声が引き攣り、頭を撫でる手がピタリと止まった。
「……え」
と、短く返事をしたその声は震えている。
「どうして泣いてんだよ。そんなに美味かったのか?」
そう言われてジェイは驚いたように目をしばたたき、ごしごしと服の袖で目を拭った。あたたかな雫で濡れた袖口を見て、彼の目は再び涙を溢れさせた。
「……理由はわからないけど、なぜか、胸が苦しい。僕は何か、思い出さなきゃいけないことがある気がする」
ジェイは口をもぐもぐ動かしながら首を横に振った。
記憶の木は尚も小さくざわめいている。
頭の隅に映像が流れているが、それは霧がかった舞台上の劇を観ているかのようにもどかしく、はっきりとしないものだった。舞台で上演されているのは、きっと、春の丘へ来る前の記憶。
ジェイは時折、洟をすすりながら、干し肉のサンドを完食した。以前にした最後の食事から、実に五年ぶりの歳月を経て、食べ物によって生かされる人間の身体を、彼は取り戻したのだった。
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