第1話 ジェイ・エイリク・リフェール
ジェイ・エイリク・リフェール。それが彼の名前。
青々とした若草が茂り、時折吹く花の香りを連れた風たちは、“春の丘”と名付けられたこの場所に、一人の少年が暮らしているのを知っている。
春の丘には、樹齢二千年と推測される大木があり、ジェイはいつもその傍で昼寝をしたり詩を読んだりしていた。
白く輝く陽光の下で、彼の金色の頭髪は太陽の化身のように煌き、まだ小柄で華奢な身体を包む外套は地上に降りた光の玉座のように堂々と風に立ち向かっている。
今日も大木の根元で読書をしていたジェイは、文字の羅列からふっと顔を上げ、眼下に広がる町の景色にぼんやりと視線を送った。
少年の巻き毛を乱暴に揺らす風は、彼の遥か頭上の木の葉をざあざあと奏で、緑の香りを全世界へと運んでゆく。
自然の楽器が奏でる音楽の中で、ジェイは詩を口遊ぶ。まるで、葉の香りを乗せて旅立ってゆく風に、別れの言葉を手向けるかのように。
「 “星空の その下で 僕は貴方を探していたんだ
長年にわたって 望んでいたのは貴方の幸せ
『星空の子どもたち』僕の生まれた街では 貴方をそう呼んで ツクヨミの代理人と崇めていた
嗚呼、ツクヨミの代理人 一度でいいから おやすみなさい と枕元で囁いて“」
ジェイの薄い唇から紡がれた詩は、爽やかな風に乗って遠くまで運ばれてゆく。
膝の上に置いたハードカバーの本の頁が春風に吹かれてそよそよと泳いだ。
開いた頁の左側には大きく挿絵が入っていて、瞬く星々の下、広大な湖の
「よっしゃ」
彼は、読んだ詩の余韻を噛み締めるように恍惚と笑って、小さくそう零した。
開いている頁にぱっと視線を落とし、今、自分が口遊んでいた部分に素早く目を通すと、一番お気に入りの一節を暗唱できたことの喜びをその薄い胸に抱きしめる。
ジェイは頁に栞代わりの木の葉を挟みこんで本を閉じ、それを枕にして草の上へ寝転んだ。後頭部を襲うハードカバーの容赦ない固さにはもう慣れた。
白い頬の上に木洩れ日が落ち、風が吹く度に葉が揺れ、微かに差し込む陽光はジェイの頬の上をゆらゆらとダンスした。
彼がそっと目を閉じると、耳元で若草がさらさらと音を立てた。ジェイにはそれが、
『また寝るの?』
という若草たちの声となって聴こえた。
「寝ないよ。ただ目を閉じているだけ」
また若草が揺れ、今度は違う子が言った。
『そうやっていつも、あんたは眠ってるよ』
「僕の意思じゃないよ。いつの間にか頭が眠ってるんだ」
今度は耳元で別の音が流れる。風の音――それは、
『たまには町へ行ってもいいんだぜ。何かあったら、おれがすぐ知らせに行ってやれるんだから』
と言った。
「ありがとう。でも大丈夫だよ。僕はここに居たいんだ」
短く風が吹く。
『引き篭もりめ』
「引き篭もってないよ! 僕に家なんてないし、この春の丘が僕の家だ」
ジェイ・エイリク・リフェール。彼には様々な欠落があって、それは主に、今まで生きてきた人生の記憶だ。
今から五年前、ジェイは朝靄に包まれた春の丘の、この大木の根元で目を覚ました。
周辺は氷に包まれた世界のように冷えきっていて、薄暗く、サーデルバ山脈の向こう側には朝陽が人々の目覚めを促す準備をしていた。
朝靄の底に沈む町はまだ深く眠っている。
眠りによる静寂は目覚めへの希望に満ちているけれど、もしこれが、このまま一生、誰一人として目覚めることのない静寂であったなら、毎日やってくる朝陽の明るさはどこまで絶望に満たされていたのだろう。
ジェイは自分が目を覚ましたことに無意識下で安堵し、希望の朝を迎えることができたのだ。
左の頬に瑞々しい若草の感触、耳元で交わされる自然たちのひそひそ話、早朝の澄んだ空気の味、そして、不思議なほどに空っぽな自分の中――。
それが、ジェイ・エイリク・リフェール少年の最古の記憶だ。
少年はひそひそ声の主たちに力のない声でこう訊ねた。
「誰か、僕のことを知ってる?」
やさしく吹いた風がこう応える。
『知らないな。どこから来たんだ』
「わからない。気が付いたらここにいたんだ」
『名前は?』
「名前も――」
名前もわからない……弱弱しく首を横に振った彼の耳に、別の風の声が滑り込んできた。
『ジェイ・エイリク・リフェール』
少年はばっと身を起こし、声のした方を振り仰いだ。
『あいつは旅する風だ』と、やさしく吹く風が言う。
「旅する風?」
『ああ。大陸のあちこちを旅している』
「へえ……。あの、旅人の風! 今のは僕の名前ですか?」
旅する風は『そうだ』と短く応えた。
「もう一度、僕の名前を教えてください!」
『ジェイ・エイリク・リフェール』
旅する風は少年の名前だけを囁いて、その名の通り、風の如く春の丘から去って行った。
「ジェイ……」
ジェイは静かに呟いた。
どうして旅する風が自分の名前を知っていたのか――大きな疑問が残ったが、ジェイにはそれよりも大きな、一つの違和感を突きつけられた。
どうして僕は、自分の名前を知っても、この名前に懐かしみも親しみも沸かないのだろうか。まるで他人の名前を、これはお前のものだ、と与えられたみたいに、ジェイはこの名前を身近に感じなかった。
自分の名前を思い出し、そこからとんとん、とここへたどり着くまでの記憶も蘇るのを期待していたが、その気配もなく、ジェイの胸中に虚しく木枯らしが吹いた。
ジェイという名前は、本当に自分のものなのだろうか……。
無理やり嵌め込んだピース。完成したのは無骨な形のパズル。額にすら収まらない歪なもの。己の名前は正にそれで、自分には全くあっていないように思えたのだ。
だが告げられた名前を身近に感じることができなかったのは最初だけで、月日が五年も経てば自然とその名前は身近なものになる。風たちが自分を呼ぶときにその名前を使うからだ。友人につけてもらった渾名で呼ばれるたびに自分に馴染んでいくかのように。
後にジェイは、自分が、風や若草たちと会話できることが大変珍しいことだというのを知った。彼以外の人間たちには、風や草木の声は訊くことができず、姿も見えないという。
ヒトとして生きる本能と理性以外の大半を忘却した少年・ジェイは、春の丘に住んでいる。
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