第2話 風の強い日に現れた彼

 ジェイは自らを“プロの暇人”と称し、住居である春の丘の大木に登って、眼下に広がる町を見下ろしては、人々が走り回って働く様を眺める毎日である。

 膝の上には何度も読み返した詩集が置いてあり、風に吹かれて頁がめくれ、何度も開いてあとがついてしまった箇所で止まった。

“夜空の子”と題された頁には美麗な挿絵が入っている。

 強く吹いた風に髪が煽られ、毛先が目に入ると、


「今日は風が強いね」と独り言を零す。それに反応したのが、木の下の若草たちだ。


『ジェイ、落ちるよ』

『飛ばされちゃうよ』

『今日は風が強いから降りていたほうがいいわ』

「南の風はサーデルバ山脈の風と不仲だからね。数日の間に大きな喧嘩を始めるぞ。この強風はきっと、その前触れなんだ」


 ジェイは本を抱きかかえて大地に飛び降りると、手の届く位置に伸びた枝に引っ掛けておいた麻の鞄を肩から斜め掛けにし、中からつばの広いキャスケットを取り出して目深に被った。持っていた本は木の根元に置いておく。


『どこか行くの?』


 若草が訊ねる。

 ジェイは町へ降りる道の方へ足を向けながら、肩越しに手を振った。


「うん。すぐ帰ってくるから、よろしくね」

『はあい』


        ☆


 町へ下りると、軒を連ねる商店の周りに多くの人が集まっているのが見えた。

 手前から雑貨屋、薬屋、食堂、宿屋、酒屋と並び、主婦たちは雑貨屋へ、休日の男共はこぞって昼間から酒屋に屯している。


人々の作り出す賑わいを久しく全身で感じながらジェイが向かったのは、インクと紙の匂いが泳ぐ古い書店。

 鼻腔を擽る大好きな香りを胸深く吸い込みながら、店いっぱいに並ぶ本たちを見渡していると、楽しくて心臓がドキドキした。本の匂いを嗅いでいると、無性に本を食べたくなる衝動に駆られる。

 店先のテーブルには聖書やロングセラー本が五冊ほど並べられており、壁に寄り添って並ぶ背の高い棚には、装丁の豪華な本が隙間なく埋め尽くされている。


 ジェイは店の入り口で、

「こんにちはぁ、アルトゥールさん、ジェイです!」

 と、声を張り上げると、店の奥にある住居へと続く扉が開き、一人の老人が出てきた。この書店の主人で、名をアルトゥールという。


 アルトゥールはモスグリーン色の前掛けをし、長めの赤毛を首の後ろで結ったいつもの姿で現れた。

ジェイの顔を見ると、少年のような笑顔を浮かべ、歓迎の心を示した。

 二人はにっこり笑い合う……だというのに、両者の間には張り詰めた空気が流れ込んできて、ジェイは息詰まる。もう、試験は始まっているのだ、と彼は思った。

 お互いが挨拶を交わす前に、ジェイは緊張と早まる鼓動を抱えた胸の前で両手を握り締めながら、すぅ、と小さく息を吸い、頭の中にある言葉の羅列を読み上げた。


「 “星空の その下で 僕は貴方を探していたんだ

長年にわたって 望んでいたのは貴方の幸せ

『星空の子どもたち』僕の生まれた街では 貴方をそう呼んで ツクヨミの代理人と崇めていた

嗚呼、ツクヨミの代理人 一度でいいから おやすみなさい と枕元で囁いて“


太陽は神 いつしか神は僕らの空から居なくなった 僕らは神に見捨てられ 悪神・夜の時間の子らとなった 

夜が暗いのは 悪さをした神が己の姿を隠すため 夜は悪神だけでなく 僕たちのことも隠す

宵闇の深い底で 僕らは新しい神話を創る

それは 神話と言うにはあまりにも幸せで 誰もが救われる物語

僕らの世界は幸せが満ちている 悪神は僕たちに幸せをくれる優しい神 

彼を悪たらしめたのは 愚かの国の住人と その国に住む、表しか知らぬ欠落たち

外の世界に住む欠落たちは 永遠にこの夜を覆う闇に怯え そして死んでゆくのだろう 幸せに気がつくことなく

僕らは夜空の子 夜と手を取った“」


 最後の一節を読み上げると、その余韻を残したまま、二人の間には外の賑わいがより大きな音となって沈黙を追いやった。

 ジェイは気難しい顔をしたアルトゥールを見つめ、彼がものを言うのを待つ。その時間が長ければ長いほど、ジェイは不安になり、表情が曇ってゆく。

 緊張に耐えかねて、かっと頬に朱がさすのがわかる。

 アルトゥールは少年の顔が目に見えてわかるほどに歪んだとき、ようやく表情を緩め、

「良い、すごく」と手を打った。

 たちまちジェイの顔から不安が消し飛び、安堵の声が零れる。


「やったあ! 駄目かと思いました」


 アルトゥールはからからと笑い、


「お前が駄目だったことなんてないだろう? いつも完璧だった」

「そうですけど……アルトゥールさん、すごく険しい顔してたから」

「お約束だろうが。じゃ、今日は何にする?」


 アルトゥールは店の中央に出てくると、すぐ近くにあった本を一冊、適当に抜き取って開いた。


「ここにある本の中で、一番の古株はどれですか?」

「古株?」

「ええ。言い方は悪いですが、ずっと売れていない本です。それを譲っていただけますか」


 アルトゥールは店の入り口から一番遠くにある本棚のあたりに視線を彷徨わせ、ちょっと待ってな、とその棚の方へ行き、一冊一冊、出版された年月を確認しながら本を選んだ。

 彼が本を手にして戻ってくるまで、ジェイは表のテーブルに並んだ聖書を手に取り、中を開いてみた。ずらりと並んだ横文字の束が見開きに三つ、四つ。時折入る挿絵の中の人物は、笑っていたり泣いていたりする。


「ね、アルトゥールさん」

「うん?」

「アルトゥールさんは聖書読んだことありますよね?」

「もちろん」

「ですよね」


 ジェイは聖書を閉じ、背表紙についたタグを見る。銀貨五枚。


「無理だ。買えない」


 思わず口を突いて出た呟き。

 ジェイには銅貨一枚すらの財産もないのだ。春の丘で目が覚めたとき、彼は服以外の所持品を一切手にしておらず、困惑した。

 お金がなければ食べ物を買えず飢えてしまう! そう思ったのだが、何故かジェイの腹が空腹を訴えることはなかった。満たされることもなく、枯渇することのない胃袋。この五年間、何も食べなくても生きていけた。

 食事を摂るという必要が欠落した己の身体――彼はそれにひどく恐怖したのを覚えている。生き物として一番欠けてはならぬ、物を食べるということを重要としない肉体が、まるで実体を持たない幽霊のように思えて不安に苛まれたものだ。

 だが、ヒトは慣れる生き物。今となっては「お金がかからなくて良い」なんて気楽に考えられるほど、この生活に適応できている。現に今、彼は生きている。自分でもよくわからないことに頭を悩ませるのは一番無駄な労力だと思っているジェイが、今もこうして暇を持て余して生きているのはそういった性格故なのだ。

 その時、アルトゥールが一冊の本を手にして戻ってきた。


「これはどうだ」


 差し出された本を受け取る。

 タイトルは『水底の国』。

 赤いベルベット地の表紙に金の箔押しでタイトルが刻印されている、豪華な装丁の本だ。

 ジェイはタグに書かれた金額を見て仰天した。


「金貨一枚! いけませんよ、こんな高価なものを頂くことなんてできません!」


 予想もしていなかった値段に、思わず腰が引ける。


「この本は十五年前からあの棚にある。しかも今じゃ、子どもでも買える金額で新装版が出回っているからな、その値じゃ売れんよ。誰にもここから外へ連れてってもらえないかわいそうな奴を、お前が連れ出してやってくれ」


「ええ、ええ、それは大歓迎です。すぐに僕がこの本に、本として生まれてきた意味を与えてあげたい。ですがあなたが、一冊の本の中の一篇の詩を暗唱することができたら本を贈ってくださるという僕への厚意と、今回のこの本に対する僕の暗唱など、とても釣り合いません」


 必死に言葉を並べ立てる様子に、アルトゥールは苦笑した。


「律儀な奴め。やるっつってんだから素直に受け取っておけよ」

「僕じゃなくったって、この値じゃこう言いますよ」

「いいんだよ。“夜空の子”は俺の一番気に入っている詩だ。それをお前の良い声で読んでもらえたんだ、その礼だよ」


 アルトゥールは本棚に寄りかかりながら腕を組み、そう言った。

 ジェイの顔が不服そうに歪む。


「……アルトゥールさんが一度口にしたことを取り消さないのも、僕も相当の頑固者だというのも重々承知しています。なのでここは、どちらかが折れなければならない。この場合、相手から厚意を向けられているのは僕。尊敬すべき年上のアルトゥールさんからのお心遣いを僕の頑固な意見で退けるのは尊敬の心に反する。なので僕は

あなたからこの本をありがたく受け取らせていただくことにします。アルトゥールさん、こんな素敵なものを、どうもありがとう。一生大切にします。そうそう、お礼というわけではないですが、もうじきここいらは天候が荒れます。南の風とサーデルバ山脈の風が今にも喧嘩をはじめそうなので。――そうですね……三日後、町は山脈の風たちの争いによる強風が吹き荒れるので、お店は閉めたほうがいいかもしれません」


 ジェイがそう忠告すると、アルトゥールは深く頷き、「そうか」と言った。


「ありがとう。お前も気をつけろ、ジェイ。そのひょろひょろの身体、飛ばされないようにな」


 彼はからかうような笑みを貼り付けて、ジェイを送り出した。


        ☆


 ジェイがアルトゥールから貰った本を胸に抱きしめながら、足取り軽く春の丘へ向かっていると、町へ向かう道と森へ続く道とに分かれた人気の少ない通りに、いつもと違った雰囲気が満ち充ちているのに気がついた。その雰囲気をわかりやすく伝えるならば、ぴりぴりとした焦燥感と言ったところだろうか。

 木々が風もないのにざわめく気配がする。

 何か、胸の中で大きな石膏のような塊が、ごおん、ごおん、と音を立てて動き出し、歪な形に組み変わる感覚が沸き起こり、頭の中がひどく冴え渡る。


 ジェイは足を止め、右手側へ伸びる森へ入る道の方を見た。遠くからブーツが地面を鳴らす音が響いてくる。

 ジェイはその足音が、死の淵にある幅十五センチにも満たない足場を駆ける冒険者のそれに聞こえ、本を強く抱きこんで身構えた。

 駆ける足音は次第にジェイとの距離を詰め、その頃になると木々の間に伸びる道から音の正体たる痩躯がこちらに走ってくるのが見えた。

 薄汚れた外套をはためかせ、肩から斜めに掛けた鞄を腰のところで大きく揺らしている姿は、無数の魔手に追いかけられているかのように切羽詰っている。


「……うっそ」


 ジェイが思わずそう呟いたのは、死の淵から掛けてくる痩躯から滲んだ赤色が、風に靡く外套の脇腹を汚していたからだ。


「訳ありか」


 ジェイは本を鞄の中にしまいこみ、近くの木の陰に身を隠すと息を潜めて、命がけの冒険者がここへたどり着くのを待った。


『ジェイ、何か様子が変だよ』


 ジェイが身を隠した若い木が、事態を察してそう訊ねた。


「しー……あ、君の声は僕にしか聞こえないんだったね。――あそこ見て、人が走ってくるでしょ? なんだかあの人、訳ありっぽいんだ」


『怪我をしているね』

「うん。やばい奴かも」


 青い空の下で出くわした緊張のひと時。

 ジェイが木の陰でじっとしていると、荒い息遣いと共に背の高い青年が目の前で立ち止まった。  

つばに矢の形をした飾りを貫通させた黒いソフトハットを被り、腰には細い剣を下げ、クロムグリーンのショートブーツを履いている。

 物をたくさんつめた麻の鞄や薄汚れた外套を纏う姿は、どこから見ても旅人の装いで、旅の道すがら森の中で賊にでも襲われたのだろうということが簡単に予想できた。

 旅人は大きく息を乱しながら背後を振り向いて身の安全を確認する素振りを見せたかと思うと、安堵したように深く息をつき、膝に手をついて呼吸を整えた。

 前髪の下からぱたぱたと汗が滴り、外套に滲んだ赤がじわじわと範囲を広げてゆく。小さく呻いてどっと膝を折ると、真っ赤に染まった脇腹を押さえて、深く頭を垂れた。


『まずそうだ……』


 若い木が思わず呟いて、ジェイがコクリコクリと頷く。

 どうしよう……彼が逡巡していると旅人は、はっと短く息を吐いてそのまま前に倒れこんだ。

 あっと声を上げて木陰から飛び出すと、うつ伏せに倒れた旅人の身体を上向きにして起こした。意識がないらしく、なんの反応も示さない。

 首筋や額にはびっしょりと汗をかいていて、今わの際を駆けて来たのかと思うほどだ。


「しっかりしてください。聞こえますか!」


 耳元でやや声を張り上げながら、血の滲む外套をめくり、びしゃびしゃに濡れたブリオーをたくし上げると、銃の類によって穴の開いた傷口がジェイを見上げた。黒々と開いた虚はどこまでも深く暗い。銃相手に剣では太刀打ちできなかったのだろう。

 地面にぱたぱたと血が滴り続けている。


 ジェイは青年の胸に耳を押し付けた。脈が速い。失血が酷いのは目で見て理解できたが、このままではじきに脈が乱れ、心臓が止まってしまう。

 ここから一番近い病院は春の丘の反対方向にあり、歩いていけば三十分はかかる。それにこの大きな身体を背負っていくのはジェイには無理だ。

 それ以前に彼には、どうしても病院を避けたい理由があった。……病院は嫌いだ。

 ジェイは頭の中から“医者へ連れてゆく”という選択肢を迷いなく捨てると、自分の外套を脱ぎ、止血するために青年の脇腹にぎゅっと巻きつけた。

 春の丘へは五分ほどで着く。

 その時、ジェイの頭の中に一つの考えが浮かんでいた。今なすべきことへの打開策に心当たりがあるのだ。

 春の丘にある大木に、ジェイの選択する答えがある。彼に残された方法はこれしかない。それは自分でも禁じた方法であるのだが、彼の中に生まれた答えはたった一つ、それだけだった。


「森の風よ」


 ジェイが空へ向かって静かに言うと、青年が走ってきた方角から一陣の風が吹き込んできてジェイの周りを旋回するかのように渦巻いた。


「この人を春の丘の大木まで運んでいって欲しいんだ。お願いできる?」


 無口な森の風は、薄っすらと人の形を成すと、コクリと頷いて青年の身体を抱き上げて春の丘の方へ飛んでいった。

 ジェイはそれに続くように、丘へ続く石階段を急いで駆け上った。

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