百十 ゴゾルの過去 その一

 その日のベネトは、嵐であった。

 風は唸りを上げて吹き荒れ、大粒の雨が真横から容赦無く叩きつけてくる。

 そんな中産気づいた女性が、夫に生まれそうなことを告げた。男は大慌てで外に飛び出て、真っ直ぐに教会へと向かう。猛烈な勢いの風や雨が子供の誕生を妨害しているようにすら感じる中、男は必死になって走り、東ベネト教会に辿り着くと、真っ先に礼拝堂へと駆け込んだ。

 全身が水浸しになっていることを全く気にしない男の登場に、たまたま居合わせた若いシスターは大層驚いた。だが男の尋常ではない様子に、

「どうなさいましたか?」

 と自然と声が出た。

「子供が生まれそうなんです!」

 男は叫ぶように言った。思わず目の色を変えたシスターは、専門のシスター、つまり助産婦を呼ぶためにすぐさま駆け出す。

 連れてきた助産婦は初老の女性であった。この嵐の中を進むのはさすがに酷だ。そこで男は、助産婦を背負い、走りだした。若いシスターも何も言わずについてくる。

 家に着く。助産婦は男が持ってきた布切れで体をざっと拭うと、すぐに仕事に取り掛かった。ついてきたシスターはその補助にあたり、部屋から追い出された男は、神に祈りながら別の部屋をうろうろする。

 そうして、無事に赤子が生まれた。部屋に呼ばれた男は、妻から子を受け取って丁寧に抱き抱える。

「元気な男の子です」とシスターは笑顔で言う。「お名前は決めてありますか?」

「はい。この子の名前は、ゴゾルです。神話の英雄、ゴーゾルディアのように、様々なものや人に好奇心をもって接しられるように、名付けました」

「ゴゾル。良い名前ですね。この子に、神の祝福があらんことを」

 ゴゾルが生まれる瞬間に立ち会ったこのシスターの名前は、ムルレイと言った。


 ゴゾルの父は優れた魔法石工であった。丁寧で正確な仕事ぶりが評価され、仕事が途切れることは滅多にない。母もそんな父の補佐を務め、何かと忙しい二人は物心ついたゴゾルを懇意にしている東ベネト教会に預けることが多かった。

 そしてゴゾルは、エステナと出会ったのである。

 彼女はやや内気なゴゾルと違い、明るく天真爛漫で、その場にいる人々を笑顔にするような魅力ある少女だった。エステナは何かとゴゾルを引っ張って行き、一緒に遊んでいる様子がよく目についた。

 そんな彼女であったが、当然欠点もある。エステナは勉強が苦手であったのだ。勉強をさぼろうとしては教育役のムルレイに怒られ、その姿を目撃した同世代の子供たちに笑われるのも日常的な光景だった。

 反面、ゴゾルは勉強が得意であった。教わったことはすぐに理解し、難しい応用問題を簡単に解いてみせて、ムルレイが驚かされるほどだ。

 特に高い才能を示したのは魔法である。彼はすぐにその片鱗を見せた。誰もが教わった魔法を使おうと四苦八苦しているのを尻目に、ゴゾルはあっさりと魔法を発動させた。そればかりか、教師役のシスターすら使えないような魔法もすぐにできるようになってしまうのだ。明らかに他とは違う能力に、シスターたちは彼を天才と認めるしかなかった。

 ある時などは、ゴゾルはムルレイに質問をぶつけてきた。

「どうして神様は、邪悪な魔人をお造りになられたのですか?」

「いい質問です。さすがはゴゾル様ですね」とムルレイは笑顔で答える。「神様がなぜ魔人を造ったのか。教会の中でも、様々な議論が取り交わされました。未だ決定的な結論は出ておりませんが、もっとも有力なのは、私たち人間に試練を与えるためだとされています」

「試練、ですか」

「はい。邪悪な魔人をいかに退けるか。神様は私たちにそうした試練を与えたのです。その試練に打ち勝った時、私たち人間は、さらなる成長を遂げると考えられています」

「魔人に打ち勝てる日が来るのでしょうか?」

「確かに、とても難しい試練です。ですが、神様を信じ、ただ正義のために邪悪と戦い続けることができれば、いつの日かきっと、人間は魔人に打ち勝てるでしょう」


 それはゴゾルにとって、賑やかで、幸福で、穏やかな日々だった。

 教会での勉強はどれも興味深かったし、授業が終わった後は、エステナたちと遊ぶのが決まりであった。複数人で遊ぶのが多かったが、ゴゾルとエステナの二人きりで遊ぶことも日常的であった。

 周囲からは、将来はエステナと結婚するのだろうと思われていた。ゴゾルもエステナも、そんな風にからかわれることも日常茶飯事だ。二人とも満更でもなさそうなのが、拍車をかけたのもある。

 当時のゴゾルは、魔法学に関して特にその天才ぶりを発揮していたこともあり、ゆくゆくはグラウ城の魔法研究所に入所できるだろうと期待されていた。貴族ならばともかく、平民の身分で研究所に入るには、よほどの才能がなければ非常に困難であろう。だが困難を覆すほどの才能をすでにシスターたちは感じ取っていたのである。

 将来有望な男となれば、エステナの両親も邪険にするはずがない。むしろ積極的に歓迎し、家に遊びに来た時などは腕によりをかけて料理を振る舞ったものである。

 ゴゾルの両親もエステナのことを気に入っていた。明るい彼女は、興味あること以外は消極的なゴゾルを引っ張っていってくれるだろう。そんな期待もあった。

 懸念があるとすれば、父親の方はゴゾルに自分の仕事を継いで欲しいと考えていることだった。伝統ある魔法石工の仕事を誇りに思っていて、自分の息子が受け継ぐことこそが彼が最も幸せになれる進路だと信じていた。そもそもグラウ城の魔法研究所に入れるほどの才能がゴゾルにあるとは思ってすらいなかった。

 もちろんだからと言って、エステナとの仲を否定するものではなく、むしろ彼女に魔法石工の魅力を教え込むことで、ゴゾルを石工へと導いてもらおうと画策しているのである。

 周囲がそんなものだったから、二人もゆくゆくは結婚するんだろうなと思っていた。

 しかし幸せに満ちた日々も、やがて終わりを迎える。

 あの泡を放つ異形の魔人が、ヒカ大陸に上陸したのである。魔人は圧倒的な力を見せつけ、虐殺を繰り返しながらゆっくりとした速度で帝都方面へ進んでいく。兵士たちが派遣されるも、あえなく全滅。誰にも止められることができずに、魔人はベネトに到着した。

 早馬による伝令のおかげで危機はすでに伝わっている。人々は地区ごとに教会の礼拝堂に行き、隠された扉から地下室に避難していた。

 恐怖で身を固め、じっと息を潜めるように座り込む住民たちの中で、騒ぐ声が聞こえてきた。それはゴゾルの両親とエステナの両親だった。自分たちの子供がいないと、騒いでいる。

「もう待ってられん!」エステナの父親が吠えた。「探しに行くぞ!」

「俺も行くぞ!」

 とゴゾルの父親が呼応した。

 彼らの妻もそれに賛同し、四人は立ち上がった。それを必死になって止めるのはムルレイである。

「待ってください! 外は危険です!」

「待っていられるか! あいつらが今にも殺されるかも知れないんだぞ!」

「そ、そうですが……」

 子供のために動く親の力は、もはやいかなる言葉であっても止められる気がしない。それでもムルレイは必死になって止めようとするが、彼らを止めることは結局できなかった。それは彼女自身もゴゾルとエステナを助けに行きたいと心の片隅で思っていたからからかもしれない。


 ゴゾルとエステナはベネトの外に出ていた。そこは赤く可憐な花がいっぱいに広がっている場所で、地元の人たちでも知っている人は多くないという、二人にとって秘密の場所だった。 

「……ねえ、エステナ。もう戻らない?」

 とゴゾルは恐る恐る言った。

「どうして?」

 小首を傾げ、エステナは聞き返す。

「どうしてって……今日は外に出たらダメだって、父さんが言ってたじゃないか。今日は危ないんだって」

「もーゴゾルは心配性だなあ。大丈夫だって。騎士様たちがみんなを守ってくれているから、平気だって」

「でも」

「ゴゾルは私と一緒に遊びたくないの……?」

 不安そうに俯くゴゾルの顔を、エステナは上目遣いで覗き込んだ。

「一緒に遊びたいよ」あんまりに可愛らしくて、ついつい本音が飛び出てしまう。「だけど今日は、なんだか嫌な予感がするんだ」

「平気だって。それにもしもの時はゴゾルが私を助けてくれるんでしょう? あの時言ってくれた言葉、私本当に嬉しかったんだから」

「そうだけど」と呟いて、口の中でもごもごと言う。「でも……」

 そして、がさりと音がした。

 振り向く二人。目にしたのは人間にはありえないほど出っ張った肩を持つ魔人の異様な姿。魔人は花をなんの感情もなく踏みつけている。

 魔人だ、と理解した瞬間、

「ひ……」

 どちらともなく悲鳴が漏れた。それでもゴゾルは勇気を出して、エステナの前に立ち塞がる。

 ムルレイの言葉が蘇る。邪悪な魔人をいかにして退けるか。これは神様が与えた試練。

 魔人は肩から泡を放出する。

 いかにも危険そうな気配。ゴゾルは周囲に水球をいくつも生み出して撃ち出した。だが魔人の泡が水球に襲いかかり、魔力を吸収して破裂させることであっけなく防いでしまった。

 驚愕する二人。それでもゴゾルは諦めない。エステナが好きな花をできるだけ傷つけないようにさっきは水球を選んだが、なりふり構ってはいられない。ゴゾルは掌から炎を吹き出した。

 しかしそれも魔人の泡にかかればあっけなく消し去られてしまう。

 もしも彼が空間魔法を自在に操れる年齢であったなら、泡の魔人を倒すことができただろう。しかし残念ながら当時のゴゾルは子供であり、いかに非凡な才能を持っていたとしても、基本的な魔法を普通の大人よりも使いこなせる程度だった。もちろんそれだけでも十二分に凄まじいのだが。

 自分の魔法が通用しないことに絶望を覚えるゴゾルであったが、エステナに背中を向けているのは変わりない。むしろその鋭利な頭脳で、今この場をどうするかを思考し続けていた。しかし出てくる答えは全て、あの魔人には敵わないという無慈悲なものだった。

 ゴゾルは自らの結論を否定するかのように、知っている限りの魔法を次々と撃ち出した。きっと通用する魔法が一つだけでもあるはずだ。エステナを守る。その強い想いが、理屈や理論を絶対だと信じていたゴゾルを突き動かす。だが彼が繰り出す魔法攻撃は尽く通じない。思考の果てに出た答えが正しいと裏付ける証明にしかならなかった。

 ゴゾルの目から涙が流れる。その大きな涙は、彼の絶望を体現しているかのようだった。

「ゴゾ……ル……」

 エステナは彼の苦しそうな顔を見て、悲痛な声で呟いた。自分の身体がぷるぷると震えているのを自覚していた。守られてばかりは嫌だった。だけど非力で、ゴゾルのような魔法の才能もない自分には何もできない。もっと真面目に授業を受けていたら、少しでもゴゾルの力になれただろうか。恐怖で慄く身体では、結局足手まといにしかならないけれど。

「エステナ」不意に聞こえてきたゴゾルの声に耳を傾ける。「逃げろ……」

 エステナには分かってしまった。ゴゾルには逃げる気なんて欠片もないことに。彼は持てる力の全てで、魔人に対して時間稼ぎをしようとしていることに。それは助けを待つための時間稼ぎなんかじゃない。エステナを逃すための時間稼ぎ。その結果どうなってしまうかなんて、頭の良いゴゾルが分からないはずがない。何しろお馬鹿なエステナ自身にも分かってしまうような、とてもとても簡単な問題だったから。

 エステナも泣いた。怖くて、悲しくて、悔しくてたまらなかった。ゴゾルを置いて逃げたくなんかなかった。

 エステナはゴゾルが好きだ。多分ゴゾルが彼女に抱いている気持ちよりもずっとずっと好きだと思う。

 ゴゾルをここまで連れてきてしまったことを後悔する。大人たちの言うことを素直に聞けばよかった。恋する気持ちに任せて、二人きりにならなければ良かった。

「早く……!」

 ゴゾルが叫ぶように言った。

 嫌だとエステナは首を振る。逃げるなら一緒に逃げよう。一人だけなんて絶対に嫌っ。

 そして、エステナは気付いてしまった。泡がゴゾルの魔法を回避しながらこちらに向かって来ていることに。

 泡はさっきからゴゾルの魔法とぶつかっては爆発している。あの魔法の仕組みはエステナには分からない。だけど直感する。あの泡に触れたら、爆発するんだと。

 ゴゾルには気づいた様子がない。いや、もしかしたら気づいているのかも知れない。気づきながらも、なんの手立ても立てられないのかも知れない。エステナには分からない。分かるのはとても危険なことだということだけ。

 そう考えると、自然と身体が動いた。

 ゴゾルの前で、四肢を広げて立ち塞がる。焦り、驚きの声が背後から聞こえてきた。

 ざまあみろ、とエステナは思った。恋する乙女を舐めるな。私だってゴゾルのことを守りたいんだ。だからちっとも怖くなんかない。ゴゾルのことを守れて嬉しいんだ。

 内心でも強気のフリをしながらも、実際には足ががくがく震え、歯の根がかちかちと音を鳴らす。

 そして泡は、エステナの胸から体内に入った。エステナは自身に死が訪れることを確信した。色んな決心がついた。そうすると、不思議なことに震えが止まった。袖で涙を拭う。幸いにも涙は止まっているようだった。

 エステナは顔だけで振り返る。口元に精一杯の笑顔を浮かべる。好きな人には、泣き顔を覚えて欲しくなかった。とびきりに、一番に、可愛い笑顔を覚えて欲しかった。

「私は、ゴゾルのことが好き」

 ゴゾルは愕然とした顔を向けながら、かろうじて、

「俺も、俺も好きだよ」

 と呟いた。

 エステナの両眼から涙がこぼれた。それは嬉し涙。

「……嬉しい」

 本当に嬉しかった。

 だけど、次の瞬間、エステナの小さな身体は膨れ上がり、パン、と破裂した。

 沢山の赤い血が、ゴゾルの全身に降りかかり、赤く染まる。顔の断片がゴゾルの頭の横を飛び去った。ピンク色の内臓の欠片が、ゴゾルのお腹で受け止められた。

 ゴゾルは泣き叫んだ。膝から崩れ落ち、かろうじて原型を残したエステナの下半身にしがみつく。

 足はひどく冷たかった。動く気配はもはやない。ゴゾルはますます泣き叫んだ。

 そうして、その声が届いたのだろう。

 ゴゾルの両親とエステナの両親が助けに駆けつけたのである。

 それからしばらくの間の記憶は、ゴゾルにはない。

 後で聞かされた話によれば、エステナの両親によって抱き抱えられてゴゾルは助けられた。だがゴゾルの両親は、たった一人の息子を助けるために、魔人の魔法の盾となって死んでしまう。

 エステナの両親は、避難所である教会の地下に入るなり、エステナがどこに行ったのかをゴゾルに聞いた。茫然自失となっているゴゾルは、明らかに様子がおかしくて、居合わせたムルレイは止めようとした。だけどゴゾルの口が動く方が早かった。

「エステナは……死にました」

 エステナの両親は大きな声で泣き喚いた。父親はゴゾルの頬を殴り飛ばす。小さな体は抵抗もしなくて、後ろへ弾かれるようにあっけなく飛んだ。それをムルレイが受け止めた。そうして彼女は非難の声を発したが、エステナの母親の声がそれに被さる。

「あなたのせいよ! あなたのせいで私の娘が死んだ! あなたが娘をたぶらかさなければっ!」

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