百九 初めての場所
ひんやりとした雨が、夜闇の中落ちて行く。静寂を刻む雨音は、どこか物寂しい調子を奏でる。
いつもなら聞こえるはずの、酔客の喧騒は、夜の中に隠れているのか聞こえない。それはきっと、昼間に起きた英雄と英雄の戦いが、何かが変わりつつあることを予感させたせいかもしれない。街の中に、例外を除いて人の姿が見えないのも、多分きっと、雨のせいだけではなかった。
月も星も見えなくて、帝都は真っ暗な闇に包まれている。そんな中、小雨に濡れるまま歩く津村稔と実花。たった二人の例外。
天気が良い日を選ぶことはできた。それぐらいならきっと稔や実花の正体は気づかれない。だけどそうしなかったのは、一刻でも早くゴゾルを倒したかったから。稔は今まで十分すぎるぐらいの時間を待ったから。だからもう、我慢することはできなかった。
実花は彼の復讐を止めようとは全く思わない。稔の意志に任せようと思っていた。何よりも実花自身もゴゾルを許せなかったから。
二人は道中言葉を交わさない。稔自身が会話を拒絶している雰囲気があった。
実花の胸中には不安がある。二人合わせれば最強などと言いはしたが、それは稔についていくための方便だ。実際のところは、ゴゾルに勝てるかどうかすら全く自信がない。それに不安は、それだけとは言い難かった。
ゴゾルに勝った後、稔がそれからどう生きる気なのかよく分からないのだ。仇を取った途端、実花の前からいなくなる。そんな悪い想像が、何度も何度も実花の頭の中を巡っている。ゴゾルを倒した後はどうするの? そんな質問を、ここまでの道のりの中で何度しようと思ったことか。
それでも実花の足は迷いなく進む。奇妙なことに、あの時はこんなに早く時間が経ったようには思えない。もっと遅く感じていたように思う。
そうして、二人は目的の場所へと着いた。
均等に切られた石を組んで出来ている建物。グラウノスト帝国では一般的な住居だ。
「ここだよ、お兄ちゃん」
二人は中に入った。建物の中は暗い。
実花は奥にある扉に手を掛ける。だけどそれ以上動くことができなかった。
動悸が高まり、呼吸が荒くなっていく。
「実花?」
不審に思った稔が声をかけてきたけれど、実花にはその余裕がない。
実花は、思い出してしまっていた。
男の前で肌を晒す恥辱を。体を引き裂かれる壮絶な痛みを。体内に異物を挿れられて行く言葉では言い表せないほどの気持ち悪さを。ゴゾルの冷たい視線と、メメルカ・ノスト・アスセラスの哄笑を。
実花はそのまま膝から崩れ落ち、冷たい石の床に片手をついた。もう片方の手は、自分の口を塞いでいる。
「……うっ」
呻き声。気持ち悪い何かが込み上がってくる。
「大丈夫か? 実花」
稔は彼女の側にしゃがみこみ、背中をさすってあげる。
大好きなお兄ちゃんの声が、暖かな体温が、実花の冷え冷えした心の暗部にまで染み渡った。
実花は気持ち悪い何かを強引に飲み込んだ。お兄ちゃんがいれば大丈夫。二人でなら最強だから。心の中で言い聞かせ、実花は立ち上がる。
「……ここで待っているか?」
「ううん。大丈夫だよ、ありがとう」
「無理しなくていいんだぞ?」
実花は考える素振りを見せた。
「……ねえ、お兄ちゃん。手を繋いでもいい? そうしたら、私大丈夫だから」
「……分かったよ」
稔は手を差し出した。はにかみながら、その手を取る実花。
そして今度こそ扉を開けた。気持ち悪い何かは、這い上がって来なかった。
長く暗い階段を二人一緒に降りて行く。
「お兄ちゃん、私が来る時はいつも、こうだったの。長い階段がずっと続いて、下に着いたら扉があって。でも不思議なの。大抵はいつも同じ部屋なんだけど、違う部屋の時もあって。だから、そこにゴゾルがいるとは」
かぎらない、と実花は話した。
「それなら大丈夫だよ」
「どういういこと?」
「あいつの得意な魔法は空間魔法なんだ。文字通り空間を操る魔法だ。この同じ階段が続いているのは、魔法で違う場所をつなげたところが、分からないようにするためなんだよ。だから、この階段の先にはきっと、ゴゾルがいる」
稔の手に力が込められた。実花はつないでいる手に強い痛みを感じて、思わず顔をしかめる。
「い、痛いよ、お兄ちゃん」
はっとした稔は、「す、すまん」と謝り、慌てて手を離す。それを実花は手を伸ばして掴み直す。少しでも長く、彼とつながっていたかった。
「実花?」
「手は離したら駄目だよ、お兄ちゃん」
「……本当に、変わったよな……」
気落ちした様子で稔は呟いた。自分が妹の目の前でいなくなったこと。それがきっと、彼女の変貌の原因だと思っていた。稔は罪悪感を感じていた。
それを実花は、首を振って否定する。
「違うよ、お兄ちゃん。私は何も変わっていない」
そう、変わってはいない。昔はただ自覚がなかっただけで、結局のところ実花は、今も昔もお兄ちゃんが大好きな妹でしかない。
「そうか」
と答える稔は、けれどどこか納得していないようだった。
それでも良い、と実花は思う。仕方がないことだと思う。
やがて階段は終わりを迎えた。
何の変哲もない扉がそこにある。
「開けるぞ」
と言って、稔は扉のノブに手をかけた。
「うん」
扉を開く。視界に広がる暗い岩窟の狭い道。稔にとって懐かしく、恐ろしく、憎しみで彩られた場所だ。間違いがなかった。ゴゾルはここにいる。稔は確信し、憎悪を燃やす。
そんな稔の顔を実花は盗み見た。怒りや憎しみで歪んだ顔だった。実花にとって、それはただただ悲しい。お兄ちゃんは未だに苦しんでいるようにしか見えないから。苦しみから解放してあげたいから、実花は稔の手伝いをする。
二人同時に足を踏み入れた。扉が何もせずとも閉まった。実花は扉のノブに手を伸ばして捻り、扉を開けた。しかし扉の向こうには、奇妙なことに岩の壁しかないのだった。ゴゾルが魔法を使い、空間のつなぎ目を消したのだと、すぐに気づく。もはやここから抜け出すにはゴゾルを倒すしかない。だがもとよりそのつもりだ。稔は気にした風でもない。
実花が再び前を見ると、道に沿って設置されている燭台に火が灯っていく。まるで誘導灯みたいだ。事実、誘われているのであるが。
だが同時に、この先にはゴゾルがいると確信する。
稔は今すぐにでも駆け出したい衝動に駆られた。一秒でも早くゴゾルを殺したい。強く暗い感情に突き動かされる。だけどそれを止めたのは、繋いだ実花の手だった。
小さくて、たおやかで、華奢な女の子の手。少し冷たいその手は、稔の中の憎悪の炎を弱めさせた。
もしも稔一人だけだったら、一も二もなく怒りのまま走り出しただろう。冷静さを欠いたまま、ゴゾルとの戦闘に突入していたに違いない。その場合の勝率は、きっととても低い。
メルセルウストにいる、たった一人の家族。守るべき妹という存在が、何よりも大切にしなければならないことを思い起こさせる。必ず妹を守り切り、その上でゴゾルを殺す。稔にとってそれが絶対の条件だった。その条件の中には、自分の命は含まれていない。
稔と実花は奥へと歩いて行く。岩窟の通路は緩やかな曲線を描いていて、先がよく見通せない。
すると奥の方から、ずざあ、ずざあ、と引きずるような音が聞こえてきた。それは一つだけではなく、沢山の音が重なっていた。音は徐々に、徐々に近寄ってきているらしく、段々と大きくなってきた。
稔と実花は顔を見合わせる。何かが来る。不吉な予感を感じ取り、二人は手を離し身構えた。
稔は右手を前に出していつもでも魔法を撃てるようにし、実花は剣を引き抜いて中段で構える。
ずざあ、ずざあ。音はますます大きくなっている。さらに嫌な臭いも漂ってきた。それはまるで何かが腐っているような、強烈な臭い。稔も実花も思わず顔をしかめるほどだ。
そうしてそいつらは、二人の視界に現れた。
驚きのあまり身体が硬直する。
そいつらは通路を埋めるぐらい大勢の魔人たちであった。ただし、身体の一部分が破損していたり、ところどころ繋ぎ合わせたのか縫い目が見えていたり、右腕と左腕の肌の色が違っていたりしている。
何よりも、
「……そんな……ウルガ……」
死んだはずの獣の魔人の名を、稔は口にした。ウルガだけではない。他にも稔の記憶にある死んだはずの魔人たちが目の前にいるではないか。
彼らはみな言葉もなく、瞳孔が開ききった目を何処かへ向け、足を引きずりながら、稔たちに迫ってくる。
「……お兄ちゃん……これ」
思わず呟く実花。彼女もこの異様な集団にはもちろん驚いている。何しろ自分が殺したはずの魔人もそこにはいるのだから。
「ゾンビにされたのか……」
稔は歯軋りし、手に力を込める。映画やゲームなどでお馴染みのゾンビ。地球でなら不可能だろうが、ゴゾルならやりかねない。それは分かるが、それでもやはり目の前にいることに驚きを禁じ得ない。何よりも怒りを感じる。ここは創作物の中じゃない。現実だ。こんなのは悪辣な冒涜だ。
「こんなのって、ないよ」
「一人残らず倒すぞ、実花」
「うん」
稔は右手を向けて唱える。
「メドル」
只中へ飛び込んで実花は剣を振るった。ゾンビとなった魔人の首は思いの外脆く、簡単に切断されて中空を舞う。傷口から血は一滴も流れない。彼らが死体であることの何よりの証に、実花は悲しくなる。
それでも実花は斬るしかない。それが彼らを辱めから解放できる唯一の方法だから。
彼らの動きはゾンビだけあって鈍く、遅い。攻撃を仕掛けてくる気配すらない。実花はゾンビを斬って斬って斬る。
「実花、下がれ!」
「うん!」
実花は急ぎ後方の壁際へ。
「ハーゲン!」
稔は魔法を放った。魔力の光がゾンビを薙ぎ払う。その中にはかつてウルガだった魔人も含まれている。
稔の魔法は強力だが、それ故に全力で撃てば岩窟が崩壊する。だから崩壊しない程度の威力に抑えなければならず、そうなれば必然的にゾンビを一撃で全滅できることはできない。
未だ多量に残っている魔人のゾンビを見る。正直に言えば、脅威度は地球の創作物のよりも低いのは明らかだ。全てを無視してゴゾルへ駆けつけることもできるだろう。
けれど、稔と実花にそんな気は欠片も湧かない。彼らを捨て置くことなどできるはずがない。あるいはそれがゴゾルの狙いなのかもしれないが。
実花は迷うことなく再びゾンビの中へ突入し、稔は再度魔力を溜めるための合言葉を唱える。
確実にすり減らして行くゾンビたち。
呼吸が荒くなりながら剣を振る実花は疲労を隠せない。それでもゾンビを斬ることはやめない。稔も魔法を撃ち続けている。
そうして最後の一団に辿り着いた。彼らの背後にはこれ以上ゾンビはいない。
しかし稔は、息を呑み、手を止めた。
「セールナ……」
稔が呟いた名前を、実花は覚えていた。お兄ちゃんがマ王ツァルケェルだった頃、砦にいた水色の髪をした少女の名前だ。あの場にいた魔人はみんな実花に憎しみを抱いた目を向けてきていたが、彼女だけはそんな目をしていなかったことはとても印象に残っている。
実花はセールナの姿を集団の中に認めた。だが上半身だけが彼女のもので、下半身は別の誰かの身体がくっついている。
「君も、死んだのか……。逃げろと言ったのに……」
「お兄ちゃん……」
彼女も由梨江と同じように、大切な人だったのだろう。なのに見るも無残な姿になっている。もしも生きていて、再び会うことができたなら、実花は彼女と仲良くできたかもしれない。けれどそれはもうできない。実花は怒りを自覚する。
「……私がやろうか?」
「……いや、いい。俺が、やる」
そして稔はハーゲンと呟いた。
閃光がセールナたちを飲み込んで、跡形もなく消失した。
やるせなく立ち尽くす稔に実花はそっと近寄った。右手で稔の左手を掴む。
「実花? ああ、すまん。すぐに行かないと……な」
明らかに意気消沈としている稔を見て、実花は悲しくなった。
「ううん」と首を振る。「私、ちょっと疲れちゃった。少しだけ、休憩したい」
「……そう、だな。分かった。ありがとうな、実花」
「いいよ。でも、全部終わったら、セールナさんのことも聞きたいな」
「ああ、そうするよ」
実花は稔の背中にもたれた。手は繋いだままだ。
お兄ちゃんは今どんな顔をしているんだろう。そんな想像を巡らせながら、大きな背中が震えているのを感じていた。
兄妹二人は、手を繋いだまま岩窟のさらに奥へと進む。
また何かあるかもしれない。周囲を警戒しながら歩いて行くと、行き止まりに突き当たった。木製の扉があるのを見つける。二人は頷き合った。
実花が扉を開ける。稔が先に中に入った。続いて実花も。
そこはドーム状の部屋だった。壁は対魔力に特化したミスティルで覆われている。稔は覚えている。そこはかつて稔が初めて魔法を使った場所と瓜二つだったから。
その部屋の中央には、ゴゾルがいた。記憶にある通りの薄気味悪い笑みを浮かべ、薄汚れた灰色のローブを着ている。頬が痩せこけているのも、無精髭が生えているのも、当時の記憶のままである。
「久しぶりだな、実験体」
相変わらずの、人を人として見ていない視線。今でも彼は稔や実花のことをモルモットとしてしか見ていない。
「ゴゾル、答えろ」
稔は問うた。向けた右手から今すぐにでも魔法を放ちたい欲求を我慢している。暴走しそうな怒りを強引に押さえ込んで、顔つきがまた醜く歪んでいる。
実花は稔の手を強く握りしめた。稔がどこかに行ってしまわないように。憎しみのあまり、お兄ちゃんがお兄ちゃんでなくならないように。
「なんだ?」
飄々と言うゴゾル。
「さっきのあの魔人たちは、いったいどういうつもりだ」
「どうこもこうもない。動く死体にした状態でも、魔人としての能力を発揮できるのか。その実験のために作り上げた。もっとも予想していた通り、所詮は死体でしかなかったがな。お前たちにぶつけたのは、いちいち片付けるのが面倒だったからだ」
きりきりと実花の手が強く握り締められた。稔の強い怒りが伝わってくる。
今度は痛いと主張しない。代わりに負けじと強く握り返す。こんな最低な奴に負けるな、と訴えるみたいに。
「お前はなぜ、実験を繰り返す。俺たちをなぜ、この世界に連れてきた。一体なんの目的があるんだ。答えろ、ゴゾル」
ゴゾルは口元を歪ませる。手を上に上げ、人差し指を伸ばして宙を指し示す。
「俺の目的は、神を殺すことだ」
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