百八 最強の矛と盾
たん、たん、たん。一定のリズムを刻ながら、モルガノ・メイトスはその場で跳ねている。
彼女の足は獣の足である。魔法で変化させたものだが、その変化を目の当たりにしなければ、彼女が魔人だと勘違いを起こすだろう。
「さあ、ご覧あれ」
瞬間、モルガノは動いた。と、認識した時にはもう遅い。彼女はそのままベーガの顔面に蹴りを喰らわせていた。ベーガは少しも反応できなかった。いや、この場でまともに対応できるとしたら、それはグルンガルだけだ。そのことをよく分かっていたからこそ、モルガノはベーガを狙ったのである。
ベーガは目を白黒させながら、その巨体を横倒しにさせた。どすりと重たい音が響く。彼ほどの大きな体を倒させるとは、その細身の体に似合わぬ力だ。それもその速度あっての力なのは明白。
立ち上がるベーガ。奇怪な物を見る目で、モルガノを見、斧を構える。
モルガノの速さは、あの獣の魔人よりも劣るとはいえど、非常に近い。それも身体強化で手に入れられるような次元ではなかった。つまり魔法で変化した獣の足は、見た目倒しではない、ということである。
「行きます」
と、宣言。ほぼ同時に、ベーガは右頬を蹴らている。続け様に左頬、右のふくらはぎ、最後に鼻柱。
ベーガは再び倒れた。鼻から血がだらりと垂れている。だが、なおも立ち上がろうとしている。
モルガノは魔法を解いた。足が元へと戻る。しかし今度は、彼女の両手が獣の手と変貌していた。
よろめきながら立ち上がったベーガの顎を、モルガノの掌底が炸裂する。
嫌な音がして、それから今度こそベーガの意識が途絶え、石畳の上へと崩れ落ちた。
周囲が静まり返っている。魔人じみたモルガノの強さに、皆が衝撃を受けていた。
「……貴様の評価を改めなければならんな」
グルンガル・ドルガは、モルガノを睨めつけて言った。
「光栄です」
軽く流すモルガノ。だが、呼吸が荒い。
「モルガノ。その魔法は、一体?」
カナルヤ・レイが聞いた。純粋に研究者としての好奇心で。
「私の研究の成果です。生き物は魔物へと変貌するのは魔素が影響しているからですが、その過程において、何らかの魔法が発動しているのではないか、と仮説を立てたのです。対象の生き物が魔法を使ったのか、あるいは超自然的な何かが作用したのかはまだ分かりませんが、魔法が原因で体の構造が変貌してしまうのなら、自ら意図して魔法を発動し、体を変えてしまうことが可能ではないか、と。結果は先ほどの通りです。膨大な魔力を使うために、一部分の変化が限界でしたが」
さらに付け加えるならば、身体強化も合わせて使わなければ、体が負荷に耐え切れないのである。おかげでより一層魔力を使うことになる。そのため長時間の戦闘には耐えきれないだろう。
モルガノの荒い呼吸は、それだけの高負荷を示す物であったのだ。でなければ、魔法砲撃部隊の隊長である彼女が、呼吸を隠せないわけがない。
「……どうやら女性の会話を待っていられない方がいるようね」カナルヤは苦笑する。「詳しい話はあとで聴かせてもらうわ」
ばちり、と何かが爆ぜる音がした。見れば、グルンガルが剣に雷を纏わせたところである。
当初彼はこの必殺の奥の手を出さないつもりだった。街に損害を出す恐れがあったからだ。しかし唐突に登場した予想外に強力な魔法研究者がベーガを圧倒してしまったことで、もはや形勢はカナルヤたちに向いている。残っている手札であるルグストは弓が得意とはいえど、モルガノとグリアノス二人の相手では荷が勝ちすぎている。早々に負けるのは目に見えていた。その上カースも余力を残しているのだ。早急に何か手を打たなければ、負ける。グルンガルはすぐにそう判断し、必殺の技で逆転を狙う。
「ここで、貴様らを討つ!」
グルンガルは剣を上から下へ振り下ろす。
雷鳴が轟き、閃光が走る。
「甘い!」
カナルヤが吠えた。
同時、彼女の右腕からも雷が発生。それはグルンガルが放った雷撃へと向かう。激烈な音と強烈な光と共に相殺する。
「なに!」
驚きの声を上げるグルンガル。
「忘れたの?」カナルヤは安堵した表情を隠すことなく見せる。「雷の魔法を操れるのは、あなただけじゃないってことを。しかもあなたと違い、私は剣を使うことなく制御できる」
ちっ、とグルンガルは舌打ちをした。彼も別に忘れたわけではない。だがうまく不意をつけたと思ったのである。
「……形勢は逆転したようね。さあ、どうするの?」
「どうもこうもない。貴様らはここで討つことに変わりはない」
「あなたも頑固な人ね」
二人の問答の最中、モルガノとグリアノスは、二方向からじりじりとルグストに近づいている。
ルグストは矢を射り、牽制するが、彼の腕を持ってしても、二人の進行を止めることはできない。しかもモルガノは変身を行っていないのだ。いかに変身の魔法が著しい消耗を促すと言っても、戦闘の経験がそれなりに多い彼女はまだ余力を残している。次に控えているグルンガルのために取ってあるのである。それが分からないルグストではないが、彼の実力ではこれが限界だった。
しかし、
「双方、やめなさい!」
とその時大きな声が響き渡った。
その美しく良く通る声に、彼らは皆手を止めた。そうして門扉がゆっくりと開き、姿を見せたのは、メメルカ・ノスト・アスセラス。傍にはフェルリナーラ・トルキンが付き従っている。
「彼女たちは私に用があります、グルンガル。勝手な行動は慎みなさい」
「しかし」
「黙りなさい。あなたが帝国のためを思って行動を起こしているのは分かっています。ですのでこの行いは不問としますが、これ以上何かするようであるなら、それ相応の処分を受けてもらいます」
「……はっ」
と、グルンガルは首を垂れて一歩下がった。
それを満足そうに見届けたメメルカは、カナルヤと向き合う。美しく冷然とした顔だった。
「さあ、来なさい、カナルヤ。皆の前で話を聞きましょう」
メメルカは玉座に座っている。彼女は冷ややかな視線で、跪いたカナルヤ、グリアノス、カース、 モルガノを見下ろしていた。
カナルヤは床に敷かれた赤い絨毯を見つめながら、周囲を取り囲む貴族たちの嫌な視線を感じている。相変わらず貴族という奴の腹の中は、薄汚い欲望に満ちているように思えてならない。無論、全ての貴族が己の利を何よりも優先しているわけではないことも知っている。何しろそう考えるカナルヤも貴族の一員でしかないのだから。しかしだからこそ、と言うべきか、カナルヤが森の奥深くで隠居するようになったのは、その辺りが原因の一つなのだった。
しかしまた、こうして自分から嫌な空間の中に飛び込んでいる。もう二度とない、と考えていたと言うのに。貴族というしがらみは、結局のところ死ぬまでついてまわるのだ。
だがカナルヤは、権謀術数渦巻く貴族たちの中から一時的に逃げていたことを少しだけ後悔していた。もしもずっと留まり続けていれば、もっと楽に戦争を拒否することができたやもしれないからだ。
もっとも魔人との戦争は、オルメルが帝王だったから回避することは叶わなかったろう。それでも、もしもという仮定をカナルヤは考えずにいられなかった。そうして帝王がメメルカならば、まだ可能性が残されていると予想している。何しろ彼女は、家族を魔人に殺されながらも、魔人に対して強い憎しみを持っているわけではないからである。
「面をあげなさい」
と、メメルカの声がした。四人は顔を上げてメメルカを真っ直ぐに見上げる。
仮面を被ったみたいな笑みを見て、相変わらずだな、とカナルヤは思う。
「それでカナルヤ様、私に頼み事があるようですね。聞かせていただけませんか?」
「単刀直入に申し上げます」カナルヤは挑むような視線でメメルカを見る。「マ国との同盟をするべきだと考えています」
途端、周囲の貴族たちが騒ぎ出した。
「正気か、こいつらは」「頭がいかれているんでしょう」「二神に敵対しているようなものだ。極刑にして、見せしめにするべきだな」「いかにカナルヤ様が天才だといっても、所詮は魔法研究に限っての話」「かつての英雄も落ちたものよ」「頭の病気ね」
頭の中身を疑っているような酷い言葉の応酬を、カナルヤは平然と受け止め、メメルカを見続けている。モルガノは不快と怒りの感情を押し殺し、平静を保つ。この二人は同じ貴族であるだけあって、どのような反応が返ってくるのか予想の範囲内だったのだ。
一方、戸惑いを隠せないのはグリアノスとカースの二人である。簡単に受け入れられないことぐらいは分かっていたが、ここまで酷いとは思わなかったのである。沢山の敵意ある視線に晒されて気が気でない。何も悪いことはしていないと、そう信じてはいるが、これでは自分たちが本当に悪者のようにも思えてくる。
「魔人は邪悪な存在。人間にとって究極の敵と言っても過言ではありません。それが分からぬあなたではないでしょうに。一体なぜそのような考えに至ったのですか?」
よく通った声で質問するメメルカの表情は変わらない。美しい笑みを顔に張り付かせているままだ。心の内でどのような思考を働かせているのか。まるで見通せる気がしない。モルガノにはそれがとても恐ろしい。
「私が本当に望んでいるのはただ一つ。平和です。近隣諸国は今や油断ならぬ状況が続き、戦争の火種はどこにでもある状態です。マ国もその中の一つ。しかしながら、皆様が知っての通り、マ国は非常に強い軍事的な力を持っています。この国と戦争を続ければ、我が帝国は負けこそしないでしょうが、疲弊するのは明白でしょう。そうした状況を利用して近隣諸国が戦争を仕掛けてこないとは限りません。そこでマ国と同盟を結び、戦争の火種を一つでも消すことで、近隣諸国に集中するゆとりが生まれるでしょう」
「なるほど、理は通っているように思います。しかし、一番の問題は、あの魔人たちが同盟を結んだとして、それを守るとは思えません」
そうだ、そうだ、と同意する声がそこかしこで上がる。彼らは魔人を邪悪だと考えているのだから当然だ。
「先ほどメメルカ様は魔人は邪悪だとおっしゃいました。それはニーゼ教の教典にそう書かれていることが由来でしたね?」
「ええ」
とメメルカは神妙に頷いた。貴族たちは何を当たり前のことを聞くのかと、馬鹿にするような目でカナルヤに注目している。
「その前提が間違っているとしたら、どうでしょうか」
再び貴族たちが騒ぎ始めた。それをメメルカは、咎めるような視線を送って落ち着かせる。
「それはどういうことですか?」
「……ここに原典を読まれた方はおられますか?」
カナルヤはそう尋ねると、周囲を見回した。貴族たちはおろか、メメルカさえも手を上げない。秘匿されているのだから、当然だ。
「おりませんね。……モルガノ、例の書状を」
「はっ」
と、モルガノは書状を取り出し、読み上げる。それは教会が今まで行ってきた欺瞞についての内容だった。
最後の一言を言う前に、貴族たちは口々に嘘だ嘘だと野次を飛ばす。このためにでっち上げた書状に違いないと、見えすいた嘘を吐くなと訴える。
「ここに書かれていることは真実であり、この書状は紛れもなく本物です。確認のほどを」
メメルカの合図で、要職に着く貴族の一人がモルガノから書状を受け取った。書状に記された印を慎重に審査し、魔力を通すと、黄色くぼんやりと光った。それは紛れもなく、大司祭のジージが施した魔法による印だった。
「……本物です」
と、彼自身、強い衝撃を覚えながら告げた。
再度ざわつく貴族たち。誰もが驚きを禁じ得ない。中にはそのあまりの真実に衝撃を受け、くずおれた貴族すらいた。
「私たちは魔人と戦い、彼らが姿形は違えど、人間と変わらぬ性質を持っているように感じました。魔人たちは連帯を取り、時に殺された仲間のために怒り、悲しむことすらありました」
「……後ろの二人。あなた方も同じように思いましたか?」
メメルカはグリアノスとカースに視線を向けた。
「はっ」とカースは返事をする。「そう感じました」
「俺、も、同じ、です」
「確かあなた方が住んでいる村は、あの魔人によって多くの死者を出したそうですね」
「よくご存じですね」
カースは感心したように言った。
「それぐらいのこと、すでに調べはついております。……あなた方は、魔人に対して怒りや憎しみは湧かないのですか?」
「仇の魔人はすでにカナルヤ様たちの手によって倒されています。仇がすでにこの世にいない以上、憎しみを抱いても仕方のないことです」
「確かにそうですね。私の父に聞かせたい話です。それにしても魔人が人間と等しいとは、信じがたたく思います」
「そうおっしゃるのも無理はありません」とカナルヤは言う。「しかし我々と同じであるのなら、話し合いにも応じるはずです。何卒、賢明なご判断を」
「……この話は一度持ち帰り、吟味しなければならないようですね。ジージ様にも話を聞かなければならないでしょう」
そう言ってメメルカは、カナルヤたちとの面会を終了させたのだった。
城門を後にしたカナルヤたち。
空は灰色の雲で埋まっており、冷たい雨がぽつぽつと降っている。
「うまくいくでしょうか?」
モルガノは不安そうに聞いた。
「きっとうまく行くわ」
そう答えるカナルヤの胸中も、不安で渦巻いている。だが今はこれ以上できることはない。
それに、あの兄妹のことも心配だ。
失敗してもいい。ただ無事でいて欲しい。そう心から願うカナルヤであった。
ホテルの一室でまったりと過ごしていた津村稔たち三人は、戦闘の音が聞こえた時には心配になった。助けに行きたい衝動に襲われ、実花は部屋から飛び出そうとしたが、慌ててネルカの手も借りて止めた。
それからあの人たちなら大丈夫だと、自分に言い聞かせるように実花を説得し、祈るような心持で時間が経つのをひたすらに待った。
緊張感で会話は少ない。ソファに座る稔の隣には実花が座り、彼の左手と自分の右手をつないでいる。実花の左手は、ネルカの手が添えられていた。
そうして、わずかに開いた木窓の外は夜になった。
「そろそろだな」と言って、稔は立ち上がる。「実花とネルカさんは待っていてくれ」
「え? どうして!? 私も一緒に行くよ!」
実花は強く主張した。置いてけぼりになるのは嫌だった。またどこか遠くに行ってしまうような気さえした。
「ゴゾルは危険だ。お前を連れて行くわけにはいかない。ネルカさん、お願いします」
「申し訳ありません。その申し出は聞けません」
ネルカの拒否に稔は驚く。いつも稔の意図を汲んで動いてくれていた彼女も同じことを考えていると、そう思っていた。
「どうして、ですか?」
「……心情的には、ミノル様と同じ気持ちです。ですが本気になったミカ様を私は止めることができないからです」
稔は実花の顔を見た。稔のことを睨んでいる。絶対についていく。何が何でもついていく。彼女の黒い瞳はそう強く訴えていた。
「何と言おうと、私はついて行くよ」
「危険だ」
「お兄ちゃんの魔法は、最強の矛かもしれない。でも自分の身を守ることはできないんだよ。だけど私の魔法なら、それができる。私の魔法は最強の盾だから」
「それでも、だ」
「大丈夫だよ、お兄ちゃん、最強の矛と盾の力比べは矛盾になるけど、一つに合わさったら本当の最強になるの」実花は自信たっぷりに言う。「つまり、私とお兄ちゃんは、二人で最強なの! ゴゾルなんか、楽勝っ!」
稔は虚を突かれ、毒気を抜かれた心持ちになった。
「そうだな。確かにそうだ」
あはは、と稔は笑った。それにつられて実花も笑う。
ただ一人、ネルカだけは、ムジュンの意味が分からなくてきょとんとしていた。
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