百六 嘘の奥にあるもの
空の大半を覆う灰色の雲。隙間から太陽が時折顔を覗かせ、青が間隙を縫って現れる。これから晴れるのか、雨が降るのか定かではない。
そんな不安定な空模様の下、修道服を着たシニャとエルムント・ボルタレルは、大聖堂ミカルトの前で立っていた。
そこに原典派のみんなが続々と集まってくる。
「あなたは、シスターだったのですね」
原典派の一人であるケルビスは、驚きのままそう言った。
「はい」
「……しかし、よろしいのですか? 今回のことがもしも失敗に終われば、あなたは……」
「そうですね。最悪死罪は免れないでしょう。それに成功したとしても、私は教会にいられなくなるかもしれません」
「本当に良かったのですか?」
「心配してくださってありがとうございます。ですが大丈夫です。もとよりその覚悟の上ですから」
「……なるほど。確かにその覚悟がなければ、この場にはいませんね」
それから少し経過した。
エルムント、シニャ、ケルビス、トゲイスト、ドーメウス、ガーズル、モルガノ・メイトス。総勢七名。全員が集まった。
「では、行きましょうか」
エルムントの号令をもとに、一同は大聖堂の中に入る。
みな強い覚悟を秘めた鬼気迫る表情だった。通りがかったシスターが、そそくさと焦った様子で道を譲るほどに。
「シニャちゃん……」
松葉杖を突き、歩く患者が声をかけてきた。シニャは顔だけを向けて、こくりと頭を下げる。ごめんなさい。今は相手をしていられないのです。そう言っているような顔。少し申し訳なさそうで、それでいて何者にも負けない意思を感じさせる目。シニャの歩みはもちろん止まる様子が全くなかった。
そうして彼らは、大司教ジージの部屋の前に辿り着いた。
エルムントが代表して扉を叩く。少し強い力加減で、二度、三度と。
「誰だ?」
低い声だった。
「私です。エルムント・ボルタレルです」
少しの間が空いた。
「入れ」
いよいよだ。
シニャの胸が高鳴ると共に、エルムントは扉を開けた。
七人は、迷うことなく中へぞろぞろと入る。最後に扉を潜ったモルガノは、後ろ手でそっと静かに閉めた。
「ほう」
広い机を前にして何やら巻物を読んでいたジージは、視線を七人に向けて、眉尻を不審げに上げる。
「これは一体、どういうことかな? エルムント」
穏やかな口調でジージは尋ねた。
「あなたにお尋ねしたいことがあります、ジージ様」
「何かな」
「今現在伝わっている教典には魔人が悪だと書かれています。それは果たして原典にも書かれていることなのでしょうか?」
ジージの顔色は変わらない。表情も変化がない。
「もちろん書かれているとも」
「嘘、でございますね?」
「なぜそう思う」
「ここに、聖カルムル教会で入手した原典があります。私とここにおりますシニャ様で読んでみたところ、魔人が悪とは書かれていないのです」
エルムントは袖の中から原典を取り出し、題名がよく見えるように持った。ジージは目を細める。けれど表情の変化はそれぐらいであった。
「なるほど。それで気になり、私の元に来たと」
「そうです」
「それで私にどうしろと言うのか?」
「まずはなぜ原典の記述が変わったのか、説明を。その上で、今まで魔人は悪だと騙していたことをみなに謝罪し、訂正を行ってください」
「ふむ」ジージは七人を見回した。「それにしても変わった面子よな。将来有望の司祭。過去に二人の魔人と接触があったシニャ。それから市井の庶民が五人……いや、四人」
唐突な方向変換。しかし、四人という数字が彼らの間に動揺を走らせる。庶民が四人。それでは計算が合わないではないかと。しかしてジージは続ける。
「確かお主、モルガノ・メイトスと言ったの」
ジージの視線は真っ直ぐモルガノに向けている。
「……気付かれておりましたか」
諦観のため息と共に、モルガノは言った。
「無論だとも。かのグルンガルお抱えの魔法砲撃部隊隊長の顔を、私が見間違えるはずがない」
モルガノにとってこれは、誤算だった。しかし思い当たる節もある。まともに顔を合わせたのは一度だけであったが、グルンガル・ドルガやベーガ・アージらと共に、ジージと会ったのだ。しかしその時はほとんど喋らなかったし、数年も前のことだ。だからジージが自分のことを覚えているはずがないと、高を括っていた。
シニャは驚いていた。まさか彼女が貴族だとは思っても見なかったのである。だがカナルヤ・レイに教えたのが彼女だと考えれば、納得することができた。
周りを見れば他の仲間も驚いていて、モルガノへ視線を集めている。涼しい顔をしているのは、エルムントだけ。けれど彼は気付いていなくても、涼しい顔をしているようにシニャは思えた。
「さて、モルガノよ。お主は実際に魔人と戦ったのだろう? どうであったか? 強かったか?」
「……強いです。私たちが勝てたのは、彼らに戦術や戦略という概念がなかったから」
「それも理由の一つであろうな。だが決定的なものが抜けておる。ツムラミカ。彼女がいなければ帝国は滅んでいたであろう」
「……まさかそんな」
他の六人も、はっと息を呑んだ。
「ツムラミカ英雄譚は読んだか? 中々に面白い読み物であったぞ。もっとも、嘘も多分に含まれているだろうがな。それでも魔人の強さはとても興味深かった。例えば岩の魔人。奴に挑んだ兵たちの攻撃はことごとく防がれたという。レゾッテの最大の魔法攻撃でさえ、奴の体に傷をつけることは叶わなかった。果たして奴を倒し切れるだけの力を持つ者がいたか? お主はどうだ?」
「……おそらく、無理かと思います」
「そうだろう。グルンガルの剣も奴には通じないだろう。もっともツムラミカのように、うまく状況を利用すれば勝てるやも知れんがな。他に可能性があるとすれば、オルメルやメメルカ女帝ぐらいのものだろう。だが、そのオルメルであっても、マ王と真っ向からぶつかって、負けたのだ。この二体の魔人だけではない。音を超える速度で飛行する魔人。あのグルンガルであっても勝てるかどうか分からないと言わしめたかの魔人もまた、ツムラミカの力で倒すことができた。この魔人に対しても、他に倒せる者はいるだろうか?」
話を聞きながら、シニャは言い知れぬ不安が胸の中で渦巻くのを感じ取っていた。
「分かるか? この帝国はな、ツムラミカたった一人がいなかった場合、魔人に滅ぼされていたのだよ。どれだけ知恵を巡らせ、戦い方に工夫をしようとも、圧倒的な力の前では何の役にも立たぬ。魔人というのはな、時として非常に強い個体を生み出してしまうのだ。国一つを容易く滅ぼすほどの力をな」
「しかし……それは原典の内容が書き換えられた理由と関係があるのですか?」
エルムントは、言葉を絞り出した。
「大いにあるとも。これは大司祭にのみ伝えられてきた話なのだが、今よりも遥か昔は、魔人と人とが共存していたらしい。だがある時、一体の魔人がこのヒカ大陸を滅ぼそうとしたことがあったのだ。オルメルたち三人の英雄が倒した魔人が、赤子に思えるほどの強さだったらしく、滅ぼす一歩手前まで来ていた。その時は、大賢者ミカルトがどうにか治めたのだ」
「大賢者ミカルト、様が……?」
「そうだ。外典には誘惑を退けたと書かれているが、それは後世の解釈。事実は違う。ミカルト様が倒したのだ。そうして、教典には魔人が邪悪だと記され、ヒカ大陸からドグラガ大陸に追い出した。全ては、大陸を滅ぼすほどの力を有することがある魔人が暴走した時、誰にも止められることができなくなる危険があったからだ」
シニャはごくりと生唾を飲み込んだ。それに気付いたのかどうかは分からないが、ジージはシニャのことをじっと見た。そうして口を開き、逆に質問をしてきた。
「シニャよ。そなたはなぜ教会があるのだと思う?」
「……人々に教えを説き、魂の救済を促すためです」
教科書通りの答え。でも今は、そう答えることが求められているように感じた。
「そう、救済だ。人々を助けることこそが、教会の絶対的使命。だから怪我人や病人を受け入れ、旅人に宿を提供し、子供たちに勉強を教えてきた。魔人を追い出したのも、邪悪だと教え近づかないようにしたのも、暴走した強力な魔人を我々では止めることができないからだ」
「……魔人は救うべき人間ではないのですか?」
「そもそも魔人は本当に人間だと思っているのか?」
「魔人は人間から生まれているではないですか。それならば、魔人は人間だと言えると思います」
「広い意味ではそうかもしれん。だがここにストメモという市井の研究者が書いた非常に興味深い論文がある。ぱっと読んだだけでは、魔人が悪である理由が適当な文句でつらつらと書かれているが、これは我々教会を騙すためのものだろう。ストメモがもっとも主張したいことは、魔人は魔素にによって人から変貌した姿ではないか、という点だ」
ばれている、とモルガノは怖くなった。けれどどうやらストメモの正体がモルガノであることは気付かれていないようだ。モルガノは必死に平静を装う。
「例えば岩の魔人の体は知っての通り全身が岩だ。だが、普通の岩ではない。論文の考えにならえば、魔素の塊が岩になっているのだろう。姿も、その強さも、人間の範疇にいない。そのような存在を人間として認めるべきか? むしろ人から派生した違う生き物だと考えた方がしっくりくるのではないか」
もしもこの場に地球出身の稔たちがいれば、魔人とは人が進化した生物だと結論づけるだろう。だが残念ながら、メルセルウストにおいては、進化という概念は未だ発見されていないのだ。
シニャたちは言葉を失っている。魔人が新しい生き物だと言われ、思考が追いついていかない。
ただ一人、モルガノだけは、真剣な表情で顎に手を添えて考えている。
「……なるほど」そうしてモルガノは納得した様子で言う。「人から派生した違う生き物。そういう視点はなかったですが、言われてみれば確かにそうなのかもしれません」
案外と、進化という考え方にこの世界で一番近いところにいるのは、モルガノとジージかも知れない。
しかしシニャは驚愕を隠せない。人間は神様によって作られた。原典にもそう書かれている。なのにそこから違う生き物が生まれるなどと、神に対する挑戦だと受け取られてもおかしくない。なのに目の前にいる教会の頂点に立つ人物と、帝国の精鋭部隊に所属する魔法研究者はこともなげに言うではないか。
と、不意にジージはシニャは視線を投げかけた。
「もっとも、我らが深遠なる神のこと。こうした生物も想定済みであろうよ」
ジージはうっすらと微笑み、そう言った。まるでシニャの不安を見抜いているような発言だ。
だがこのままではジージに丸め込まれてしまう。そんな危険を実感し、シニャは一撃を放つ。
「……原典には他にも教典と違う箇所がございます。教典には奴隷を物として扱うよう書かれていますが、原典には奴隷の二文字すら確認できませんでした。それはなぜですか?」
「しれたことよ。歴代の大司祭の誰かが奴隷を欲したのだろうよ。すでに魔人は邪悪だと改訂を行っているのだ。そこからさらに一つ二つと増やしても、些細なことだと判断したのであろう。そうして生まれたのが、今の教典よ」
さらりとジージは言った。もっともらしい理由をつけると思っていたシニャは思わず困惑する。
「あなたは、それでいいのですか?」
「私が良いと思うかどうかは問題ではない。時代が求めたということだろう。実際にも奴隷は、一部の者を除けば、丁寧に扱われていると聞く。何しろとても高価な労働力だからな。そうそうに使えなくなってしまえば元が取れん」
「人を助けるために教会はある。そうですよね? 奴隷の存在はそれに真っ向から反抗しているのではないですか?」
「ふむ、それは否定できないな。だが奴隷は実際に人の助けになっているのも事実だ。だからこそ、当時の大司教は奴隷を物だと記し、人ではないから助けなくても良いと逃げ道を用意したのだろう。ま、詭弁なのはもちろんであるが」
ジージは周囲を見回す。誰も口を開こうとはしない。
「他に質問はあるか?」
とジージは聞いた。七人は沈黙で答える。
「では、そなたたちの要求通り、全ての民に今まで騙していたことを謝罪し、教典の内容を訂正することにしよう」
思いの外あっさりと、ジージは告げた。そう簡単に要求を呑むわけがないと、七人全員が考えていたから意外だった。
「なんだ? 要求しておきながら通るとは思わなかったのか?」
「実のところ、そうです」エルムントが答える。「大司祭様が簡単に折れるとは思っておりませんでした」
「ふ」とジージは愉快そうに口角を上げる。「いつかこうなる日が来るとは思っていたのだ。それが私の代に起きようとは思いもよらなかったがな。それに魔人が危険だとは言ったが、今は国ができ、どうやら秩序も生まれているようだ。お前たちは知らないだろうが、マ国に与した者たちもいるのだよ。中には教会関係者もいてな。もっとも、彼らは帝国にはもういられないと、ドグラガ大陸に渡ったが」
七人は驚きながらジージを見つめている。
「お前たちだけが魔人の味方だと思っていたのか?
「いえ、そういうわけでは……」
「世界はな、長い歴史の中で少しずつ変わっていくのだよ。どういう風に変わっていくのかは、それこそ神のみぞ知るというやつだがな。だから今回のこれは、丁度いいタイミングだったと言えよう。私もお前たちのおかげで踏ん切りがついた。しかし心しろよ。本当に大変なのはこれからだ。このヒカ大陸に住む人々はみな、魔人の力に怯えている。教会がいくら否定したところで、それを信じない輩も多いだろう。全ての人間が変わっていかない限り、同じようなことは永遠に続く。これは魔人にも言えることだ。魔人を恨む人間が多いように、人間を憎む魔人も多いだろうからな」
「それは、本当にできるんでしょうか?」
「お前たちには無理だな」
ざっくりと切り捨てられて、シニャたちは絶句する。その様を見たジージは、穏やかに続ける。
「勘違いするな。他の誰にも無理なのだ。言っただろう。世界は長い時間をかけて変わっていくと。どれほどかかるかは分からん。メルセルウストが終わる日までこの関係は変わらないかも知れぬ。もっと酷いことになっているかも知れぬ。だが、この変化を少しずつ重ねていけば、あるいは、な」
七人は大聖堂から外に出た。
「結局我々は、あの方の手の平の上で踊らされただけでしたね」
エルムントはぽつりと言った。
「それでも、前に進むことができました。私たちが動かなければ、今こうしていられることもできなかったと思います」
シニャは、渡された書状に強い眼差しを向けている。世界は変わる。変わっていく。その確かな手応えのようなものを感じ取っていた。
大聖堂の中は、今頃おおわらわだ。ジージによって、原典と教典が違うことを告げられたからである。これからシニャとエルムントも忙しく働かなければならなくなるのは目に見えていた。その苦労は、きっと今までの比ではない。
「これで、俺の弟も浮かばれる」
ドーメウスが言った。
六人は彼に注目した。
「俺の弟は、魔人だったんだ。でも、俺にはとても邪悪には思えなかった。家族で匿っていたが、ある日誰かに密告されたんだ。そして、弟は処刑された……」
ドーメウスの告白にみなは悲しげに目を伏せる。
「墓は作ってもらえなかった。けど、これでうまくいけば、墓も作ってもらえるかも知れない。ちゃんと弔ってやれるんだ……ようやく……」
彼の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
その時、大きな喧騒の音が聞こえてきた。それはグラウ城の方向からだ。
金属と金属がぶつかり合う音や、爆発音に似た轟音が響く。戦闘の音だ。
いち早く反応したのはモルガノだった。彼女は血相を変えて、音がする方向を見つめている。そのおかしな様子に気がついたのはシニャであった。
「モルガノ様」
と、シニャは声を掛けた。振り向いたモルガノの顔色は不安で青白くなっている。そんな彼女に、シニャは書状を渡す。
「行ってください。カナルヤ様たちは、あなたの助けを欲しているはずです」
「なぜ、そのことを……」
「今はそのことを説明している暇はありません。これを持って、早く行ってください」
「ありがとう」
書状を受け取るやいなや、モルガノは駆け出した。身体を魔法で強化したその速度は、常人を圧倒している。
それは彼女が、帝国の魔法研究者であり、グルンガルが率いている魔法砲撃部隊隊長であることを如実に示していた。
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