百三 観光

 洞窟は鍾乳洞であった。石灰岩、あるいはそれによく似た性質の岩のつららが上から細く長く伸びている。自然が作り出した奇妙な景観の中を、五人はゆっくりと進んでいた。

 先頭はエルムント・ボルタレル。次にネルカと津村実花、最後尾はシニャと稔が続く。実花と稔が魔法を使えないから、ネルカとシニャが二人の足元も一緒に照らすためだ。

 実花は顔だけを動かして後ろを盗み見た。もしも指先に火を灯せたら、一緒に歩くのは私だったのに、そんなふうに思っている顔である。

 それにしても中はエルムントが言っていた通り、入り組んだ構造になっていて、道を知らなければすぐに迷ってしまうだろう。こんな場所で置き去りになったらと、嫌な妄想が実花の頭によぎり、思わずぞっとなった。こんな右も左も分からない場所で迷ってしまえば、絶対に出られない。実花は気を取り直して、エルムントの背中を見た。

「帝都にある大聖堂ミカルト。その名前の由来となった大賢者ミカルトは、悪しき魔人にそそのかされながらも身命を賭して信仰を守り切ったと伝えられています」

 エルムントは、道中の不安を和らげるためか、ぽつぽつと話し始めた。その伝説はもちろんシニャも知っている。だがその話は、外典に記されたものである。

 今のシニャにとっては、本当であるかどうかすら疑わしい伝説でしかない。それを今、彼らの前で話し始めた意図がシニャには分からなかった。とは言えエルムントがどのような話をするのか興味深くもある。

「シニャ様からお聞きしているかもしれませんが、我々が極秘裏に入手した原典には魔人が邪悪だとはどこにも書かれていませんでした。しかし、この伝説が書かれた外典には確かに悪しき魔人と書かれています。魔人にも善き魔人がいれば、悪しき魔人もいる。そう考えると、この外典に書かれた魔人は悪しき者であっても不思議ではありません。

 ミカルトがどのようにそそのかされ、どのように信仰を守ったのか。詳しくは書かれておりませんが、後になってから改変された可能性も捨て置けないでしょう。

 さて、この洞窟ですが、実は外典にはミカルトが洞窟を通って魔人の魔の手から逃げ出そうとする説話があります。未だに確かな証拠は発見されていませんが、ミカルトがこの洞窟を使ったのではないか、というのが今のところ最も有力な説です。なぜかと言えば、この洞窟は、大聖堂とつながっているからです」

「大聖堂?」稔が言葉を発した。「そこに俺たちを入れて大丈夫なんですか?」

「月明かりの足元は暗いのですよ。まさか魔人が大聖堂にいるとは、誰も思わないでしょう」

「大胆ですね。教会の方というのは、もっとお堅い人が多いのかと思っていました」

「その認識は間違っていませんよ。教典の内容を疑おうともしない人たちですから。私やシニャ様のような人は例外なんです」

「わ、私は、その、あなた方に出会えていなかったら……教典に疑いを持つことはできませんでしたから……」

 シニャは弱々しくエルムントとは違うと主張する。

「俺たちのせい、というわけですね」

 稔は軽い調子で指摘した。

「い、いえ、そうではなくて……私は感謝しているんです。あなた方に出会えなければ、私は本当に正しいことが分からないままでしたから」

「ふむ。どうですか、ミノル様。シニャ様はご存知の通りいい子です。ただ私個人としては、浮ついた話が一つもないのが気になっておりまして。ミノル様、どうでしょう。彼女と一緒になる気はございませんか?」

「……へ?」

「ちょ、ちょっと、エルムント様! 何を言って……」

「あの」実花が唐突に割って入って来た。「そういう話は私を通してからにしてくれませんと困るんですけど?」

 声にトゲがある。明らかに怒っていた。

「おや、これは失礼しました。シニャさん、これは難敵ですよ。がんばってください」

「わ、私はそんなつもり、ございませんからっ!」

 焦った様子のシニャ。

 稔は呆れたように実花に言う。

「いや、実花。なんでお前を通さないといけないんだ?」

「だってお兄ちゃん、女の人を見る目がないんだもの。私が許可した人じゃなきゃだめなんだからね?」

「実花……昔はそんなんじゃなかったよな?」

「ふんだ。何もかもお兄ちゃんが悪いの」

「そ、そうか……」

 そこは変わらないんだな、と稔は思った。


「そろそろです」

 と、エルムントは言った。

 言った通り少し進むと、エルムントの指先に灯った小さな火に照らされて、上へと伸びる木製の階段が闇の中から浮かび上がった。

 一段昇るたびにぎしりと軋む。誰かの息遣いが伝わってくる。聞こえてくる音はそれぐらいだった。誰も何も喋らない。緊張した空気を稔は感じた。

 進んだ先には大聖堂。もしも誰かに見つかれば、処刑は免れない。エルムントを信頼していないわけではないが、万が一という可能性は、否定することができないのだ。

「待ってください」

 エルムントは手の動作も加えて稔たちを止めた。

 頭上には木製の扉がある。エルムントは、持っていた鍵を鍵穴に差し込み、くるりと回して解錠した。続いて片手をあてがって持ち上げる。ぎぎ、と擦れる音がして、扉が上に向かって開いた。

 まずはエルムントが顔を出す。誰もいないことを確認して、上に上がった。

「大丈夫です。上がってください」

 小声で言うと、実花を先頭にそろそろと静かに出て来た。一番最後は稔だ。

 暗い。光源は未だに魔法を使える三人の指先に灯った火だけである。ほのかな光で照らされた部屋の中は、棚が所狭しと並んでいて、様々なものが詰め込まれている。壁や天井や床は、全て古びた石が積まれてできていた。

 物珍しそうに見回しているシニャ以外の三人を尻目に、エルムントは扉を閉めて鍵をかける。

「こちらです」

 それからエルムントは先導しはじめた。何も言わずに四人は追随する。

 倉庫を出て廊下へ。進んでいくと階段があった。黙々と二階分は昇ると、扉がある。大きくて立派で、左右非対称の扉だ。エルムントは何も言わずに開ける。

 稔たちは驚いた。

 どちらかといえば汚らしい空間から、真っ白な壁や天井の綺麗な空間に変わったからだ。壁には絵画が等間隔にかけられ、美しい彫刻も飾ってある。それらを立派な燭台のろうそくが照らしていた。

「行きましょう」

 何食わぬ顔でエルムントは促した。誰かに見つかって怪しまれるわけにはいかない。稔たちははっとして、エルムントの後を追う。

  途中シスターが通りがかった。緊張で身を固める稔と実花とネルカ。シスターはニーゼ教の作法に乗っ取った礼をし、エルムントとシニャも同じように返した。あとは特に不審がられることもなく、シスターは通り過ぎる。

 その後は特に誰かと出会さずに、大聖堂の外へ出た。稔たちが出て来た階層は地下だったのである。

 夜闇に包まれた帝都を歩く。案内された場所は五階建てのホテルだった。

「ここに部屋を取ってあります。滞在されている間はここを利用してください」

「ここですか? ですが俺たちにはお金が……」

「ご心配なく」エルムントは涼しげに笑う。「料金は私が持ちますから」

「しかし、こんな高そうなところ……」

「私は貴族です。多大な資産と地位を引き換えに、貴族というのは責務があります。お金を使い、経済を回していくのもその一つ。ですので、これは私の義務のようなもの。何も気にする必要はございません」

 義務などと言われれば流石に断りきれない。

「すみません、お言葉に甘えさせていただきます」

 ホテルの中に入る。受付でエルムントが話をつけると、数人の人が近づいて来た。彼らは荷物を預かると、稔たちを部屋へと案内する。

 着いた場所は最上階の五階。この階には部屋が二つあるだけだ。その一室が稔たちの部屋である。早速中に入ると、居間と寝室に分かれていた。居間にはテーブルや大きなソファやタンスなどの家具に、小さな台所も備え付けられ、寝室には広いダブルベッドが二台設置されている。

「申し訳ありません」とエルムント。「急な話であったため、他の部屋は全て予約で埋まっておりまして、一部屋しか取ることができませんでした。不都合があれば、後日他の部屋を探しますが、今日のところはこの部屋で我慢していただきます」

「こ、こんな立派な部屋、十分すぎます。ここで大丈夫です。ありがとうございます」

 稔が礼をすると、実花とネルカも頭を下げた。

「これは当面のお金です。どうぞお使いください」

 エルムントは修道服の袖口から小袋を取り出してテーブルの上に置いた。ジャラリと音が鳴ったそれは、袋いっぱいに硬貨が入っている。

「こ、こんな、頂けませんよ」

「これは魔人と人が交流するための、いわば投資のようなものです。どうかお気になさらずに。それでは私はこれで失礼いたします」

「何から何まで、本当にありがとうございました」

 そうして立ち去ろうとしたエルムントであったが、シニャは動く様子がなかった。

「シニャ様?」

「すみません、エルムント様。少し彼らと話をさせてください」

「もちろん、構いませんよ。なんならここに泊まって行きますか?」

「い、いいえ。話が終わり次第すぐに帰りますから。エルムント様は先に帰ってください」

「では、私は下で待っておりますね」

「それは悪いです」

「シニャ様のように若い女性を一人で歩かせるわけには行きません。ここは貴族街ではないのですから。私が大聖堂までお送りいたしますよ」

「すみません、ありがとうございます」

 エルムントは踵を返し、稔たちの部屋から出た。

「明日はどうなさるつもりですか?」

 稔たちと向き合ったシニャは、おもむろに尋ねた。

「明日は」稔は考える素振りを見せた。「帝都を見て回ろうと思います」

「帝都を?」

 シニャは彼らが早速ゴゾルを倒しにいくと思っていたから、その回答は意外だった。

「はい。俺はここに来るのが初めてですから。それに、シニャさんと初めて出会ったあの頃、目指していた場所はこの帝都でした。由梨江が見ることができなかった分、俺は見なければいけないんだと思います」

「お兄ちゃん……」

「それに、事が終われば、すぐにここを離れた方がいいでしょうしね。俺たちは、帝都に長くいるわけにはいけません。長くいればいるだけ、気づかれる可能性が高くなりますから」

「……分かりました。では明日は、私がこの帝都の案内をさせて頂いてもよろしいでしょうか?」

「それは助かりますが……。教会のお仕事の方は大丈夫なんですか?」

「エルムント様に頼んでみます。きっと許されると思います」

 稔は実花とネルカを見た。

「私は大丈夫だよ、お兄ちゃん。メメルカさんの屋敷にいた頃は、移動の自由がなかったから、私も一度ゆっくり帝都を見て回りたかったから」

「私も賛成です。本来なら私が案内をしたいところですが、この帝都には、私のことを見知っている方がそれなりにいますからあまり目立つ行動はしない方がいいでしょうし、教会のシスターであれば誰も怪しむことはないはずです」

「……では、シニャさん。お願いします」

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

 シニャは優しく微笑んだ。


 シニャは部屋から出て行った。

 旅の疲れが溜まっていたこともあり、三人はすぐに眠ることにした。差しあたっての問題は、誰がベッドで寝るのかである。

「俺はこのソファで寝るよ。ベッドは二人で使ってくれ」

「それはだめだよ、お兄ちゃん」

「そうですよ、ミノル様。ソファで眠るのは私ですから」

「いや、ネルカさんをソファで寝させるわけにはいかないよ」

「そうだよ、ネルカさん。このベッドは大きいから、お兄ちゃんは私と一緒に寝ればいいの」

「いや、実花。お前日本じゃもう中学生だろ。それはどうなんだ?」

「ここは日本じゃないからいいの」

「いいのって……お前なあ」

「あんなソファじゃ、お兄ちゃん疲れ取れないでしょ。ネルカさんと一緒にお兄ちゃんが寝るのは問題だし、やっぱりここはお兄ちゃんと私が一緒に寝るのが一番なの。なんて言ったて、家族なんだし」

「あんなっていうけどな。マ国のベッドはあんなソファよりもお粗末だったぞ」

「え? お兄ちゃんって王様だったんだよね」

「一応な。でも文化の水準自体が随分と低かったからなあ。俺がマ王になった時は、お忍びで偶に来る帝国の商人と取引して、少しはよくなったけど、それでもあのソファの方がよほど上等だよ」

「だったらなおさらお兄ちゃんはベッドで寝るべきだよ」

「それに女の子が寝てる部屋で男の俺も寝るのは色々とまずいだろ?」

 と、稔はネルカをちらりと見る。

 ネルカは微笑した。

「私は構いませんよ」

「え?」

「へ?」

「ミノル様がそういうことを決してなさらない方なのは分かっていますから」

「あ、そういう……」

 意味だったんだ、と実花はなぜだか胸を撫で下す。

「けどなあ、万が一ということもありますよね? ネルカさん」

「ミノル様にその気があれば、旅の最中にそういう自体が起きていたはずでしょう? それにミカ様が一緒に寝られているのに、そんなことをすればどうなるのか。ミノル様ならば私よりも分かっておられるでしょうに」

「う……」

 稔は思わず想像してしまった。ネルカに手を出してしまい、実花にぼこぼこに蹴られる未来を。

「な、なら、実花とネルカさんが一緒に寝ればいいじゃないか」

「申し訳ありません」と即座に謝るネルカ。「恥ずかしながら私は寝相が良くありません。ミカ様の睡眠を邪魔してしまいます。ですので、ここはお二人が一緒に寝られるのが最良かと」

 明らかな嘘である。が、ネルカの目は有無を言わさない。稔は何か言おうと思ったが、言葉が出てこなかった。

「お兄ちゃん、他に反論ある?」

「……ありません」

 そうして稔は実花と一緒に寝ることになってしまったのである。

 なお、実花はやけに嬉しそうであった。



 鳥の鳴き声が聞こえてきた。

 稔は左半身に重みと暖かな温もりを感じて、目が覚めた。視線をやると、実花のいかにも気持ちよさそうな寝顔があった。彼女は稔の体を抱き枕がわりに使って眠っていたのだ。

 それにしてもよく眠っている。過酷な戦闘と長い旅を経てかなりの疲れが溜まっていたのだろう。

 ここは寝かしておこう、と考えて、稔は実花の寝顔をなんとなしに見つめる。

 今は赤髪のカツラをとって眠っている彼女の顔は、小学生の頃のそれとはもちろん変わってしまっている。より成長した顔になったと言えばそうだろう。だけどそこに厳しさが入り込んでいるのは、メルセルウストでの生活のせいに他ならない。

 しかしそれは稔も同じだ。いや、それ以上に酷い。そういう自覚が稔にはあった。

「……ミノル様、おはようございます」

 ふと控えめな声がかけられた。視線を上げるとネルカが立っている。挨拶を返そうとしたが、ネルカは人差し指を立てて口元に当てた。実花が起きてしまうから静かに、と言っているのだろう。稔はこくりと頷いた。

 ネルカは返事をするかのように微笑して、居間へと向かった。

 それから少しして、実花のまぶたがゆっくりと開かれた。この世界では、稔と実花しか持っていないであろう黒い瞳の視線が合った。

「……あ」

 小さく開かれた口から、声が出た。それから実花は嬉しそうに破顔した。

「おはよう、お兄ちゃん」

「ああ、おはよう、実花」


 ホテルが用意した朝食を食べると、身支度を整えて三人は外に出た。すでにシニャが入り口の前で待っている。

「すみません、待たせてしまって」

 稔が謝ると、シニャはなんでもないと笑みを浮かべながら首を横に振った。

「長旅で疲れていたのですから、無理もありません。それよりもよく休めましたか?」

「はい、それはもう」

「それはよかったです。では、早速行きましょうか」

「はい」

 シニャの先導で帝都を観光する。美しい街並みだった。人々も活気付いている。

 稔はふと、店の軒先に飾られた巻物を見て目を剥いた。

「……ツムラミカ英雄譚……?」

「あ、それは……」

 と、実花は何やら恥ずかしそうな顔をした。

「これ、実花のことか」

「あー、うん。そうなんだよね」

「よし、買おう」

「え? いや、ちょっと待って」

 実花の静止も聞かずに稔は中に入っていくと、ツムラミカ英雄譚を全巻手に取った。

「……さ、三巻目も出ていたの……?」

 驚愕と共に実花は呟いた。

「はい。今帝都で最も売れている巻物ですよ」

 とシニャは説明する。

 早速購入した稔は、ホクホク顔で店を出た。

「ミノル様、お願いがあります」

 とネルカが切羽詰まった顔で頼んできた。

「なんでしょうか?」

「ミノル様がお読みになった後でよろしいので、その巻物を私にもお貸しください」

「もちろん、いいですよ」

「ね、ネルカさんまでー」

 そのあとも観光は続く。店を廻り、昼食を食べて、グラウ城の城門前まで行った。その大きさと美しさに、稔は驚いていた。

 そうして、ぶらぶらとしながらホテルへの帰路を歩いていると、二人の男が通りかかった。

 稔ははっとした。

 思わず、

「グリアノスさん」

 と、声をかけてしまったのである。

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