九十二 もう手に入らない
静かだった。
時折、風に揺れて木々がささやき、獣の遠吠えが聞こえてくる。虫のチーチーという鳴き声が耳に心地い。こんなにも穏やかな夜を過ごせるのは、一体いつぶりだろう。
津村実花は背中に稔の体温を感じながら横になっていた。今二人は、背中合わせになって寝転んでいるのだ。
ネルカは大きな葉っぱを幾重にも重ね合わせて作った簡素な幕の向こう側で眠っている。本当なら、実花はネルカの隣で寝ることになっていた。だけど、実花は兄の隣で寝たいと我が儘を言ったのである。こんな要求は、日本にいた頃は決してしなかった。したいとも思わなかった。だけど今稔と離れてしまったら、またどこか遠い所に行ってしまう気がして、実花はどうしようもない不安に駆られたのである。
いざやってみると、これが不思議なぐらい安心する。それはやっぱり、すぐ後ろに稔がいるからなのだろう。メメルカの別邸で一人で寝ていた頃とは全く違っていた。
そうして目を瞑り、微睡んでいると、不意に稔が動いて背中が寂しくなった。
どうしたんだろう。トイレだろうか。あるいはやはりどこかに行ってしまうんじゃないか。
実花は稔の背中を目で追った。すると彼は、真っ直ぐに焚き火のそばに行って腰掛けたのだ。
そういえば、誰が見張りをするのか全く決めていなかった。どうやら稔は最初からああするつもりでいたに違いない。そのことに怒りたくなるけれど、稔らしいといえば稔らしい。
実花は音を立てないように気をつけながら、稔の背中に近寄っていった。
幸いにも稔は、実花が後ろにいることに気づいていない。
じっと火を見つめている稔の背中を、なんとなく見た。
ローブに覆われているその背中は、記憶にあるよりも大きくて広く感じる。そうしてあの頃にはなかった角が、暗闇とローブでよく見えないけれど、たくさん生えている。
ゴゾルによって召喚されたのだ。あの思い出すだけで吐き気を催すような手術を、稔も受けたのだろう。そのせいで体に角が埋め込まれてしまったに違いない。
実花は両手を伸ばして、後ろから稔の目を塞いだ。
「だーれだ」
日本で行われる古典的で定番ないたずら。稔が、ふっと笑った気がして、それだけでした価値があると実花は思う。
「……実花しかいないだろ」
「うん……」
言いながら、背後から一度抱きつく。稔の角が体に当たる。変貌してしまった彼の体は、やはりそれだけでとても悲しい。
「なんだよ。眠れないのか?」
「んー、そうじゃないんだけど、少しお話がしたくて」
離れると、稔のすぐ隣に座り、体を傾けて稔に体重を預けた。
実花は、自分も変わってしまったなあ、と心の中で呟いた。日本にいた頃は、こんな風にあからさまに甘えることはなかった。でも今は、少しでも長く稔と一緒にいたいし、稔と接していたかった。当時の自分が今の自分を見たら、きっとすんごく恥ずかしがるだろう。
「……俺がいなくなった後、みんな元気にしていたか?」
「……そんなわけないじゃん。みんな、心配したよ。行方不明扱いになってさ、放課後にみんなで駅前に集まって、ビラを配ったんだよ。お兄ちゃんを見た人はいませんかって」
「そうか……」
と稔は呟きながら、それ以上は何も言えなかった。どれだけ稔を探しても、地球にいる限り徒労に終わるしかない。そのことを指摘したくても、何もできない現実が重くのしかかる。
「私もね、ちゃんと説明したんだよ。見たままをありのまま。……だけど、信じてくれなかった。幻覚を見たんだろうって、みんなに思われちゃった」
「うん」
「私、すごく寂しかった。苦しかった。恐かった」
実花は当時のことを思い出して、涙を流す。体は小刻みに震えていて、それはきっと稔にも伝わっているはずで。だからなんとかして止めようと思ったけれど、実花の体は震え続けた。
「ごめんな」
と、稔は実花の頭を優しく撫でた。
「お兄ちゃんのせいじゃ、ないじゃない」
「うん、そうだよな。でも、ごめんな」
稔はしばらく撫で続けてくれた。実花はこのぬくもりをもう二度と失いたく無いと感じた。
それからややあってから、稔が穏やかな声で尋ねる。
「……雫はさ、どうしてた?」
ついに来た、と実花は思った。いつか聞かれるだろうと思っていた質問だった。
ゆらゆら揺れる火を見つめながら、一体どう答えたらいいんだろうかと逡巡する。質問を予想していながら、どう答えればいいのか未だに分からなかった。
「……雫さんたちがね、ビラを配ろうって提案したんだ」
「へえ、そうなんだ」
と驚く稔の顔を、実花は直視する気になれない。
「人も雫さんたちがたくさん集めてきてね、すごく必死に配っていたよ……。私は、あれを見ていたから、とてもそんな気になれなかったけど」
「うん」
「さすがに月日が経ったら、協力してくれる人は少なくなっちゃったけど、お母さんや雫さんたちは急用が起きない限りは毎回参加してたんだ。でもね……雫さんとお兄ちゃんの男友達は、東京の大学に行っちゃってね、それからはさすがにあまり参加できなくなちゃったんだ」
結局実花は、その男友達と雫が一年も経たないうちに付き合うようになったことは言わなかった。二人が仲の良い様子でキスをしている所を見たことも、言えるわけがないのだ。
けれど稔は、実花がぼかした言葉から何か感じ取ったようだった。
「そっか。俺はね、雫が幸せでいてくれるなら、それでいいんだ」
「……お兄ちゃんは、優しすぎるよ」
「けどな、実花。俺はもう雫を幸せにしてあげることはできないんだよ」
「やっぱり、元の世界にはもう戻れないの?」
「俺は召喚魔法を使えるのはゴゾルしか知らない。瞬間移動もね。魔人にもそういうのはいなかった。可能性があるのはゴゾルだけだ。けどあいつが元の世界に帰してくれると思うか?」
実花は無言で首を横に振った。あの人を人だとは思っていない目つき。思い出すだけで怖気が走る。
「それに俺は、もう帰る気はないんだよ。俺の体のこと、分かるだろ。この体のまま帰れば、どうなるのか分かったものじゃない。でも、実花、お前は別だ。俺がゴゾルを脅すなりなんなりして、お前を日本に帰してみせる。幸い、実花は外見はそのままみたいだからね」
「……それだと、お兄ちゃんはこの世界で一人だけになっちゃうじゃない……」
「構わない。それよりも、お前はまだ幸せになれる。こんな所にいたら駄目だ」
「お兄ちゃんは? お兄ちゃんの幸せはどうなるの?」
「俺はもういいんだよ。俺の幸せは、あの時に戻らない限り手に入らないんだから」
稔の言葉を聞いて、実花はとても悲しかった。同時にとても怒っていた。
確かに、あの賑やかで、幸福で、穏やかな日々はもう手に入らない。お兄ちゃんがいなくなった時点で、同じ幸せは消えてなくなった。それは確かだった。
それでも人は、幸せを追求するべきだと実花は考える。少なくともお兄ちゃんが幸せになれないだなんて、そんなのは嫌だった。
もちろん、幸せになりたくてもなれない人がたくさんいるのは分かる。途中で諦めた人が大勢いることも。
これは個人的な感情で、思想だ。だけど実花は、幸せを諦めることはとても悲しいことだと思う。
「お兄ちゃん!」
実花は唐突に大声を出した。稔が驚いた顔をしているけれど、そんなのは知ったことじゃなかった。実花は感情のまま、溢れる想いを口に出す。
「私の幸せは、お兄ちゃんがいない世界じゃ手に入らないの! 私の幸せを勝手に決めないで! 自分の幸せを諦めないで! ……そんなの、悲しすぎるよ……」
実花はむせび泣く。兄にすがりながら。兄に怒りながら。兄に悲しみながら。
「ごめんな」
稔は謝りながら実花の頭を撫でる。
こんなのは卑怯だ。ごまかしだ。実花は稔の手を取った。涙で潤んだ目で稔を見上げる。
お兄ちゃんと目が合った。
「教えてよ。お兄ちゃんがこの世界に来てからのこと。何が起きて、どうしてお兄ちゃんがあんなに憎むようになったのか」
「……後悔するかも、しれないぞ」
「そうかもしれない。でも、私知りたいの。どうしてお兄ちゃんがこうなったのかを」
意を決して、稔は話し始めた。
ゴゾルのこと、喜多村由梨江のこと、岩窟での出来事、脱出してからのこと。由梨江が殺されたことも、ドグラガ大陸に渡りマ国を建国したことも。
実花はたくさんの涙を流しながら、一言も聞き逃すことなく聞いたのだった。
ネルカは起きていた。話し声で思わず起きてしまったのである。
静かな夜の中、あの兄妹の話はよく聞こえてきた。好奇心がないといえば嘘になる。聞き耳を立てることに罪悪感を覚えながら、ネルカは息を潜めて聞いた。
だけど彼らが話している言葉は日本語で、何を言っているのかよく分からない。二人はやはり想像できないぐらい遠い世界の人間なのだと思うと、寂しさも覚える。
ただ言葉が分からなくとも、彼らの悲しみは存分に伝わってくる。彼の怒りも感じてしまう。
力になりたいとネルカは真剣に思う。
そして朝が来た。
目を覚ましたネルカは、起き上がり、簡素なテントの外を見る。兄妹が座りながら互いの体を預けている姿が、木々の隙間から漏れた朝日に照らされていた。
そっと近寄ってみると、焚き火の火が燻っている前で、二人は寝息を立てて眠っていた。信頼し合っているのか、二人ともとても安らかな顔をしている。
その微笑ましい光景に思わず頬が緩んだネルカは、対面に座ると、音を立てないように気をつけなら、焚き火に枝を差し込んで再び火を入れた。
後少ししたら朝食の準備をしよう。だけどその前に、しばらく二人の顔を眺めていることにしたネルカであった。
帝都グラウはその日、月のない夜であった。
男性であっても出歩くのを躊躇するほどの暗さの中、シニャは魔法で指先に火を灯し、その明かりを頼りに歩いている。
このような時間に帝都を歩くのは初めてで、周囲を警戒しながら道を進んでいた。
もちろん事情がある。エルムント・ボルタレル司祭に、呼び出されたからである。
大聖堂から程近い貴族街に、指示された場所があるのは幸いだったと言えるかもしれない。貴族街であれば治安が良いからだ。これがもしもスラム街であったなら、今頃はすでに飢えた浮浪者に襲われていたであろう。
呼び出された理由は聞かされていない。だがエルムント司祭がわざわざこのような時間に呼び出したのだ。その事情から鑑みれば、経典の原典関連なのは間違い無いだろう。
そうして、シニャは言われた場所に辿り着いた。
貴族の家としてはやや小ぶりである。無論それでも庶民から見れば十分すぎるほど大きいその建物は、片側が大きく、もう片方がそれよりも少し小さいという左右非対称のデザイン。それは神が住う二つの月を表現した教会の建築様式と同じであった。
さすが司祭、とシニャは驚く。この建築デザインは、通常の物よりも値が張るのが常識だった。小さくしてでもこの様式にしたのは、神の忠実な信徒である証。だからこそエルムントは、神の本当の教えがねじ曲がっている可能性を見過ごせないに違いない。
門前に目を向けると、夜に溶け込むように目立たない男がいた。
「……真実は?」
男は、ぼそりと問いかけた。
「……月の中に」
「偽りは」
「人の心の内に」
エルムントに教えられた通りにシニャが答えると、男は何も言わずに門を開けて、手で入るように促してきた。
シニャは恐る恐る敷地内に踏み込む。
庭は暗闇に沈み込んでよく見えない。けれど甘い香りが鼻をくすぐって、一杯の花壇が広がっていることを安易に想像させた。事実指先の火で横を照らすと、赤い花が見える。昼間の明るい時刻に見れば、さぞかし美しい姿を堪能できるに違いない。
それを少し残念に思いながら歩を進めて、邸宅の扉に手をかけた。
ここがきっと、後戻りできる最後の機会だ。不意にシニャはそう直感した。今ここで後戻りをしても、エルムントはきっと何も言わないでくれるだろう。だけど中に入れば、もう絶対に引き返せない。結果がどうなるのか分からないけれど、どこかに行き着くまで止まることは不可能だ。
怖さは感じる。不安もある。もしかしたら、何も変わらないかもしれない。日の当たる場所を歩けなくなるかもしれない。
それでも、シニャは扉に力を込めて、開けた。
今度はメイドがいる。
「こちらです」
と彼女は言って、シニャを導く。
階段を降りて地下室の扉をメイドは静かに開けた。
「お入りください」
シニャは緊張していることを自覚しながら、中に踏み入る。
石を積み上げて作られたその部屋は、元々は別の部屋だったのか少しかび臭い。部屋の中央には四角いテーブルが設置されており、それを囲うように六人の男女が待ち構えていた。当然、エルムント司祭もそこにいる。
メイドが外から扉を閉めた。ばたん、という音が部屋の中で響く。
「 総勢七名。我ら原典派にようこそ」
エルムントは、にこりと笑ってシニャを迎えた。
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