九十三 戦勝報告

 清々しい朝だった。鳥の鳴き声が静かに響き、冷たい空気が肌を撫でる。地面に落ちた木漏れ日で、木々や草にかかった朝露が煌めいていた。

 ネルカが昨日取ってきてくれた木の実の残りを朝食代わりに食べた後で、津村稔たちは簡易的なテントを取り壊していく。ここにいた痕跡をできるだけ消しておきたかったのだ。

 それが終わった後、ネルカはツインテールの髪を解いて、実花と向きあった。その表情は真剣で、思わず実花は身構えてしまう。

「ミカ様。剣をお貸しください」

 と、思わぬ要求がネルカの口から出た。

「いいけど……何に使うの?」

 嫌な予感がしたけれど、実花は剣を引き抜いて渡す。

「ありがとうございます」

 丁重に受け取ったネルカは、礼だけ言って剣を自分の後ろ髪に当てた。

「あ」

 驚きの声を上げた実花に構わずに、ネルカはそのまま自分の髪を切った。切られた青い髪が風に乗ってふわりと舞い散る。稔も声こそ出さなかったが、驚いて目を丸くしていた。

 ネルカの髪は肩の上までの長さになった。

「ね、ネルカさん。いいの? せっかく綺麗だったのに」

「いいんです」と微笑んだネルカの顔は、どこかすっきりしている。「どうせメメルカ様に言われたまま伸ばした髪です。大した思い入れはないんですよ。それに長旅の邪魔になりますから」

 きょとんとしている実花と稔がなんだかおかしくて、ネルカは口元に手を当ててくすくす笑う。

「似合っていませんか?」

「ううん」実花は慌てて首を振った。「そんなことないよ! とても似合ってるよ。ね、お兄ちゃん」

「うん、似合ってますよ」

「ありがとうございます」

 ネルカははにかんで笑った。

「あ、そうそう」稔は言う。「ネルカさんの故郷はどこですか。まずはそこに向かおうと思うんです」

「……私が、最初ですか?」

「もちろん」

 稔は柔和な笑みを浮かべた。隣にいる実花も、当然とばかりに頷いている。

 ネルカは一瞬躊躇しながらも、場所の説明を始めた。




 帝都グラウに戻ったメメルカ・ノスト・アスセラスがまず最初にしたことは、反乱軍を討伐した話を噂話として流布することだった。

 民に不安を与えずに反乱軍を倒す話は、先代に勝るとも劣らない力をメメルカも有していることを印象付け、魔人への恐怖を抱いている彼らを安心させる材料にもなった。またメメルカをよく思っていない一部の者たちは、反乱を起こせば氷漬けにされる恐怖を植え付けることに成功する。

 あとは実花の帰りを待つだけだ。しかし帰ってから幾日も経過した今も戻ってこない現状は、さすがにおかしく思わざる得ない。

 そこでメメルカは調査員を送った。

 調査員と入れ違いとなって実花たちが帰ってくれればそれで良い。だがさらに数日経った後に、調査員だけが帰ってきた。

「サガラック砦が崩落しており、魔人の死体に混じって、レゾッテ、ゴーガ、キルベルの死体を確認しました。またツムラミカ様、お付きのメイドの死体らしきものも見つけましました」

 玉座に腰掛けて話を聞いたメメルカは、眉をひそめた。

「らしきもの?」

「砦の崩落に巻き込まれたらしく、死体の損傷が激しく、判別が不可能でした。ただ、衣服も損壊が酷かったものの、ツムラミカ様がいつも着ている服と、メイド服であることを確認できました。それにより、このお二人も死亡しているものだと思われます」

 居合わせた貴族たちがざわつく。これでは魔人に敗北したと言っているようではないか。

「……マ王は確認できましたか?」

 英雄が死んだことも、親衛隊が死んだと伝えられても、メメルカの声は冷たく美しい平素のままだ。さざ波でさえ少しも起きていない。

「それらしきローブと仮面は見受けられましたが、ご承知の通りマ王の顔を誰も知りません。ですので、マ王が死亡しているかどうかは……。ただ、魔人の集団が港町ギガルから船に乗って出ていくところが目撃されていました」

「つまり、彼らは帝国から逃げたと。そう言うわけですか?」

「は、恐らくは」

 メメルカは顎に手を添えて思案する。

「マ王が存命ならばまず間違いなく帝国に留まり、帝都を狙うはず。となれば、やはりマ王はツムラミカ様と相討ちになった可能性が高い」

 貴族たちの間からまたもざわめきが起きた。メメルカはその様子を一瞥する。女帝と同じ見解を貴族たちも抱いているようだ。

「決まり、ですわね。マ軍は我らが英雄と、彼女たちが率いる遊撃部隊がその命と引き換えに撃退した。早速民に知らせる必要があります。急ぎ準備を」


 城門前の広場で早急に舞台が整えられていく中、変装したメメルカはたった一人でスラム街から近いところにある三階建の住宅の前に立っていた。その落書きが施されたぼろぼろな建物にはエフス・ドフトルが住む家がある。

 このような場所に女帝が足を運ぶとは誰も夢にも思わないだろう。それを考慮しても、一人も護衛をつけないのは、酔狂としか言いようがない。もちろん先の戦いで見せた通り、その辺の男程度では自身を害せないという自信の現れとも言えるが。

 かくしてメメルカは、そのいかにも汚らしい建物に踏み入った。向かうは三階の角の部屋。そこにエフスが住んでいる。

 扉を二度、三度、と叩く。返事はない。生前のキルベルから聞いた通りだ。メメルカは扉を開けた。

 埃っぽい空気にカビ臭い匂い。山のように積まれた紙の束のおかげで足の踏み場はほとんどない。けれどメメルカは顔をしかめることなく扉を閉めた。

「エフス様。いらっしゃるのでしょう」

 やはり返事はない。これもキルベルから聞いていた通り。メメルカは奥へと進むと、机の前にかじりつくように書き物をしている痩せた初老の男性の背中が見えた。エフスである。

「エフス様」

 声をもう一度掛けると、今度こそエフスは面倒そうに振り返った。しかしメメルカの姿を目にした途端、驚きで目が丸くなり、勢いよく立ち上がる。

「こ、これはメメルカ様。このような場所においでなさらずとも、使いを出していただければこちらから参上いたしますのに」

「それには及びませんわ」エフスの挙動がおかしくて、くすくすと笑いながらメメルカは言う。「一度お噂のエフス様の家にお邪魔したく思っておりましたから。今回は良い機会でした。それにしても、お噂の通り本当に紙ばかりなのですね」

「お見苦しいかぎりで」

「いいえ、素晴らしいと思いますわ。これほどまで研究を重ねていらっしゃるからこそ、エフス様の文筆は冴え渡っているのでしょう」

「もったいなきお言葉です。して、メメルカ様がこのようなところまで来た用は一体なんなのでしょうか」

「実は……キルベル様が死にました」

「なんとっ」

「彼だけではありません。ツムラミカ様も、ゴーガ様も、レゾッテ様も、私のメイドも魔人によって殺されました。多数の魔人と、マ王ツァルケェルの命と引き換えに」

「ぬう。それは残念です。戦った者から話を聞けぬとは。話のリアリティーに支障が出ますな」

「さすがですね、エフス様」

「はて、どういう意味ですかな」

「悲しむよりも、自らの作品を出来を優先する。私が見込んだ通りです」

「いえ、もちろん悲しんでおりますとも。英雄譚は次の話で終わりなのが確定してしまいましたからね。実に悲しい」

 演劇的な所作でエフスは悲しむ。本気には見えないし、そもそも人の死に対して悲しみを表明しているわけでもない。メメルカは微かに笑う。

「そう言うところを、私は気に入っているのですよ」

「それは光栄の極みでございます」

 エフスは大袈裟な身振りで礼をして見せた。

「それで大丈夫なのでしょうか。具体的な話を聞かずとも、物語を書けるものなのですか?」

「話を聞いた方が書きやすいのは確か。しかし心配はご無用。私の手にかかれば、些末なことから壮大なお話へと膨らませることなど造作もないことです」

「それを聞いて安心しました。さて、現場の状況なのですが、サガラック砦が崩落し、百近い魔人の遺体があったそうです。ツムラミカ様とメイドは砦の崩落に巻き込まれたらしく、死体は判別がつかないほどの状態で、衣服から身元を判断したとのこと」

「……なるほどなるほど。それは、良い! 実に良いですなあ。インスピレーションが湧いてきました。早速執筆を始めたく思います」

「では邪魔にならぬように私は城に戻りますわ」

「大したおもてなしもできませんで、申し開きもございません」

「いいえ、気にしなくても構いません。それよりも最終巻、期待しておりますわ」

「ははっ! 我が生涯をかけて培ってきた全ての技術で以て、執筆に当たらせていただきます」

「ふふ、それでは次は完成した暁にでも」

「ははっ!」


 翌日を迎え、黒いドレスを着たメメルカは城門前の広場に設置された舞台の裏で待機していた。

 帝都中の民たちが集まっているようで、広場はざわざわした声で騒がしい。

 そろそろいいだろう。メメルカは壇上に立った。

 憂いを秘めた顔で民衆を見渡す。女帝の様子がおかしいことに彼らは気づく。ざわめきは、凪のように止まった。

「……みなさんに、良い報告と悪い報告をしなければいけません」

 拡声魔法を使って出した声は、美しくも悲しみを帯びている。群衆は固唾を飲んで見守っている。

「まずは、よい報告を。マ王は倒されました。生き残った魔人たちもドグラガ大陸に帰りました。我々は勝利したのです」

 おお、という僅かな声が上がった。だがそれも、メメルカの目の端から流れた雫がかき消した。それは魔法で生み出した涙。しかし群衆は気づかない。気づけるわけがない。表情も声も完璧な演技であったのだから。

「悪い報告は、ツムラミカ様と仲間たちの命と引き換えにそれを成し遂げたという事実です。そう、彼らは自分たちの命を代償に、邪悪なマ国軍を退けたのです」

 群集の中から悲しむ声が出た。愕然と壇上を見つめている者もいる。みなが衝撃を受けていた。

「彼女こそが。……いいえ、彼女たちこそが、真の英雄でした。文字通り自分たちの命ですらいとわずに、ただ我らが帝国を守るためにその身を犠牲にした。私は今、自分の力の至らなさを痛感しております。もし、もっと私に力があれば、彼女たちが犠牲になることはなかったはずなのに!」

 擁護する声が眼下から湧いた。反乱軍と戦っていたのだから仕方がない。そういう意味の声だった。噂がきちんと広がっている証拠であった。

「今、おっしゃられた通り、私は反乱軍と戦い撃退しました」あっさりと噂を肯定するメメルカ。「しかし反乱軍を出させてしまったのは、全て私が至らなかったせいです。私が頼りないと感じた者が反旗を翻したのです。私にもっと力さえあれば、そのようなことにはならなかったでしょう。私はそれが、悔しいのです」

 メメルカ様、と同情する声がした。民衆は涙を流している。

 メメルカは顔を上げた。頬についた水滴を拭う。視線は真っ直ぐに遥か彼方。

「魔人の脅威は、一時的に回避されただけに過ぎません。マ王は死にましたが、次のマ王が出てくるのは時間の問題です。その時我らが帝国が、再び狙われる可能性は高いでしょう。先王と、それから最も若い英雄の死をいつまでも悲しんでいる暇はないのです。我々は前を向かなければいけません。前へと進まなければならないのです。それが帝国を守るために死んでいった英雄たちに報いる唯一無二の方法です。今こそ我々はより一層一丸となり、さらなる発展を目指すべきなのです」

 メメルカは右手を振り上げた。腹の底から声を振り絞る。

「グラウノスト帝国に、栄光あれ!」

「栄光あれ!!!」

 メメルカに追随するように、民衆は右手を上げて復唱した。帝都中の民が、声を上げていた。

「栄光あれ! 栄光あれ! 栄光あれ!」

 戦死した友を想いながら叫ぶ者がいる。父親を戦争で亡くした子供が、形見の剣を握り締めて力一杯吠えている。恋人を魔人に殺された若者が、泣き叫びながら声を張り上げている。


 そうした光景を、冷ややかな視線で見つめているのがたった一人だけいた。

 カナルヤ・レイである。

 彼女は唇を噛んでいた。血が滲んでいる。

 無理やりにでも、ツムラミカたちについて行くべきだったと悔いていた。

 そうすればきっと、やたら若い命を散らすことはなかった。娘のように育てた弟子を失うこともなかった。

「お前のせいではない」

 後ろから声を掛けられる。振り返らずとも誰かは分かる。グルンガル・ドルガだ。

「……分かっているわよ、そんなこと」

 けれどメメルカと共に反乱軍と戦わずとも、帝国軍なら間違いなく勝てた。自分はただ、反乱軍を圧倒するために参加させれただけにすぎない。メメルカが女帝であることに不満を持つ者たちを黙らせるための一押しのために。ただそれだけのために。

 少女の死も、自分の父親の死すらも、民衆からの強固な支持を得るために利用するメメルカ。あの演説の全てが、計算された演出と、舞台役者並の演技で行われたのは間違いがないと言う確信。合いの手を入れた者の中に、さくらがいてもおかしくはないだろう。

 カナルヤの視線は、美しくも空虚な笑みを浮かべるメメルカから外れない。

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