九十一 ネルカの選択
日が暮れ始めていた。
ツァルケェルから頼まれた仕事を終えたガーガベルトは、ペルとメル、それから生き残った魔人たちを連れて崩壊したサガラック砦から出て行った。
彼らの顔色は悪い。これからドグラガ大陸に帰り、待っている仲間たちに負けたことを告げなけれならないからだった。
そうして、砦があった場所は物言わぬ瓦礫が積もっているだけで、他には誰もいなくなった。はずだ。
しかし静寂に満たされたはずなのに、薄気味悪い笑い声がどこからともなく響き渡る。
瓦礫の上に、奇妙な変化が現れた。何もないはずの空間に人の形が浮かび上がったのである。それは徐々に色濃くなっていき、ついには一人の男が出現した。
痩せこけてドクロのような顔つきの男である。名前はゴゾル。彼は薄気味悪く笑っていた。
「くくく。面白い。面白いぞ。まさかあの時のモルモットがこの大陸に戻ってくるとはな。しかも、たくさんの実験体を用意してくれた。これは感謝しなければな」
ゴゾルは独り言を呟きながら、嬉々として魔人の死体を物色し始めた。
夕焼けに染まりながら行われるその光景は、ひどく異様であった。
津村稔たち三人は、あれから帝都の方角へ進んだ。
ネルカからの返事は未だ聞けていない。どちらにしろゴゾルの居場所がよく分からないため、情報収集の都合もあって帝都方面へ行く方が都合がいいのである。
太陽が沈みつつある中、稔たちはキャンプを行う必要があった。けれどテントは当然のことながら持っていない。そこで稔は、木と枝と大きな葉を使って即席のテントを作り始めた。
これに驚いたのは実花である。稔がそのようなサバイバル技術を持っているだなんて、日本にいた頃には考えられなかった。
「ん? ああ、これはドグラガ大陸にいた頃に教えてもらったんだよ。魔人にね」
こともなく稔は言い、実花はあの頃の兄とは全く違うことを改めて思い知らされた。即席のテントを覚えなければならいほど、向こうの大陸でも大変な苦労をしたに違いない。それこそ実花の想像では全く及ばないぐらいには。
もちろん実花だって苦労はしてきた。お兄ちゃんに会えないことはつらかった。眠れなくなるぐらい不安になることも多かった。したくもない戦争に参加させられて、殺したくもないのにたくさんの魔人と命がけで戦った。けれどおいしい食事も立派な寝床もあったし、旅もしたが大きくて立派なテントを使用していた。対して稔は自分のことなんて話にならないぐらいの大変さだったのだろう、そう実花は思った。
「お兄ちゃん、私も手伝うよ」
「本当か? それは助かる。ありがとう」
稔は実花に、剣で枝を切るように頼んだ。
たくさんの魔人の血を吸ってきた剣を引き抜く。もちろんそれは枝を切るために作られたものじゃない。魔人を斬るために作られたものだ。その違いがなんだが可笑しくて、実花は僅かに笑んだ。
「どうした?」
「……ううん。なんでもない」
二人が即席のテントを建てている間に、ネルカは食事の準備をしている。と言っても、半ば慌てて出てきたがために、調理器具も材料も馬車から持ち出すことができなかった。
そういうわけでとりあえず食材を探しにその辺りを散策することにしたのである。
あまり離れすぎると魔力避けの効果が効かなくなるから、近場で見つけなければならない。けれど幸いにもこの付近の森はとても豊かだ。
枝を踏みしめながら歩き、木の実や食べられるきのこを採集していると、スラムに住んでいた頃のことをつい思い出してしまう。
あの頃は食べ物に困ると、弟と一緒に食材を探しに近場の森へ入っていった。やんちゃする弟の面倒を見るのは大変だったけれど、今思えばそれも大切な思い出の一つだ。
目の端に稔と実花が仲良く作業をしているのが写った。なんの気兼ねもなく笑っている実花の姿を見ているだけで、ネルカは嬉しく思う。その反面、羨ましく感じる心があることにネルカは気づいた。
実花は自分たちと一緒に来て、家族ともう一度会おうと提案してくれた。その気持ちはとても嬉しい。それに稔が言っていたことが本当なら、ネルカも死んだことになっている。それはつまり、今ならメメルカから逃げられるということでもある。
だけど実花にはまだ、返事をしていない。
どうすればいいのか、迷っている。
両親はネルカを口減らしのためにメメルカに売った。この世界ではよくあることで、理解しているし恨んでもいない。だけど今更会うのは気まずかった。向こうだって困るだろう。下手すれば通報されるかもしれない。そうなれば二人にも迷惑をかける。それは嫌だった。
けれど、実花の世話をずっとしていたいと思っている自分がいる。
初めて会った時こそは、メメルカの命令で仕方なくやるしかなかった。理不尽なことを言われるかもしれないと、諦観と不安と覚悟が入り混じった気持ちで仕事に挑んだ。だけど実際の実花は優しい人だった。遠い異世界の話はまるで想像できないぐらいに驚きに満ちていた。火の魔法を見せてあげたら、幼い弟がそうしたみたいにすごいすごいと喜んでくれた。だけど彼女にはいつも陰があった。明るく振る舞う表面の皮をたった一枚めくると、深い悲しみや寂しさや苦しみで満たされていた。
ネルカはずっとずっとなんとかしてあげたかった。だけど自分ではどうしようもないことも痛いほど理解していた。彼女の心の穴を埋めるのは、たった一人だけだということも。
そうして今、実花は、そのかけがいのないたった一人と一緒にいる。
自分はとても邪魔になっているんじゃないかとネルカは思う。だからメメルカの元に帰るのがきっと正しい選択なんじゃないか。理性はそう訴えている。
でも、ネルカの心は、実花と一緒に行くことを望んでいる。
考えても考えても、堂々廻りに陥っていて、結論が出てこない。
けれども、一つだけ決めたことがある。それはきっと、この先どうすればいいのか、その選択肢に大きく影響を与えるに違いない。
答えを得るのは、それからでも遅くないだろう。
とりあえずは、二人のためにごはんを用意しなければいけない。
ネルカは二人がいる方向へと戻っていった。
太陽は沈んだ。暗闇が辺りを包んでいる。
三人はネルカが焚いた焚き火を囲っていた。当然のように実花は稔の隣に陣取り、ネルカはその反対側に座っている。
火の周りには枝が何本も突き立っており、その先端にはきのこが突き刺さっていた。また三人の手元には、皿代わりの大きな葉っぱが敷かれ、葉の上にいくつもの木の実が乗っている。これが今晩のごはんである。といっても調理らしい調理ができないから、ネルカは不満げだが。
「どうしたのお兄ちゃん?」
物憂げな顔できのこを見つめている稔を目敏く見つけた実花は、首を傾げて聞いた。
「ああ、いや。ちょっと昔を思い出してね」
ふーん、と実花は手を伸ばして、火で炙られたきのこを口に運んだ。ネルカも同様にきのこを口につけた。けれど稔は一向に食べようとしなかった。
「……すみません。気に入りませんでしたか?」
ネルカは心配になって尋ねると、稔は首を横に降った。
「いや、そうじゃないんですよ。そうじゃないんですけども……」
と言いながらも、稔はやはり手を動かさない。
「好き嫌いはダメだよ、お兄ちゃん」
実花はさっときのこが刺さっている枝を一本引き抜くと、稔の口にきのこを押し込んだ。
「熱っ」
小さく叫ぶ稔。楽しそうに見つめる実花。驚くネルカ。
「ほら、食べて食べて。おいしいんだから」
実花が促すと、観念した稔はようやく咀嚼した。
「……おいしい」
「でしょう?」
実花は輝くような笑顔を浮かべた。
それから夕食は静かに進む。
実花が騒がないのはきっと、稔が陰のある表情をしているからだろうなとネルカは思う。
食事を終えても、みんなは一言も喋らないで余韻に浸っている。
もしも言うなら今だろうと、ネルカは決心した。
「あの、ミカ様」
「どうしたの? ネルカさん」
「お兄様を少しお借りしてもよろしいでしょうか?」
「うん、もちろんいいよ。ネルカさんなら、お兄ちゃんを好きにしても大丈夫だから」
「ありがとうございます」
俺の意思は? と思いながらも、稔は突っ込むのを止めた。ネルカはとても真剣な顔をしていたからだ。
実花が焚き火から離れたのを確認したネルカは、改めて稔と向き合った。けれど真摯な眼差しを向けてくるだけで、一向に話しかけてこない。
「どうしましたか?」
仕方なく、稔は促した。
「……ミノル様とミカ様が初めて再会したあの時、どうして兄だと明かさなかったのですか?」
「あの時、ですか」稔は思い出す素振りを見せて、答える。「あの時は、多くの魔人と帝国の兵士に囲まれていました。中には、実花と行動を共にしていたと思われる兵士の姿もありました。そうした中で、マ王である俺と英雄である実花が知り合いだと知れたら、帝国での実花の立ち位置が怪しくなる。だから、明かせなかったんです」
「ミカ様は、当時すでに帝国を裏切る覚悟はできておりました。それにあなたがたは、私たちには理解できない言葉でやりとりができます。ミカ様だけに伝えることはできたのではないですか?」
「確かに、故郷の言葉で話せば、実花にだけ自分が兄だと伝えることはできたと思います。ですが、そのやりとりだけでもなんらかのつながりを疑われたでしょうね」
「そ、それでも。それでもミカ様にだけ明かすべきでした! あれからミカ様がどれほど苦悩されたか、あなた様なら簡単にお分かりになられたでしょうに!」
ネルカは、相手の方が正しいと思いながらも、迸る感情のまま問いただす。そんなネルカのことを稔はじっと見つめたかと思うと、ふ、と優しい笑みを浮かべた。
「な、なにか?」
稔が笑みを浮かべたことにネルカは驚き、戸惑う。
「いえ。ただ、実花のそばにあなたがいてくれて、良かったな、と思ったんです。ネルカさんがいなかったら、実花はきっと駄目になっていたと思いますから」
「は、話をそらさないでください」
唐突に褒められて、ネルカは顔を赤らめた。
「すみません」と謝りつつも、稔は優しい笑みを絶やさない。「あの時明かさなっかったのは、もう一つ理由があったんです」
「……どういうことですか?」
「俺は実花に殺されるつもりでした。正確には、マ王として英雄に殺される必要があった、ということですね。そうなれば、実花はますます民の名声を得られたはずです。それこそ、帝国がおいそれと手出しができなくなるほどには」
「あなたは……ミカ様のために死ぬつもりだったのですか」
「そうです。まあ、実花に諭された今では、間違っていたと思っていますけどね」
ネルカは稔の瞳を見つめる。彼はこれ以上ないほど真摯な眼差しでネルカを見返してくる。
「……ミノル様がミカ様のことを大切に想っておられるのはよく分かりました」ぽつりと言う。「どうやら、私がお二人のそばにいることは邪魔になりそうですね……」
ネルカは視線を地面に向けた。これで諦めることができたと思った。
けれど、
「それは違いますよ」
と稔はあっさりと否定した。
「え?」
ネルカは面を上げる。彼は相も変わらず笑みを浮かべていた。
「俺には目的があります。どうしても為さなければならない目的が」
「目的……ですか」
「はい。俺はある男を倒さなければならないのです」
稔の顔が急変した。穏やかに話しながらもその実、その壮絶なまでの怒りや憎しみが、彼から発している。今まで絶やさなかった笑みも、いつのまにか消えていた。
ネルカは背筋が凍る思いだった。冷や汗が額から鼻筋を通り、顎に達する。
いつの間にか発せられた稔の殺気に当てられて、ネルカの体が小刻みに振動していた。
「すみません」と稔は言いながらも、感情を隠し切れていない。「怖がらせるつもりはなかったんですが、どうにも抑えきれなくて」
「い……いえ」
かろうじてそれだけを発するが、目を合わせることができない。
「それでその男というのはですね、俺と実花をこの世界に召喚した男なんですよ。……いや、俺たちだけじゃない。俺が知っているだけでももう一人いましたし、他にも何人もあの男の犠牲になっていたでしょうね」
ネルカは、じっと黙って聞いている。稔が発する生の感情に耐えているだけで、精一杯だった。
「すでに聞いているかもしれませんが、俺たちはもともと魔法を使えないんですよ。そこであいつは、何をしたと思いますか?」
「……いえ……存じません」
「体を、切り開いたんですよ。麻酔もなしにね。……ああ、麻酔というのは、俺の世界にある薬でね。体や感覚を麻痺させる効果があるんです。あいつがした行為を、手術というんですが、俺たちの世界ではその麻酔を施してから行うんです。そうすれば、痛みを感じないし、暴れることもできません。
それをあいつは、魔法で体を押さえつけた状態のみで、体を切り開いたんですよ。想像を絶する痛みでした。何度気絶したか分かりません。何度も吐いたし、何度も失禁もしました。おそらく実花も、同様のことをされたと思います」
想像したネルカは、思わず体がぶるりと震えた。どうにかなってしまいそうな自分の体を抱きしめる。そうして青ざめながらも、当時のことを思い返した。確かにあの頃の実花は、異様に元気がなかった。もしも言われた通りのことが行われていたとしたら、元気がなかったのも当然だ。
「それだけじゃありません。あいつは、実験と称して何度も何度も恐ろしいほどの苦痛を味合わせてきた。それこそ、体を限界まで痛めるような行為を。あいつの目的はなんなのかは分かりません。ですが、ろくでもないことだけは確かでしょう」
沈黙が降り立った。数秒のことではあった。
しかしおかげで稔の殺気がいつの間にか消えていて、ネルカは落ち着きを取り戻すことができた。とはいえ、いまだ稔の目を見ることができないが。
「……あなたの目的は、分かりました。ですが、私の質問に答えていません。私は本当に必要なんですか」
「さっきも言いましたが、あなたのおかげで実花は救われたんですよ。あなたがいなければ、実花の心は壊れていたでしょうから。
だから、兄としてお礼申し上げます。本当にありがとうございました」
稔は深々と頭を下げた。
ネルカは驚いた。頭を下げてもらうために、話しているわけではなかったから。
「あ、頭を上げてください。私は大したことはしていません。ただメイドとして仕事を……」
「それでも、実花が俺が知っている頃とあまり変わらないでいてくれたのは、あなたのおかげなんですよ」
稔は頭を上げた。口元には笑みがある。稔は続ける。
「もしも本当にメメルカの元でメイドを続けたいのなら、俺は止めません。帝都まで送りますし、その間、命に代えてでもあなたを守ります。
ですが、実花はあなたとも一緒にいたいと思っています。いや実花だけじゃない。俺もあなたに残って欲しいと、本当にそう思っています」
「だからなぜ、あなたは私を」
「さっきの通り、俺は怒りを抑え切れる自信がないんですよ。だからいざという時、実花を止めて欲しい。俺と一緒に、嫌な戦いに赴かないように」
「私にそれができるんでしょうか」
「分かりません」稔は素直に首を横に振る。「でも実花にとってあなたは、この世界の人間で唯一信頼できる人なんです。あなたにできなければ、他の誰にもできません」
「……あなたは、本当にミカ様のことを大切に想っておられるのですね」
「俺と実花は、この世界で唯一の家族ですから」
「正直……羨ましいです」
ネルカは、言いながら、何を言っているんだろうと思った。けれど止まらなかった。
「私の親は、口減らしのためにメメルカ様に私を売りました。私はもう家族に会えないんです。会いにいっても、向こうも困るでしょうし。私も別に、会いたい、というわけでは……」
「俺の世界でも、俺が生まれるずっと昔にも似たようなことが行われたと聞きます。ああ、いや、形は違いますが、今でもありますね。家族の関係というのは、時に難しいものでもあるかと思います。ですがネルカさんは、本当は会いたいんじゃないですか?」
ネルカは返答に迷った。正直に言うべきか、嘘を言うべきか。けれど稔の目は、あまりにも真っ直ぐにネルカの瞳を射抜いている。
だからきっと、口から言葉がこぼれたのは、そのせいに違いない
「……会いたい、です」
言ってから、驚く。だけど言ってしまったものは仕方がない。諦観した心持ちでネルカは尋ねる。
「でも、どうしたらいいんでしょうか?」
「面と向かって会うのは難しくても、気づかれないように遠目から一目見るぐらいなら、いいんじゃないでしょうか」
「……確かに……そうですね。それなら、大丈夫だと思います。ですが、万が一気づかれてしまったら、私だけじゃありません。あなた方にも迷惑をかけてしまいます」
「問題ありません。それよりも、あなたの気持ちの方が大切です。実花にとってあなたは恩人です。なら、俺にとってもあなたは恩人なんですよ。俺は、その恩を返したい」
「……本当に、私が一緒にいても大丈夫なんですか。迷惑ではありませんか?」
「とんでもない。むしろとても助かります。実花から聞きましたが、ネルカさんは家事万能だそうで。実花は知っての通りだと思いますし、俺も一通りできますが、得意というほどではありません。家事をしてくれる方がいれば、とても助かります」
「……仕方、ありませんね」ネルカははにかんだ。「私もご一緒させてください」
「ありがとうございます。実花の方には、あなたから言って上げてください。とても喜ぶと思います」
「……はい。そうさせて頂きます」
そうして、ネルカは実花を呼びに行った。
その際に、一緒に行くことを伝えると、実花はネルカに抱きついて、とても喜んでいた。
ネルカはそれがなんだか嬉しくて、胸が暖かくなって、笑いながら涙を一筋だけ流したのであった。
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