八十八 仮面の下に隠れている
薄い雲が途切れ途切れに空を覆っている。その雲と雲の隙間から、太陽が覗いてた。
津村実花たちは、岩の陰に隠れてこっそりと様子を見る。
視線の先にはサガラック砦があった。砦は四階建てで、高い城壁が囲っている。
それにしても、魔人と出会した覚えはないのに、門前の広間にはすでに大勢の魔人たちが待ち構えている。その数はおよそ百。門の中に入れば、さらに多くの魔人たちがいるに違いない。
「……どうやら、気づかれていたようですね。注意していたはずですが、そういう魔法があるのでしょうか。うかつでした」
と、キルベルは言った。
「気にするな。どのみちあの砦は真正面から攻めるしかない。それに、もういつぞやのような騙し討ちみたいなことはできんだろう」
口調とは裏腹に、ゴーガは楽しそうである。あの中に飛び込んで暴れ回る未来を想像しているに違いない。
「まあ、そうなのですが。それでも少しでも有利な状況で戦いたいじゃないですか」
「それでどうするの。煙でもあの中に発生させる?」
レゾッテはそう提案した。あの規模全体を煙で覆うことなど、レゾッテにとっては造作もないことである。キルベルにもそれは分かっている。
「それもいい案ですね。ですが少し待っていてください。少し考えさせてください」
「分かったわ」
小声で打ち合わせていると、相変わらずのメイド服姿のネルカが、籠を持ってこっそりとやってきた。
「みなさん。お食事です。どうぞ召し上がってください」
それぞれが感謝の言葉をあげて籠の中へ手を伸ばした。
中身はパルツである。実花が一口かじってみると、甘い味が口の中に広がった。中にはジャムのような半固形の青い何かが入っていた。
「おいしい」
と、実花は言った。けれどその顔は、厳しい。
「本当。おいしいわね。この青いのはクゼの実かしら」
レゾッテはパルツの中をまじまじと見つめながら聞いた。
「はい。ちょうど森の中にありましたので、使わせていただきました」
「なるほど。この甘さはちょうどいいあんぱいですね。戦いの前の緊張が解れます」
キルベルはゆっくりと嚥下して、感想を述べた。
「うむ、うまい」
ゴーガはあっという間に平らげて、指についたクゼの実をぺろぺろと舐めている。
「ありがとうございます。おかわりはまだありますから、好きなだけ頂いてください」
「いただこう」
と、ゴーガは無遠慮に手を伸ばす。キルベルとレゾッテも、自分のを食べ切るとおかわりをした。
けれど実花だけが、最初の一個を半分ぐらいまで食べただけだった。
「……すみません、ツムラミカ様。お口に合わなかったですか?」
ネルカは心配そうに尋ねた。
「ううん。すごくおいしいよ」と、実花は笑顔を作る。「ただ……緊張して少し食欲がなくて」
「わかるぞ」ゴーガはうんうん頷く。「あれだけの数だ。無理はない」
「それでも食べた方がいいですよ。この戦いは長丁場になるでしょうから」
キルベルは魔人の様子を窺いながら言った。
「うん」
実花は頷いて、残りを頬張り始める。
ネルカはその様子を眺めながら、察していた。本当は戦いの緊張で食欲がないのではない。マ王が本当に実花の兄なのかどうか、不安なのだろう。どれだけ杞憂だと、お兄様に間違いありませんと説得をしても、こればかりはどうしようもない。会って確かめない限りは、その不安が消えることはないのだから。
せめてもの慰めに甘いものを作ったけれど、やはり気休めにもならなかったようだ。
ネルカは、砦を見上げた。
本当にミカ様のお兄様であるのなら、どうしてそうだと告げないんだ。そう怒ってやりたかった。
「そこにいるのは分かっているぞ! ツムラミカ!」
食事を終え、打ち合わせをしている最中だった。声が響いてきたのである。
実花たちは顔を見合わせて、頷き合った。こうなっては、魔人たちの前に出ていくしかない。
ネルカを後方へ避難させて、実花を先頭に岩陰から出た。
魔人たちは殺気をみなぎらせて、睨み付けてくる。
そうした中、一人の魔人が集団の前に出てきた。
綺麗な少女だ。淡い水色の髪は液体みたいに透明で、ゆらゆらと揺れている。おそらく本当に髪が液体で、それが少女が持つ魔法なのだろう。
「……私の名前はセールナ。ツムラミカはいますか?」
少女が持つ髪のように、透明感ある声だった。その口調は穏やかで、周囲の魔人たちとは一線を画している。
「私です」
と、実花は手を挙げて言った。セールナ自身は実花の顔を知らなくとも、他の魔人には知っている者もいるに違いなかった。だから名前を呼ばれれば、応じるしかない。
「あなたが、ですか」
セールナは近寄ってきた。そうして実花の顔をじぃっと見る。
この人はなんなのだろうか、と実花は思った。やはり他の魔人とは違うように感じる。
「なるほど」セールナは頷いて続ける。「……あなたはみんなにとって許しがたい。私もあなたのことを殺したく思います。マ王様もその一人。ですので、あなたの相手はマ王様直々に行います。砦の四階にて、マ王様はお待ちです。あなた一人で行ってください」
「……いいのですか?」
実花は訝しんだ。殺したい、と面と向かって言われたのに、そういう風には感じなかったのが奇妙だった。
「ええ。それが命令ですから。罠を疑っているのなら、それはありませんと断言しておきます」
実花は後ろを振り返った。キルベルたちは頷いている。肝心のレゾッテも、仕方がないと言う風に頷いていた。
よかった、と思う。レゾッテに邪魔されずに済んだ。これでお兄ちゃんに会える。
「わかりました」
と、実花は一歩を踏み出した。魔人たちが道を開ける中、憎悪に満ち足りた声が聞こえてきた。
「俺は、俺は認めねえぞ!」
声の主は、人垣の中から躍り出て、実花の進路上に立った。実花との距離は十数メートル。
彼はズンガと共に先遣隊としてこの地に派遣された魔人の一人である。ズンガを敬愛し、マ王の理想が自分の理想だと思っていた。
しかし、今や目の前でズンガを殺した実花のことを激しく憎んでいる。誰の手も借りずに、自らの手で殺したいと考えていた。たとえマ王の命令を破ってでも。
「俺が! 仇を取るんだ! ズンガの、仇を!」
魔人は左手を突き出た。するといかなる理屈か、左腕が伸びていく。そうして実花の前にまで来ると、今度は指が伸びて、実花の胴体を掴んだ。
体を自由自在に伸縮させる。これがこの魔人の魔法だった。
だが実花は、十分に魔法を発動することができたのに、しなかった。魔人の魔法をあえて受けたのである。
体を締め付ける痛みに、実花は眉をひそめた。しかしその目は、目の前の魔人から離さない。
「や、やめなさい!」
セールナは思わず叫んだ。
けれど魔人は、一向に気にする様子はない。そればかりか、暗く笑い、実花に向かって走り出した。右手を強く握りしめて、実花の顔面に狙いを定めている。
お兄ちゃんとの再会を邪魔をするな。実花は内心で呟いた。
魔人が腕を振りかぶり、直前にまで迫った瞬間、前蹴りを放つ。足甲の爪先にある角が、相手の腹にのめり込んだ。
「ぐうっ」
魔人がうめいた。あまりの激痛に、実花を掴んでいた左手が緩む。腹に穴が開いて、そこから血が流れていく。魔人は思わず傷口を押さえ込み、前のめりになった。
そこを、実花の回し蹴りが襲う。
「が」
魔人の頭部に衝撃が起こった。そのまま地面に倒れ伏せる。こめかみからも出血している。
実花は胴体を踏みつけた。流れるような動作で鞘から剣を引き抜き、上に掲げ、そのまま一挙に下へ振り下ろす。
体から頭が切断された。吹き出た血が地面を赤く汚す。
あまりに鮮やかな手際だった。セールナが止める間もないほどに。
実花は周囲の魔人を見渡した。全員の怒りがより増している。
この場にいる全ての魔人たちが一斉に襲いかかってくるのを警戒して、後ろにいるキルベルたちが身構えた。
だが、セールナが慌てて実花の隣に立った。魔人たちに対して睨みを効かす。
「……これ以上彼女に手を出すというのなら、私が相手になりますよ」
踏み止まる魔人たち。冷や汗をかいている者もいる。
「砦に入るまで、私もついていきます」
セールナは実花に顔を向けて言った。緊迫した表情である。
実花はこくりと頷いた。
後に残されたキルベルたちと、百ほどの魔人たちが睨み合っている。
魔人の一人がキルベルたちの前に出た。
「お前たちはここで死んでもらう」
実花にぶつけられなかった全ての殺意が、キルベルたちに向けられていた。
しかし彼らは平然とした顔をしている。ゴーガなどは、笑みさえ浮かべていた。
「……残念ながら、その希望は叶えられそうにありませんね」キルベルはそう言うとレゾッテを一瞥した。「今です」
レゾッテの周囲から煙が噴出した。それは百人の魔人を覆い尽くすほどの規模。
予想外の展開に、魔人たちは驚き戸惑う。
右方向にゴーガ、左方向にキルベルが煙に紛れて魔人たちに襲いかかった。そうして真正面の敵には、レゾッテが魔法で細いウォーターレーザーを放射する。
叫び声、叫び声。魔人の叫び声が上がる。
煙が晴れてきた。視界が明瞭になるにつれて、魔人たちは見通しが甘かったことを悟る。
魔人たちの目に写るのは、仲間たちの死体だらけ。いくら煙でよく見えなかったと言えども、短時間ですでに十人以上が殺されていた。
キルベルとゴーガは、煙が晴れるとレゾッテの前へと集合する。さっきのは不意打ちだ。もう一度同じことをやってもすぐに対応されるだろう。
だからここからが、本当の本番。
事実、魔人たちは、目の色を変えて向かってくる。
キルベルは、魔法で光を一瞬だけ放った。魔人の目が眩んだ瞬間、懐へ飛び込んで二本の短剣で首を掻っ切った。
ゴーガは一直線に突き進み、大きく振りかぶった大剣で薙ぎ払う。三人の魔人の胴体が二つに裂かれた。
レゾッテはそんな二人を魔法でサポートする。
しかし、圧倒され続けても、魔人たちは攻撃の手を緩めない。
絶対にこの三人を生かして帰さない。それがマ王の命令であったから。
実花は砦の中に入った。セールナはすでにいない。約束通り、砦の前までで案内は終わったのだ。
中には人の気配がなく、外から戦闘の音が聞こえてくるのみである。
それでも警戒は続けながら、階段を登っていく。
二階に進み、三階に上がり、ようやく四階に辿り着いた。
全身を灰色のロープで覆い、仮面で顔を隠しているマ王ツァルケェルは、玉座に腰掛けている。
それはやはり、懐かしい気配だった。
「……来たか」
呟いた声は、仮面でくぐもって聞こえてくる。そのせいか、声に抱かせた感情も分からない。だけどやはり、懐かしい響きがある。それは実花の胸に迫った。
「お兄ちゃん!」
実花はメルセルウストの言葉で呼びかけた。けれどツァルケェルは何も言わずに立ち上がる。
「お兄ちゃん。そうだと言ってよ。ねえ」
目に涙を溜めながら実花は訴えた。
「……違う。俺は、ツァルケェル。貴様の兄ではない。貴様は人間だろう。魔人ではない」
無慈悲な答え。
でも本当に違うんだろうか。懐かしい気配も声も、何もかもが勘違いなのだろうか。頬を掻く仕草も、考えてみれば稔だけの専売特許じゃないのだ。いろんな人が持っている癖だ。
「貴様は、数多くの魔人を殺した」淡々と、感情が篭っていない声でマ王は言う。「貴様は仇だ」
もしもマ王が兄であるのなら、実花は兄の仲間を殺してきたことになる。実花ももちろんその事には気付いていた。
「だが貴様たち人間たちを、俺たちも多く殺してきた。特に帝王を殺した俺などは、恨みもひとしおだろうよ」
俺たちは人間の仇だと主張したツァルケェルは、実花に右掌を向ける。実花には聞こえないほど小さな声で、何かを呟いた。
するとツァルケェルの右手が光り輝いたと思うやいなや、魔力の塊が発射された。
実花の反射神経ならば、反応できない速度ではなかった。でもその時はなぜか、何もする気にはならなかった。
魔力の塊は、実花の首筋をかすめて飛んで行った。
かちゃ、と音を立てて、何かが下に落下する。
実花は視線を下に向けると、真紅の首輪が落ちていた。魔法の衝撃で壊れている。
続いて首元を触る。出血はしていない。痛みもない。ただ首輪だけが、壊れて落ちた。
実花はツァルケェルを見返した。何を考えているのか、仮面の上からではうかがい知れない。
「俺と戦え、ツムラミカ」
と、マ王は言った。
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