八十三 初めて仕事をさぼった日

 ジャカブ家の邸宅は、貴族街の端の方にあった。

 事前に連絡を済ませていたらしく、門の前で執事が待機していた。

 深々とお辞儀をして出迎えた執事は、シニャとエルムント・ボルタレルを家の中に案内する。

 平民であるシニャにとって、貴族の家に入るのはもちろん初めてだ。広い敷地に、豪華絢爛な内装は、思わず目移りさせるに十分だった。

 シニャとエルムントが執事に連れられた部屋は、家の奥にあった。まるでそれは、外から来たお客様から見えないようにするためみたいにシニャには感じられた。

 執事は、お辞儀をするとそそくさと部屋の前から歩き去った。ちらと見えた表情は、この場に一秒でもいたくないかのようだ。

「気にしないでください」と、エルムントは言う。「貴族というのは、体裁を気にするものです。一族の恥となれば、誰にも見せたくないと思うのも当然でしょう」

「恥、ですか」

「ええ。彼は間違いなく、この家にとっての恥なのでしょうね」

 エルムントは、そう言って扉を軽く叩いた。返事は来ない。

「入りますよ」

 だが彼は気にせずに、扉を開いた。

 部屋はカーテンを閉め切っているため薄暗い。また中はシニャが住んでいる寮の一部屋よりも倍以上に広く、一目見ただけで高等な品だと分かるような家具がある。

 エルムントは無遠慮に中に入った。そうして躊躇するシニャに対して、彼は視線で中に入るように促す。それでようやくシニャは恐る恐る部屋の中へ足を踏み入れた。

 一見すると、中には誰もいないように見える。けれど部屋を見回してみると、奥の角でうずくまっている一人の男がいる。

「ルセイ・ジャカブさん、ですね」

 エルムントは男に声をかけた。するとルセイと呼ばれた彼は、ぎろりと睨むような視線でシニャたちを見る。シニャは思わずぎょっとして、一歩後ずさった。

「……何の用だ」

 ルセイはぼそりと尋ねた。暗い声だった。

「少しお話を伺いたくて」

「話?」

「はい。あなたが以前調査していたという二人組の魔人について、です」

 エルムントが聞いた途端、彼は目を白黒させた。視線を床に落とし、顔色が青ざめていく。

「す、全て、報告しているはずだ。あれが、あれが全てだ」

 震えた声だった。動揺している。

「確かに、報告書には私も目を通しました。嘘でないことはわかります。ただ、私は、あなたの言葉で、あなたが感じた事を知りたいんです」

「い、いやだ……」

 ルセイは頭を抱えて、がたがたと震える。尋常でない怯え方だ。いったいどんな目に会えばここまで怖がるのだろうか。

「ううむ、困りましたね。まさかここまでだとは……。これは日を改めたほうが……」

 よいかもしれません、とエルムントが言おうとした時、シニャはすっと動いた。

 彼女は怯えるルセイに近寄って、頭ごと自分の胸で抱えた。そうして、ルセイの頭部を優しく撫で付ける。

「……とても、恐ろしかったのですね……。ですが、もう大丈夫です。あなたを脅かすような者はここには誰もいませんから」

 シニャは優しく語りかけた。慈愛に満ちた笑みを口元に浮かべている。彼女の脳裏にあるのは、治療不可能と思われた患者をユリエが次から次へと治していく姿だった。

 自分にはあんな力はない。だけど、それでも、誰かを癒せることはできるはずだ。シニャはそう強く決心して、今日まで頑張ってきたのである。

 エルムントは感心した様子でその光景を見入っていた。何しろあんなに怯えていたルセイが、徐々に落ち着きを取り戻していくのだから。修道者としてのあるべき姿が、ここにあるように思えた。

 そうして安心し切ったのだろう。ルセイはすすり泣きはじめた。

 シニャは涙や鼻水で修道服が汚れるのも構わずに、優しく背中をさすり、頭を撫でている。

 そうした時間が数分ほど続き、やがて泣き声も治ってきた。

「……もし、よろしければ、何が起きたのかを話していただけませんか?」

 頃合いを見計らったシニャは、穏やかに尋ねた。

 ルセイは少し躊躇する様子を見せる。けれど彼は、シニャの微笑みを見た。それは、全てを柔らかく包み込むような包容力に満ちた笑みだった。

 ルセイはぽつりぽつりと話し始める。帝王から命じられ、調査を始める頃からの長い話を。




 ところ変わってグラウ城内にある練兵場である。親衛隊が集まって、訓練を行っていた。

 優雅な足取りで訓練の様子を見て回っているのは、親衛隊隊長のフェルリナーラ・トルキン。

 長く真っ直ぐに伸びた銀の髪がそよ風で揺れている。細面の顔は鋭く、やや釣り目で、鼻梁は高い。肌は白く、鎧も白く、髪の色も相まってどこか透明感すらあるような印象を見るものに抱かせる。

 ざっと見回したフェルリナーラは、練兵場の中央にて立ち止まり、パン! と手の平を打ち鳴らした。全員が手を止めてフェルリナーラに注目する。

「これより模擬戦を始める! 誰か私の相手をしたい者はいるか?」

 真っ先に手をあげたのはゴーガであった。フェルリナーラは他に誰も手をあげないのを確認すると、ため息を吐く。

「またお前か」

「当然です」

「まあ仕方がないな」

 親衛隊の面々が距離を開ける。両者は剣をとって対峙した。

「いつでも来い」

 と、フェルリナーラは中段に構える。

 対するゴーガは上段だ。だがすぐに攻撃に移らない。そればかりか緊張の色さえ見える。

 だがどう見ても、フェルリナーラにゴーガほどの力があるようには見えない。身長は高いが細身の体で、持っている剣もゴーガのように巨大ではなく、むしろ一般の兵が持っている剣よりも細い。

 それでもゴーガが真っ先に襲わないのは、フェルリナーラが帝国で二番目に強い剣士であるからだ。事実ゴーガは、相手が同じ隊の隊長であることをいいことに、ことあるごとに模擬戦を挑んでいる。しかし連戦連敗で、一度も勝ったことがない。

 ゴーガは地面を踏み込んでフェルリナーラに向かう。渾身の力を込めて、大剣を相手の左肩目掛けて振り下ろす。

 空気が唸る中、フェルリナーラは剣を振り上げる。その刀身には液体のような半透明の何かがまとわりついていた。

 ぶつかり合う両者の剣。だが、ゴーガはその手に奇妙な手応えのなさを感じた。

 フェルリナーラの刀身にまとわりついている液体のような半透明の何か。それは弾力に富んだ魔力の塊であった。凄まじいのは、ゴーガの全力の一撃であっても、その魔力の塊が威力を減殺してしまう点にある。さらに言えば、フェルリナーラ自身の剣の腕前もまた最上級だった。魔力の塊によって相手の力を減らしたところを、撫でるような柔らかな剣捌きで逸らしてしまうのである。

 ゴーガの剣とて例外ではない。酷くあっさりと、振り下ろした剣は横に逸れた。

 しかしゴーガとて、伊達に何度もフェルリナーラと手合わせをしていない。こんなことは当然の結果でしかない。問題は次だ。

 地面に墜落した大剣は砂埃を立てた。それは一瞬で視界を悪くするほどの量だった。これがゴーガの狙いでもある。すぐさま手首を返して切り返す。

 視界不良の中、フェルリナーラは冷静だった。すぐに大剣の気配を察し、切っ先で受け止める。けれどゴーガの強い力はさすがに受け止めきれない。一瞬の判断で、フェルリナーラはゴーガの力を受けながら上に跳んだ。

 宙返りをしながら着地したのはゴーガの背後。背中を切ろうと右から薙ぐ。

 ゴーガは読んでいた。振り向きながらフェルリナーラの剣に大剣を合わせる。彼女は今度は力を受け止めながら後ろに飛んだ。

 ゴーガの猛攻は続く。すぐさま距離を詰めて突きを放った。しかしフェルリナーラはまたも容易く逸らしてしまう。

 ゴーガがさらに剣を重ねるも、フェルリナーラは全て剣で逸らし、いなし、かわす。

 帝国最強であるグルンガル・ドルガの剣が攻めの剣であるならば、彼女の剣は守りの剣である。その驚くべき技量は、グルンガルであっても舌を巻く。

 事実、魔法禁止の条件で、グルンガルとフェルリナーラが手合わせをしてみたところ、彼女はグルンガルの攻撃を全て凌ぎ切り、その上で勝ってみせたのである。

 剣の技量のみならば、フェルリナーラこそが最も秀でていると言えよう。

 ただし魔法の使用を自由にした場合、さしもフェルリナーラであっても全て防ぎ切れるわけではなかった。様々な相手に対応できるのがグルンガルの強みなのである。特に彼の必殺である雷の剣撃は、フェルリナーラですら防ぐのは不可能なのだった。

 グルンガルのような規格外に比べれば、ゴーガの剣撃はなんと素直なことか。その素直さはゴーガの良さではある。だがその分、動きが読みやすいのだ。

  ゴーガの連撃を潜り抜けて、フェルリナーラは懐へと飛び込む。

 振るった刃はゴーガの首元に触れる直前で停止した。

「う……」

 呻くように声を上げたゴーガは、続いて負けを認めた。

 微笑したフェルリナーラは、一歩後退して言う。

「強くなったな」

「……ありがとうございます。ですが、まだまだあなたに敵わない」

 心底悔しそうにゴーガは言った。明らかな格上に対しても、積極的に勝とうとするゴーガの姿勢はフェルリナーラにとって好ましく、思わず笑みを浮かべてしまう。

「しかし、いいのか? 親衛隊はメメルカ様の警護が担当だからそうそう戦争に駆り出されることはない。だがお前はメメルカ様の命令で参加したのだ。疲れているのだろう? 休まなくても良いのか」

「隊長と手合わせできる機会を、この私が見逃すとでも?」

「……そうだったな」

 この何を差し置いても闘争を優先する性分は、決して理解できないが。

「次! 誰かいないか!?」

 何人かが手を挙げた。いつもゴーガが戦った後で挑戦者が出てくるのは、きっとフェルリナーラの疲れを見込んでのことだろう。しかし卑怯とも姑息とも思わない。そもそも疲れた程度で破れていては、メメルカ様を守ることも叶うまい。

 この守りの剣は、メメルカ様を守るためにある。それは女帝になり、この帝国を背負う立場になった今でも変わらない。フェルリナーラの剣は、メメルカのためだけに存在しているのだ。

 




 茜色で帝都が染まる時刻だった。

 大聖堂にある寮の自室に、シニャは力なく入った。

 足取りはふらふらしていて、そのままベッドに倒れこむ。

 ルセイに聞かされた話は、あまりにも衝撃的だったのである。

 グリ村を襲った魔物を倒し、そのおかげで魔人だと発覚してしまった二人はそこから逃げ出したそうである。そうして逃げた先に訪れたのはシニャが元々いた教会だった。あの時は、まさか二人が魔人だとは思わなかった。患者をあっという間に治療してしまったユリエはまるで聖女のようだったし、一緒にいたミノルは確かにフードを被って姿が分からないようにしていたけれど、とても邪悪な魔人だとは思えないほど優しい少年であった。

 それからシニャは二人を送り出した。彼らは次に向かったベネトに入るため、ミノルは身分を奴隷だと偽った。魔人と気づかれるよりも良いとは言え、それでも奴隷という身分は物でしかない。ましてや教会に滞在するとなれば、その扱いは酷いものであったろう。

 ユリエはベネトで仕事を見つけ、しばらくお金を稼ぐために滞在することとなる。教会で傷病者を治療しながらの生活は、さぞ大変だったろうとシニャは思う。

 やがてお金を貯めた二人は、街を出た。だがその頃にはすでに彼らは帝国に捕捉されていた。

 そうして、運命の時が来た。

 彼らは騎士団が張った罠に見事にはまり、追い込まれる。二人を殺害するためだけに作られた矢を騎士団は一斉に放った。逃げ道を塞がれた彼らに逃れる術はない。矢は雨のように彼らに降り注ぐ。

 ユリエはミノルを矢からかばった。さしも、超絶の回復魔法を使えるユリエであっても、その特製の矢で魔法を封じられてはただのか弱い少女でしかない。軍はユリエを殺害するに成功する。

 だが、それによってミノルの怒りを買った。凄まじい怒鳴り声が響き、ミノルの魔法が発動する。

 騎士団は、全滅した。そうしてミノルは、何処かへ歩き去ったのだという。

 ルセイが話した内容を思い返したシニャは、思わずベッドのシーツを握り締める。ぎゅっと、しわが千々に乱れた。胸が苦しかった。

 酷い、と思った。

 確かにミノルは大勢の人間を殺した。それは間違いがないのだろう。許されるべきことではないだろう。

 シニャの目から涙が溢れた。

 心中で叫ぶ。

 だけど!!

 あの二人は、何も悪いことなんてしていなかったじゃないか!

 村を襲った魔物を倒し、傷病者を治療し、まじめに働いただけじゃないか!

 ただ魔人だったというだけで、国は二人を殺そうとして、その結果ユリエを殺した。自分の身と、ユリエの仇をとるために、ミノルは魔法を使ったんじゃないか!

 帝国が、何もしなければ! ミノルはたくさんの人を殺すことなんてしなかったのに!

 飛び出そうな泣き声を、シニャはみんなに聞こえないように押し殺す。

 あの場では、怯えていたルセイを慰めた。話を聞いた後も、よく話してくださいましたと、感謝の言葉を述べただけだった。

 だけど本音を言えば、ルセイを糾弾したかった。

 なぜ、無害だと報告しなかった。彼らは何も悪いことなんてしていなかったじゃないか! その結果が、これだ。これはあなたの、あなたたちの、自業自得だ!

 そうして聖職者にあるまじき汚い言葉を、あらんかぎりぶつけて、ぶつけて、ぶつけてやるのだ。

 けれどシニャはどうにか抑えることができた。彼にどれだけ怒りをぶつけても、無意味なことだと分かっていたから。死んだユリエは帰ってこないから。過去がやり直されることなんて、起きるわけがないのだから。

 でもやはり、悔しかった。どうして彼らが死ななければいけなかったのだろう。

 泣きながら考えて、唐突にはっとした。シニャは自らの体を強く抱きしめる。肌に爪が食い込んで、痛みが走った。

 ああ、そうだ、そうなのだ。

 原因なんて、決まっていた。そのことに、見ない振りをしてしまっていた。

 あの二人を帝国が殺そうとしたのは、魔人だったからだ。彼ら以前に暴れ、暴虐の限りを尽くした魔人がいて、それが原因の一つなのは間違いない。だけど元はと言えば、魔人が悪だと教会が教えていたからだ。

 そして、シニャはシスターだ。

 魔人は悪だと、様々な人に教えてきたではないか。

「ああ……そんなっ……私……私がっ」

 私が殺した!

 兵を二人へ向かわせ、ユリエを殺害し、ミノルが多くを殺してしまったのは、私のせいなんだ!

 もちろん、シニャが直接的な原因ではない。けれど、教会に加担し、教えを広めていたのは間違いない。それは遠因になるんじゃないか。

 少なくとも、シニャはそう思ったのである。


 シニャは泣いた。泣き続けた。

 一晩中自分を責め続けた。

 激しい罰を欲した。今この場にミノルがいてくれたらと思う。あらゆる罵倒で非難して欲しかった。暴力を振るわれたっていい。奴隷になれと言われれば、進んで奴隷になろう。どのように理不尽な命令であっても、甘んじて受け入れよう。死ねと言われれば、死のう。

 でも、ミノルはいない。いないのだ。

 シニャに罰を与えるものは誰もいないのだ。

 その事実が、シニャをさらに苦しめさせた。


 朝になった。シニャは結局眠れなかった。

 朝食を食べにこない彼女を心配して、同僚が部屋の前で呼びかけてきた。シニャは扉を少し開けて、青ざめた顔を見せて、体調不良だから休むことを告げた。同僚は素直に信じてくれた。仮病を使って休むだなんて、生まれてから初めてのことだった。

 だけど、こんな気持ちで仕事なんてできるわけがない。

 そもそも教会の教えに疑問を持っている今、シスターとして働く資格があるのだろうか。

 真っ赤に泣き腫らした目で天井を見上げながら、ある決心をする。

 エルムント司祭と協力して、原典を何としてでも読むのだ。

 そうして実際に魔人が悪だと書かれていなかったら、教会を糾弾する。それがきっと、シニャができる唯一の償い方だろう。

 しかし、もしも原典にも悪だと書かれていたら?

 その時になってみなければ、正直わからない。だけれども、きっと教会から出ていくだろう。それだけは、間違いないことだった。

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