八十一 演説
ミータ亭の一階。店主は床を掃いていた。その娘も退屈そうに机にもたれかかって、足をぶらぶらさせている。
客は今はいない。戦時中だからというのもある。つい先日まで泊まっていた四人の客は、戦争に行っていた。
だからというか、店主が今心配しているのは店の売り上げではなかった。いや、もちろん売り上げは気になるところではある。ミータ亭のような小さな宿は、利益が出なければすぐに潰れてしまう。
もっとも店主だけなら問題はない。どうとでも生きていける自信がある。けれど亡き妻の忘れ形見である娘のことを思えば、やはりある程度の稼ぎが必要だ。
しかし今は、戦争に行った四人が心配だった。帝国のために自らの命を賭して戦うことができるのは素直に尊敬できる。それに数少ない貴重な客が死んでしまっては単純に目覚めが悪い。そうして何よりも、あの四人の客に娘がよく懐いていた。
だから、扉が開いて入ってきたカースを見た瞬間、店主はとても嬉しかったし、娘も顔を輝かせた。
けれど、二人目が入り、三人目が入り、四人目が入って来なかった時、店主は何かの冗談だと思った。きっと何か所用ができて今はいないのだろう。後から宿に戻ってきてくれるはずだと。そう信じたかった。しかし、三人の客が暗い顔をしたまま一言も発せずにテーブル席の座席に座った時、店主は察してしまった。
「お帰りなさい!」
元気の良い声で近寄ろうとした娘を店主は慌てて捕まえて、部屋の準備をしてきなさいと命じる。つまらなそうな顔をしながらも、娘は言う通りに二階へと駆け上がった。
店主は無言で厨房に立つと、鍋に火をかける。中身はシグーラムと呼ばれる家庭料理だ。
それから店主は酒瓶を取り出し、三人分のグラスに注ぎ込む。上品な赤色が美しい。娘が寝静まった時にこっそりと飲もうと思っていた秘蔵の一品だった。しかしこの酒は、今日という日こそがふさわしいと店主は思う。
客がいるテーブルに早速運んだ。彼らの目の前にグラスを置くと、カースは小さな声で言う。
「その……店主。……俺たちはまだ」
「これは私のおごりです」
と、店主は言葉を遮って笑顔を浮かべた。
「しかし……」
「いいんです。帝国のために戦ってきた方々のために、私なりのお礼がしたいんです。ささやかなものですが、料理もお出しいたします。お代はもちろん結構でございます」
三人が感謝の言葉を述べた。その声にはやはり覇気がない。
店主は再び厨房に戻った。心も体も疲弊した彼らが元気になるような料理。難題である。だがここで逃げては料理人の名折れ。腕によりをかけて調理しなければ。
グラウ城の最上階に位置するその場所は、帝王の私室である。メメルカは使っていた部屋から私物を移したのを確認すると、改めて新しい私室を見渡した。
「……お父様の部屋が、今日から私の部屋になるのね」
ふう、と息をつきながら、ベッドの上に腰掛ける。
結局、親と子のまともな対話もなくあの人は逝ってしまった。
メメルカは力なく後ろへ倒れると、白いベッドが柔らかく受け止める。金の髪がばらばらに広がった。
ベッドの天幕を見つめる。今は何も考えたくなかった。しかしどういうわけだか、父のことを気づけば考えている。
感傷というやつだろうか。私らしくない、とメメルカは自重気味に笑んだ。
母と兄がいた頃。一度メメルカは、みんなでピクニックに行きたいとせがんだ事を思い出した。仕方がないなあ、と困ったように笑った父は、その後うまく時間を作ったのだろう。短い時間ではあったが、近くの原っぱに家族で向かった。
護衛がいて、とても家族水入らずというわけにはいかなかったけれど、それでも家族みんなが過ごせる時間は本当に楽しくて、幸せだった。
でも、それで最後だった。
母と兄は魔人に殺されて、父はあまり笑わなくなった。背中に火をつけられたみたいに、がむしゃらに戦争へ向かっていった。
もしかしたら、メメルカなら止められたのかもしれない。あるいはそれを見越していたのか、オルメルは滅多に娘と会わなくなった。
もしもあの時もっと父と会う努力をしていたら。もっと自分から会話をしていたら。こういう結果はこなかったかもしれない。
でも、どうしようもなかった。オルメルが変わってしまったように、メメルカも母と兄の死で変わってしまったのだから。
女遊びをするようになったのも、あの頃からだった。続けていくうちに、いつの間にか止まらなくなっていた。そうしてさらに、父と近しい貴族たちに色目を使い、情報を探るようになったのもあの頃からだ。当時はただ、滅多に会えない父の状況や考えを少しでも知りたかっただけだったのに、今では根回しに利用している。
予感があったのかもしれない。父が早期に亡くなってしまうという予感が。
あるいは魔人との戦争を望む父が、戦死するかもしれないという当然の予測が、無意識のうちに行動に移してしまったのだろうか。
どちらにせよ、メメルカは、そうした自分の振る舞いから否応なくオルメルの娘である事を実感してしまうのだった。
メメルカの頬を冷たい感触が伝う。手で拭いとると、指が濡れていた。それは涙だった。
まだ悲しむ感情が自分の中にあったのか。メメルカは驚いた。
次の日。純白のドレスに身を包んだメメルカは、帝都内でパレードを行った。
偉大なる帝王オルメルの戦死の報告と、新しい女帝メメルカのお披露目である。本来であれば、主要な街を順に巡って民に周知させるのが慣例だ。しかし、今はまだマ国との戦争中であるため、帝都内のみだけの催しとなった。
父親の死を悲しみながらも気丈に振る舞う。そんな自分を演出するような陰のある笑みを作り、パレード用に派手な装飾がされた馬車の上から民に対して手を振るう。子供も大人も、男も女も、みなメメルカが女帝となる事を歓迎してくれている様子だった。中には、帝王の死を悼んでくれているのか、泣いている人もいる。
やがて馬車は、大聖堂ミカルトに着いた。
メメルカは降り立つと、沢山の注目を集めながら大聖堂の中へ入る。多くのシスターや神父に付き添われて、奥の礼拝堂に入った。
貴族専用のその場所は、この世の富を贅沢に注ぎ込んで作られている。メルセルとウストがこの世界を生み出し、そして二つに別れるまでを描いた天井画は、高価な絵具を惜しみなく使われていて、色彩が豊かである。だがそれも、帝国随一の画家が、助手に頼らずにたった一人で作り出した成果であろうことは疑いようもない。
祭壇に置かれた大きさの違う二つの黄金の球は月を象徴している。その後ろにあるのは、メルセルとウストの彫像である。穏やかで慈愛に満ちた微笑みを浮かべる二体は、帝国指折りの彫刻家に彫らせたものだ。男神の筋肉の躍動感、女神の柔らかな質感、そして完璧なプロポーション。その神々しさは、神そのものといってもいいぐらいに洗練されている。
帝国最高峰の芸術作品が設置されたこの白い建築の空間は、帝国で最も優れていると評価されている建築家によって設計され、自ら陣頭指揮を取って建てられた。神が降臨するにふさわしいとまで言われるほど美しいこの空間は、メルセルウストのどこを探しても、これ以上のものは見つからないと貴族たちに言わしめた程である。
そんな唯一無二の礼拝堂の中を、帝国一の美貌を誇るメメルカが歩く。
白い建築空間の中進む純白のドレス。一歩踏み締めるたびに金色の長髪が揺れる。
人間が持てる技術の極致によって生み出された彫刻や絵画も、自然が作り出したメメルカという美の造形を引き立てるための装置のようだった。この場に居合わせることができた人々は、神々しさすら感じさせる静粛な美を見届けられる事を、この上もない幸運に感じることができた。
やがてメメルカは、祭壇の前にまで進んだ。
目の前には、大司祭ジージが立っている。
メメルカが優雅な動作で片膝をつき、手を組んで神に祈りを捧げる様を見届けたジージは、そのあまりの美しさに思わず固唾を飲んだ。
こういった場は、慣れているはずだった。なのにメメルカを前にした時、柄にもなく緊張してしまっている。
思えば、オルメルが同じ儀式に挑んだ時も同じように緊張してしまった。
全くなんという親子だろうか。
それでもジージは、祈りの言葉を唱えて厳かに儀式を進める。
「……汝、女神メルセル、男神ウストに誓い、帝国に繁栄をもたらせることを誓うか?」
「誓います」
「その身命を、女神メルセル、男神ウスト、そして帝国のために使う事を誓うか?」
「誓います」
「その誓いを守り続ける限り、汝と、民に神の御加護があり続けるであろう」
儀式を終えてメメルカが大聖堂から出ると、次に帝都中央部にあるグラウ城の城門へと向かう。そこには木で組まれた舞台が整えられており、帝都中の民衆が群がっていた。
けれど、彼らは静かだった。誰もがオルメルの死に心を痛ませているのだ。
帝国、それもオルメルの代は戦争ばかりだった。だがかつて一人の魔人によって国土を荒らされた時、止めたのはオルメルたちである。民衆にとって彼は、紛れもなく英雄の一人に数えられるのだ。
そうして彼の業績は、戦いに関するものばかりではない。道を帝国中に広げることで商業を活発にした。主要な町に斡旋所を建てて仕事を与え、貧困を減らし犯罪率を減少させた。他にも様々にあるが、オルメルが行った内政は国力を向上させ、貴族だけでなく民衆の生活をも向上させたのだ。
そんな偉大な帝王の死は、間違いなく帝国の民に衝撃を与えている。その失意の大きさは、メメルカでさえ計り知れないものがあろう。
そうした民の様子を見つめたメメルカは、こっそりと裏に回り、階段を使って壇上に上がった。
彼女が顔を見せた瞬間、民衆は彼女に注目した。彼らの顔は、どれも不安がある。期待がある。新しい女帝を、果たしてどう評価すれば良いのか、決めかねている。
メメルカは拡声魔法を発動させた。
「……偉大なる帝王が、壮絶な戦死を遂げました。知っての通り私の父です」
静かに語ったその声は、拡声魔法の魔力に乗って帝都中に響いた。
城門に来れない民たちも、固唾を飲んで聞いている。
「殺害したのは、魔人です。父が愛した私の母も、私の兄も、魔人が殺しました。このような悲劇を無くすために、私の父は今まで戦ってきたというのに。
運命、というものなのでしょうか、この結末は。
それとも、ウスト様とメルセル様の試練なのでしょうか。
そうなのだとしたら、私たちは何と困難な試練を受けなければいけないのでしょうか。
帝国で最も偉大な人物を亡くした事は、あまりに大きすぎる喪失です。
それでも、これから待っている困難を、父がいない状況で乗り切らなければなりません。おそらくそれは、想像以上の困難でしょう。
ですが私は、父の思いを受け継ぎたいと思います。なぜなら私は、父、オルメルの唯一無二の娘なのですから」
メメルカは間を置いて、眼下の群衆を眺め見た。
目に入る全員が、真剣な面持ちで聞いてくれている。
「……しかし……正直に言えば、私は怖いです。
父はあまりに偉大すぎました。なのに私はまだ人生経験の足りない若輩者です。父からまだ教わっていない事も、山ほどあります。父と同じようにできる自信がありません。
ですが、これが私の運命であり、神が下さった試練であるのならば、私は民のために臆せずに立ち向かいましょう。
おそらく想像以上の辛苦が待っているに違いありません。私に乗り越えられるかどうか、私にはまだわかりません。ですが、皆さまのお力があれば、どのような困難であろうとも乗り越えられると信じております。
本来であれば、守らなければならないはずの民の力を借りようなどと、情けない思いです。
しかし今、帝国は、未曾有の危機に陥っています。
そう、魔人の国であるマ国が迫っているのです。そして、マ国の王、マ王ツァルケェルは、私の父を殺しました。彼こそが、私と、親愛なる民たちが住う帝国が最も憎むべき仇です。
けれど、敵はあまりに強大で、凶悪。帝国の戦力を持ってしても、負けてしまう可能性があります」
負ける、と聞いて、群衆は不安な顔を見せた。
メメルカは、続ける。
「しかし、心配はいりません。私たちには、新しい英雄がいます! あの帝国最強のグルンガル様ですら、勝てないとおっしゃった魔人をことごとく破った英雄! ツムラミカ様です!」
あらかじめ待機していたのであろう。津村実花が、緊張した顔で壇上に上がってきた。
いつもの格好だ。セーラ服にスカート。足甲を装着し、美しい装飾が施された赤い首輪をはめている。腰には細身の剣を携えている。
群衆が歓声をあげた。
そうだ、ツムラミカだ。俺たちには彼女がいる。彼女ならきっとやってみせる。
「帝国の民の力とツムラミカ様の力が合わされば、どのように邪悪で強大な魔人であろうとも、必ずや勝つことができると私は信じています!
私が女帝として為すべき事は一つ! 民の力を最大限に発揮できるように尽くす事です!
グラウノスト帝国に永遠の繁栄あれ!」
民衆はメメルカを称える声を次々と上げた。
民に女帝メメルカが認められた瞬間であった。
群衆の声に笑顔で手を振って応えるメメルカは、拡声魔法を停止させる。
実花に、微笑みと共に視線を送った。民衆に英雄と良好な関係であると思わせるためだ。
「……聞きましたわ、レゾッテに」
民衆に顔を向け直したメメルカは、実花にしか聞こえない声量で呟いた。
ぞっとするような冷たい響きだった。
実花の顔がこわばろうとした所で、
「笑いなさい」と、メメルカは続ける。「マ王に良く分からない言葉で話しかけたそうですね。あなたが元いた世界の言葉ですか?」
実花は答えない。引きつった笑みを浮かべている。民衆からは緊張していると思われているだろう、とメメルカは思った。
「もしかして、マ王はあなたのお兄様なのですか?」
言葉と共に微笑しながら実花を一瞥する。
「違います」
引きつった笑みのまま、実花は平然と答えた。
「……あなたは私と同じで、表情を作るのが上手いですからね。それが本当なのかどうか、分かりませんが、どちらにせよあなたに選択肢はありません」
メメルカは振り返って群衆に背中を向けた。拡声魔法を再び発動させる。
「ツムラミカ様。私と共に帝国を守っていだけますか?」
そうみんなに聞こえるように言ったメメルカは、実花に向けて片手を差し出した。実花は女帝の手を取って握手する。
寒気がするような笑みを、メメルカは実花に見せた。
拡声魔法を切る。
「マ王を殺せなければ、あなたには死んでもらいます」
帝都グラウの遥か北に位置する城塞都市トール。そこはカルメル共和国との国境を睨むために作られた都市である。もっとも今は、グラウノスト帝国は共和国に対して一方的な条約を結んでいるため、戦争になる可能性はない。それにもしも戦争状態に陥っても、帝国の軍事力をもってすれば圧倒してしまうだろう。それほどまで彼我の戦力差には開きがあった。
トールを任されているのは、ギョールガ・アスセラスである。故オルメル・ノスト・アスセラス三世の弟であり、メメルカの叔父にあたる人物だ。彼は兄オルメルを凌ぐ巨漢であり、戦争時にはカルメル共和国の兵たち相手に縦横無尽に暴れ、力だけで共和国と不平等条約を結ばせた武人でもあった。
彼は帝国がマ国に侵攻されていると聞いた時、真っ先に駆けつけて、魔人共を蹴散らせたいと思った。だが彼の使命はここトールにてカルメルを監視することだ。おいそれと離れるわけにはいかなかった。
それでもオルメルならばなんの心配もいらないと、少なくとも兄が持つ戦力に対しては些かの疑問も抱かなかった。だからこそ、ギョールガはトールから動かなかったのである。
だが玉座に腰掛けて、帝都からの敗北の報告を聞いた時、怒りのあまりこめかみに青筋が浮き上がった。しかも、姪のメメルカがそのまま帝位に就いたという。
「女帝だと……! ふざけやがって。女に帝国が任せられるものかっ!」
湧き上がった怒りのまま、ギョールガは使者に怒鳴りつけた。それから蚊でも追い払うかのように使者を部屋から追い出す。
忌々しげに頬杖を付き、ぶつぶつと思考を口に出す。
「俺もあの場にいれば、このような由々しき自体防いで見せたというのに。そうすれば、次の王は」
臣下たちは見て見ぬ振りをしている。怒っている時のギョールガに何か物申せば、何をされるか分かったものではないからだ。
「……いや。そうか、まだ間に合う。女の帝王を認めらぬ者は他にもいるはずだ。そいつらを仲間に引き込んで、それから……」
ギョールガは、くっくと笑う。その目は野心の炎で燃え上がっていた。
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