八十 英雄とマ王の出会い

 津村実花は戦場の中を走る。

 あちこちに死体が横たわっていた。濃厚な血の匂いがそこら中で漂っている。

 呻き声が聞こえた。生きている人間が死体の中に紛れているのかもしれない。その中の誰かが、実花に助けを求めているのかもしれない。その誰かは、実花と一緒に訓練した誰かなのかもしれない。

 でも、実花には気にしている余裕なんてなかった。彼女の目に映っているのは、空に浮かんでいる二人の魔人だ。その二人の魔人は、緩やかに下降して、地面に着地した。

 あそこにいかなくちゃ。実花はその思いに囚われていた。

 彼女の後を追って、遊撃部隊の仲間たちも走っている。急に走り出した実花を見て、彼らは訳もわからずに追っていた。

 幸いにも、人間も魔人も、先程の放たれた光の衝撃で戦闘行為を停止したままだ。でなければ、こうも容易く走り抜けることは出来なかったろう。

 そうして、そこに辿り着いた。

 仮面で顔を隠し、灰色のローブで全身を覆った魔人がいる。

 グルンガル・ドルガと、右腕がなくなっているベーガ・アージスは、それぞれの武器を取って対峙していた。戦闘になる気配はない。

 実花がざっと音を立てて足を止めると、仮面の魔人がこちらを見て視線を固定した。

 実花もまた、仮面の魔人から視線を外せない。

「……お前が、ツムラミカか」

 仮面に遮られているせいだろうか。その声はくぐもって聞こえた。だけどそのマ王の声は、なんだかとても懐かしく感じられる。

 心臓の高鳴りは、実花を急き立てるようにますます大きくなっていた。

「……はい。そういうあなたは、マ王ツァルケェルさんですか?」

「……そうだ。しかしこんな小さな娘が、ズンガやケープを破ったというのか。なるほど、英雄と呼ばれるだけはある」

 実花はじっと仮面の両眼を見つめ、それからややあってから口を開く。

「……お兄ちゃんなんでしょう」

 それは日本語だった。この場にいた誰もが何を言ったのか分からなくて、きょとんとしている。

 マ王も何も答えない。

「お兄ちゃんなんでしょう!」

 実花はもう一度、今度は強く呼びかけた。その声は切実な響きがあった。

 するとマ王は、返答の代わりとばかりに右手を動かして、仮面の頬を掻く。

「……その頬を掻く仕草……お兄ちゃんがよくやってた癖だ。間違いないよ。それにその名前。お兄ちゃんが好きだったマジッククエストⅣのラスボスの名前だよね。私もやったよ。何度も何度もやったよ」

 なおも日本語で畳み掛ける実花に対し、ツァルケェルは頬を掻く手をぴたりと止めた。それから困ったようにメルセルウストの言葉で言う。

「……何を言っているのか分からないな」

「惚けないでよ! 私には、ずっとお兄ちゃんの妹でいた私には分かるんだから!」

「この娘の言葉が分かる者は、誰かいないのか?」

 ツァルケェルは周囲を見回しながらそう尋ねたが、誰も名乗り出ない。

「興が削がれたな。ここは一旦こちらから引いてやろう、グルンガル」

 実花と向き合うのを止めたツァルケェルは、グルンガルの方へ顔を向けて言った。

「どういうことだ?」

「猶予をやる、と言っているんだよ。俺たちは元々無駄な争いは望んでいない。帝王が死んだ今、後釜を据ねばならないんだろう? 誰がなるのか分からないが、帝王の二の舞になるのが嫌であれば、マ国に降伏するがいい。だが次も断ると言うのなら、今度こそ徹底的に破壊し尽くしてやろう」

「……わかった。城に戻り次第、皆に伝えよう」

「それから、ツムラミカよ」マ王は再び実花を見た。「俺たちの間では貴様を恨むものが多い。皆がズンガやケープの仇を取りたいと思っている。貴様も俺たちに恨みがあるのだろう。でなければ、貴様の出身地の言葉かどうか知らんが、興奮して訳のわからない言葉を喋るはずがない。俺たちはこの近くにあったサガラック砦を拠点にする。もしも俺の首が欲しければ、ここに来るがいい。軍団規模の人数で来れば俺の魔法で一蹴するが、数人程度ならば連れてくきても構わない」

 実花は目を大きく見開いて、マ王の言葉を聞いた。

 ツァルケェルはそれ以上実花に頓着しなかった。彼はあっさりと踵を返し、背中を見せて歩き去っていく。

「……お兄ちゃん!」

 返り血で赤く染まったセーラー服の胸の辺りを鷲掴んだ実花は、涙で目を潤ませて悲痛な日本語で叫んだ。

 けれどマ王ツァルケェルは、振り返ることさえなかった。




 実花は馬車に乗って帰路に着いていた。あとおよそ半日ほどで帝都に着くだろう。

 同乗者はレゾッテだけだ。他の仲間たちは、レゾッテがメメルカ・ノスト・アスセラスの名前を出して同じ馬車に乗せなかったのである。

 馬車の木窓は閉じている。なのに実花は、窓の木を見つめていた。

「ねえ、マ王に何か話しかけていたでしょう? なんて言っていたの?」

 レゾッテが問うたが、実花は何も答えない。

「答えなさい!」

 語気を荒げて再度聞くも、実花は沈黙を貫いている。

「分かったわ。良いのね?」

 けれどやはり実花の返答はなし。

「……カトン」

 と、レゾッテは久方ぶりに呟いた。途端、実花の赤い首輪が首を締め付ける。

「……うぐ」

 実花は苦しそうに呻くと、反射的に首へ手を当てた。顔面は瞬く間に蒼白になって、口は酸素を求めて開いた。

「さあ、話しなさい。でなければ、その苦しみはずっと続く」

「……す……に……す…………ば……い」

 か細い声が実花の口から発せられた。

「何?」

 そうして、首輪の締め付けが緩む。このタイミングを待っていたかのように、荒く呼吸しながら実花はようやく返答する。

「……好きに、すれば良い……。どうせ……この首輪では……私は殺せな……ぐぅっ」

 再び首が締まり、実花は声を詰まらせた。

「なら、根比ね」

 レゾッテは愉快そうに言いいながら、実花の顔を観察する。

 彼女の顔から涙が流れ、涎が垂れ、鼻水が出た。苦しんでいる。だが、彼女の瞳は強く輝いていた。この目は、何があっても絶対に喋らないと言う強い意志があった。

「……話してくれないのなら、殺してみるのも良いのかもしれないわね」

 レゾッテは婉然と脅した。

 けれど、実花は迷いを一切見せない。首輪の締め付けが緩くなると、彼女は再び口を開く。

「……殺したいなら……殺せば良い……。でも……ここで私が死んだら、困るのは誰……?」

「……ふん。確かに、ここで殺すわけにはいかないか。なら、望み通り苦しんでもらおうかしら」

 呻き声が実花の口から再び発せられた。その様子をレゾッテは、冷徹に眺め続けた。

 レゾッテの宣言通り、実花は帝都に到着するまで、苦しみ、喘ぎ続ける。だが実花は、泣き言も、許しを乞う声も、マ王に話した内容も一切合切何も言わなかったのである。



 

 ネルカは実花の部屋にいた。

 同僚のメイドたちなら、長い休暇をもらうと喜び勇んで町へ遊びに繰り出すものなのだが、ネルカは違っていた。命を賭けて戦っている実花を差し置いて遊ぶことが酷く罪深いことに思えてならなかったのだ。町に出てできることは、ちょっとした買い物と教会へ祈りに行くことだけだった。

 だから、本来ならやらなくてもいいのに、ネルカはわざわざ担当者に断って、自らの手で実花の部屋を掃除した。そのあとは、椅子に座って実花の帰りを待つことで、一日の大半を過ごしたのである。

 そうして今日もいつものように教会でお祈りをして、実花の部屋を念入りに掃除をして、椅子に腰掛けて実花の帰りを待っていると、扉がかちゃりと開いた。

 入ってきたのは実花だった。

「ミカ様!」

 ネルカは喜びのあまり勢いよく立ち上がって声を張り上げた。だけどすぐに二の足を踏む。

 実花の様子がおかしかったからだ。

 実花が着用しているセーラー服は、凄惨な戦いを物語るように血塗れだった。さらに実花の顔色は、酷く悪い。

「大丈夫、ですか?」

 実花は静かに扉を閉めると、何も言わずにふらふらとした足取りで近寄ってくる。次の瞬間には、ネルカに抱きついていた。

「……おにい……ちゃんっ……! おにい……ちゃぁんっ……!」

 まるで幼子みたいに、彼女は泣き喚く。まるでそれは、今までずっと我慢してきた感情が一気に爆発したみたいだった。

 ネルカは一瞬戸惑ったもののすぐに察して、実花の背中と頭を優しく撫でた。


 実花が目を覚めると、適度な弾力と柔らかさと暖かさが同居した枕に頭を預けていることに気がついた。なんだろう、これ。すごく安心する。そう思いながら目を開けると、ネルカの顔が間近にあって驚いた。

「あ、あれ?」

「おはようございます。ミカ様」

 ネルカは優しい笑顔を浮かべた。

 実花のぼんやりしていた頭がようやくはっきりしてきて思い出した。部屋に帰ってきた途端、ネルカが出迎えてくれて、それでとても安心してしまったのだ。そうして思わず抱きついて、子供みたいに大声で泣いてしまったのだった。

 そのあとで疲れが一気に出てきてしまい、実花は眠ってしまったのだが、あろうことか、ネルカの膝の上で就寝してしまったのである。

「ご、ごめん」

 慌てて飛び起きようとした実花を、ネルカは笑顔を浮かべながら手で抑えた。

「いいんですよ。私がしたくてしているんですから」

「で、でも、重たくない?」

「いいえ。むしろ、ミカ様が帰ってこられたことを実感できて、とても嬉しいです。おかえりなさいませ、ミカ様」

「あ、うん。ただいま、ネルカさん。それから、その、ごめんなさい。服、血で汚しちゃったね」

「こんなのは洗えば落ちますから、気にしないでください。それよりも、お兄様にはお会いできましたか?」

「え? どうして?」

「それは」

 ネルカは、毎日教会にお祈りをしに行っていたことや、教会で出会ったシスターのことを話した。シニャと名乗った彼女は、男性と女性の二人の魔人と出会ったこと。そのうち一人はベネトの食堂で会った女性が言っていたユリエという女性であったこと。そうしてもう一人の男性は、ミノルという実花の兄と同じ名前であったことも。魔人として認識されていたことから、ネルカは実花の兄が、もしかしたらマ国軍の中にいるのではないか、と推論したと言う。

「ミカ様も、お兄様がマ国にいると確信したのではありませんか?」

「……うん」

 と、実花は頷いた。

「そして、お兄様はマ国軍にいた」

「……すごいな、ネルカさんは」実花はネルカから目を逸らす。「なんでもお見通しなんだ……」

「私はただ、誰よりもミカ様のことを見ていましたから。それに、シニャ様と出会えたことは幸運でした」

「うん……」

「もしよろしければ、戦場で何が起きたのかお話し願えませんか?」

「うん。……私も、ちょうど話したかったから」

 そうして実花は、戦場で起きたことを話した。ネルカは目を白黒させながら話を聞いた。

「マ王ツァルケェルが……ミカ様のお兄様だったなんて」

「うん。でも、何も言ってくれなかったんだ。だから、もしかしたら本当にお兄ちゃんじゃないのかもしれないの……」

「いいえ」ネルカは強く言い切って、実花の髪を撫で付ける。「ミカ様は一目見ただけで確信されたんですよね。なら間違いないはずです」

「なら、どうして何も言ってくれなかったんだろう」

「きっと何か事情があったんだと思います」

「……事情か。そう、だね。そうだと……いいな」

「はい。きっとそうですよ」

 ネルカは、慈愛に満ちた笑みを浮かべて、実花の頭を撫で続けた。

「でも、ネルカさんはいいの? 魔人を倒して欲しいんでしょう?」

「……正直に言えば、迷いました。ですが私は知ってしまったのです。人間同士の間からでも、魔人が生まれてしまうことを」

「え。人間から、魔人が?」

「はい。彼らは大陸で迫害されて、ドグラガ大陸に逃げたのだそうです」

「そんなことが……」

「私は、ミカ様のお話を聞いて思いました。お兄様はそういった方々を守るために、マ王になったんじゃないか、と。ミカ様はお優しい方です。そのお兄様なら、なおのことお優しい方なのだと思います。私は魔人に対して今でも複雑な思いがあります。ですが、もしもミカ様のお兄様がマ王であるのなら、私はマ王のことも信じられることができます」

 実花の目の端から、涙が一筋流れた。

「ありがとう……ネルカさん」




 玉座にいるべき者がいない。ただそれだけの事で、なんと空虚なのだろうか。

 グルンガル・ドルガは、空っぽの玉座に向かって膝を折って頭を垂れていた。

 玉座の隣に立っているのはメメルカである。深紅のドレスを纏った彼女は、真っ直ぐにグルンガルを見下ろしている。周囲を取り囲む臣下たちは、固唾を呑んで見守っていた、

「……父は、殺されたのですね。他ならぬマ王に」

 メメルカの表情からは感情が読み取れない。

「はっ」

「最期を教えてくれませんか?」

「オルメル様は、魔法を使用し多くの魔人を倒しました。しかし二発目を発動したと同時にマ王が魔法を放ちました。マ王の魔法はオルメル様の剣よりもはるかに強力で、たった一撃で跡形もなく消し飛ばしてしまったのです」

 ざわざわと臣下たちが騒ぐ。それも無理はない。帝王の剣は帝国一の威力を誇る。それとまともにぶつかり合って呆気なく帝王を葬り去ったマ王の魔法は、恐るべき脅威であった。

 貴族たちは好き勝手に発言している。次の帝王をどうするべきか。マ国に降伏するか、それとも徹底的に抗戦するべきか。意見は割れに割れていて、とても収束しそうにない。

 オルメルがいなくなった弊害がこんな形で発露しようとは。戦友であり、幼なじみでもあった帝王の顔をグルンガルは思い浮かべた。

「黙りなさい」

 メメルカの美しい刃物のような声が聞こえてきた。しかしグルンガル以外の誰もその声に気付いていない。貴族たちはみっともなく騒ぐばかりだ。

「黙れ!」

 声は騒音を鋭く切りつけた。今度こそ貴族たちは押し黙った。

 静寂の中、カツカツと足音が響く。

 ぎし、と軋む音が聞こえて、グルンガルは顔を上げた。

 メメルカが当然のように玉座に座っていた。だがそのことに誰も口を挟まない。

 そうしてこの場にいた誰もが、その厳しくも美しい顔に帝王オルメルの面影を見た。

「この帝国を代表する貴族と思えぬ取り乱し方」メメルカは冷たく言い放つ。「この緊急時だからこそ、我々は冷静であらねばなりません。グルンガル。まずは被害の報告を」

「はっ」

 

 これが、帝国史の中で初となる女帝が誕生した瞬間だった。

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