六十四 グリ村の戦士たち
息苦しくなりそうなほど木々が密生している。乱雑に伸びる枝葉のか細い隙間からは、陽光が漏れて濃い緑の地面に明るい斑点模様を落としていた。
数えきれないほどの木漏れ日の一つに照らされているのは、一匹の小さな獣である。長い耳、愛らしい顔に不釣り合いな鋭い牙、丸っこくて小さな体躯から細長い二本のしっぽが生えていた。けれどその獣は、腹部からだらだらと血を流して、力なく身体を横たえている。既に死んでいるのである。
ずしり、と重たい足音が辺りで響く。枝に止まっていた小鳥達が一斉に飛び立った。
小さな獣に四つ足で近寄って来たのは、ガガルガと呼ばれるこの付近の森の中でもっとも凶悪な獣である。三メートル弱の巨大な身体で、目が三つあり、角を頭から一本だけ生やし、全身が短毛で覆われていた。地球の獣で言えば熊に似ている。
ガガルガはくんくんと鼻を鳴らしながら、死骸となった小さな獣の臭いを嗅いでいる。ちょうど腹を空かしていたのだろう。そのままがぶりと食いついた。前肢の三本の爪で器用に押さえつけながら、美味そうにむしゃむしゃとかじっている。
微かに風を切る音が鳴ったかと思うや否や、真ん中の目に矢が刺さった。矢じりは脳を貫き、致命的な損傷をガガルガに与えた。血液が噴水みたいに吹き出て、横に力なく倒れる。
数分時間が経つと、藪の中から弓を持った男が出て来た。全身に糞尿を塗りたくった彼は、グリアノスと言うグリ村一番の狩人である。
グリアノスはガガルガを見下ろし、近づく事なく矢を構えている。ここで油断して近づいた時、仕留めたと思った獣が唐突に暴れ出す危険があったからだ。実際にそれで何人か死んでいる。
グリアノスは、矢を試しに放ってみた。頭部のすぐ側の地面に突き立つも、ガガルガは微動だにしない。どうやら今回は無事に殺せたらしい。
今度こそ近寄ったグリアノスは、ガガルガの巨体を気合いと共に肩で担ぐと、村に戻って行った。
村の入り口には、槍で武装したカースが立っている。彼はグリアノスに気付くと、片手を上げて挨拶をした。
「よお、グリアノス。今日は大物だな」
「ああ。今日、は、宴、だから、な。メイン、が、穫れて、良かった」
「早く身体を洗って、村長の所へ持って行けよ」
「分か、ってる」
グリアノスは村の入り口を通ると、自分の家へ向かって歩いて行く。通りすがりの村人達は、グリアノスの臭いにあからさまに顔をしかめながらも、朗らかな挨拶を交わす。
不器用な言葉遣いでそれらに返しながら、グリアノスは自宅に辿り着いた。
家の前には妻のツーメルと、息子のツーグが出迎えてくれた。ツーグは少し前に歩けるようになったばかりで、よたよたとグリアノスに近寄った。
「パーパ」
と抱きしめようとしたツーグを、ツーメルが慌てて抱き寄せる。子供の前では荒い声を出さないが、グリアノスを見る彼女の目は魔物を殺せそうなほど鋭い。
「す、すぐ、洗っ、て、くる」
グリアノスは慌てた様子で裏に行く。そこには井戸があり、すぐに洗えるようになっていた。桶で水を汲むと、頭から水を被り、身体にこびりついている糞を擦り落とす。それからツーメルに教わった消臭魔法で臭い消した。
「よ、し」
全身を隈無く確認したグリアノスは、ツーメルがあらかじめ用意しておいた着替えを来て表に出た。
今度こそツーメルは笑顔で迎え、グリアノスは寄って来たツーグを抱っこする。
「パーパー」
と、ツーグはご機嫌のようだ。はしゃいでいる。
昔は子供の事を苦手だと感じていたが、自分の子供が出来た瞬間にはそんな意識はどこかに飛んでしまった。今では目の中に入れても痛くないぐらいにグリアノスは我が子を溺愛している。
しかしだからこそ、やらなければならない事があった。
ひとしきり子供との触れ合いを堪能すると、グリアノスは宝物を扱うような丁寧な手つきでツーメルに渡した。
「そろ、そろ、行って、くる」
「……はい」
グリアノスは再びガガルガを担ぐと、一直線に村長の家に向かった。
村長のガルベルは、応接間にて待っていた。グリアノスが持って来た大物を一目見るや、嬉しそうにかりと笑う。
「今宵の宴にふさわしい肉だ」と、ガルベルは評する。「さすがだ。お前がいない今後、狩れる獲物が減る事が残念でならないよ」
「もう、決めた、こと、だ」
「……そうだな。その通りだ」
「それ、に、若い、者達も、育って、来ている。問題は、ない」
「ああ……。だがさすがに糞を身体に塗るのは誰もしなかったな……」
「……残、念だ」
「……さて早速解体しよう。久しぶりだから腕が鳴るな」
「待、て。俺が、する。村長は、無理、する、な」
「体力が落ちて来たとは言え、これぐらいのこと何でもない。それに、宴の主賓にこれ以上働かせるわけにはいかないさ」
「しか、し」
「俺が、やりたいんだ。お前らのためにな」
「……分かっ、た」
森の狭間にある村に夜の闇が降りた。かがり火に灯が灯り、赤い輝きが村を照らす。
グリ村の中央にある広場に、村人達が全員集まっている。
昼に設置されたひな壇に四人の男が登壇し、村人達の注目を浴びていた。
左端に立っているのは村一番の俊足を誇るケルト。続いて順に、狩りの達人であるグリアノス。槍を使った近接戦闘が得意なカース。村で最も弓に秀でたルグスト。グリ村における最高級の戦力だ。
ガルベルが彼らの後で台に上がり、真ん中まで進んで立ち止まる。右から左へ顔を振って、村人達の顔を見渡した。
「みなも知っての通り!」ガルベルは村中に響き渡るような声を出す。「魔人達は我々が住む帝国を荒らしている! かつて我らが愛するグリ村を襲い、皆の愛する者を殺害したあの憎き魔人達だ! この村を襲うのも時間の問題であろう! そこで帝国からこの村へ兵を出して欲しいと要請が来た! 愛する者を守るため、剣を取る時が来たのだ!」
「殺せ殺せ! 魔人を殺せ!」
村人達が一斉に叫んだ。憎悪の色に顔が染まっている。当時を思い出して涙を流す者もいる。いずれにしろ彼らの気持ちは同じだった。
憎き魔人に鉄槌を!
ガルベルは熱くなって行く村人達を、片手を上げて抑えた。静かになるのを確認すると、再び口を開く。
「彼らはグリ村を守るため、愛する者を守るため、今回出陣することなった選りすぐりの戦士達だ! その実力は皆も良く知っているだろう! 彼らなら数多の魔人を蹴散らし、帝国を救い、そしてこの村に無事に帰ってくるはずだ! 少なくとも私はそう信じている!
「そうだ! 絶対に帰って来いよ!」
「息子の仇を俺の代わりに取ってくれ!」
「妻の仇を!」
「魔人を殺せ!!」
激励の声が眼下から次々と上がった。彼らはそれだけ期待されているのだ。
先程と同じようにガルベルが村人の声を抑える。
「戦士達は今宵の宴で英気を養い、戦いに赴いてくれ! 我らはそれを暖かく送り出そうではないか!」
すでに打ち合わせていた通り、村の女性達がひな壇に上がって戦士達に飲み物を渡す。下にいる村人達にもそれぞれ飲み物が行き渡って行く。
「皆の者、酒は持ったか?」
ガルベルが尋ねると、全員が頷いて、杯を掲げた。
「戦士達の帰還を願って――乾杯!」
「乾杯!」
杯を打ち鳴らす音が鳴り響き、一斉に中に入っている液体を飲み干した。
宴が始まったのである。
酒を飲み、肉を食べ、語り合う。戦争に関するものや、魔人に対する憎しみを多くの人は話の話題にしているようだった。
ひな壇では、目立ちたがりな若者が太鼓のリズムに合わせて踊り、それを見ている何人かが、大声で囃し立てていた。
多くの者がはめを外し、宴を楽しんでいる。
そうした中、グリアノスは、喧噪を避けて隅の方でちびちびと酒を飲んでいた。妻のツーメルは、ツーグを抱きながら友人と何やら話しているようだ。だからグリアノスは手酌で酒を注いでいる。
騒がしくするのは苦手だった。けれど宴自体は嫌いではない。宴の熱気を感じているだけで、グリアノスは十分なのである。それに今回で最期になるかもしれない村の宴だ。感慨深くもなる。
「よお、飲んでるかー? グリアノス」
赤ら顔のカースが、酒の入った陶器を手に話しかけて来た。
「ああ」
カースはグリアノスの隣に座り、酒を一口呷った。目がとろんとしている。酔っていた。
「いよいよ明日……出発だな」
急にしんみりとした様子になったカースは、壇上で踊る男女を眩しそうに眺めながら言った。
「そう、だな」
「お前は、残ってもいいんじゃないか? 俺と他の二人は誰も結婚していない。だがお前は嫁も息子もいるんだ。村長だって無理強いをしなかったはずだ」
「……いや……俺、は、ツーメル、と、ツーグを守る、ために、行く」
「……いいのか? 死ぬかもしれないんだぞ?」
「ああ……死ぬ、つもりも、ない」
そうか、とカースは呟いて、宴に騒ぐ人々を見つめる。
カースも似たような理由だ。魔人に恨みはあるが、仇を果たそうとか、そういう考えはない。何しろこの村を襲った魔人はとうに死んでいる。ただ、この村を守るために戦争に行く事を決めた。それだけだった。
「生き残ろうな」
「ああ」
宴は続いて行く。
ふと気付けば、カースが机の上に突っ伏していた。
妖しいとは思っていた。やたらと饒舌になっていき、呂律も回らなくなっていた。
カースが酔い潰れるまで飲むのは珍しい事だ。いつもなら、酔い潰れた友達を介抱するぐらいの余裕があった。それだけ戦争に対する恐怖や不安があるのだろう。
グリアノスはカースの身体を肩で支えると、引きずるようにツーメルの元へ行った。
「こいつを、送る、から、先に、帰る」
ツーメルはグリアノスの顔を見て、それから視線をカースに向けた。
「あ、待って。それなら私ももう帰るわ」
と、ツーメルは言った。
それから身動きが取れにくいグリアノスの代わりにツーメルが挨拶をして回ると、出発した。
まずはカースの家に行き、ベッドの上に寝かしつけてやる。
次にようやく自分たちの家に向かった。
「カース君が酔い潰れる何て、珍しいわね」
「ああ。カース、なりに、緊張が、あった、のだろう」
「そう、ね」
二人が帰宅する途中、交わした言葉はこれだけだった。恐らくツーグが眠っているせいだろう。
そうして家の前に着く。
「俺は、少し、夜風に当たっている」
「分かったわ」
ツーメルは家の中に入って行った。
グリアノスは家の壁にもたれて、夜空を見上げた。深い闇の中、点々とした星が散らばり、二つの月が半円を描いている。
遠くの方からは宴の喧噪が聞こえていた。みんな別れを惜しむかのように騒いでいる。
がたり、と音が聞こえた。ツーグをベッドの上に寝かしたツーメルが、家から出て来たのである。
彼女は、何も言わずにグリアノスの隣にもたれた。かがり火に照らされた彼女の顔には、不安そうな影が落ちている。
「……ねえ」
ツーメルは、視線を地面に投げて、呟いた。
「どう、した?」
「戦争に行くのを、止める事って出来ないかな?」
グリアノスは、言葉を探す。どう言えば、彼女は納得してくれるのだろうか。分からない。こういう時、不器用な自分が酷くもどかしい。
「それは、でき、ない。すま、ない」
だから、結局直球で言うしかなかった。
ツーメルは、相変わらず顔を下に向けたままだ。
「どうしてよ」
感情的に彼女は呟く。声が震えていた。
「どうして、あなたなの?」
グリアノスは何も言えない。決めたのは村長で、村や家族を守るため承諾したのはグリアノスだ。その事はすでに説明している。ツーメルも分かっているはずだった。実際彼女はその時反対しなかった。
「……私、怖いよ。あなたが戻ってこなかったらって、あなたが死んでしまったらって、考えるだけでも怖いの。だって私、あなたが狩りに行くのだって凄く怖いのよ。何かあったらって、ただそれだけで……。それが今回は戦争……。一人でいると、身体が震えて止まらないのよ……」
「俺、は、大丈夫、だ。必ず、帰って、くる」
「そんなの、そんなの分からないじゃない!」
約束なんて意味がないと、ツーメルは悲痛に怒った。
「そうだ」ツーメルは、思いついたとばかりに言う。「逃げましょうよ。戦争に巻き込まれないような、どこか遠くへ。三人で。そうよ。それがいいわ」
「……すまない……それも、でき、ない」
「どうしてよ!」
「俺は、この村が、好きだ」
「……そんなの、私だって、好きだよ」
でも、あなたの命には代えられないの、とツーメルは泣いた。
グリアノスは、彼女の小さな身体を抱きしめる。腕の中で彼女は、震えていた。
逞しい胸の中で涙を流しながら、ツーメルは戦争なんて嫌だと思う。
血気盛んに盛り上がっている村の人達が、信じられなかった。戦争ってことは、殺し合う事で。そうなれば、どんなに強い人だって死んでしまうかもしれないわけで。
涙は止めどなく湧き出てくる。
グリアノスが困った顔をしているであろう事は、表情が見えなくともツーメルには分かっている。
夫を困らせるつもりはなかった。
こんな風に無理な事を言うつもりもなかった。
でも、いざ明日出発するという時になって、膨れ上がった不安が爆発してしまった。
どうして戦争なんて起きてしまったんだろう。ツーメルは思った。
「大、丈夫、だ」
慰めの言葉がツーメルの胸の中で空しく響いた。
翌日の朝。
四人の戦士達は村の出入り口で立っていた。
「あー頭ががんがんする」
カースが頭を抑えながら呑気な口調で言った。
「飲み過ぎだ」と、ルグストは指摘する。「たるんでいるぞ。帝都までの道中、危険がないとは言えないんだ。魔人を殺すまでに何かあったらどうする? そんなことでこの先やっていけるのか?」
「相変わらず真面目だなー、ルグストは」
「何だと」
この二人は変わらないな、とやり取りを眺めていたグリアノスは思った。とは言え、別に仲が悪いわけではない。喧嘩の多い二人だが、不思議と息が合うのである。
「まあまあ。お二人さん。今から喧嘩してたら、着くまでに疲れてしまうぞ」
と、ケルトは取りなすように言った。二人が喧嘩を始めると、いつも真っ先に止めに入るのはケルトだった。
「そうそう」とカースが悪びれもなく言う。「気楽にいこうぜ、気楽に」
「貴様は大体……」
「こほん」
咳払いをして自分の存在を訴えたのはガルベルであった。その背後には村人全員が集まっている。
はっとした四人は、途端に姿勢を正して、村長の方へと身体を向けた。
「……それではお主らの無事を祈っているよ。メルセル様とウスト様の加護があらんことを」
二人の神の名を唱えたガルベルは、縁起が良いとされるツルの実の粉を四人に振りかけた。
ガルベルが村人達に視線を巡らせると、自然とツーメルと彼女が抱きかかえているツーグの二人に目が止まる。
ツーメルと目が合うと、彼女は心配そうに目を伏せた。
妻子を置いて行く罪悪感で胸が痛む。けれどこれはもうどうしようもないことなのだ。グリアノスはツーグに近寄って、頭を撫でてやる。ツーグはくすぐったそうに笑った。
「それ、じゃあ、行って、くる、ぞ」
と、声をかけた。するとツーグは、何かを感じ取ったのだろう。
「ぱーぱ……いかにゃいでぇ」
涙ぐみながら、そう言った。両手を前に出して、必死に大好きなお父さんを引き止めようとしている。
ツーメルは、そんな息子をぎゅっと抱きしめた。彼女の目からも涙が零れている。けれどツーメルはまっすぐにグリアノスを見た。それが自分に課せられた役目なのだと、そういう目をしていた。
「……行ってらっしゃい。あなた」
自分も辛いはずなのに、ツーメルは笑んだ。あるいは決心が鈍りそうになったグリアノスの背中を押すためためだったのかもしれない。
「ああ」
グリアノスは頷くと二人を一遍に抱きしめて、それからようやく踵を返した。
わんわんと子供が泣く声が、背後から起きる。
ここで振り返ってしまえば、村に戻ってしまうだろう。そういう確信がグリアノスにはあった。
「……行く、ぞ」
だから、グリアノスは歩を進めた。他の三人は、親子の別れに複雑な表情を浮かべながらも、グリアノスに追随する。
村人達が一斉に激励の声を上げた。
頑張れ。俺たちの仇を討て。生きて戻って来い。
泣き声を隠すかのような大音声だったけれど、グリアノスの耳には、号泣する声しかまともに聞こえなかった。
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