六十三 帰還

「危ない所でしたが、ウルガは一命を取り留めました。被害は甚大で、立て直すのに時間がかかります。……以上で、報告は終わりです」

 波で揺れる船上の一室。丸椅子に座っているメルは、頭に触覚を立てながらケープの言葉をマ王ツァルケェルに告げた。

「……報告ご苦労」と、ツァルケェルは堅い声で応える。「我々が着くまでは、傷病者の手当に全力を尽くせ。あくまでも自分たちの命が最優先だ。勝手な真似はするな。いいな」

「分かりました」

 交信終了、とメルは言って、触覚を倒した。

「大丈夫ですか?」

 そう尋ねたのはセールナだ。彼女は、液体状の髪を柔らかな固体に調節し、ベッドの上に垂れさせた。その上に白いタオルを被せ、簡易的な水枕を作っている。水枕に頭を預けて横になっているのは、ツァルケェルである。

 仮面を被っているため彼の表情は分からない。だけど声の調子から苦しそうなのは明らかだ。

「……大丈夫だ……」

 それでも彼は強がる。マ王としての矜持がそうさせるのかもしれない。セールナ達にとってすれば、そんなものはないに等しいのだが。

「うぷ」

 ツァルケェルは呻くと、すぐさまセールナ達がいる方向とは逆にある桶に向けてげろげろと吐いた。セールナとメルは視線を逸らして見ないように努めている。

 それにしても、まさかマ王が船に弱いとは。セールナ達は船旅をするまで知らなかった。

 ただ思い返してみれば、船に今まで乗ろうとはしなかったな、と付き合いの長いセールナは思う。

「メル。お水を」

「ん」

 セールナに頼まれたメルは、丸椅子から立ち上がると、ちょこちょこと歩いて机に向かった。机上に置かれている水が入ったコップを手に取ると、セールナに渡す。

「すまない」

 セールナからコップを受け取ったツァルケェルは、横を向いて仮面をずらし、こくこくと水を飲む。

 ツァルケェルは頑に顔を見せようとはしない。それはセールナが初めて会った時から変わっていなかった。

 気にならないと言えば嘘になる。事実、出会った当初はこっそり見ようとした事がある。それは叶わなかったが、今ではそれで良かったとさえ思う。

「マ王様、お水おいしい?」

 と、メルが聞いた。

「ああ。メルが入れてくれた水は、とても美味しいよ」

「ん」

 メルは相変わらず殆ど表情が変わらないけれど、それでも褒められてどことなく嬉しそうだ。

 そんな二人の様子をセールナはじとりとした目で見ている。心底羨ましいと思った。

「マ王様」思わず口走る。「私の水枕はどうですか?」

「あ、ああ。気持ちいいぞ?」

 セールナは満足そうに笑った。とても良い笑顔だった。




 どろりとした血液に似た赤が、空を染めていた。

 黒い鳥がまるで血の中を泳ぐみたいに飛び交い、ガラスをひっかいたような鳴き声を発している。

 漆黒の夜が近い証である。

 帝都グラウの商人達は店を畳み始め、宿屋や酒場はむしろこれからが本番だとでも言うように活気づき始めていた。

 そうした中、グルンガル・ドルガ率いる騎士団が門をくぐって帰って来た。

 同僚の肩を借りて、足を引きずりながら歩く者。簡素な添え木と包帯で骨折した腕を固定している者。もっと酷ければ、馬車の荷台に寝転がされている。全身を包帯でぐるぐるに巻かれ、あまりの痛みに呻き声を発し続ける者や、意識が失せて、死んでいるのか生きているのかさえぱっと見では分からない者すらいた。

 けれどそれすら程度の軽い方だった。より迅速な治療が必要な者は、途中の町や村の教会に預けて来たからである。そうやって旅を続けて残ったのが彼らだった。

 グルンガルの騎士団と言えば、名実共に帝国一の部隊だ。彼らが帰還したとなれば、称賛の声で出迎えて、進むのが困難になるほど人が集まってくるのが恒例であった。

 しかし今回は違った。彼らのあまりに凄絶な姿に、帝都の民はみな息を呑み、黙って道を開ける。老若男女関わらず浮かべた顔色には、どれもこれも魔人への畏怖が表れていた。

 グルンガル達は、そうした彼らの表情に気付いているのかいないのか、誰も目もくれないで、ただひたすらにずるずると歩き続けた。

 辿り着いたのは大聖堂ミカルト。ここに負傷者が収容されるのだ。このために既にベッドは空けてある。また近隣から治療魔法を使える者を集められるだけ集めていた。

 事前に聞かされ、覚悟も準備も十二分に備えていたはずだったけれど、大聖堂で日夜働くシニャは、その集団に思わず面食らう。

 身体のあちこちに怪我を負っている兵士達の目はぎらついていて、殺気立っている。一種異様な雰囲気を纏う姿に、思わずシニャは怖いと思った。

 けれどシニャの先輩達は、一切の恐れを見せずに彼らの元へと一斉に近寄って自らの職分を全うする。てきぱきと傷の程度を見極めて優先順位を決め、治療を施すために一人一人をベッドへと送り届ける。その様を目の当たりにして、シニャは素直に感動した。

「ぼーっと突っ立ってないで! 早く!」

 先輩の一人がシニャを叱咤した。彼女の顔は真剣そのものだ。

 戦場で魔人と戦うのが兵士ならば、傷病者を看護するのがシニャ達の戦いだ。

 かつてユリエが次から次へと治して行く姿を脳裏に思い浮かべる。あんな風にはできないけれど、シニャにだってできることはある。

 両手で頬をぱんっと鳴らす。痛みが走る。だけど気合いは入った。

「はい! すみません!」

 大声で返事をしながらシニャは駆け出した。


 全員が無事に治療を受けられるのを確認したグルンガルとシーカ・エトレセは、ほっと安堵しつつもすぐに厳しい顔付きになった。なぜならこれからグラウ城に赴き、帝王に報告をしなければならないからだ。

「お前はここで休んでいろ」とグルンガルは言う。「ウルガにやれた傷が、まだ癒えていないのだろう?」

「……いいえ。今回の戦の敗因は、私にもあります。私にも行かせて下さい」

 強い決意を滲ませた瞳を、シーカはグルンガルに向けた。

 グルンガルはため息を吐いてシーカを見返す。

「こういう時のお前は、とても頑固になる……。分かった。いいだろう、ついてこい」

 シーカは「ありがとうございます」と返した。

 それから二人はすぐに城へ向かった。

 帝都の民は、二人が並んで歩く姿を遠巻きに見ている。二人の表情は、黄色い声援をかけるのすら躊躇わせるほど怖いものだった。

 やがてグラウ城に辿り着けば、今度は貴族達の侮蔑的な眼差しが二人に突き刺さる。何かを言われなくとも、その視線と顔だけで言いたい事は明白だった。負けやがって、帝国に泥を塗りやがって、どれだけ寄付したと思っている、帝国の穀潰しが。

 勝手な奴らだ、とシーカは心の中で唾を吐き捨てる。一体誰のために命懸けで戦って来たと思っている。自分たちの利益にしか頭にない貴族共め。

 けれどそんなシーカの気持ちを察するかのように、グルンガルはそっと視線を彼女に送った。堪えろ、とその目は言っている。

 分かっています、とシーカは前を向いた。爆発しそうな怒りをぎりりと拳で握りしめる。

 一言も発する事もなく玉座がある部屋の前まで来た。

 威圧感と威厳がのしかかってきそうな扉が眼前に立っている。

 シーカにとって、この先は戦場よりも恐ろしい。やはり来るべきではなかったと、後悔している。だがここまで来て引き返すなんて真似が出来るはずもない。

 両脇で立っている二人の兵士が、ゆっくりと扉を開ける。

 グルンガルが前へ進む。シーカは生唾を飲み込んで、尊敬する騎士団長の後を追った。

 玉座の前で膝を突く。帝王と目と目を合わさずとも、鋭い刃先みたいな視線を向けて来ているのがシーカには分かった。周囲を取り囲んでいる貴族達もまた、険しい感情を放っている。

「面を上げよ」

 帝王オルメル・ノスト・アスセラス三世は、重苦しく命じた。

 シーカとグルンガルは言われるまま顔を上げる。

「説明せよ」

 少ない言葉での命令は、帝王の怒りを表しているようで、シーカは思わず身を竦ませた。

 応じたのはグルンガルだ。慣れた様子で初めから説明をし始める。

 魔人達は一部を町に残して逃げ出した事。町を解放した後追撃をした事。途中で妨害に会い、多大な時間を逸した事。魔人達に追いつき、後少しという所まで追い込んだが、強力な魔人の増援による奇襲を受けて損害を受けて撤退した事。

「全ては私の見通しの甘さが招いた事。責任は私にあります」

 と、グルンガルは堂々と告げた。

 オルメルは二人を睨みつけたまま沈黙を保つ。周囲の貴族達も、オルメルのそうした態度に釣られたのか、ひそひそ話を止めて二人を注視している。

 冷たい静寂に包まれる中、シーカは自身の心臓が早鐘を打つのを聞いた。

 怖い。でも、言わなきゃ、とシーカは一念発起する。

「お、恐れながら申し上げます!」

 よせ、とグルンガルが小さな声で警告した。

「何だ?」

 されどオルメルは冷徹に尋ねた。

 思わず身震いがしそうな身体を強引に押さえ込んで、シーカは言う。

「今回の戦、責任は私にもあります。妨害をしてきた魔人に対処したのは私でした。しかしたった二人の魔人に良いようにあしらわれ、いたずらに兵と時間を損耗させてしまいました。もっと早く対処できたならば、増援が来る前までに戦いを勝利で終わらせて帰ってくることが出来たでしょう」

「ふむ」と頷いたオルメルは、一拍間を置いて尋ねる。「そなたは魔人と戦うのは今回で初めてであったか?」

「……は」

「魔人がいかに危険か、よく分かったであろう?」

「は。どの魔人も、危険な魔法を操っておりました。彼らがこの国を支配した未来を想像するだけで怖気が走ります」

「次は油断するでないぞ」

「は」

「グルンガルよ。今回は不問とする。だが次戦う時は必ず勝利せよ」

「は。ありがとうございます」

「へ、陛下!」

 貴族が集まっている場所から大きな声が上がった。

「何だ?」

「……今回の件、グルンガル樣方には罰を与えるべきです。でなければ示しをつけられません」

「ふん」とオルメルは鼻を鳴らす。「逆に聞くが、グルンガルに出来なかった事を他の誰にできるというのか?」

「そ……それは……」

 反論を上げた貴族は口ごもった。

「結果は同じ……いや、もっと酷く負けていただろうな」

 オルメルはせせら笑った。

 貴族達はこれ以上声を上げる事はせずに押し黙っている。

「ふん。もう反論はないようだな。グルンガルよ、次の戦いに備えるが良い。場合によっては、総掛かりで戦う必要があるかもしれぬ」

「は」

 グルンガルは立ち上がった。遅れてシーカも立ち上がる。二人は踵を返して歩いて行く。

 そうして扉を開けて部屋の外へ。

「これから忙しくなるぞ」

 と、グルンガルは口元に笑みを浮かべた。




 津村実花とキルベルが、練兵場の中央で向かい合っている。

 実花は木剣を中段に構え、キルベルは短剣と同じ大きさの木剣を、右の逆手で持ち、ファイティングポーズのような格好で構えて、右に左にステップを踏んでいた。

 見守っているのは青いツインテールをなびかせているメイド服姿のネルカと、巨漢のゴーガであった。ネルカは心配そうな表情で実花の事を見つめ、対してゴーガは愉快そうににやにやしていた。

 そんな二人をキルベルは横目で一瞥した。全く、とため息を吐きそうになるのを堪える。ゴーガに用事があると連れ出されてみれば、そこは練兵場で、しかも実花が剣を振っている所だった。一体こんな所で何の用事かと思えば、実花と手合わせをしろとゴーガが言う。

 はっきり言って面倒くさかったけれども、ここから先、実花にはさらに強くなってもらい、英雄として活躍してもらわなければならなかった。だから、キルベルは渋々承諾したのだった。

 それにしても、とキルベルは実花の様子を眺め見る。全身から無駄な力が抜けていて、どのような状況でもすぐに対応できるように構えていた。少し前までの無駄に力が入った構えよりも格段に進歩しているようにキルベルは感じた。

「はじめ!」

 ゴーガの野太い声の合図が響き渡った。

 すぐに実花が切り込んでくるかとキルベルは予想していたが、彼女はそうはしなかった。それだけでも大した進歩であろう。二人が立ち会うのは初めてだったし、キルベルは実花に手の内を見せていない。逆に実花の手の内は、あれから幾らか増えているだろうが、それでも多少は知っている。実花が攻めて来ないと言う事は、その辺りを理解している証左だろう。

 ならば、こちらから攻めるのが礼儀に違いない。

 キルベルは前方に向かって駆け出しながら、実花の行動を見極めるべく観察する。これまでのパターンから言えば、お得意の魔法の壁をこちらの攻撃に合わせて発動するはずだ。

 右手を後ろに振りかぶったキルベルは、短い木剣を実花に向けて振るった。

 しかし実花は木剣でキルベルの剣戟を受け止める。

 またも予想と違っていたが、キルベルは次の攻撃へ移った。短剣は威力が小さいため、手数で勝負するのが基本だ。だがその代わりに、その短い間合い内に張り続ければ、リーチの長い剣ではその威力を十全に発揮できなくなる。相手を翻弄し、隙を見出し、急所を突く。それがキルベルの戦術だった。

 しかし、実花はその全ての攻撃を木剣で防ぎ切っている。加減をしているとはいえ、まさかここまで技量を上げているとはキルベルは思わなかった。

 さらなる連撃をキルベルは繰り出す。どこまで彼女が強くなったのか、それを試したかった。だから真っ正面から攻撃をし続ける。

 剣を振るいながらキルベルは、下の方から嫌な気配を感じ取った。その次の瞬間、実花が足の脛目がけて蹴りを放っている。慌てて後ろへ飛ぶと、寸での所で彼女の鋭い蹴りが通過した。

 普通は武器を持てば、その武器を使いたくなる。そうすると、武器以外での攻撃を行うという発想を持てなくなってしまうものだ。ましてや初心者ならなおさら武器以外で攻撃を行おうとは思わないだろう。

 けれど実花は蹴りを入れて来た。それも抜群のタイミングでだ。

 キルベルは思わず舌を巻いた。彼女の成長速度は素晴らしいものがある。

「その蹴りは、ゴーガに教えてもらったものなのですか?」

 キルベルの質問に、実花はきょとんとした顔をして、それからすぐに首を横に振った。

「ううん。当たりそうな気がしたから……。避けられちゃいましたが」

 戦闘における天性の勘が、実花にはあるようにキルベルは感じた。そう考えれば、ゴーガと彼女が初めて戦った時、彼女が勝ったのにも合点が行く。いくら魔法の壁が強力でその事をゴーガが知らなかったとは言え、百戦錬磨のゴーガが負けたのは、実花の勘が非常に優れていたからこそに違いない。

「次は本気で行きますよ?」

 と、キルベルはにやりと笑った。

「え?」

 血相を変える実花を見て、キルベルは思わず吹き出しそうになる。

「行きます」

 そう宣言してから実花に迫った。右に左に揺さぶり、フェイントを多量に仕組む。

「いだっ!」

 キルベルの木剣が実花の頭部に当たった。衝突の瞬間に力を弱めたから、たんこぶ程度で済むはずだ。

「私の勝ちですね」

「うう、痛いです」

 実花は頭を抑えて苦悶していた。

「どうして魔法を使わなかったのですか?」

「えと、ゴーガさんに禁止されていたんです」

「なるほど」と、キルベルは頷く。「では、もう一本いきましょうか。今度は魔法も使って下さい」

「いいんですか?」

 実花はゴーガの方を振り向いた。ゴーガは鷹揚に頷いて許可を出す。

 お互いに構え直す。

 魔法解禁とあって、実花は気合い十分だ。キルベルとしても、魔法を使う実花は十分に脅威である。油断はできない。だが再び戦場に出る前に今の彼女の実力を知りたかった。

「はじめ!」

 ゴーガが号令を出した。

 今度は実花が先手を打つ番だった。

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