六十二 空は繋がっている

 帝国内ではとある書物が流行っているそうである。

 ちょっとした所用で出かけていたネルカは、同じく帝国内で大流行中のセーラー服を着た二人の女性が、偶然にも話しているのを聞いた。

「ねえあれ読んだ?」

「あれ? もちろん! もう読んだわ! 格好よかったわぁー、ツムラミカ様!」

「あの邪悪なズンガとの一戦! 私、泣きそうになっちゃった」

「私も! 今から次が楽しみで仕方ないわ!」

 どうやらツムラミカ様について書かれた本が出回っているらしい。

 メイドとして殆どつきっきりで津村実花のお世話をしているネルカは、そのせいで流行には疎い。主な情報源は同僚のメイド達だが、彼女達からは、そうした話は聞かされていなかった。

 買い物は後少しで終わる。時間もまだある。

 ネルカは迷う事なく本屋に向かった。


 ネルカ特製のセーラー服を着ている実花は、やたらと広いベッドの上で仰向けになっていた。

 四肢を伸ばし切っただらしのない格好で、ぼんやりと高い天井を眺めている。

 ふと視線を横にやれば、壁には地球から着て来たセーラー服が掛かっていた。実花がこの世界に持って来た唯一の地球の物。思い出が詰まっている、という程でもない。何せこれを着る頃には既にお兄ちゃんはいなかったからだ。

 だから、想像をする。これを着た妹を見た兄は、一体どういう感想を述べてくれるんだろうかと。まあ、あのお兄ちゃんの事だ。どうせ実花から促さない限り何も言わないし、言ったとしてもどうせ大した事じゃない。意外と似合ってる、馬子にも衣装、そんな所だろうか。それに対して実花は、何よそれとかなんとか怒って、蹴飛ばすのだろう。そんなじゃれ合いが、心地よかったから。

 目が涙で濡れてしまった。ネルカに見られたらまた心配されてしまう。実花は袖で涙を拭った。

 再び天井をぼんやりと眺めていると、コンコンと扉を叩く音が聞こえて来た。

「私です、ネルカです」

「入っていいよ」

「失礼します」

 そう言いながらネルカが入って来た。後ろ手に何かを隠している。

「今日はお土産があります」

 と、ネルカは言った。

 実花は身体を起こさずに、「何を買って来たの?」と聞いた。

 ネルカは気にする様子もなく、ゆっくりとした足取りで実花に近づく。それから、

「これです」

 と、背後に隠し持っていた巻物を取り出す。

 上半身だけを起こした実花は巻物を受け取った。『ツムラミカ英雄譚第一章』と書かれている。

「……私?」

「はい」

「でも、私こんなの書いてないよ?」

「恐らくメメルカ様が誰かに書かせたのでしょう。町では評判になっていましたよ」

「うー。何だか恥ずかしいなあ」

 そう言いながらも、実花はベッドの上に巻物を広げた。つらつらとメルセルウストの文字が並び、間には白黒で挿絵も書かれている。

「ほら、ミカ様そっくりですよ」

 ネルカは挿絵を指差して嬉しそうに笑った。

 そういえば、と実花は思い出す。キルベルが前に画家を連れて来て、「これは王女命令です」と言って実花にポーズを取らせた事があった。あの時はどういう意図があったのか分からなかったけれど、全てはこの巻物のためだったのだろう。

 それはともかく、実花はネルカと一緒に巻物を読み始めた。


 結論として、面白い読み物であった。あったのだが。

「これ、全然違う……」

 と、読み終えた実花は呟いた。

 魔人進攻の噂を聞きつけた実花は、遠い島国から帝都グラウを訪れた。その熱い想いに心を打たれたメメルカ・ノスト・アスセラス王女殿下が、自らの親衛隊から選りすぐりの三名を実花に与えて、魔人討伐に送り出すという始まりだ。出だしから嘘だがこれは仕方がない。異世界から召喚したと言っても誰も信じるとは思えないのだから。

 けれどその後出てくる魔人は、しつこいぐらいに下劣で卑怯で最低な生き物として書かれている。町は町で、人間を拷問した跡や、陵辱した跡があると言う記述すらある。

 実花達一行は、魔人の所業に怒り、戦いを挑む。一部の魔人は人間を盾代わりに使い、仲間であるはずの魔人を巻き沿いに実花達を殺そうとしてくる。それでもからくも大将であるズンガを打ち倒す。けれども満身創痍の状態でズンガの部下達を全て倒すのは不可能だった。実花達は決死の覚悟で逃げ出した。

 無事に帝都に辿り着くと、王女に迎えられてパレードを行い、そのまま帝王と謁見して英雄と呼ばれるようになる。

 実花が知る限りでは、町に拷問や陵辱の跡はなかった。それに魔人は人間を盾にしなかったし、仲間同士とても大切にしあっていたように思う。でなければ、実花がズンガを倒した時、あんなに魔人達は泣いたりはしなかったろう。全く嘘が混じっていない箇所は、せいぜい帝都に帰ってからの話だけだ。

「確かに違う所が沢山ありましたね」

 と、ネルカは同意した。

 実花は「うん」と頷く。

「でも、いいのでは?」ネルカは続けて言う。「人気が出ればますますミカ様の名前が広がります。それにお兄様が読めば、元気にやっていると安心なさると思います」

「そう、かな。……むしろ、心配すると思う」

「それなら、なおさらミカ様に早く会おうとなさるはずです」

「……うん。そう、だよね」

 実花は、歯切れ悪く答えた。




 キルベルと、『ツムラミカ英雄譚』を書いたエフス・ドフトルは、城にあるメメルカの個室に呼び出されていた。

 メメルカは豪著な椅子に腰掛けている。傍らの机には、『ツムラミカ英雄譚第一章』が置かれていた。

「早速読ませて頂きましたわ」メメルカは艶然と笑う。「とても面白い読み物でした。これならば、みな彼女の事を英雄と認めてくれることでしょう」

「ありがとうございます」

 キルベルとエフスは、同時に言った。

「それにしても、一章目からこんなに面白くしてしまって良いのでしょうか? 後々大変になるのではなくて?」

「一章目は掴みです。初めが面白くなくては読者は離れてしまいます。ですのでこれで大丈夫でございます。後の展開もツムラミカ様次第でありますが、何、つまらなければ面白くすれば良いのです。儂にお任せください。きっとメメルカ様のお目に叶う物を仕上げてみせます故」

 エフスは自信ありげに言った。メメルカは目を細めて微笑する。

「楽しみにしていますわ」

 今後の物語を三人で話し合う。次の話は、聖女候補として教会に呼び出された時の事を出だしにすればいいのでは、メメルカはそう提案する。それは良いですね、とキルベルが持ち上げれば、エフスが、ではこういうのはどうでしょうか、と言い出した。

 そうやって三人で談笑していると、焦った様子で扉がノックされた。

 思わず眉をひそめるメメルカだが、すぐに平静さを顔に映し出して、

「どうしましたか?」

 と、扉越しに尋ねた。

「は、はい!」若い女性の声、メメルカが抱えているメイドの一人である。「き、騎士団長様より連絡がありました!」

 勝利の報告だろうか。しかしそれにしてはただならぬ様子である。

「入りなさい」

「は、はい! 失礼します」

 音も立てずにメイドは入って来た。その顔色は青白く染まっている。

「どうなさいましたか」

「それが……あと一歩の所まで追いつめたものの……思わぬ援軍に会い、撤退したと……」

 敗北、という二文字をメイドは言わなかった。恐らく、グルンガル・ドルガの使者がそう説明する事を避けたのだろう。けれどこれは事実上の敗北であった。

 キルベルも、エフスも、そしてメメルカでさえも、驚愕を隠せない。

 あの生きる伝説の一人である英雄、グルンガルが撤退とは。

「それは、本当ですか?」

 メメルカは動揺を押さえ込んで尋ねた。

「確かでございます。ただ今グルンガル様は、生き残りを連れて帝都に向けて逃走しており、帝王様は、救助を差し向ける事にしたようです」

「分かりました。貴方はもう下がっていなさい」

 メイドは恭しく一礼し、「失礼致しました」と言って部屋から出て行く。

 扉が完全に閉まった事を確認したメメルカは、キルベルとエフスを再び見た。

「グルンガル様が撤退とは……。キルベル様、ありえるのでしょうか?」

「……正直、考えにくいですが……。相手は魔人です。十分にありえるかと思います。少なくとも、私達が相手をしたズンガという魔人は、ツムラミカがいなければ倒す事はできませんでした」

「あの報告は、やはり本当の事だったのですか?」

「はい。レゾッテの魔法も、ゴーガの剣も、そして私の奥の手も、ことごく通じませんでした。グルンガル様でも、まともにぶつかれば、恐らくは倒せない相手かと」

「それほどまでですか、魔人とは。……ではズンガクラスの魔人が、また出て来たという事なのでしょうか?」

「こればかりはグルンガル様に聞かなければ分かりません。ですが、ありえることかと思います」

「……いいではないですか、メメルカ様」

 と割って入って来たのは、エフスである。彼は長く白いあご髭を擦りながら、続けて言う。

「これでツムラミカ英雄譚に新しい物語を加えられると言うもの」

「うふ」と、メメルカは思わず笑みをこぼす。「貴方はやはり、私が見込んだ通りの男ですわね。ですが、良い案です。彼女にもそろそろ働いてもらいましょう。元々その為にいるのですから」




 翌日。

 実花は練兵場で剣を振っていた。しかしながら、今日はゴーガが来ていない。

 だからランニングを行った後は、簡単な基礎訓練をしていたのである。

 荒く息を吐き、肌は汗ばみ、疲労が全身にのしかかっている。素振りをし始めてからかなりに時間が経っていて、力は入りにくくなっていた。けれど限界はまだ先だ。実花は力を振り絞って剣を振る。振り続ける。

 やがて実花の手から、木刀が滑り落ちた。握力が限界を超えていた。実花はふらりと座り込む。セーラー服のスカートが汚れるけれど、気にしていられない。

 汗が地面をぽたぽたと濡らす。激しい呼吸をしながら、実花は茶色い土を見つめた。

「ミカ様」

 近寄って来たネルカが、水筒に入れた水を持って来た。声もなく実花は受け取って、ごくごくと飲んだ。

 口端から水が一筋こぼれ、袖で拭う。

 呼吸を整え、剣をもう一度握りしめた実花は立ち上がった。けれど足腰はおぼつかなくて、ふらふらしている。それでもなお、彼女は剣を振ろうとしていた。

「ミカ様!」

 ネルカは縋り付くように、実花を背中から抱きしめる。

 実花はネルカへ視線を向けた。だけどその目は、ネルカの事を捉えていないように感じられた。

「もう、お止めください」

「……まだ。まだ、足りないよ。こんなんじゃ、全然、足りないの」

「ですが、このまま続ければ、ミカ様のお体が壊れてしまいます」

 実花は動かない。言葉も紡がない。迷っている、とネルカは感じて、念を押す。

「本当に、もうお願いします。お止めください。お願いします」

「……分かった」ため息を吐くように実花は呟く。「ネルカさんがそう言うのなら、止める」

 そうして実花は力を抜いた。ネルカは恐る恐る彼女から離れる。

 名残惜しそうにしていたが、それでも実花は結局剣を鞘へ戻した。

 二人は連れ立って歩いて、練兵場を後にする。帰りの馬車が待つ門へとまっすぐ向かう。

「ツムラミカ様」

 すると、いやらしい笑みを浮かべたキーチ・バルロアが立ち塞がった。ネルカは一歩前に出て、実花の事を庇うみたいに背中に隠す。

「何か御用ですか?」

 口調こそ丁寧だが、ネルカはささくれ立った声で尋ねた。

「……そこまで疲弊してまで訓練する事はないだろう」キーチは気色悪い声で言う。「私の元に来れば良い。そうすれば、苦労なぞせずに済む。メメルカ様の事が気になるのなら、それも心配せずとも良い。私がなんとかする。約束する」

 言い返そうとしたネルカを、実花は片手で制して前に出る。にかりとした笑顔だった。

「おおっ。分かってくれ……」

 喜色に満ちた表情で感嘆とした声を上げたキーチだったが、実花の動きを見てぎょっとした。彼女は柄に手をかけて、緩やかな手つきで剣を抜いたのである。そうしてさらに、切っ先をキーチの鼻先に向けた。触れるか否かの絶妙な距離だった。

「な」

 驚きと恐怖でキーチは目を白黒させた。

 実花は先程の笑顔とは打って変わり、相手を蔑む顔になっている。

「私は、貴方の元には行きません」と、実花は言い切る。「私は、私の力でお兄ちゃんを見つけます。貴方の力は借りないし、そもそも貴方の力では私のお兄ちゃんを見つける事はできないでしょう」

「な、な、何を!」キーチは顔を真っ赤に染め上げて怒鳴り散らす。「お、お前のような小娘に、何が出来ると言うのだ! 黙って私の言う通りにすればいいのだ! それがお前が幸せになれる唯一の方法だと、なぜ分からんのだ」

「貴方に、私が幸せになれる方法を決められる所以などありません」

 実花は、す、と剣を動かす。鋭い切っ先がキーチの鼻先に触れた。赤い血が、小さな玉となって湧き出る。

「ひいっ」

 情けない声を発しながら後退ったキーチは、鼻を手で押さえた。

「次も、力加減を間違えない保証は何処にもありません。それが嫌なら、もう私達の前に現れないで下さい」

「……こ、後悔するぞ! お前など、私の力を持ってすれば、容易く消え去る小さな火に過ぎん! 泣いて謝れば、ゆ、許してやらん事もないがな!」

 喚き散らすキーチに対して、実花は剣で空を斬って睨みつけた。

 ひ、と小さく悲鳴を上げたキーチは、一目散に駆け出して行く。

「お見事です!」

 と、ネルカは称賛の声を上げた。

 それを聞き流しながら、実花は想う。

 幸せになる方法は、きっとあの日に無くなった。お兄ちゃんが目の前でいなくなることで、もうあの時のような幸せな日々は二度と来ないのだ。

 だけどお兄ちゃんを見つける事が出来たなら、喪った幸せが少しでも取り戻せるように思う。

 だから、その時が来るまで、剣を振るい続けると決めた。

 実花は果てのない空を見上げる。

 メルセルウストのどこかで同じ空を見上げていると、実花は信じていた。

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