六十一 音よりも速く

「……もっと速く! 急がないと!」

「あのズンガ様がいらっしゃるのですよ? 慌てなくとも大丈夫では?」

「嫌な予感がするのよ」

「……予感、ですか?」

「そうよ。こういう時の私の予感は良く当たるの。残念ながらね」

「分かりましたよ……ケープ様。部下にもっと急ぐよう伝えておきます」

「ありがとうっ!」





 グルンガル・ドルガとウルガは離れたまま対峙している。

 その周囲を、いつの間にかシーカ・エトレセ含む帝国兵や魔人兵が遠巻きに観戦していた。ここより離れた場所では未だ戦闘は続いており、兵士達の大声や剣戟の音が聞こえてくる。

 脇構えで構えているグルンガルと、ファイティングポーズを取るウルガは双方とも動いていない。グルンガルにとってこの距離は間合いの外。それも一挙に自分の間合いにまで詰める事ができないほど離れている。しかしウルガの身体能力ならば、この距離ですら一息で間合いに入ることが可能だとグルンガルは読んでいた。

 だがウルガとってグルンガルは、何をしてくるのか分からない懐の深さを持つ難敵だ。多種多様な魔法を剣に宿らせて、力の質を変えてくるのは正直に言ってやり辛い。ウルガの速さに対応できる程の剣の腕前は、最上級と言って良いだろう。加えて刀身が見えないあの構えである。おかげで奴が今どのような魔法を剣に使っているのかが分からない。

 けれどグルンガルにはシーカほどの速さがない。ウルガはそこに勝機を見出す他になかった。

 魔人は四つん這いになった。

 来る、とグルンガルは直感する。その直後、グルンガルの視界からウルガが消えた。

 大きな足音が断続的に響く。超絶の速さだ。地面には姿が良く見えないのに足跡だけが残されていく。どうやらグルンガルの周囲を駆け回っているようである。

 攪乱させ、不意を討つ。それがウルガの狙いなのは明らかだ。背後にも回りながら走っているなら脇構えをしている意味はない。ならば、とグルンガルは構えを変更する。腕をだらりと下げて、剣は右手で持った。何処にも無駄な力が入っていない自然体で構える。先程と変わらず、剣にはほんのりとした魔力の輝きが見えていた。

 周囲に気を配る。目ではかすかに見える程度で追いきれない。だから筋力に使っていた魔力の一部分を味覚以外の感覚器官にまわして強化した。

 目で、肌で、耳で、臭いで、全身で感じ取る。

 そして来た。ウルガが背後から迫ってくるのが分かる。

 さっ、と反転しながら剣を振るう。刃はウルガの顔面へと飛び込んだ。

 瞬間、がぎんと剣が停止した。見ればウルガが剣を口で止めている。

 強い顎の力だ。少しも剣が微動だにしない。

 ウルガは剣を咥えたまま、右手を胴に向けて突き出す。

 しかし、グルンガルの笑みを浮かべたその口が、

「甘い」

 と動いた。

 途端、剣に集まっていた魔力が爆ぜた。轟音が轟き、衝撃で起きた風が、周辺にいる魔人や兵士達の身体を撫でる。

「があっ」

 苦しそうに叫びながらウルガは後退った。両手で口元を抑えているが、指の隙間から血が迸る。ぼと、ぼと、と赤い液体と粉砕された牙が地面に落ちた。

 今回グルンガルが剣に纏わせたのは、爆発の魔法であった。無論、グルンガルの魔力では大きな爆発は起こせない。だから相手と剣が接している状態である必要があったのだ。いくら小規模の爆発といえども、零距離から起爆してしまえば相手に大きな痛手を負わせられるのである。

「ぎ、ぎざばあ!」

 怨嗟のような声がウルガの口から発せられた。目は真っ直ぐグルンガルを睨んでいる。

 この程度ではまだ油断は出来ない。グルンガルは再び脇構えで相手と対峙する。

 再び四つん這いになるウルガ。赤くどろりとした血が口内からだらりとこぼれ落ちる。怒りは炎のように燃え上がり、身体を熱くさせた。全身を巡る魔力は、怒りに呼応してより強大になる。

 全速力で突進。

 グルンガルの強化した視力でも視認できないほど速い。その代わり強烈無比な殺気が肉薄するのを感じる。

 剣を合わせる暇はない。グルンガルはがむしゃらに横へ飛び込んで、地面を転がって避けた。同時に強風がさっきまでいた場所を通過する。

 態勢を立て直す。激しい足音が聞こえてくる。苦しむような咆哮が響いている。

 再び襲いかかるウルガ。それをただ殺気を感じ取るだけで避けるグルンガル。

 なぜだなぜだなぜだ。ウルガは分からない。ここまで速く動けるのになぜグルンガルに攻撃が当たらないのか。焦燥する。殺気が増大する。

 グルンガルは剣に魔力を集中させ始めた。刃が青白く輝き始める。

 ウルガは爪で切り裂きにかかった。その姿をこの場にいる誰もが見る事が出来ていない。何が起きているのかすら分からない。

 しかしグルンガルは小さくステップを踏むだけで軽やかに回避した。もはや彼にしてみれば、怒りに駆られたウルガの動きは単調なだけだった。その上何処にいても分かるほど殺気を出している。初めこそ急激に速くなって驚いたが、それだけだ。複雑に動いていた先程の方がよほど厄介だった。

 とはいえ、さすがに攻撃を合わせるのは難しそうだ。剣を振るっても超人的な反射神経で避けてしまうに違いない。

 だから、これだ。

 グルンガルの剣から雷が迸り始めた。同時に上段に構える。

 怒りで頭が熱くなったウルガは、正常な判断ができなくなっていた。故に、グルンガルが放とうとしている剣の危険性に気付けない。むしろ真正面から突っ込むべく、四肢で強烈に地面を蹴飛ばした。次の瞬間には確実に首を飛ばしてやる。決意に溢れる加速。瞬時に迫った。

 しかしグルンガルは至極冷静に、剣をそのまま振り下ろす。

 幾筋もの稲光が剣を中心に走った。激しい雷鳴が轟いたと思うと、雷はウルガに直撃。

「うぎゃっ!」

 という叫び声が発せられ、地面の上をけたたましく転げる。そうして地面に伏せた。身体はびくびくと痙攣し、目の焦点は合っていない。

 しかし息がある。屈強な魔人の身体は、人間なら即死の雷撃でもすぐには死なないのだ。

 グルンガルはゆっくりと近寄った。

 止めを刺すならば今こそが好機。何よりも生かしておけば帝国にとって厄介な敵になる。


 ケープ達は戦場を見下ろしている。

「……ズンガがいない」

 信じられないと言う風に、ケープは言った。

「……本当ですね……一体どうしたんでしょうか?」

 ケープが最も信頼を寄せているルンカナは首を傾げた。

「私の悪い予感は、どうやら当たってしまったみたいね」

「……あ、あれはウルガ様では!?」

「不味い。このままだとやられる! このまま戦闘開始するよ。ウルガは私が助けるから、他は任せた」

「分かりました」

 ケープは眼下へ飛び込んだ。目指すはウルガ。


 空気が変わった。

 魔人の首を斬り飛ばそうとしているグルンガルは寸前で手を止める。

 来る、と直感した時にはもう遅い。

 それは来た。

 グルンガルから一メートルほど離れた場所を一瞬でそれは通過する。なのに強い衝撃がグルンガルを襲う。簡単に吹き飛ばされた。

 次の瞬間には、それの後を追いかけるみたいに爆撃音みたいな強烈な音が轟く。

 一体何が起きたのか。全身に走る痛みをこらえながらグルンガルは立ち上がる。

 ぶーん、という虫の羽音を何倍にも大きくした音が聞こえてきた。グルンガルは音がする方を見る。

 それは、あろう事か中空に浮かんでいた。

 それの背中には蠅の羽が生えていて、めざましいほどの速さで羽ばたいている。目は複眼で、頭からは銀色に輝く髪の他に二本の触覚が生えているが、それ以外はごく普通の女性の身体だった。

 ここに来て新たな魔人の登場に、グルンルは剣を真正面に構えて対峙する。

「へえ」と、魔人は微笑んだ。「貴方がズンガをここまで追い込んだのね。ただの人間なのにやるじゃない」

「お前は?」

「ここで死ぬ貴方に、私の名前何て必要なのかしら?」

「私が死ぬ? 笑えない冗談だな。死ぬのはお前かもしれんぞ」

「ふーん」

 口元に指を当てて面白そうに口角を上げた魔人は、しかし目だけは鋭く細まった。

 グルンガルは剣に魔力を込める。雷がばちりばちりと迸り始める。

 だが、周囲から叫び声が聞こえて来た。それは魔人のものではなかった。帝国兵の叫び声なのだった。

 兵士達は、空を飛ぶ魔人兵に襲われていた。

 いかに屈強な帝国兵でも、空からの攻撃には慣れていない。さらに地上の魔人の攻撃も対処しなくてはならないため、反撃に転じられない様子だ。防戦一方である。戦況は再び押され始めていた。

「どうする?」

 と、目の前の魔人は愉快そうに問うた。

「どう、とは?」

「私もさすがにこのままズンガを放っておけないわ。貴方のせいで虫の息だからね。ここはお互い痛み分けってことで良いかしら? 逃げてくれるなら貴方達を追わないわ」

「……仕方がないな」

 グルンガルは剣を地面に突き立てると、込められていた雷が地上に逃げて行った。それから踵を返し、呆然としていたシーカに命じる。

「撤退だ」




 さらりとした風が吹いている。青空を横切る雲が、不意に太陽を遮って地上に影を落とした。

 グラウ城にある練兵場で、剣戟の音が響き渡っている。

 津村実花とゴーガが、木剣で打ち合っているのだった。実花が剣を振るい、ゴーガはそれを簡単な動作で防いでいる。防戦一方のゴーガは傷一つついていないが、攻撃をし続けている実花の身体は所々痣ができており、中には皮膚が裂けて血が流れている箇所すらあった。

「いいぞ」とゴーガは言う。「だいぶ良くなって来た」

 何故このような事になっているのかといえば、毎日欠かさず一人で訓練をする実花を見るに見かねて、ゴーガがたまには一緒に訓練をしようと持ちかけたのである。とは言え剣の腕前ならゴーガの方が圧倒的に上。それでゴーガが実花を指南し始めたのだ。

「ズンガを倒せたのはたまたま海と言う条件が整っていたからだ。だが戦場では有利な場所で戦えるとは限らない。ならもっと剣を鍛えるべきだ。英雄としてこれからも活躍するためにはな」

「はいっ!」

 そう言いながら実花は、素早く剣で薙いだ。しかしゴーガはあっさりと払いのける。

「甘い!」

 ゴーガはそう指摘しながら、攻撃が途切れた隙を見逃さずに木剣で頬を叩く。

「きゃあ」

 悲鳴を上げた実花は、叩かれた衝撃で後ろへ倒れ込んだ。叩かれた頬に痣が出来た。

 身体のあちこちが、ずきずきと痛む。

「ツムラミカの剣は軽い。だから手数で勝負するしかない。間断なく攻撃をしろ。動作と動作の間の無駄をなくせ。でなければ今みたいに喰らう。分かったなら速く立て。敵は待ってくれないぞ」

 ゴーガは厳しい言葉を投げつけた。

 それでも実花はよろよろと立ち上がる。そもそも厳しくして欲しいと頼んだのは彼女自身だった。

 早く強くなりたいと、真剣に思っていた。それは英雄としての名前をもっと広げるためである。お兄ちゃんと早く再会したいという願いのためである。

「ぼろぼろだな。痛いか?」

 ゴーガは問うた。

「……痛いよ」

「苦しいか?」

「……苦しいよ」

「なら、止めるか?」

「止めない」

 実花の答えに、ゴーガは嬉しそうに口角を上げる。

「ならば、来い!」

「はい!」

 実花は剣を振り上げて、ゴーガに向かう。


 ネルカは心配そうに二人の様子を眺めている。

 激しい訓練のせいで、実花の身体に傷がつくのを見るのは辛い。何度となく止めに入りたくなる。

 でも、そう思う事こそ、偽善なのかもしれない。

 実花が戦争に参加する事をネルカは望んでいる。それは故郷で暮らす家族を守って欲しいと言う願いからだった。しかし実花が傷つくのを見るのは嫌だった。

 戦いに赴けば、怪我をするのは当然の事だというのに。そればかりか、死ぬ事すら起こりえる。

 結局の所、甘えているだけなのだろうと、ネルカは思う。実花には、メメルカ・ノスト・アスセラスによって戦いを強制させられているようなものだ。英雄として名前を広めて兄に見つけてもらうと言うのは、実花自身が後づけで考えた目的に過ぎない。そこにネルカは、自分の願いをも乗せてもらっているのだ。それは彼女に余計な重圧を与えるだけなのは明白だった。

 だからなのだろうか、とネルカは考える。

 先日、キーチ・パルロアに誘われた実花を、ネルカは止めた。訓練が激しくなったのはそこからだった。

 彼女を止めた事に関して、後悔していない。本当に彼女には、これ以上汚れて欲しくなかった。

 けれどそのせいなのか、実花は他に手段がない、とでも言うように、激しい訓練を自らに課した。ゴーガに剣を教えてもらうことになった時も、自分から厳しくして欲しいと頼んでいた。

 そうしてようやく訓練が終わると、ネルカは実花に駆け寄った。

「大丈夫ですか!? 傷を見せて下さい!」

「うん」

 ネルカは早速回復魔法をかけた。ほんのりと魔力が輝いて、実花の身体を癒して行く。変わった事、と言えば、実花が傷の治療を許してくれるようになった。それはただ単に訓練に支障をきたすからという事情からだったが、それでもネルカは実花の役に立てる事が嬉しかった。

「では、明日」

 ゴーガは二人に挨拶をして練兵場から出て行った。

 実花はネルカの回復魔法をぼんやりと見つめている。彼女の手の平から発せられている光は、まるで彼女の優しさを象徴しているように感じられた。

 治療を終えると馬車に乗り込んで帰路に着く。

 ばかり、ばかり、獣が街道を蹴る音が響く中、実花はぼんやりと外を眺めていた。

 ネルカはそうした彼女の横顔を盗み見る。この頃は見る事もなかった暗く淀んだ瞳を彼女はしていた。

「そんなに、無理をなさらずとも……」思わず、ネルカは声を掛ける。「傷だらけになって行くのは、見ているだけで辛いです」

 実花は、つい、と顔をネルカに向けた。

「……ネルカさん、私はね」

 ぽつりと、水滴が落ちて行くみたいに、実花は呟いた。

「マ国の王様……ツァルケェルに、会わなきゃいけないの」

 その表情は、声は、強い決意に満ちていた。

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