六十 狼の魔人

 人間が魔素によって魔物化したのが魔人である。

 その種類は魔物同様に千差万別だが、その中でも他の生物を模した魔人はありふれたものと言えるだろう。

 ウルガもまたその例に漏れない。

 彼の場合は知っての通り狼、と言っても狼に似た肉食生物であるが、を模している。だが模しているのは外見だけではなく、その身体能力も似ている事が多い。また、ごく稀に非常に強力な個体が産まれる事がある。ウルガは間違いなく後者であった。

 なぜそのようなことが可能なのであろうか。はっきりとした解明に至ったわけではないが、この場合肉体全てに魔力が通っていると思われる。そのため常時身体強化をしているようなものだった。獣特有の筋肉と魔力が奇跡的な融合を果たした結果、ウルガの身体能力は通常のそれをたやすく超える事に成功したのである。さらに今はウルガの怒りの感情が魔力をより強大にさせ、身体能力を向上させていた。



 

 ウルガは帝国兵を引き裂きながら、自分の身体がいつもと違っている事に気付く。動きは速く俊敏で、力はより強くなっている。爪も牙も、鋭く堅くなっているように感じる。

 今日は今までで一番調子がいい、とウルガは思った。これなら帝国兵を殺し尽くすことができる。

 魔人が人間か化け物か。そんなことはどうでも良かった。ただ仲間を殺し、ズンガを殺した人間達が憎かった。

 怒りを燃やすたびに身体が熱くなる。身体が良く動くようになる。

 不思議だ。今ならなんでも出来るような気がする。

 その証拠に、ウルガは何人もの帝国兵を殺しながら、傷一つ負っていなかった。


「何だ、あれは……?」

 シーカ・エトレセは、獣を駆りながら呆然と呟いた。

 狼の魔人が兵士と交錯する一瞬間で、相手を屠っている。移動時間も速い、いや速すぎる。一人を殺せば、すぐに次へ向かっている。

 恐ろしい勢いだ。

 気が付けば、帝国軍が優勢だったはずの戦局が、マ軍優勢へと覆っている。

 たった一人でこの状況にしようとは。このような事が出来るのは、帝国軍でもほんの数人しか思いつけない。もちろんシーカはその中に入らない。

 不意にはっとする。狼の魔人が標的をシーカに定めて、一直線に向かっているのである。通りがかりの帝国兵を、ばたばたと爪で切り裂きながら。

 数瞬後には、魔人はシーカに肉薄し、血で赤く染まった爪を振るった。

 全身で怖気を感じたシーカは、剣で受けるのを止めて乗っていた獣から飛び上がって離脱する。魔人の爪はシーカがいた場所を通過し、そのまま獣の脳天を引き裂いた。

 着地したシーカは、重たい音を立てながら倒れた獣を一瞥すると、すぐさま魔人へ視線を戻した。

「ほう」と、感心したかのように呟いたウルガは立ち止まり、シーカを見て言う。「俺の一撃を避けたか。少しはやるようだな」

 剣を中段に構えたシーカの頬を、冷や汗が伝った。こうして対峙しているだけで、相手が凄まじい強者だということを肌で感じ取る。先程の一撃の強さ、速度が脳裏をよぎり、武者震いがした。

「俺の名前はウルガ。貴様は?」

「……シーカ・エトレセ」

「行くぞ、シーカ」

 シーカが喉を鳴らした途端、ウルガが視界から消えた。大きな足音だけが聞こえる。

 視線を巡らせる。見つからない。

 嫌な予感がした。シーカは後ろへ飛んだ。そこにウルガの爪が襲いかかって来た。ち、と爪が頬を掠める。赤い血が一筋流れる。

 ウルガは身を翻し、再びシーカに向かって攻撃を仕掛けて来た。剣で受け止めれば八つ裂きにされる。避けるしかない。

 右からも左からも来る。上からも下からも来る。ウルガの攻撃が速すぎて、回避し続けるだけでやっとだった。

 しかしそれも長く続けられないだろう。それほどまでにウルガの攻撃は苛烈であった。まるで嵐の様だった。

 どこかで攻撃に転じなければ。シーカは圧倒的に劣勢な中、冷静に隙を探す。相手の攻撃は一発でも貰えばどれも致命的になりえるものだ。だが洗練された格闘技術ではない。本能のまま、でたらめな切り裂き攻撃を繰り広げるだけなのだ。けれど力も速さも相手が桁違いなせいで、なかなか隙が見出せない。

「副長を守れぇ!」

 突然近くにいた兵がそう叫んだ。他の兵士達も集まってきて、ウルガを睨みつけて剣を向けている。その数およそ十。

「一斉に行くぞ!」

「や、やめろ!」

 シーカは叫んだ。だが誰も聞き入れない。

「一、二、三!」

 兵士達は一斉に襲いかかる。

「邪魔だ」

 ウルガは周囲を見る事なく呟いた。

 十人ほどの同時攻撃は、しかし当たらなかった。そこにいるはずの魔人は一瞬で後方へ飛んでいた。掠りもせずに兵士達の背後を取る。

 だが兵士達はウルガが何処に消えたのか分からない。驚きで目を見開く。彼らからすれば、ウルガが唐突に消えたように見えたのだ。

 そこにウルガが攻撃を仕掛ける。横に一閃。手近にいた二人の頭部が二つに割れた。

 驚愕し、慌てながら振り返る帝国兵達の只中へウルガは突入。右腕も、左腕も、両の足も使って暴れる。それはまるで竜巻だった。あっという間に兵士達は鎧ごと八つ裂きにされた。血煙が巻き起こる。

 攻撃が終わる瞬間、シーカは魔力を足に込めて地面を蹴った。

 全身全霊の加速。仲間達の犠牲を無駄にする訳にはいかない。

「きやぁ!!」

 腹の底から叫び、渾身の力を込めて剣を振り下ろす。今までこの技を団長以外に防がれた事がなかった。文字通り、シーカの必殺の一刀。

 だがウルガは無造作に左手の爪で受け止める。

 ぎりりとシーカは歯嚙みした。強すぎる。しかしここで諦めるわけにはいかない。ようやく剣を振るう事ができたのだ。ここで受け手に回れば確実に負ける。

 攻めろ。攻め続けろ。

 勝つにはそれしかないのだ。

 シーカは再び振りかぶり、間髪入れずに薙ぐ。ウルガは予想通り防御する。

 フェイントを加えて袈裟懸けに振るう。連続で突く。息を吐く間もなく攻撃を加え続ける。しかしウルガは難なく防ぎ続ける。苛つく事に笑みさえ浮かべている。

 ちくしょうちくしょう。

 剣が届かない。

 それでも、下から上へと斬り上げる。

 ウルガが半歩下がった。切っ先との距離は僅か一ミリ。

 はっとした。隙が出来てしまった。

 無論ウルガが見逃すはずがない。魔人は鋭い蹴りを繰り出す。避けられない。後ろに下がれば足の爪にやられてしまう。シーカは一瞬の判断で前進した。

 相手の脛が脇腹に直撃する寸前、シーカは身を横へ逸らす。浅く蹴りが当たった。

「うごっ」

 それでもシーカは衝撃で横へ吹っ飛び、ごろごろと転がった。

 痛い痛い痛い。酷い鈍痛。腹を抱えて悶えた。

 気持ち悪い物が込み上がり、げえ、と思わず胃液を吐き出す。

 苦しくつらい。脂汗が滲み出る。力が思うように入らない。

 出来る事なら、死んだ振りをして倒れていたい。全てが終わるまでじっとしていたい。

 でも、もちろんそう言うわけにはいかなかった。

 シーカは立ち上がった。

 荒い呼吸を繰り返す。思うように動かない身体がもどかしい。

 空元気を奥底から引っ張り出して、剣を中段に構え直す。

 ウルガは面白そうに口角を上げる。


 グルンガル・ドルガは、戦場を観察していた。

 初めは我らが帝国軍が優勢だった。立てた作戦が次々と上手くいくのは爽快すらあった。戦う兵士達はみな勝利を確信しているのが見ているだけで分かる。

 しかしウルガが登場し、戦場の空気が変わった。

 奴が一人二人と殺していく度に、二人四人と絶望していく。

 そうしてついにはシーカと相対するも、その実力差は歴然だ。

 グルンガルは獣を走らせた。奴を倒せるのは自分しかいない。奴を倒せなければこの戦場は帝国軍の負けになる。

 グルンガルの進行を妨げるように、魔人が立ち塞がる。右腕だけが異様に発達した魔人だった。その魔人はグルンガルと目が合うと、雄叫びを上げながら獣目がけて右腕で殴り掛かる。このままではグルンガルの剣よりも相手が獣を殴打する。そうして奴は、獣を一撃で殴殺する自信があるに違いない。

 グルンガルは眉一つ動かさずに剣を抜く。魔力が刃をうっすらと覆い、淡く輝き始めた。そして剣を中空で横に振った。しかしせいぜい空気を斬るだけだ。

「は」

 奇怪な行動に魔人は笑い出そうとした。だがその瞬間頭部が身体から飛び離れた。赤い血をびしゃびしゃと撒き散らせながら、残された首なしの身体が倒れる。

 グルンガルは魔力で透明な刃を精製し、飛ばしたのである。これにより離れた敵を斬る事が出来るのだ。

 次に現れた魔人は、頭部からのこぎりが生えていた。魔人がグルンガルを睨みつけると、のこぎりが細かく震え出す。ヴヴヴと唸るような音は、凄まじい速度で振動している何よりの証だ。強固な鎧ですら容易く切断できる強力な魔法である。

 対するグルンガルは鋭く小さく回転するつむじ風を刃に纏わせた。

 距離が詰まる。魔人はグルンガルに向けて飛びかかる。一刀両断にするつもりなのは一目瞭然。

 グルンガルはつむじ風の剣をそのまま魔人ののこぎりにぶつけた。振動する剣と風が渦巻く剣の衝突は、激しい火花を散らして金属が割れる甲高い音を鳴らす。

 折れたのはのこぎりであった。

 驚愕で目を見開く魔人の頭部が細切れになる。どぱりと大量の血液が、爆発したみたいに飛び散った。

 すかさずグルンガルは自らの周囲に風を発生させる。飛びかかって来た血を吹き飛ばし、自身は一滴も返り血を浴びていない。そうして何食わぬ顔で疾走し続ける。

 魔人が出てくる度に全て一太刀で切り捨てながら、その速度はいささかも落とさない。凄まじき技量である。伊達に帝国一と呼ばれていない。

 やがてグルンガルは辿り着く。


 狼の魔人の前にシーカが剣を真正面に構えて立っている。だがその足下はおぼつかない。息も絶え絶えで、力が入っていないようだ。

 魔人はにやりと笑うと、シーカに襲いかかった。

 彼女は死を覚悟した。しかしただ殺されるつもりはない。相打ちだ。それしかない。

 が、と金属と金属がぶつかるような音が目前で鳴った。けれどシーカは剣を繰り出していない。代わりに鎧を着た大きな背中が視界一杯に広がっている。

「無事か」

 と、目の前の人物は言った。

「はい」

 感極まった様子でシーカは答えた。数えきれないぐらい見つめたその背中を、どれだけ聞いても飽きないその声の主を、彼女が間違えるはずがない。

 彼は、無論シーカが最も敬愛しているグルンガルであった。そうして戦況をたった一人で覆す事が出来る帝国最強の剣士。

「下がっていろ」

 鍔迫り合いを続けながらそう命じた。

「しかし」

 と、シーカは食い下がった。ここで退きたくなかった。少しでも加勢して、団長の力になりたかった。何よりも足手まといになりたくなかった。

「お前は十分戦った」と、グルンガルは言う。「後はこいつを殺しておしまいだ」

「……はい」

 悔しそうに唇を噛んだシーカは、渋々と後ろに下がった。

「大層な事を言ったが」ウルガは口を開く。「果たしてそれは叶うのかな?」

「やってみなくては、分からない」

「……確かに」

 ウルガは笑みを浮かべた。

 両者は後ろに小さく跳ねて距離を取る。仕切り直しだ。

「私はグルンガル・ドルガ」

「俺はウルガ」

 ウルガは左足を前に出し、両腕を胸の前に掲げる。手の平は開き、鋭く尖った爪を相手に向けた。

 対するグルンガルは右半身を後ろに下げる。腰よりやや上に持った剣の柄の頭を前に見せる。刀身は自身の身体で隠した。いわゆる脇構え。間合いの距離を相手に計らせないための構えである。

 緊迫した空気が流れていた。まるで時間が止まっているみたいだ、とシーカは思う。

 ウルガが動いた。猛烈な勢いでグルンガル目がけて一直線に襲いかかる。

 グルンガルは冷静に迎え撃つ。腰を回転させ、剣を頭上に回して一挙に振り下ろした。

 驚きで目をむいたのはウルガであった。グルンガルの剣は魔法の炎に包まれていた。

 まずい。だが勢いよく飛び出したウルガは止まれない。本能のまま右の爪を剣にぶつける。

 途端、グルンガルは剣の炎を強くする。

「うっ」

 ウルガは思わず苦悶の声を上げた。炎は直接肌に当たってはいないが、それでもものすごい熱が伝わってくる。それにウルガの全身は体毛に包まれていた。このままで身体が燃えてしまう。

 空いている左手を横に振った。態勢は悪く、威力は十分ではない。しかしグルンガルは慌てずに後ろに下がって回避した。ウルガの尋常ではない力を警戒しているのだ。

 そうしてまたも仕切り直し。グルンガルは先程と同様に脇構え。

 ウルガの位置から燃え盛る炎の揺らめきが見えている。どうする、と魔人は考える。

 多少の熱さなら耐えられる。けれど炎が体毛に燃え移ったら? それにあの炎は十中八九魔法のもの。ならば簡単に消せるとは限らない。

 答えはすぐに出た。

 這いつくばり、両手両足を地面に付けた。ウルガは狼の魔人。この構えこそ最速の構え。

 ウルガは目にも留まらぬほどの速度で駆ける。このまま首筋に噛み付き、食い破り、駆け抜けてやる。燃える暇は与えない。

 グルンガルは突きを放つ。

 関係ない。このまま走る。しかし気付く。グルンガルの剣は燃えていない。代わりに渦巻くような風が覆っている。

 驚く間もなかった。

「あが」

 突きを躱すも、風は避けきれない。皮膚が裂ける。血が噴き出す。さらに強風に煽られて狙いを外す。牙はグルンガルの首を掠めるだけだった。

 数メートル離れた所でウルガは停止した。所々が斬れていて、体毛が赤くなっている。

 グルンガルは首から一筋の赤い線が走っているだけだ。そうして彼は表情も変えずに脇構えの姿。

 構えの時に見えていた炎の揺らめきはフェイクだったのだ。空中で炎を発生させて剣に炎を纏わせると思わせた。だが実際には、剣に纏わせたのはカマイタチ現象が起きるほど強力なつむじ風であったのである。

 ウルガは迂闊に踏み込めなくなった。強い、と口の中で呟く。

 そうしてそのまま数秒が経過した。

「来ないのか?」

 と、グルンガルは尋ねた。しかしウルガは答えない。

「ならば」と騎士団長は続ける。「私から行こう」

 構えは崩さずに走る。接近と同時にグルンガルは右から水平に斬りつけてきた。刃は魔力でほんのりと輝いている。ウルガは受けずに後退して避けた。何も起こらない。警戒し過ぎか。

 グルンガルは流れるような動作で左から突きを放つ。狙いは首筋。

 上半身を横に逸らして魔人は回避した。しかしこの動きをグルンガルは読んでいる。ぴたりと勢いを殺すとそのままウルガが避けた方向へと刃が追った。

「なっ」

 驚きの声を思わず上げた。しかし狼の魔人は正しく獣そのもの。野性的な勘と凄まじい反射神経で寸前でしゃがみこんだ。グルンガルの剣は頭上を通過する。

 ここだ、とウルガは反射的に地面を踏み込んだ。人間を圧倒する初速と、その速度を利用した爪による突きを撃つ。

 腹部に当たる直前、グルンガルは振った剣の勢いを利用して身体を反転させる。爪は鎧を掠めるだけに止まった。

 そしてそのままグルンガルは身体を回転させながらウルガに迫る。だが接近しすぎていた。刃では十全な威力にならない。だから柄でウルガのこめかみを打った。

「がっ」

 この攻撃をウルガは予想できなかった。対応できずにまともに喰らう。鋭い痛みと衝撃でよろける。

 間髪入れずに半歩下がったグルンガルは振りかぶり、上からウルガの頭に向けて振り下ろす。

 ウルガは死を感じた。本能的に地面を蹴る。

 グルンガルの剣に手応えはなかった。見ればウルガはただ一蹴りで遥か後方へ下がっている。


 戦闘の様子を見守っていたシーカは、凄まじき攻防に思わず呼吸をするのを忘れていた。

 さすがはグルンガル。その剣技は極まっている。彼に勝てる者が果たしているとはシーカに思えない。シーカを圧倒したウルガですら、主導権を握れていない。

 だが魔人は団長の剣を避け切っている。

 もしもグルンガルの剣に、身体能力では明らかに上のウルガが慣れてしまったら?

 嫌な想像が不意に頭をよぎり、胸の中から不安が沸き立つ。

 それでもシーカは信じていた。

 なぜならグルンガルは帝国一なのだから。魔人如きに遅れをとるはずがない。

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