五十九 獣の咆哮
青い空と白い雲の隙間を通るように、黄色の煙が上がっている。
「見つけたか」
煙を見つめるグルンガル・ドルガは、付近にいるシーカ・エトレセに言った。
「は。返答を送っておきます」
煙はいわゆる狼煙なのである。煙の色で判断しているのだ。この世界においても、遠方の仲間に対する連絡手段として重宝されていたのだった。
しばらくしてから、こちらの方からも黄色の煙が空に向かって伸びていった。相手と同じ色は、了解の意味がある。
「行くぞ」
と、グルンガルは言った。
広い草原を裂くように、石畳の街道が続いていた。
ウルガ達は誰も言葉を発する事なく歩いている。誰もが顔色が優れていない。疲労のせいである。それはウルガも同様だったが、彼の場合疲れよりも他の要因があった。
偵察に送り出したレメとラルが帰って来ないのだ。ウルガはその事が酷く心配だった。
人から見えないレメと、逃げる事に定評のあるラルならば無事に帰ってくると考えていた。見つかる事もまずないはずだった。
だが戻って来ないとなれば、命令を無視して彼らに戦いを挑み、そして破れた可能性がある。嫌な想像だ、とウルガは首を横に振った。まじめなレメにしては珍しいが、きっと報告する事を忘れているに違いない。胸中で渦巻く不安を押しのけて、ウルガはそんな風に無理矢理納得した。
「ベル」
ウルガは隣で歩を進めるベルに声を掛けた。ベルはウルガの顔を見上げる。
「マ王様に繋げてくれ」
「わかった」
頷いたベルは、頭の触覚を立てて黙った。今頃双子の妹であるメルと交信しているのだろう。
ややあってから、ベルは口を開く。
「……なんだ、ウルガ」
ベルの可愛らしい顔と声で、ツァルケェルの言葉をそっくりそのまま話す姿は相変わらず分かっていても違和感がある。
「もうすぐギガルに着きます」
「我々はまだかかる。だが先に出したケープたちはもうすぐ着くはずだ」
「はい。ですが、これは俺の勘ですが、恐らく合流を果たす前に帝国軍と戦うことになるかと」
「そうか。……ケープ達と連絡を取り合う手段がない今、あいつらがあとどれほどかかるかは分からない。それまでどうにか耐えてくれ。決して、無茶な行動はするな。いいな」
「はい。分かっています」
「他にはないか?」
「大丈夫です」
「それなら良い。……うぷ」
「どうしました?」
だがウルガの問いに答えは返って来ない。代わりにベルは触覚を倒した。
ツァルケェルは今は船の上にいるはず。不測の事態が起きたのかもしれない。
「ベル? どうした? 何があった?」
ウルガは思わず焦燥に駆られ、尋ねた。
「マ王様、吐いた」
ベルは事も無げに答えた。
「……船酔いか……」
ツァルケェルは不思議な魔人だとウルガは思う。
部下の前では威厳を持って話しているが、時折どうしようもなく抜けている事がある。書類仕事をさぼっては、ガーガベルトに怒られている話は有名で、ウルガもその瞬間を目撃した事があった。他にも公務を抜け出して町の子供たちと遊んでいたり、商人に吹っ掛けられて相場よりも高い値段で物を買ったりする。そうしてその度に誰かに怒られる。
魔人達は、王様らしい王様がどのようなものなのか良く知らない。とりあえず偉そうな存在だという程度の認識だ。けれどツァルケェルは明らかに違っている。部下達の前では偉ぶっているものの、民にからかわれたりする。王としての威厳はあまりないように思われる。
けれどどういうわけなのか、みんなに好かれる王でもあった。
反面、謎もある。
マ王はグラウノスト帝国に対して酷く憎んでいるが、一体何故憎むようになったのかは分からない。
またいつも灰色のローブで全身を覆い、仮面を被っている。素顔は誰も見た事がないため、人間ではないかと言う憶測も飛び交っている。
だがさすがにそれは違うだろう。なにしろズンガですら一撃で倒してしまうほど強力無比な魔法を使い、しかもこれしか使えないそうである。人間なら様々な魔法を操れるはずだ。出来ないと言う事は人間ではないのだ。
謎、と言えばガーガベルトも謎である。確かマ王とは旧来の知り合いで、ヒカ大陸から来たと言う。もちろん歴とした人間で、元々はグラウノスト帝国の人間だったそうである。なのに魔人に対して悪い感情を抱いていない。むしろ好意的と言って良い。
もちろん産まれた時からドグラガ大陸にいるような人間は、魔人の事に偏見はない。
しかしヒカ大陸の人間は別だ。時折物好きがドグラガ大陸に訪れる事があるが、彼らは例外なく魔人を殺そうとしてくる。そうして魔人の全てが攻撃的な魔法を使えるわけでもない。そのような魔人から殺されるのだ。
だがガーガベルトは違っていた。そんなヒカ大陸の人間をウルガは他に知らない。まさか戦争にも積極的に協力しようとは思わなかった。彼は彼で何かしら思うような所があるのは間違いない。けれどひょうひょうとした性格のせいか、普段の態度からそのことを読み取れるのは困難だった。
ウルガはため息を吐きながら前方を見つめる。無駄に思考を重ねているのは、集中力が途切れている証拠だ。いつ帝国兵が襲ってくるやもしれぬ状況では、それが死を招く一因にもなりかねない。気を取り直したウルガは、再び全方向に注意を向けた。
後少しで港町に着くはずだ。そうすれば元々駐在させていた仲間達と共に、ツァルケェル達が到着するのを耐えながら待てば良い。そうすれば肩の荷が幾分か降りるはずである。元々大将なんてがらではないのだ。前線で何も考えずに暴れる事が、一体どれだけ楽だった事か。
あの戦闘好きのズンガも、同じように考えていたのだろうか。
「……ズンガ、大丈夫? 疲れてない?」
下からの声に反応して、ウルガは視線を下げた。ペルが上目遣いで見つめている。相変わらず無表情の中に微妙な感情がある。
「心配するな」と、ウルガはペルの頭を撫でる。「仲間と再び合流するまでは、疲労なんぞに負けてたまるものか」
そうとも。ウルガにとっては、マ王の事よりも、彼が掲げた夢よりも、幾つもの戦場を駆け巡った戦友達の方が大事なのだ。彼らを無事に生かすことこそが、最も大切なことだった。
だから、とウルガは想う。レメとラルは、今でも生きている。生きているはずだ。だから、早く帰って来い。
そう願わずにはいられない。
ざわり。
ウルガの肌が唐突に粟立つ。全身の体毛が逆立った。気色の悪い悪寒が全身を包み込んでいる。
嫌な予感。それも特上の。
ウルガが背後を振り向くのと、太鼓を打つような轟音が響いたのは同時であった。
続いて叫び声。悲鳴に混じって敵襲と言う大声が聞こえてくる。
帝国軍だ。
魔法砲撃部隊は一斉に攻撃していた。円弧を描くように放たれた魔力の砲弾は、魔人達の頭上へ容赦なく降り注ぐ。
マ軍とはやや離れた位置に帝国軍はいる。
先頭には獣に乗っているグルンガル。右横には、同じく獣に騎乗したシーカと突撃部隊。左横には獣に乗らずに地面に立っているベーガ・アージスと魔法防御部隊。そしてその後ろには魔法砲撃部隊が魔法を撃っている。
グルンガルは冷徹な目で敵を観察していた。
魔人達は混乱し、統制が取れていない。
立ち直る兆しが一向に見えないのも経験の差なのかもしれないと、グルンガルは思う。
このまま魔法で攻撃し続けても良いが、さすがに相手もいずれ対応してくるだろう。
それにこの機を逃す気はなかった。
「突撃部隊、切り込んでかき混ぜよ!」
グルンガルは剣を掲げて命じた。
シーカは不敵に笑う。
「お前ら! 行くぞ!」
シーカ率いる突撃部隊は、雄叫びを上げながら見事な鋒矢の陣形で突撃する。
混乱した魔人達は、呆気なくシーカ達を食い込ませた。獣に騎乗していないマ軍は、突撃部隊の速さについていくことができず、帝国兵の勢いを誰も止める事ができない。
まんべんなく攻撃していた魔法防御部隊は、両脇に攻撃を集中させることで、魔人兵が横から逃げぬように退路を塞いだ。
魔人達は反撃する事もできずにシーカ達に斬り殺されるか、逃げ出した先に降って来た魔力弾が直撃して命を散らす。
「魔法防御部隊、蹂躙せよ」
頃合いを見計らったグルンガルは、続いて命令した。
「分かりました」
あくまでも丁寧に返したベーガたちは、魔法で強化された身体のおかげで、重装備を感じさせないほど速い速度で歩行を開始した。
魔人達はシーカ達によって攪乱され、どう動けば良いのか分かっていない。シーカ達を追う者、逃げる者、何をすればいいのか分からず呆然とする者。統一性に欠けた魔人兵は、本来の力を発揮する事ができていなかった。
そこにベーガ達が接触する。
重厚な鎧兜に大きな盾を持つ魔法防御部隊は、大柄な者が多く、目立っている。しかし魔人達はシーカの方へと注意が行ってしまっていて、ベーガ達が接近している事に気が付くのが遅れてしまった。
もちろん、気が付き、攻撃を加えようとした魔人もいた。だがミスティル製の装備に阻まれて、ほんの僅かな時間稼ぎにしかならなかった。
防御部隊が繰り出した槍は、寸分の狂いもなく魔人たちの急所を貫き、もれなく絶命を味合わせる。その中でも一際異彩を放っているのはベーガであった。
彼は盾を装備していなかった。武器も槍ではなかった。代わりに長柄の斧を巧みに振り回す。斧は魔人の頭を砕き、あるいは身体を両断した。
「おお! メルセル様! ウスト様! この邪悪で哀れな生き物共に、神の救済を与えたまえ!」
神の名を唱えながら敵を蹂躙して行く様は、味方にも畏怖されるほど凄まじいものであった。
戦局は帝国軍に傾いているのは明らかである。
だがグルンガルはこの状況でも少しも油断していない。今戦っている魔人達よりもはるかに強力で残酷な魔人と戦った経験があったからだ。それはつまり、たった一人で不利な状況を覆してしまうほど強力な魔法を操る魔人がいる可能性がある、ということである。
隊の後方は混乱しているようだった。
だがウルガは先に非戦闘員達の安全を確保せねばならなかった。その中には無論ペルも含まれている。
彼らを逃がしたウルガは、真っ先に最前線へと急いだ。
そうして見た光景は、帝国兵に思うがまま殺されて行く同胞達である。
ウルガは怒りのまま吠えた。それは正しく獣の咆哮であった。
ウルガの全身の筋肉が膨れ上がり、臨戦態勢になる。
そうして次の瞬間には、ウルガは爆発的な速度で駆けた。
最初に肉薄した獣に乗った帝国兵を、鋭き爪で獣ごと引き裂く。そのただの一撃で、帝国兵と獣は鮮血を撒き散らせながら死亡した。
だがウルガは少しも気に留める事もせず、次なる標的に向けて叫びながら疾走する。
それはまるで飢えた狼だった。
あらゆる帝国兵を、殺し尽くす。ただそれだけのために、ウルガは爪を振るった。
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