五十八 蜘蛛の糸

朝日が舞い込み、小鳥がさえずっている中、キーチ・バルロアは朝食を摂っていた。

 キーチと、傍らに伴う少年と少女の肌は、心なしかつやつやしている。

 静かで穏やかな時間だ。キーチも機嫌が良さそうである。

 そうした時だ。こん、こん、と扉を叩く音が聞こえてきた。

「キーチ様」扉を叩いた者は、男性の声で言う。「私です」

「……お前か。待っていたぞ、すぐに入れ」

「失礼致します」

 扉が開き、男が入って来た。黒いフォーマルな格好で、紳士然としている。

「何か分かったのか?」

 待ちかねたように、キーチは上擦った声で聞いた。

「はい。行方不明の兄を捜しているようです」

「兄を? それがどうして戦争に参加しているのだ?」

「そこまでは分かっていません。ただ……」

「ただ?」

「どうやら王女殿下に飼われているようなのです。住んでいる場所も、王女殿下の私邸でございます。移動の自由はあまりないようで、今の所は、城の練兵場と私邸を往復している所しか見ておりません」

「王女殿下か……厄介だな。……他はどうだ?」

「申し訳ありません。ガードが堅く、今はこれ以上のことを掴めておりません」

「ふん」と、キーチは鼻で笑う。「まあ、仕方がないか。あの王女殿下の手にあるならな。もういい、下がれ。調査を続行しろ」

「は」

 男は深々と一礼すると、部屋から静かに退出した。

 メメルカ・ノスト・アスセラスが飼い主なら、下手に手出しするべきではない。この辺りで手を引くのが利口というものだ。

 しかし欲しているものが遠ざかれば遠ざかるほど、手中に収めたくなる。しかもツムラミカは、今後見つけられるかどうか分からないほどの逸品である。

「……王女殿下など知った事か。必ず手に入れてみせる」

 キーチは暗い情欲に満ちた目をぎらりと輝かせて、一人呟いた。

 側にいる少年と少女は、ぞくりと身体を震わせて、その言葉を黙って聞いていたのだった。




 今日も今日とて、ネルカ特製のセーラー服姿の津村実花と、メイド服姿のネルカは練兵場に馬車で向かう。

 僅かな道中だけれども、車外に目を向けるのは忘れない。

「あれ?」

 と、不意に実花の目が止まった。

 見間違い? いや、そんなはずはない。

 メルセルウストでは実花がただ一人だけが着ているはずの衣服、セーラー服を着ている女性が目に映ったのである。

「ミカ様は有名人ですから」

 はす向かいに腰掛けているネルカは嬉しそうに微笑んだ。

 つまりはこうだ。先日のパレードで実花の姿を見た服屋が、セーラー服を作ってしまったのだ。そうして英雄が着ている服を自分も着てみたいと、みながこぞって買い求め、今やちょっとした流行になっていた。その流行はいつしか貴族にも波及していたのである。

「い、いつのまにそんなことに……」

 ネルカから説明を受けた実花は、衝撃を隠せない。

「知らないのも無理はないですよ。ミカ様はメメルカ様の私邸と練兵場とを行き来するぐらいでしたから」

「それはネルカさんもじゃない?」

「私はほら、先輩から聞いていましたから」

「そう」

「……あの、もしかしてその服が流行るのは嫌でしたか?」

「ううん。そうじゃないんだけど」と、実花は首を振る。「ただ複雑っていうか」

「複雑?」

「うん。この服はね、私の世界にある学校っていう所の制服なの。学校って言うのはね、私達ぐらいの子達とかに勉強を教える場所なんだ。ほら、教会でも子供達が勉強を教えてもらうじゃない? ああいう感じに似ているの」

「そうなんですか。ミカ様の世界にもそのような場所があるんですね」

「うん。それでね、学校にいた時の事、少し思い出したんだ」

「……帰りたい、ですか?」

「帰りたくない、って言えば嘘になるかな。……でも、私一人で帰るのは絶対嫌。私が帰る時は、お兄ちゃんと一緒なんだから。絶対、それだけは、絶対なの」

 馬車は城に着いた。

 二人はいつものように練兵場に赴くと、そこには人が一人もいない。

「今頃みんな戦っているのかな」

 広い広場を眺めながら、実花は呟いた。

「ええ、きっとそうです」

 とネルカは頷いた。

 実花は腰から剣を引き抜くと、素振りを始める。上から下へ振った剣は、風を切り、ひゅん、ひゅんと小気味よい音を立てた。最初にやり始めた時よりも、随分と様になって来ていると思う。

 無心になって素振りを続けていると、複数の声が聞こえて来た。

 なんだろう、と横目で見ると、数人の貴族達が実花の事を遠目で注目している。壮年の男性が数人と、女性も僅かにいる。中にはセーラー服を着ている者もいて、本当に流行っているんだと、実花は軽く驚いた。

 とは言え、彼らと関わる気はない。そのまま気にしないように剣を振った。

 だが視界に映らなくとも、声だけは勝手に耳の中に入ってくる。話題はもちろん実花の事だ。全般的に讃辞する内容で、特段にけなす事は言っていないようである。

 実花は何だか気恥ずかしくて、思わず頬が紅潮した。

 ネルカの様子を横目で見てみると、彼女は誇らし気である。

 何だかなあ、と思う。この魔法は、別に実花が努力して手に入れたわけではない。手術をして手に入れただけなのだ。その手術にしても、あんまりに痛くて苦しかった。さらには女の子としての尊厳すらも踏みにじるような最低な代物だった。思い出すだけで身震いがするほどだ。

 あの岩の魔人との戦いも、ただただ魔法の壁で押しただけだった。単純な力押しだった。けれどそれは植え付けられた力であって、自分の力ではないと実花は考えていた。そうしてその力で勝利する事は、純粋に努力して努力して強くなってきた人たちを馬鹿にしているように思えて、実花は申し訳ない気分だった。

 貴族達が交わす声に、違う声が混じった。それは聞き覚えのある声だったが、実花は誰の声なのかよく思い出せない。

 だからつい声がする方へと顔を向けてしまった。そこにいたのは、太った男。確か名前は、キーチ・バルロア。彼はどう話をしたのか、貴族達が実花に会釈をしながらその場から立ち去っていく。

 気付けばこの場には、実花とネルカと、それからキーチだけになっていた。キーチは実花の視線に気が付くと、笑顔で会釈をしてから実花の元へと近づいて来る。

「今日も頑張っているね。どうして君はそんなに頑張る事ができるのかね」

 キーチが声を掛けてきたが、実花は素振りを止めずに返事をする。

「……私は、他の方々に比べれば、頑張ってなどおりません」

「謙遜するな。一人で黙々と修行しているではないか。普通はなかなか難しいことなのだよ。一体何が、君をそうさせているのだろう。もしかして、行方不明だという兄のためかな?」

 ぴたり、と実花は振っていた剣を止めてキーチを見た。彼はにやりと笑う。

「どうして、その事を?」

「人の口に鍵はかけられないのだよ」

 そうキーチは答えるが、当然ながら情報元のことは良く知らなかった。だがお喋りと言うのは何処にでもいて、今回もそうしたお喋りが大本なのだろうと推察しただけだった。

 とは言えその推察は正しい。メメルカお抱えのメイドが話したのである。

「可哀想に……」キーチは目を細めて続ける。「大方、戦場で活躍すれば兄が見つけてくれると思ったのだろう? だが再会できる前に君が死んでしまえば意味がない」

「私は、死にません」

「確かにあのような力を持つ魔法を使えれば、そう思うのも無理はない。しかしだね、君は戦場を甘く見すぎているよ」

 キーチは、知ったような顔をして言った。だが実のところ、彼は莫大な資金援助をするが、戦争に参加した事がない。

「そうかもしれません」実花はそうとは気付かずに答える。「ですが、私にはこれしかないんです」

「それは本当かな? 君にはもっと他の手段がある」

 そんな事は分かっている、と実花は思う。でも、他に選べる手段がないのだ。キーチはその事を知らないし、実花自身も話す事が出来ない。どう返すべきか考えていると、キーチは口を開いた。

「例えば、私を頼るという手がね」

「え?」

 予想外の言葉に、実花は目を見開いた。

「私ならヒカ大陸中を調査させて、君の兄を捜させる事が出来る。私にはそれだけの財力と人材がある。私に任せてみないか? その代わり君は、戦いをやめれば良い」

 それは、実花にとってとても甘美な提案だった。

 けれど、頭の中で警報が鳴り響く。思い出すのはネルカに教えてもらった噂。彼にはあまり好ましくない性癖がある。

 噂は噂だ。真実とは限らない。慈善事業に活発で、そこに裏の思惑がないかもしれない。

 しかしそうだとしても、実花は戦わないといけない。実花には自由がない。メメルカに縛られているからだ。

 実花は深紅の首輪に触れた。この首輪さえなければ、今すぐにでも他の手段を行うのに。

「とても、ありがたい提案です。……ですが私は、それでも戦わなければならないんです」

 キーチは、実花の暗い瞳を見て悟る。やはり、メメルカによって戦いを強制させられているのだ。キーチにはそれを止める力はない。だが、交渉次第ならば。

「そうか、分かった。それなら、戦ってもいいだろう。私が君の兄を探して上げよう」

「本当、ですか?」

「ああ。だが条件がある」

「条件?」

「私の家に来て、私の仕事を手伝って貰う」

 キーチは口角を上げた。好色な笑みだった。

 ぞお、とした寒気が実花を襲う。噂はきっと本当なんだ、と直感した。

 しかし、実花はお兄ちゃんを見つけるためなら何だってしてみせる覚悟だった。どんな目に会っても耐えてみせると決意していた。

「お待ちください」

 唐突に声が、割って入って来た。

 声の主は、ネルカだった。




 ベーガ・アージスは、拷問部屋代わりに使用したテントから出ると、部下に後片付けを命じて、団長の元へと向かった。

「終わったか?」

 グルンガル・ドルガは、ベーガの事を一目見るなりそう言った。

「はっ。奴は無事に、救済されました」

「……そうか」

 と頷いたグルンガルであったが、彼自身もベーガの思想についていけない所がある。有能だから重用しているものの、その異常性は帝国軍の中でも群を抜いていた。あるいは異常だからこそ、拷問のスペシャリスト足り得るのかもしれないが。

「それで、魔人共は何処に向かっている?」

「港町、ギガルです」

「ふむ。あそこか。となればこのまま街道を進めば辿り着く。他には何か聞き出せたか?」

「いいえ。彼が知っているのはこれぐらいでした」

「では片付けが済み次第、すぐに出発する。ベーガは指揮権を防御部隊副長に一時委譲し、荷台の上で暫く寝ていろ」

「はっ」

 命令を受けたベーガは、すぐさま行動に移す。

 続いてグルンガルは、側にいたシーカ・エトレセに目線を送った。

「シーカ。お前は突撃部隊から三人選出し、ギガルに向けて斥候を送り出せ。戦闘はなるべく避けるように徹底しろ」

「はっ」

 シーカもすぐに動き出した。

 その後も次々に指示を出していくグルンガルは、内心焦りを感じていた。

 何しろたった二人に思わぬ時間を食ってしまったのである。おかげで魔人共の援軍が間に合ってしまう可能性が増えた。

 やはりは魔人。シーカによれば直接的な威力を持たなかったようだが、実に厄介な魔法であった。おかげで思わぬ痛手を被ってしまった。

 部下達も良い教訓になっただろう。

 グルンガルは慌ただしく動き回る兵士を眺めながら、思惑を巡らせていた。




「くそがっ! あのメイドっ!」

 キーチは帰りの馬車の中で憤っていた。

 後少しでツムラミカをこの手に収められそうだったのに、メイドが邪魔をしたせいで台無しになってしまったからだ。

 キーチの隣に座っているのは、メイドの少女である。彼女は身を震わせながら俯いて、時が経つのを黙って待っている。

「あのメメルカ殿下の事だ! あのメイドも変態に違いあるまい!」

 王女が夜な夜な自らのメイドに躾を施しているのはあまりに有名な噂である。そうして躾けられたメイドは、虐げられる事に快楽を見出すようになることも。

 キーチは自分の事を棚に上げて、ただただみっともなく喚き散らす。

「俺がやろうとしているのは人助けだ! 子供が戦場に立つのが許せんのだ! それを防いでやる代わりにただほんの少しだけ見返りを求めるだけ! それをあの女が! そうだろう? お前もそう思うだろう!?」

 唐突に矛先を向けられた少女は、ぎょっとする。ここで返答を間違えた場合の結果を想像するだけで冷や汗が流れた。

「……はい、私もそう思います。旦那様には大変感謝しております」

「そうだろう、そうだろう!」

 キーチは満足そうに頷いた。どうやら正解だったようだ。安堵した少女は、気付かれないようにほっと息を吐く。

「……見てろよ。絶対にモノにしてやるからな」

 暗い笑い声をキーチは立てた。


 同時刻。

 実花とネルカも馬車に乗って帰路に着いていた。その道中、ネルカもまた怒っている。

「ミカ様。何を考えていらっしゃるのですか?」

 その口調はあくまで丁寧で、声も大人しい。だけど迫力があった。こんなネルカは初めてだった。だけど蜘蛛の糸のような可能性であってもすがりたい実花にとって、可能性の糸を切られるのは嫌だった。

「私は……お兄ちゃんに会いたい。……それだけなの」

 実花は必死の思いでそう訴えた。

「もちろん分かっています。十分に、分かっておりますとも」ネルカは悲しいほど真剣な瞳を向けて言う。「ミカ様がどれほどお兄様のことを想っているのかも、どれほどの覚悟で探しておられるのかも、私は、良く分かっています」

「それなら……」

「ですが、ミカ様がなさろうとしていたことは、私には決して見過ごせないんです。あの男は危険です。それはミカ様も良く分かっていたはずです」

「うん……。でも、私は耐えられる。お兄ちゃんを見つけるためなら何だって耐えてみせる」

「そうでしょうとも。ミカ様ならあの男の要求に見事にこなし、耐えてみせるでしょうとも。その結果お兄様が見つかるかもしれません。ですけれども、あの男の言いなりになっているミカ様を、お兄様が知ってしまったら、どう思うのでしょう?」

「……そ、それは……」

「喜ぶとはとても思えません。悲しむに決まっています。悔しく思うかもしれません。自分のせいだ、と自らを許せないかもしれません。ミカ様は、そんなお兄様を見たいのですか?」

「そんなわけないじゃない! でも私は! それでも!」

 お兄ちゃんに、会いたい。

 実花の苦しいほど真摯な想いは、ネルカの胸に突き刺さった。彼女は本気なのだ。自分の犠牲をいとわないほど兄と再会したいと願っているのだ。

 ネルカは思わず涙した。ぽろぽろと透明な雫をこぼしていく。

「ネルカさん……」

 と、悲痛に呟いた実花の目からも、涙がこぼれて落ちていった。

「そんなに……」ネルカは言う。「そんなにお兄様の事を想っているのなら……お兄様の事を悲しめないで下さい。苦しませないで下さい。笑って出会えるよう、思い出話で花咲かせられるよう、ミカ様とお兄様はそんな風に再会するべきです……」

「でも……」実花はネルカから視線を逸らす。「そんなのもう無理だよ。私は魔人を殺したんだよ。そしてこれからも殺すんだ。私の手は赤いんだよ」

 実花の倫理観が、ネルカにはよく理解できない。魔人は人ではない、魔人は邪悪で、だからこそ死ぬべきだ。そう教えられて来たからだった。しかし実花は、魔人を殺す事に罪悪感を覚えている。魔人を殺す事は良い事なのに。だけど、きっとそれが実花の美徳なんだとネルカは思う。それが実花のいた世界の価値観ならば、自分はそれを尊重すべきなのだろう。

 ネルカは実花の両手を優しく握りしめた。

「大丈夫です。貴方のお兄様ではないですか……。説明すれば分かってくれるはずです」

「うん。私もそう思う……。だから」

「それでも、あの男に従うのはいけません。お兄様が悲しむ顔を、貴方は見たいんですか?」

「……見たく、ないよ……そんなの」

 ネルカは次に身体を乗り出して、実花の事を抱きしめる。

「大丈夫です。そのような事をなさらずとも、お兄様はきっと見つかります。大丈夫です」

 ぽん、ぽんと丁寧に実花の背中を擦りながら、ネルカはそう囁いたのだった。

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