五十五 ウルガは抱き留める

 グルンガル・ドルガの騎士団が出撃しているため、津村実花はネルカと二人だけでいつもの練兵場にいた。

 とは言え、メメルカ・ノスト・アスセラスに訓練を休んでも構わないと言われている。だからこれは自主訓練だ。

 走り込みと、基礎的な素振りを行う。身体を動かしていれば、嫌な事を考えなくてすむ。

「君、ツムラミカだね」

 剣を振るう実花に声がかかった。手を止めた実花は、軽く息を弾ませながら振り返る。

 そこには中年の男がいた。恰幅の良い身体を包み込む服は、金糸や銀糸が惜しげもなく使われており、きらきらと輝いている。やたらと太い手の指には、大きな宝石が取り付けられた指輪をいくつも嵌めている。首にも美しい宝石で構成されたネックレスが巻かれていた。

「……なんでしょうか?」

 実花は警戒心を隠す事なく聞いた。男はそうした彼女の態度に気付かないのか、はたまた気にしないのか、実花の身体を上から下まで舐め回すような視線を送る。

「そんなに小さな身体で戦場に立つとわな。世も末だ。借金でもあるのか? それなら私が代わりに払ってやろう」

 にちゃり、と男は気色悪く笑った。

「借金は、ありません」

「ほう」男は大げさに目を見開く。「なら他に理由があるんだな。どちらにしろ君が戦う必要はないのではないかね? 帝国軍は強い。必ずや魔人どもを倒すだろう。どうだ? 私の所で雇ってやろうか。不自由なく暮らせるだけの金を給与として与えてやる。必要なら、親への仕送りもたんまり送ってやるぞ。どうだ?」

 言葉を譜面通りに受け取れば、この世界における良い人なのかもしれなかった。

 でも、実花はどうしても好きにはなれない。過剰な宝飾具で身を飾る所も、気持ち悪い笑みも、脂ぎった肌も、胸や腰辺りをうろうろしている目線も、何もかもが気に入らない。

 そうして何よりも、実花にはやらなければならないことや、現状から逃げ出す事もできない事情もある。

「お断りします」

 実花は毅然とした態度ではっきりと告げた。

 途端、男が苛立ちを覚える。

「断るのか? この儂の誘いを?」

「はい」

「……いいだろう。だが、考えが変わればいつでも声をかけるが良い。その時が来るまで、私はいつでも待っているぞ」

 そう言って男は、どしどしと足音を立てながら歩き去った。荒々しい足取りは、彼の怒りを体現している。一体だれだったのだろうか。そう考えていた実花に、

「大丈夫ですか?」

 と、いつの間にか近寄っていたネルカが、心配そうな声で聞いた。

「うん」実花は頷いて続ける。「あの人、一体誰だったんだろう? ネルカさんは分かる?」

「……はい。彼はキーチ・バルロア様。国内では特に有力な貴族の一人です。慈善活動に積極的で、身寄りのない子供達を引き取っているそうです」

 そう言うネルカは、なぜだか浮かない顔だ。

「どうしたの?」

 と、実花は思わず尋ねた。

「彼には……あまり良くない噂があるんです」

「噂?」

「その……あまり好ましくない性癖がある……らしいんです」




 ウルガ達は歩き続けていたが、さすがに疲労の色が見えている。特に女子供老人が酷く疲弊しており、明らかに行進速度が落ちていた。

 この辺りで休憩を取るべきだろうか、ウルガは迷う。出来る事なら無理を通してでも進み続けて、援軍との合流地点に少しでも早く辿り着きたかった。だが、それで誰かが倒れてしまうのは本意ではない。

 ウルガは結局、休憩を取る事にした。

 行進を止めると、みんなは疲れ果てた様子でその場に座り込んだ。話をしているのはごく少数で、つまりそれだけ疲れているということでもある。

 ウルガは数人の部下にみんなの様子を見てくるように命じた。彼らも疲れているはずなのに、元気よく返事をして、すぐに動き始める。

 ふと視線をやれば、ペルがへたれ込んでいた。無理もない。そもそもここまで泣き言の一つも言わずについて来ただけでも凄い事だ。

「大丈夫か?」

 とウルガはペルに言った。ペルは大きな瞳を上に動かしてウルガを見る。

「うん……大丈夫」

 弱々しくペルは頷いた。

「そうか。ゆっくり休めよ。まだ先は長い」

「分かってる」

 ペルはマ王ツァルケェルの信奉者である。マ王のために頑張ると、常日頃から言っていた。

 ズンガもまたツァルケェルの信奉者だった。二人の付き合いも長い。

 だがウルガは違う。魔人が人間かどうかなんてどうでも良かった。彼はツァルケェルとズンガが出会うずっと以前から、ズンガの事を慕っていた。マ王になるべきはズンガだとも考えていた。しかしとうのズンガが、マ王になるべきはツァルケェルだと言うから、仕方なくツァルケェルに仕えていただけである。

 だから、マ国が戦争を始めようとした時も、ウルガ自身は興味が沸かなかった。しかしズンガはとても乗り気で、さすがはマ王様、そういった類いの賞賛の声を良く上げていた。そうしてズンガは自ら先遣隊に志願し、マ王はそれを飲んだのだ。

 ズンガが戦いに行く。ならば自分も行くべきだ。戦争に参加する理由など、ウルガにとってその程度で十分だった。

 だが、先の戦いでズンガが目の前で死んでしまった。

 衝撃だった。ズンガが戦いに負ける姿は、ツァルケェルとの戦い以来の出来事で、今でも半ば信じられない。

 悲嘆に暮れ、暫く何もする気が起きなかった。ウルガが再起できたのは、マ王からの連絡だった。

 泣き腫らした目を向けながら、ペルはマ王の言葉を伝える。それは、ズンガの後をウルガが継いでくれないか、というものだった。

 ウルガは断ろうと思った。ズンガが居ない今、マ国に義理立てする必要はない。このままマ国から出て、これ以上関わらずに生きていけばいいじゃないか。

 しかし、ウルガは周囲を見た。みんな聞き耳を立てている。彼らはウルガのマ国に対する忠誠心の低さを知っていた。ズンガに対する忠誠心の高さを知っていた。だから断るかもしれない。そう思っている目だった。できるなら断らないで欲しいと、そう願っている目でもあった。

 思えば彼らとは、長い間同じ釜の飯を食べて来た。共に帝国軍と戦って来た仲間だった。これだけ長い間一緒に居れば、愛着が沸くというものだ。

 ここでツァルケェルの頼みを断れば彼らはどうなるのだろう、とふと思った。まとまめられる者がいなくなれば、このまま帝国兵たちに殺されるのではないだろうか。

 それは、嫌だった。

 そうして、気付けばウルガは承諾していたのだ。

 その選択は、今でも間違っていないと思っている。


 様子を見に行かせた部下が帰って来た。特に異常はないとの事だ。ウルガは部下にそのまま休むように指示をして、そのまま自身も休憩を取る。

 果たしてこのまま無事に合流できるのだろうか。出来る事なら、何事もなく援軍と合流を果たしたい。足止めのために残った魔人達も、無事で居て欲しい。

 さすがに楽観的すぎるな、とウルガが自嘲していると、荒々しい呼吸音を聞いて振り返った。

 一見、そこには誰もいない。だが微かな違和感があり、その違和感の正体をウルガは知っていた。

「……レメ、か?」

「はい」

「あの町に残ったんじゃないのか?」

「……はい。ですが、帝国軍の動向を報告するために戻れと、説得されてしまいました……」

 レメの声は酷く震えていた。

「……そう、か……」

 ウルガは大将として覚悟を決めた。

 二人はみんなが休憩している場所から離れた。レメの報告を、いきなりあの場に居る人たちに聞かせるわけにはいかなかった。

「ここなら誰にも聞かれないだろう。ゆっくりで良い。報告してくれ」

 レメは話し始めた。

 帝国の軍勢が攻めて来た事。これまで戦って来た相手とは全く違い、とても強かったと言う事。為す術もなくみんなが死んでいった事。

 話していく途中で、レメの声に嗚咽が混じった。鼻をすする音も聞こえる。良く見えないが、きっと泣いているのだろう。それでも仲間のために、レメは話す。

 ウルガは黙ってレメの言葉を受け止める。それが将としての責務だとウルガは思う。ズンガも同じ対応をするはずだ。

「……帝国軍は、町を探索した後に私たちを追うと言っていました。きっともう追って来ているはずです……」

「そうか」

 と、ウルガは呟いて、今も嗚咽を繰り返すレメに向けて腕を伸ばした。獣の手がレメの頭に触れる。

「ウルガ様?」

 そう問うたレメを、ウルガは己の胸に優しく搔き抱いた。突然の事に、レメは思わず狼狽える。

「……よく生き残ってくれた」

 ウルガは優しい声を掛けた。それは、レメの心の中で暖かく響く。

「……はい」

 と呟いたレメは、途端に安心感で胸の中が満たされた。

 仲間達の死を何もせずに見守り、倒れる覚悟でここまで走り続けたレメは、ここでようやく安堵することができたのだ。

 多量の涙が、堰を切って一挙に溢れ出した。わああああああ、と大声を上げて泣きじゃくる。それはまるで幼子のようだったけれど、レメには止める事が出来なかった。

 ウルガは、己の身体が涙でどれだけ濡れようとも気にせずに、レメが落ち着くまで抱きしめ続けるのだった。




 帝都グラウにある貴族街に並ぶ家々は、どれもこれも大きい。そうした中でも上位に位置する家の一つは、キーチ・パルロアのものだ。

 その中の一室には、キーチのやや美化された巨大な肖像画が壁に飾られており、会食にも使用できるような長大な机が中央に設置されていた。

 自らの肖像画を背に向けて、派手な椅子に腰掛けているキーチは、金属が触れ合う音を微かに響かせながら、分厚い肉を頬張っていた。その両脇には、二人の給仕をはべらせている。

 給仕は少年と少女である。少年は十代半ば。華奢な体格と細面の顔は、少女と間違えられてもおかしくない。少女の方の年齢はさらに低く、十才前後と言った所だろう。愛くるしい顔立ちで、程よい肉付きがある。

 だが、二人の給仕は怯えながらキーチを見ていた。

 キーチが怒りに震えていたからである。

 原因は、朝、城で実花に誘いを断られたからだ。

 キーチが実花の存在を初めて知ったのは、彼女が帝王と謁見した時の事。彼は実花を見た瞬間、まるで雷にでも撃たれたかのような衝撃を受けた。

 艶のある神秘的な黒髪、なだらかな胸、小振りの尻、ほっそりとした胴、幼さを残した可憐な顔、鳥のさえずりに似た声。あの珍妙な衣服も格別だった。

 欲しい。心底そう思った。

 ベッドの上で共に寝れば、果たしてどのような表情を見せてくれるのだろう。どのような声で鳴いてくれるのだろう。それを想像するだけで、身体の内側から猛るものがある。

 だから、実花が練兵場で剣を振るう姿を見たキーチは、衝動に任せて声を掛けた。

 結果は知っての通りである。

 これまでキーチの物にならなかった女は誰もいなかった。貧乏な家の女なら、金を与えれば親がほいほいと差し出してくれた。あるいは貴族の家で働かせてやると言えば、簡単に着いて来た。

 しかし、実花はそのどちらでもなびかなかった。

 こんなことは初めてだ。非常に腹立たしい。

 キーチは乱暴な動作で肉にフォークを突き立て、大きく口を開けて肉を放り込む。むしゃむしゃと咀嚼する音が口の中から漏れ出た。

 何としてでも手に入れてやる。その思いがますます強くなったキーチは、すでに実花を調査するための人を放っている。あとは報告を受け、いかに攻略するか知恵を巡らせなければならない。

 だが今は、この鬱憤を発散させなければいけないだろう。なにしろ溜め込んだままでは不健康だ。日常に差し支えてしまう。

 キーチは横に居る二人を交互に見た。視線に気付いた二人は、ぴくりと身体を硬直させる。

「今晩はお前達二人にしよう」

 と、キーチはおもむろに言った。

 給仕の顔が赤く染まる。

「……はい、ありがとうございます」

 彼らの視線は床に向けられていた。

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