四十七 街道を走れ
さめざめと雨が降り注ぐ中、石畳の街道の上を、一台の馬車と人が乗った獣が走っている。
このような悪天候にも関わらず、両者の速度は驚くほど速い。獣が良く訓練されているのは言うが及ばず、御者の技量が卓越したものでなければこうはいかないだろう。また水はけの良い道のおかげで、ぬかるみに獣の足が取られない事も大きい。
獣に乗っているのは、大きな剣を背負ったゴーガ、馬車の御者を務めているのはキルベルである。二人は雨具代わりに、黒い衣で全身をすっぽりと覆っている。隙間から見える表情は、雨を気にしているようには見えない。ただ少しでも速く目的地に到着しようという強い意志だけが伝わって来ていた。
馬車の中にも、木窓を開けているにも関わらず、入り込んでくる雨に気にも止めない者が一人いる。
津村実花だ。
彼女はただひたすら街道の端を見つめ続けていた。それは時折通り過ぎていく人がいるからで、兄である稔が今そこにいるかもしれないと言う希望に縋っているからだった。
そうした彼女の事を心配そうに見ているのは、隣に座っているネルカである。彼女は実花が何故濡れるのに構わず外を眺めているのか、その理由を察していた。だからネルカは、何も言わずに、ハンカチで実花の濡れた横顔を拭いてあげているのだ。
しかし対面に座っているレゾッテは、気に食わなそうな視線を二人に送っていた。実花は気付いていないようであったが、ネルカは何処と無く気まずそうである。
「ねえ」
と、レゾッテは声を掛けた。実花とネルカはレゾッテの方を向く。だが視線を留めたのはネルカだけで、実花はまたすぐに窓の外へと向けた。
「雨が入ってくるから、窓を閉めて欲しいのだけれど」
レゾッテは目を細めて要求した。その目線は実花に注がれている。
「……申し訳ありま」
「私は」ネルカが代わりに謝罪する途中で、レゾッテの声が遮る。「ツムラミカ様に言っているのよ」
それで実花はようやくレゾッテと向き合った。レゾッテは口角を上げ、首筋を指で軽く押さえながら言う。
「それで、どうなのでしょう。私雨が気になりますの。閉めて下さらない?」
「……分かりました」
実花は素直に窓を閉めた。
「いいのよ。無理を言ってごめんなさい」
レゾッテは謝ったが、少しも申し訳なさそうにしている。それよりも、むしろどこか愉快そうでもあった。
「あの」
声を上げたのはネルカだ。
「何?」
と、レゾッテは応じた。
「あなた様はご存知なさらないでしょうが、ツムラミカ様は、行方不明の兄を捜しているんです。どうか……」
「いいの」と、今度は実花がネルカの声を遮って、言う。「本当に、いいの」
「ですが」
「ううん。いいの。それに例え見つける事ができたとしても、この馬車は今更止まれないから」
だけど、とネルカは思う。だけど、それならどうして、閉まった窓の方へ未練たっぷりな顔を向けているの?
「れ、レゾッテ様。どうか窓を開ける許可を」
「いいの!」
実花は声を荒げた。
突然の事で驚くネルカ。
実花ははっとして、すぐに冷静さを取り戻したかのような抑えた声量で言う。
「ごめん、ネルカさん。でも……本当にいいから……」
「あ、その、こちらこそ差し出がましい真似をしてしまい、申し訳ありませんでした」
馬車の中の空気が、重たくなった。
しかしそんな中で、にやついた笑みをレゾッテだけがただ一人浮かべていた。
いつの間にか雨が止んだ。獣が石畳を蹴る音だけが馬車の中で響く。
レゾッテの許可を取った実花は、早速木窓を開けた。どうやら融通が効かないわけではないらしい。
そうやって暫く走っていると、視界の先に大きな壁が見えて来た。
「あれはベネトです」
と、ネルカが教えてくれた。帝都の次ぐらいに美しい町だそうである。
しかし馬車は、町を大きく迂回して疾走する。この町には寄らないのだ。そう思うと、実花は残念な気持ちになる。
でも、仕方がない。今は戦争中で、実花たちは戦うために走っているのだ。実花の私情が優先されるわけがない。
だけどもしもあの中にお兄ちゃんがいるのなら、実花が有名になれば良いのだ。町の中の隅から隅まで伝わるぐらい有名に。そうすれば、きっと必ず、あの兄が会いに来てくれる。
実花の手に自然と力がこもった。やってみせる、と決意を新たにする。
馬車はさらに疾駆する。
道中にあった教会らしき建物も、馬車は意に返さない。
昼になれば道の真ん中で停止して、食事も兼ねた休憩を取る。これには獣を休ませる意味もあった。
料理を作るのはメイドであるネルカの役目。彼女が背負っていたリュックサックには、料理道具が一式入っていたのである。まずはレゾッテが魔法で火を起こし、それからネルカが帝都であらかじめ用意しておいた食材を使って、慣れた手先で手早く調理した。
「お屋敷のコック様には敵いませんが」
と、彼女は謙遜しながら料理を出した。鳥のもも肉と野菜を煮込んだスープである。それからあらかじめ生地に小さな果物を入れて焼いたパルツも用意した。
「美味い!」
一口食べたゴーガが吠えた。続いてキルベルも、レゾッテすらもネルカの料理を褒めた。
思えばネルカが作った料理を食べるのはこれが初めてである。実花もスープを匙で掬い上げて口に含めた。優しい塩味が口の中で広がった。
「おいしい」
と、実花は隣に座るネルカを見ながら言った。
「ありがとうございます」ネルカは一度礼をしてから、言葉を付け加える。「ですが、帝都の食材が良いからでございます」
「そんなことはない」と、ゴーガが言う。「俺が作っても、ここまでの味にはならん。十分おいしいぞ。もっと誇れ。謙遜などするな」
「そこの筋肉馬鹿の料理は野暮ったすぎてあれですが」と、キルベルは茶化してから続ける。「あなたの料理は本当に美味しいですよ。この旅の楽しみが出来て良かったです」
「本当に、そうよねえ。ネルカさんが一緒に来てくれて良かったわ」
レゾッテも舌鼓を打ちながら同意した。
ネルカは照れて、顔を赤くさせている。そんな彼女の事が、実花は自分の事のように誇らしく感じた。
「みなさん、おかわりはまだあります。如何ですか?」
みんなこぞって椀を出した。ネルカは少し困ったような表情を浮かべていた。
食事を終えて出発する。
馬車の中では相変わらず会話がない。実花は窓の外を見続けているし、ネルカも窓の外を見て実花に協力している。レゾッテはそうした二人の事を興味深そうに眺めていた。
やがて日が暮れた。これ以上の移動はもう危険だ。獣を停止させる。幸いな事にこの辺りは起伏のない草原である。必然的に野宿をすることになった。
ネルカが晩ご飯を作っている間に、四人で二つのテントを設営する。男用と女用である。
実花にとってキャンプはこれが初めてだ。だからなんだかワクワクする。
調理を終えたネルカが四人を呼んだ。シグルミの肉を焼いたもの、スープ、パルツが今晩のメニューである。食べてみるとやはり美味しい。みんなこぞって絶賛した。
二つの月が半月になって浮かぶ。あらかじめ聞いていたものの、初めて見た実花は驚いた。
「本当に、月が二つある」
ネルカとしては月が一つしかない事の方が驚きなのだが、感嘆する実花の顔を見るのは嬉しかった。この世界には醜い物が沢山あるけれど、綺麗な物も色々ある。それを実花に知って欲しかった。
「夜這いしたら、燃やすわ」
レゾッテが男二人に忠告した。縮み上がる二人。その様子を見る限り、彼女は本当にやりかねないのだろう。
そうして二組に分かれて就寝した。明日も早いから早めに寝なければいけない。きちんと寝れるか実花は心配だったけれど、身体は思いのほか疲れていたのか、目を瞑ったらすぐに眠りについた。
日の出とともに目が覚める。朝食は、細かく切った甘い果実が生地に入っているパルツと、昨日の残り物であるスープだ。
食べたら全員で片付けて出発。
数日が経った。途中の町で食料を仕入れながらの行程だ。だが町に寄ったからと言って、実花には稔をきちんと探す暇はなかった。何よりもレゾッテがそれを許してくれない。
そうして、目的地に辿り着いた。とは言え、魔人が占領している町にいきなり出向くわけにも行かない。近隣の森の中で降りて、木の影から様子を眺めた。
当初の情報通り、背後を絶壁と海で守らせた天然の城塞都市に魔人たちはいた。この城塞都市は、かつての戦争時には一度も敵国に占領された事がない難攻不落の砦であった。しかしこうも容易く魔人の物にされたのは、彼らが想像以上に強力だったことに加えて、町の兵士の人数が足りていなかったのと、油断があったからだろう。
「それで一体どうするのぉ?」
ひっそりとした声で、レゾッテが誰ともなく尋ねた。
「……今日の夜は月が隠れる日です。私が潜入し、情報を集めて来ましょう」
キルベルが発案した。
「一人でか?」と、ゴーガが言う。「危険ではないか?」
「むしろついて来られる方が危険ですよ。他の者は、交代で見張りを頼みます」
「分かったわ」と、レゾッテが頷く。「確かにとりあえずはそうするしかなさそうね」
木々の中に紛れ込むようにテントを張ると、キルベルは早々に眠った。
ネルカは食事の準備をし始める。だが火を使うと魔人たちに気付かれる恐れがある。なので保存食である干し肉をパルツに挟み、魔法で熱のみを発生させてじんわりと暖めた。これで少しはマシになる。
キルベルを除いた四人で先に食べて、ネルカと実花以外が先に寝た。
そうして太陽は落ちた。月も見えないため森の中はとても暗い。
獣の声がやけに響く。レゾッテがあらかじめ獣除けの魔法をかけているため安全なのは分かっているが、それでも実花は怖くなった。
それでも仕事はこなさないといけない。実花は木々の隙間から町の様子を見た。さっきまで点いていた灯りが少なくなっている。そろそろだろう。実花はキルベルを静かに起こした。
彼はすぐに目覚めてくれた。男の人を起こすのは兄以外ではこれが初めてだ。思わずお兄ちゃんだったらなかなか起きないんだよなあ、と思い出してしまう。だけど感傷に浸っている場合ではなかった。
キルベルがまずしたのは腹ごなしだ。がつがつとすごい勢いで食べる。その癖、音は一切出さない上に、いつもよりも少ない量で食事を終えた。
次に彼は、数本の黒い短剣をベルトに嵌め込み、黒塗りのプロテクターを真っ黒くて厚い革の服の上から装着した。ズボンも厚い革製で、色はもちろん黒だ。暗くて良く見えないはずなのに器用に付けるなあ、と実花が関心していると、魔法で夜目が効くようにしているのだと説明してくれた。
「それでは行ってきますね」
キルベルは、まるでピクニックにでも行くかのように笑顔を浮かべて、黒いフードを被った。その一瞬の後には、もう姿形が見えなくなっている。
忍者みたい、と実花は思った。
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