四十一 読書

 あれから何度も何度も手術が行われた。

 休みの日を挟んでいるが、それでも津村実花の負担は相当の物だった。

 苦痛は確実に彼女の身体と心を蝕んでいく。日に日に元気がなくなっていき、口数が随分と減った。

 それでも実花は手術を受け続けていた。

 そうして、今日もまた手術の日であった。


 ネルカはほうきを持って床を掃いていた。

 あまり汚れてはいない。散らかってもいない。

 部屋の主である実花は、とても綺麗に使ってくれている。とは言え、散らかるような物が何もないのだから、当然と言えば当然だった。

 今頃ミカ様は手術を受けているんだろうな、とネルカは思う。

 魔法を使えるようにするための手術なのだと言う。それがどのようなものなのか、ネルカは聞かされていない。ただ実花が初めて手術を受けたあの日、彼女はとてもつらそうだった。それだけで手術が酷いものであることだと分かる。

 それなのに実花は、更なる手術を受ける事に同意した。あんなに小さな身体が震えて、あんなに顔色を悪くして、見ている方が気の毒になるほど怖がっていたのに。

 彼女にとって兄は、それほど大切な存在なのだろう。

 ネルカは天井を見上げた。大きくて高くて、美しい装飾がされた天井。ネルカの実家よりも広い部屋。

 思い出すのは、家族の事だ。

 ネルカはスラム街にいた。父がいて、母がいて、弟がいた。とても貧しかった。パルツ一個で一日を過ごさなければならない日が普通だったぐらいには。

 父も母も働いていたのにどうしてあんなにお金がなかったのかは、今でも分からない。

 夜遅くまで帰って来ない両親の代わりに、弟の面倒を見るのがネルカの仕事だった。特に弟は、ネルカの踊るような火の魔法が好きだった。魔法を見せれば、手を叩いてはしゃいで、とても楽しそうにしてくれた。弟の笑顔を見るのが、ネルカの唯一の楽しみだった。

 でも、ネルカも、弟も、当然ながらやつれていた。食事が足りていない証拠だ。

 そうして空腹に耐えるのに必死な毎日の中で、変装をしたメメルカ・ノスト・アスセラスが、どういうわけか通りかかった。彼女は、ネルカを一目見て気に入ったのだそうである。

 王女なのだと身分を明かした上で、ネルカを私邸で働かせないかと、帰って来た両親に持ちかけた。親は迷った。でも、ネルカ一人がいなくなるだけで、他の三人の食べる量が増えるのだ。何よりも育ち盛りの弟にとって、それはとても大事な事だった。結局、両親はメメルカの提案に頷いた。

 それが最善なのだとネルカも納得している。弟と離れるのは辛いけれど、断る理由もない。

 こうして、ネルカはメメルカの私邸で働く事になったのである。

 それからネルカは実家に帰っていない。仕事の都合で帰れるほどの時間が取れないからだ。けれどまとまった時間があっても、きっと会わないだろう。単純に顔を合わせづらかった。

 仕方のない理由があるにせよ、両親が王女殿下に一人娘を売ったのは事実だ。ネルカ自身は親に対して感謝こそあれど、恨む気持ちは毛頭ない。だけど、家から出たときの親の申し訳なさそうな顔が印象に残っている。彼らはネルカとの別れを惜しむはずの弟を会わせなかった。近所の家に預けさせた。

 苦渋の決断だったのだと思う。きっと親は、ネルカが恨んでいると思い込んでいる事だろう。それに、弟にネルカの事をどう説明したのかも分からない。

 だから、きっと、会わないのが最善なのだとネルカは考えていた。

 こん、こん。扉を叩く音が聞こえた。

 ネルカは近づいて、おずおずと扉を開く。

 先輩のメイドが、実花をおぶって立っていた。実花は、初めて手術を受けた日と同じように意識を失っている。

 先輩は実花をベッドの上に寝かしつけると、すぐに部屋から出て行った。

 それを一礼をして見送ると、扉を閉めて、実花が眠るベッドの側へ近寄った。

 苦しそうな寝顔。冷や汗をびっしりと掻き、一筋の涙が目から流れている。

「……お、にい……ちゃん……」

 呻くような寝言が実花の口から零れた。

 彼女は本当に兄の事が好きなんだろう。それこそこんな目に遭いながらも、兄との再会を諦めないぐらいには。

 もしも弟がミカ様の兄と同じようにいなくなったら、とネルカは想像する。きっとミカ様と同じように何としてでも探そうとするに違いない。だけど彼女と同じ手術を受けるかと問われれば、分からない。痛いのも苦しいのも嫌いなのだ。弟のためにそこまで出来る自信は、正直言ってなかった。

 だから、ミカ様は強い、と思う。

 いつ彼女の専属から外されるか分からない。それはメメルカ様の気持ち次第だから。でも叶うのならば、せめて彼女が兄と再会できるその日までお世話をしてあげたいと思う。


 酷い悪夢を実花は見ていた。

 お兄ちゃんがずたずたになっていくのを、ただ見ているだけしかできない自分がいた。手を差し伸ばしても届かず、どれだけ走っても距離は変わらない。あらん限りの声で叫んでも稔には聞こえない。すぐ近くでお兄ちゃんは苦しんでいて、痛がっているのに。それが自分の身が引き裂かれていくみたいでとてもつらかった。

 そうして目が覚めた。

 夢だったと気が付いて安堵して、それからすぐに不安になる。お兄ちゃんは本当にこの世界にいるんだろうか。

 幾度となく抱いた疑心は、着実に実花の中に積もっていた。

 かたかた、かたかた。身体が震える。涙が流れる。

 嗚咽する口に、手を当てた。

 蒼白な顔面。

「……ミカ様」

 と、声がかかった。実花は目だけを動かす。ネルカの顔があった。

「……大丈夫ですか?」

 尋ねる声は、悲しそうだ。

 実花はネルカの優しい瞳を見つめた。

「……怖いの」

 ふと気付けば、そう呟いた自分に気付く。

「怖い?」

「うん」と実花は頷く。「お兄ちゃんがこの世界にいなかったらって思うと、怖いの……。すごく怖いの。もしそうなら、私はもう、お兄ちゃんに会えないってことだから……」

「ミカ様……」

 ネルカは靴を脱ぎ、「失礼します」と呟いてからベッドに登る。ぎしり、とスプリングが軋んだ。それから、実花の事を抱きしめる。

「大丈夫です」ネルカは実花の頭を優しく撫でながら言う。「お兄様はきっとこの世界のどこかにいらっしゃいます」

「でも、そんな確証はどこにも……」

「確かに確証はありません。ですがお兄様はミカ様の時と同じように消えたのでしょう?」

「うん」

「それなら、この世界にいる可能性が高いと思います。ですから、大丈夫です。ミカ様が諦めない限り、お兄様は絶対に見つかります」

「うん……ありがとう、ネルカさん」

 実花は少しだけ元気が出た。もしもネルカが側にいてくれなかったら、不安と恐怖で圧し潰されていただろう。だから彼女には感謝してもしきれない。


 朝食を食べ終えて、部屋に戻って来た実花とネルカ。

「頼まれていた書物を持って参りました」

 と、ネルカは、手に持っていた一本の巻物を机の上に置いた。

 実花は「ありがとう」と礼を述べて、巻物を手に取ってみる。そこには『ガーガベルトの大冒険』と書かれていた。実花はメルセルウストの文字も無事に読めること確認すると、椅子に座って、巻物の封を解いて広げた。

 流れるような文字が、巻物の白い紙一杯に広がっている。

「私はもともと字が読めなかったのですが」とネルカは言う。「先輩から字を教えてもらった時に、この書物を教科書がわりに使いました。グラウノスト帝国で最も有名な物語の一つで、実際に起きた出来事を元に書かれているらしいです。それに、魔人の事に関しても詳しく書かれていますので、ミカ様の参考にもなるかと思います」

「うん。早速呼んでみるね」

 実花が読み始めると、ネルカは派手に装飾された急須を丁寧に持って、花柄のコップにお茶を注ぐ。それから、そのコップを実花の机の上に置いて、自身は部屋の隅に移動した。

 実花は物語の中に没頭しているようだ。

 彼女は元いた世界でも良く書物を読んでいたそうである。その事を知った時、ネルカはまたもや驚いた。何しろ書物はとても高価で、平民が持つ事は凄く珍しい。ましてや、スラム街の住民ならば、書物を所持する事など夢物語にも等しいことだった。

 けれど実花が住んでいた国では、文字の読み書きは殆どの人が普通にでき、書物も沢山所有する事が出来るのだと言う。

 夢みたいな国だ、とネルカは思う。

 実花が話す地球の話は、どれもこれも信じ難い。二つの月にあると言う楽園は、もしかしたら実花の世界と良く似ているかもしれないなあ、と思えるほどだった。

 だけど地球にある国は、必ずしも全て恵まれているわけではないらしい。貧困に苦しむ国があれば、犯罪が多い国も多く、戦争をしている国もあると。たまたま生まれた国が恵まれていただけに過ぎないんだと、実花は説明してくれた。

 それでもネルカは、一度実花がいた世界に行って見たかった。科学を見てみたかった。

 実花が書物を読み終えたら、また向こうの世界の事を聞いてみたいと、ネルカは思った。


 読みながら、実花は思う。『ガーガベルトの大冒険』は、稔が好きそうな話だなあ、と。だけど実花は、相変わらず物語を面白いとは感じなかった。

 ただ、魔人に関する記述は興味深かかった。

 魔人と一言に言っても千差万別で、外見が人間とかけ離れた姿の者や、限りなく近い姿の場合もあるそうだ。また、人間は才能さえあれば多くの魔法を使えるが、魔人は特異なものを一つだけしか使えない。何を使えるかは先天的に決まっており、変える事はできないとされている。だがその代わりに、人間には到底扱えない魔法を使えるのである。強力な破壊力を持つ魔法から、何に使えるのかよく分からない魔法まで様々だが、いずれにせよ魔人が凶悪なのは間違いない、らしい。

 書物として面白くするために多少の脚色を加えているのだろうが、とにかくこの物語においては、魔人が危険で邪悪で凶悪な存在であることを殊更に強調して書かれている。

 それが事実であるかどうかは別として、少なくともグラウノスト帝国の人間は、魔人は悪と考えられているのは確かなようだ。

 実花は一息つくと、ネルカが淹れてくれたお茶を飲んだ。暖かくて、ほっとする味で、おいしい。

 当のネルカは、後ろの方で直立不動の姿勢を保ったまま、実花の様子をそれとなく見ている。部屋から出て自分の部屋で休憩を取る事を前に薦めたことがあったのだが、その時は結局、実花の部屋の前で待機し続けていた。これが私の仕事ですので、とネルカが言っていたのを思い出す。だけどなんだか、実花の部屋の中にいる方が気楽そうにも見えて、特別な用事がない限りは、自分の部屋にネルカをいさせ続けることにした。

 色々あるんだろうな、と実花は思う。彼女は自分の事をあまり話さない。こちらから質問をしても、肝心な所は上手くはぐらかせられてしまう。だから色々な部分は分からないけれど、それはきっと実花にいらぬ心配をかけさせないための、ネルカの優しい気遣いなのだろう。

 実際、彼女は雇い主であるメメルカに苦手意識を持っているようだ。メメルカを前にした彼女は、見ていて気の毒になるほど緊張している。もしかしたら、何か酷い事をされているのかもしれない。相手は王女殿下だから、逆らう事が出来ないのは安易に想像できる事だ。

 なんとかしてあげたいと思うのだけれど、今の現状では実花自身にもどうしようもできない。それに、稔を探す事が何よりも優先すべきだと考えている実花にとって、そういう余裕がこれから先に生まれる自信もなかった。

 実花はお茶をもう一度飲んで、読書を再開させた。




 そしてまた、手術の日を迎える。

 いったいこれで何度目だろうか。回数はもはや覚えていない。

 少なくとも、ゴゾルの前で裸になる事にためらいが無くなるぐらいには沢山の手術をこなした。

 手術台の上に行くのも、慣れたものだ。

 小さな刃物を向けられても、動じない。切り裂かれるままに受け入れる。

「ひがあぁぁっ!」

 ただ激痛だけは我慢が出来ないぐらいで。悲鳴だけは、どうしても上げてしまうのだった。

 痛覚なんてなければいいのに。実花は、手術の度にそう思った。そうすれば、お漏らしもしなくなると思うのに。

 だけどここを堪えれば、気絶できる。気絶さえしてしまえば、あとは楽だ。気が付けば終わっているのだから。

 我ながら異常だなあ、と思う。

 狂ってるなあ。

「ぎゃああああ!」

 叫びながら考え事さえしてしまうほど、おかしくなってしまってる。

 失禁してしまっても、冷静に受け止めている自分がいる。

 こんな風になってしまった実花の事を、稔はどう思うだろうか。少し怖い。

 そして、目の前が暗くなる。

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