三十八 お兄ちゃんに会うための最短距離

 三日が経った。

「あふー」

 ちょっとした温泉並みに広いお風呂に浸かった津村実花は、思わず変な声が出てしまった。

 お湯は熱く、肌に染み込んで行くようで、とても心地がいい。それに何か香を焚いているのか、不思議な香りが漂っていて、何だか落ち着く。

 それにしてもまさか異世界に来てこんなに立派なお風呂に入れるなんて思ってもみなかった。この水は何処から来て、どうやって湧かしているのか実花には良く分からなかったが、きっと魔法的な何かで解決しているに違いない。魔法様々である。

 お兄ちゃんもこんな贅沢な風呂に入っていたのかな、と兄である稔の事を想う。まだこの世界にいる事が確定したわけではないけれど、その可能性が高いと考えている。そもそもいなければ困る。でなければわざわざこんな世界に来た意味がない。

 実花は背後で空気のように立っているメイドのネルカを見上げた。彼女は風呂だと言うのにメイド服姿で、手にバスタオルを持っている。湯船の中に浸かる気配は一切なかった。

「ねえ、ネルカさんも一緒に入ろーよー」

 と、実花はネルカに声を掛けた。

「申し訳ありませんが、私にはそのような権利はございません」

「いいじゃない、そんなの。誰も見てないからバレないよ」

「申し訳ありません」

 これまでも実花が何度か誘っても、ネルカは乗って来ない。仕方がないので、これ以上の無理強いは止めておく事にした。きっとそう言う決まりがあるんだろう。

「ネルカさん、夜のお散歩もやっぱりだめ?」

 実花は顔だけを後ろに向けて尋ねた。

「申し訳ありませんが、それもできません。王女殿下より禁止されております故」

 ネルカの表情は変わらないため、困っているのかどうかすら分からない。

「この家の中でも?」

「はい。行き来はトイレと、この浴場のみだと仰せつかっております」

「むー」

 実花は頬を膨らませた。昨日も同じ事を聞いたが、これではいわゆる軟禁状態だ。警戒しなくても逃げ出したりはしないのに。

 実花はため息を吐いて、鼻先まで湯を浸らせた。それから、口の中に溜め込んだ空気を吐き出して、ぶくぶくと湯面を泡立てる。

 この三日間の生活において、外出できない事以外に不満はない。食事は見た事のないものばかりで、母の料理の次ぐらいにおいしい。白くて大きなベッドは、信じられないぐらいふんわりと柔らかくて、全身を優しく包み込んでくれるみたいだった。それにネルカという話し相手だっている。どれもこれも日本にいては体験できない事なのだ。

 でも、お兄ちゃんに会いたいって言う気持ちは、日本にいた頃よりも大きくなっていた。

「……ネルカさん」顔を出した実花は、ゆらゆらと揺れる湯に映った自分の顔を見つめながら言う。「ネルカさんは、稔を知らないかな?」

「……すみません、知らないんです」

「私と同じ黒い髪で……私と同じ肌の色で、目の色も同じで……そんな人を、見た事や聞いた事は……?」

「……ありません」

「それなら、ネルカさんの友達とか、家族とかに、聞いてみてくれないかな……?」

 実花の質問に、ネルカが急に答えなくなった。不意の沈黙が気になって、実花は振り返って彼女の顔を見た。

 ネルカは、沈んだ顔をしていた。実花は何だかいたたまれなくなって、

「ネルカさん……? 大丈夫?」

 と、言った。

 彼女ははっとして、実花を見る。

「あ、その、すみません、大丈夫です。……その、私の友達とか家族とかには、……今は会えないんです。申し訳ありません」

「……そっか……そうだよね。ずっと私に付きっきりだもんね。ごめんね、ありがとう」

「いえ……、力になれず、申し訳ありません」

「ううん。気にしないで。変な質問した私が悪いんだから。空気を悪くしてごめんね。私、もう上がるから」

 そう言って、実花はお風呂から出て、更衣室の中に入った。

 後を追ったネルカは、すかさず実花の身体を拭き始める。

「……自分でやるから、いいのに」

「仕事ですから」

 実花の身体を拭き終えたネルカは、次に実花の着替えに取りかかる。その間、実花は腕などを動かすぐらいで、それ以外に特に何かする必要がなかった。何もかも全て、ネルカがやってくれるのだ。

 なんだかなー、と思う。これが貴族の生活か。庶民生活が身に染みている実花には落ち着かなくて、どうにも肌に合いそうになかった。


 部屋に戻ると、メメルカ・ノスト・アスセラスがいる。今日は地味な格好ではなく、真っ赤なドレスを着ていた。それが驚くほど良く似合っている。メメルカの美貌にかかれば、派手な色彩でさえ彼女の引き立て役にしかならない。

 実花に気付いたメメルカは、優雅な微笑みを彼女に向けた。女の実花でさえ、惚れ惚れしそうな微笑だった。

「お帰りなさいませ、ツムラミカ様」ドレスの裾を両手でちょんとつまみ上げて、彼女は一礼した。「当家自慢の浴場は、如何でしたか?」

「とても良かったです」

 と、実花は返す。メメルカは満足そうに頷いた。

「お食事の方はどうでしたか? 何ぶん、他の世界の方のお口に合うのかどうかまでは、さすがに分かりませんでしたから」

「美味しかったです。それに、やはり私のいた世界の料理とは全然違っていて、新鮮でした」

「そうでしたか」と、メメルカは破顔した。「それは何よりでございます」

「それで、本題は何なのですか?」

 実花は思い切って切り出した。

「ええ、実はですね、例の日取りが決まりました。それは明日です。明日、ゴゾル様が言うには、手術を執り行うとのことです」

「手術、ですか」

 実花は思わず身構える。高度な技術を誇る日本でも、手術は失敗する事がある。この世界の技術がどれほどのものか分からない以上、不安を感じるのは当然だ。

「はい。それから、申し訳ないのですが、手術は一回では終わらないそうなのです。それも、大変な苦痛を伴うのだとか。ツムラミカ様がよろしければ、日取りを改めることも出来ますが、如何致しますか?」

 どうやら中止という選択肢はないようだった。その上で、実花に選ばそうとしている。

 どの道手術を受けなければ、軟禁生活が続くだけだ。そうなれば稔を探す事もままならないだろう。

 悩む必要はない。実花は決断した。

「いいえ。明日、手術を受けます」

 メメルカは薄く笑い、

「では、明日、日が落ちた頃にお迎えに参ります」

 と、言った。それから彼女は、典雅な足取りで部屋から退出した。

 丁寧なお辞儀をして見送ったネルカは、実花と向き合う。何やら心配そうな顔をしている。

「……本当に、よろしかったのですか?」

 急な話をあまり悩まずに決めて、本当にそれで良かったのかと、ネルカは聞いた。

「うん」と、実花はすぐに頷いて、笑顔を見せる。「どうせ、そうするしかなくなるんだしね」

 ネルカは驚いた。

「怖く、ないんですか?」

「……怖いよ」実花は自分の身体を抱きしめる。「気を張っていないと、どうにかなってしまいそうなほど怖い」

「それなら、どうして?」

「……お兄ちゃんに会うための最短距離は、きっとこれしかないと思うから……」

「ミカ様……」

 ネルカは気が付いた。実花の身体が、かたかたと震えている事に。




 翌日になった。

 太陽が沈むのとほぼ同時に、メメルカが部屋の中に入って来た。彼女はとても地味な格好をしている。それは、実花を召喚した日と同じ服装だった。

「では、行きましょう」

 緊張で身を堅くした実花の事をまるで気にせずに、メメルカは冷然と言った。

「あ、あの」

 ネルカは、青ざめた顔でメメルカに声を掛けた。

 しかし彼女は、じろりとネルカを見やる。見たものを凍らせるような、冷たい視線だった。

「……う」

 ネルカはぞっとして、言葉を詰まらせた。メメルカの静かな迫力に押され、思わず一歩後ろに引く。

「あなたはここで待っていなさい」

 と、メメルカは命じた。

「……はい、分かりました」

 ネルカは受諾し、それから実花に申し訳なさそうな目線を送った。

 実花は優しく笑い返す。私は大丈夫だよ、そう言っているようにネルカには見えた。


 メメルカに先導されて、実花は暗い町の中を歩いて行く。

 町の中を歩くのはこれで二度目だ。だが一度目は深夜で、しかも酷い頭痛に悩まされていたおかげで、町の様子を気にかける余裕がなかった。二度目の今回は、これから受ける手術の事で頭が一杯だ。

 それでも見た事のない建物や、見た事のない人々の服装に目を奪われる。

 メメルカは実花を気遣いながら進む。だが、質問ができる空気ではなかったし、そもそもあれこれと聞きたいはずなのに、つい手術の事ばかりを考えてしまっていた。

 そうして、狭い路地の中に入り、ある建物の前に立ち止まった。

 ノックもせずに中に入るメメルカ。実花もそれに続くと、ちょうどメメルカが指先に光を灯した所だった。

 室内の奥に扉があるだけで、他には何も置かれていない。

 メメルカは迷う事なく奥の扉を開き、下へ続く階段を降りて行く。実花は慌てて追った。

 階段は暗く、底が見えない。二人分の足音がやけに大きく聞こえる。

 一つずつ足を踏み下ろすにつれて、実花の心臓の音が大きくなって行く。先の見通しの利かない道のりは、まるで実花自身のこの先を暗示しているかのようだった。

 手術に失敗して死ぬ未来。マ国との戦争に負けて死ぬ未来。この世界には兄がいなかった場合や、兄がすでに死んでいる場合。様々な暗い想像が実花の脳裏を駆け巡った。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られる。

 でも、この道しかないんだ、と実花は首を振って暗い未来を吹き飛ばす。絶対に、お兄ちゃんはいる。絶対に再会できる。そう信じる。

 階下に着く。メメルカは扉を開けた。


 男がいる。

 所々が汚れ、ほつれた灰色のローブで全身を覆い、無精髭を顔面に生やし、酷く暗く鋭い目つきをした不気味な男が。確か、召喚された時にいた、と実花は思い出した。

 その背後には、長方形の台。元は白かったのだろうが、汚れているせいで黒ずんでいる。いかにも堅そうな素材だ。

 男と台の周囲には、雑多な物が置かれている。一つ一つの物を見てみれば、奇怪な頭蓋骨らしき物や、ただの木箱や、何かの実験器具のような物だった。

「紹介します」と、メメルカは実花と向かい合い、手で男を指し示す。「彼は、我がグラウノスト帝国が誇る天才的な魔法学者であるゴゾル様です。ツムラミカ様を召喚できたのも彼のおかげでございます。また、今回手術を行うのも、彼でございます」

 紹介されたゴゾルは、声を発する事も、会釈をすることもない。ただ興味深そうに実花の事を観察してくる。

「それではツムラミカ様。早速手術を行いますので、まずはお召し物をお脱ぎください」

「え……?」

「服を、お脱ぎください。恥ずかしいのは分かりますが、そうしなければ汚れる事になってしまいます」

 理屈は分かる。確かに服が汚れるからあらかじめ脱げと言うのは合理的だ。

 けれどメメルカだけならまだしも、いかにも不気味なゴゾルがいるのだ。中学一年生の実花にとって、それは酷く恥ずかしいし、酷く恐ろしいことだった。

「大丈夫です」とメメルカは優しく笑う。「ゴゾル様には性欲がありません。ツムラミカ様が恐れているような事は起こりませんし、何よりも私がさせません。ですので、安心してお脱ぎください」

 それでも実花は躊躇している。

 追い打ちをかけるように、メメルカは続ける。

「お兄様をお探しになられるためにここに来たのでしょう? あなた様の覚悟はこの程度なのですか?」

 そうだ。ぐずぐずすれば、それだけ稔から遠ざかってしまう。

 実花はぐっと目を瞑った。心の中で呟く。お兄ちゃん、お願い力を貸して。

 実花は服を脱ぎ始めた。

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