三十七 メルセルウストに招かれて

「……お兄ちゃん!」

 兄の稔が異世界に連れて行かれた時の夢を見た津村実花は、涙を流しながら跳ね起きた。

 荒く息を吐きながら、寝る前まで感じていた酷い頭痛がすっかりなくなっている事に気付く。

 周囲を見回してみると、漫画に出てくるみたいな豪華絢爛な部屋だった。

「……え? ここは……?」

 と、実花は呟いて、それから昨日の出来事を思い出す。




 あの黒く四角い穴の中に吸い込まれた実花は、あらゆる色が次から次へと移り変わって行く空間に出た。そこは、上も下も右も左も無く、時間の感覚さえ喪失した不思議な空間だった。

 身体に絡らんだ黒い触手は、どこかに連れて行こうともの凄い力で実花を引っ張っている。

 本当にこれで、お兄ちゃんの所まで行けるんだろうか。半信半疑のまま身体を委ねている実花は、周囲の光景に目を奪われていた。

 綺麗だなあ、と思った。

 幻惑的で、ずっと見ていると何だか心地よくなってくる。夢の中に誘われるように、すとんと意識がなくなった。

 それからようやく目を覚ますと、今度はいつの間にか白い部屋の中にいた。目の前には二人の人がいる。

 一人は灰色のローブを身につけた男だ。彼はドクロのように痩せており、無精髭が口の周りに生えている。実花に向けられた目は、陰鬱な光で暗く輝いていた。酷く不気味で、恐ろしい雰囲気を持っている。

 もう一人は、目を見張るような美女だ。地味な格好をして、鍔の広い帽子を目深に被っているが、その太陽のような輝きを放つ美貌は少しも隠し切れていない。むしろ、生来の気品の良さを際立たせているようにさえ見える。

 不釣り合いな二人である。それが返ってこの場の異様さを際立たせていた。

「……あの」と、実花は思い切って声をかける。「ここは、一体、どこなんですか?」

 しかし、返答は無い。その代わりに二人は何やら話しているが、内容は分からない。何しろ聞いた事の無い言葉だったからだ。

 やがて男は、いやらしく笑んで近寄ってくる。

 実花は本能的な恐怖を感じた。じり、と後退りをするも、すぐに壁に当たってそれ以上行けなくなってしまう。

 男の手が伸びてくる。

 嫌な未来を想像して、思わず泣きたくなる。だが男は気にせずに、両手で彼女の頭を挟んだ。

 瞬間、まるで感電した時のような衝撃が頭に走るのと同時に、膨大な何かが脳内に流れ込んでくる。

「ひ、ぎぃ、っ」

 実花の口から、思わず悲鳴が漏れた。頭の中で、奇妙な言語の知識が急速に増えて行く。それは酷い痛みを伴っていた。

 びくん、びくん、と細い身体が痙攣し、口からはよだれがこぼれ、目から涙を流れていく。何が起きているのか考えられない。ただ痛くて苦しくて訳が分からない。

 それでも実花は男の手首を掴んで、引き離そうと力を込めた。だが、所詮はまともな運動をしていない少女の力。相手がやせ細ったいかにも非力な男であっても、男女の差をやすやすと覆せるわけが無い。男の手は、少しも動かなかった。

 そうして、時間にして数秒のことだったが、実花にとっては数時間にも感じる時間が経った。

「こんなものか」

 ようやく、男はそう言って手を離して引き下がる。

 不思議な事に、実花は男の言葉を理解している。だが実花がその事に気が付く余裕は皆無だった。何しろ頭が破裂しそうなほどの痛みと、急激に注入された言語の知識によって、脳の処理が追いついていなかったのだから。

「あ、ぐ、う」

 激しい頭痛は止みそうにない。それでも気休めに手で頭を抑えていると、「おい。俺の言う事が分かるか?」と声がかかった。

 実花が顔を上げると、男が興味深そうな視線を向けている。

「分かるか、と聞いている」

 再度問う男の視線に、怒りが混じった。何をされるか分からない恐怖が、実花を怖がらせて、何度も頷いて答える。

「お前の名前は何だ?」

「……私、は」激痛に耐えながら、メルセルウストの言葉で答える。「……津村実花、です」

「成功だ。言葉の知識を魔力に乗せて、こいつの頭の中に注入した」

 と、男は喜んでいる。

 気になる言葉があったはずだが、痛みが思考を邪魔している。

 続いて実花は、言われるがままに立ち上がる。すると女性が男を止めた。

「ツムラミカ様は、この国の英雄にならなければなりません。ですから、私に預からせて下さい」

 いたいいたいいたい。どうにかなってしまいそうな痛み。男と女の会話は続いているが、もはやまともに耳に入って来ない。

 二人の会話が終わり、女が実花の手を取って歩き始めた。優しそうな声が聞こえてくる。実花は、大人しく着いて行くしかなかった。


 夜の帳が落ちた帝都の中を歩き進め、辿り着いた場所にはとてつもない豪邸が建っていた。

 女は慣れた様子で中に入ると、入り口の広間にはメイドの服装をした女性たちが横一列に並んで迎え入れる。

 その後で実花は、メイドの手によって住んでいた家の一階ほど広さの部屋に連れて来られ、大人が数人は寝られそうなほどの大きくてふかふかしたベッドに寝かしつけられたのであった。




 目が覚めた実花は、ともかくこれは現実であると認識するほかになかった。明らかに日本とは違うし、ヨーロッパや他の外国でもない。異世界に来てしまったのだ。

 おぼろげな記憶の中で、魔力と言う単語が出て来たのを思い出して、この世界にはどうやら魔法があるらしいと推察する。実際、魔法と考えただけで、メルセルウストの言葉でそれに該当するような単語が頭に浮かんだ。そうして、どうやら男に魔法をかけられて、異世界の言葉を喋れるようになってしまったらしい。

 魔法があり、ここは異世界なのだとすれば、思い起こされるのは『小説家に俺はなる』という小説投稿サイトである。そこではいわゆる異世界物がとても流行っていた。

 だが現状の実花とは違うのは、神様的存在と接触する事はなかったと言う事である。それでももしかしたらと言う念は抑えられる事が出来なくて、

「ステータスオープン」

 と、口走ってみた。

 けれどやはりというか、ゲームに出てくるような表示は何処にも出て来ない。そもそも今の実花に魔法を使える気はしない。

 これからどうなるのか分からないが、何かに利用されるのだけは間違いない。

 しかし一番の問題は、やはり稔の行方だ。本当にいるのかどうか、それだけでも実花は知りたい。

 こん、こん。

 扉をノックする音が聞こえて来た。

「今、よろしいでしょうか? ツムラミカ様」

 そう呼びかけられた実花は、自分の格好を見てみた。セーラー服のままである。

「どうぞ」

 と、異世界の言葉で返す。

 かちゃりと音を立てて扉が開いた。中に入って来たのは、あの美しい女性である。それから彼女の後ろに続いて、実花と同じぐらいの年齢で、青い髪をツインテールにしているメイドが一人入って来た。

「気分はどうでしょうか?」

「……大丈夫です」

 実花は警戒心を露にしながら答えた。

「私はメメルカ・ノスト・アスセラスと申します」と、彼女は美しい微笑を浮かべた。「いきなり呼び寄せられて、さぞかし混乱しているかと存じます。まずは謝罪をさせてください。申し訳ありませんでした」

 実花は無言でメメルカを見つめている。

「この度、あなた様を呼び寄せさせて頂いたのは、他でもありません。あなた様にこの国を救って頂きたいからです。現在、この国……グラウノスト帝国は、かの邪悪で野蛮な魔人たちの国、マ国に侵略され、未曾有の危機にあります。このままマ国に滅ぼされる事があれば、この国だけではなく、この世界全土が破滅へと向かうことは間違いありません。私はそれを、防ぎたいのです」

「……いきなりそんなことを言われても、困ります。それに、私にそんな力があるわけでもありませんし」

「それを可能とする技術が私たちにはあります。あなた様を強い魔法使いにすることができましょう」

「……私の世界に、魔法はありません」

「本当ですか? ゴゾル様からは聞いていましたが、にわかには信じられません」

「はい。当然、私も魔法を使えません。ですので、無理じゃないんでしょうか?」

「……それも大丈夫です。私たちの技術は、それを可能にすることができます」

「そもそも私をわざわざ強い魔法を使えるようにする必要がありますか? あなたがその強い魔法使いになればいいでしょう?」

 メメルカは少し考える素振りを見せる。

「私もそうしたいのは山々なのですが……生憎ながら私はこの国の王女。戦場に出るわけにはいかないのです。それに私たちの世界の住民では、マ国に対抗できるほどの力を身につけることができないのです」メメルカはずい、と身を乗り出して、自分の胸に手を当てて、目に涙を溜めて続ける。「お願いします! あなた様にしか、彼らに対抗できる力を身につける事ができないのです! どうか、どうか私たちを救って下さい! お願い致します!」

 必死の懇願だった。けれど実花は胡散臭さを感じてしまう。なぜなんだろう。涙ながらで、とても切迫した雰囲気を持っていて、王女なのにとても下手で出ているのに。

 ああ、そうか、とふと思う。きっとそれは、彼女が美しすぎるからだ。まるで仮面を被っているような印象さえある。自分が美しいと理解していて、かつどういう風に振る舞えば相手が美しいと感じるのかすら十全に分かっているのだろう。

 だから彼女の発言には恐らく嘘が混じっているし、一つ一つの動作には演技が入っているように見えるのだ。

 そうして、多分実花がその事に気付くのも計算の内にあるのだろう。何しろメメルカは王女である。その気になれば実花を力づくで言うを聞かせる事も出来るのは間違いない。

 つまり実花には選択肢がないのだ。ただ、自分から志願させようとしているだけなのだ。

 それなら、と実花は考える。それならこっちも利用してやろうと。

「一つだけ、頼みたい事があります」

 と実花は言った。

「なんでしょうか? 私に出来る事なら、何でもお申し付けください」

「私には、行方不明のおに……兄がいます。多分ですが、この世界にいる可能性があります。名前は稔です。心当たりはありませんか?」

 メメルカは素知らぬ顔で考える素振りを見せた。

「……申し訳ありませんが、その名前は存じ上げておりません。今は戦時中のため、人手の確保は難しいですが、出来る限り捜索を手伝わせて下さい」

「……ありがとうございます」

 少しの間があったものの、淀みなく返したメメルカに対して、実花は素直にお礼を述べた。

 観察をしてみるものの、メメルカの仮面が少しも剥がれた様子はない。冷静そのもので、一見して嘘を言っているようにはとても見えない。あるいは思い当たる節はないが、確証を得ているわけではないと言う所なのかもしれない。どちらにしろ、メメルカの仮面を剥がさない限り、彼女の真意は分からないのだ。ただ、兄の捜索は期待できそうもないのは確かだった。

 それでも良い、と実花は思った。どのみちお兄ちゃんを探すのは、自分一人の力で行うつもりだったからである。

「他には何かございませんか? 一つだけとは言わず、幾らでも出来る範囲で応えたいと思っております」

「……今は、ありません。ありがとうございます」

「分かりました。それではツムラミカ様専属のメイドをお付けします。所用があれば、この者をいかようにもお使いください。また、この世界について分からないことばかりでしょうから、彼女に教えてもらうと良いでしょう」

 メメルカの後ろで、ずっと静かに待機していたメイドが一歩前に出て、丁寧なお辞儀をした。

「ツムラミカ様のお世話をさせて頂くことになりましたネルカです。御用があれば、いつでもお聞き致します」

「今日の所はごゆっくりお休みください、ツムラミカ様。今後のご予定は、また後日に伺わせて頂きますので、その時にでも話し合いましょう」

 メメルカはそう言って部屋を後にした。歩いて行く姿だけでも品がある。

 メイドのネルカはその場に残った。

 彼女は姿勢を固定したまま何も動かない。

 どうしよう、と実花は思った。


 三十分が経過した。

 ネルカは部屋の片隅でじっと立ったままだ。視線はまっすぐ部屋の壁に注がれていた。もちろんそこになにかがあるわけではない。ただ、部屋の空気になりきっている。そんな感じがする。

 長く青い髪をツインテールにした彼女は、実花と同じぐらいの年齢に見えた。それなのにこんなに立派な所で働いている。素直に、凄いなあ、と感心した実花は、同時に話してみたいと思った。

 よし、と心の中で気合いを入れて、ベッドから降りた。

 近づいてみるも、やはりネルカは一寸たりとも動かない。そこでじい、と表情も姿勢も変わらない彼女の顔を見つめてみる。ネルカは目だけを動かして実花を見たが、またすぐに何もない壁に視線を向けた。

 こうやって見ていると、彼女の顔はまるっぽくて可愛らしい。地球の人が染めても似合わない青い髪も、彼女は何だか凄く似合ってる。それにきっとその色が地毛なんだろう。もしも同級生にこんな子がいたら、きっと男子たちが放っておかないに違いない。とは言え、このまま何もせずにいても何も変わらない。

「あの……、ネルカさん」

 実花は勇気を振り絞って声を掛けた。ネルカは無表情に実花を見る。

「はい、何でしょうか」

 普通の返事。だけどにこりともしない。もしかしたら嫌がられているのかもしれなかったが、それは仕方のない事だろうな、と実花は考える。突然現れた異世界の人間のお世話だなんて、困惑しない方が普通じゃないだろう。

「その、この世界の名前は、何て言うの?」

「メルセルウストでございます」

「そっか。良い名前だね。私がいた所は、地球っていうんだ」

 ネルカからの反応がない。相変わらずの無表情。

「それでね、聞いてたと思うんだけど、私の世界には魔法がないんだ。ネルカさんは魔法が使えるの?」

「はい、使えます」

「本当? 凄いなあ。私、魔法って見た事ないの。だからちょっとだけ、使ってみせてくれないかな? 簡単なので良いからさ」

「分かりました」

 ネルカは少しも迷う事なく頷いて、右手の人差し指だけを伸ばす。すると指先が輝き始め、そこから小さな火が点いた。

「凄い! 凄い! 不思議!」

 実花は目を爛々と輝かせて、飛び跳ねるように賞賛した。

 ネルカは目を細めて実花を見て、それから指先をくるくると回し始める。先っぽに灯っている火から、一つ、二つ、三つと豆粒みたいな火が分離した。空中に浮かんだそのちっぽけな火は、ネルカの指の動きに呼応して、円を描くように回り始めた。

「わ、わ、わ」

 実花は目を見開いてはしゃいでいる。初めて見る魔法に興奮し、感動していた。

 次第にネルカの手の動きが激しくなって、それと共に中空の火の動きも激しくなる。ついには腕全体をぐるんぐるんと大きく回し、火が部屋の中を駆け巡る。

 そして、動きが最高潮に達したと同時に、パン、と大きく音が鳴って、火がまるで花火みたいに激しく散った。

 ネルカは軽く息を弾ませて、実花を見た。実花は羨望の眼差しで彼女を見ている。

「すっごく綺麗だった! 魔法って、凄いんだね!」

 実花は両手両足を動かして、素直に誉め称えた。

 はっとしたネルカは、恥ずかしそうに俯いて、

「その、これぐらい、誰でもできますので……」

 と言った。

「ううん!」実花は興奮冷めやらぬ様子で言う。「そんなことないよ! だって私、魔法使えないもの! ね! 私にも使えるのかな?」

 ネルカは困った様子を見せたものの、

「え、と。その、まずは、自分の中にある魔力を感じ取って下さい」

 と教えた。

 実花はきょとんとした。目を瞑ったり、うーんうーんと唸ったりする。けれど魔力とか言う不思議パワーを感じ取る事が出来ない。

 それもそのはずで、メルセルウストの人間には魔力器官があり、それは周囲に漂う魔素を取り込んで魔力に変換させる作用がある。だが地球の人間である実花には肝心の魔力器官がないのだ。だから魔法を使えるわけがないのである。

 そうして、不幸な事にも、ネルカはその知識がなかったのだった。

 それでも十分間ほど自分なりに努力した実花であったが、当然ながら魔力を感じる事が出来なかった。

「やっぱり、この世界の人じゃない人には無理みたい」

 てへへ、と実花ははにかんだ。

「も、申し訳ございません! 私が至らないばかりに!」

 ネルカは慌てて腰を直角に折って、頭を下げた。冷や汗が顔面を覆っている。

 どうしてそんなに怯えているのだろうか。そんなに実花は怖く見えるのだろうか。

 いや、違う、と実花は考え直す。怯えているのは、メメルカに対してなのだ。実花は王女の仮面みたいな笑顔を思い出した。実花の知らない仮面の裏側には、恐るべき何かが潜んでいるのだろう。

 そもそもネルカがここで働いているのは、もしかしたら何かしらの理由があるのかもしれない。

 そう考えながら、実花はネルカを見た。彼女は小刻みに身体を震わせている。

 痛ましい姿を見ているのが嫌になって、実花は口を開けた。

「……ううん、いいの。気にしないで。私が変な事を言ったのが悪いんだから」

「そんな……ことは……」

 ネルカは涙で潤んだ瞳を実花へ向けた。今にも泣き出してしまいそうだ。

「私の世界ではね、魔法を使えないのが当たり前なの。だからかな、魔法を使う自分を上手く想像でないの。私が魔法を使えないのは、きっとそのせい。だから、気にしないで。メメルカさんにも、何も言わないから」

「……本当……ですか?」

「うん。だって、ネルカさんは悪くないんだから」

「ありがとうございます……ツムラミカ様……」

 まるで祈りを捧げるかのように両手を組んだネルカは、感激した様子で言った。

 実花は恥ずかしそうにそっぽを向く。こんな反応をされたのはもちろん初めてだった。

「あーその、さ」と、実花は咄嗟に口を出す。「ツムラミカって呼び方は、止めて欲しいな」

「あの、ではどうお呼びすればよろしいですか?」

「実花、でお願い」

「ミカ様……ですか。あの、もしかしてそれは名字なのですか?」

 恐る恐るネルカは質問した。

「あー」と、実花は考える素振りを見せて言う。「ううん。違うの。日本って言う私が住んでいた国では、最初に名字が来て、次に名前がくるんだよ。だから、津村が名字で、実花が名前なの」

「……では、名字があるんですね?」

「うん」

 実花が頷いた途端、ネルカは再度腰を折り曲げた。戸惑う実花を余所に、ネルカは言う。

「……重ね重ね、申し訳ございません! 私、まさかミカ様が貴族であったとは存じなくて……」

「いやいやいや!」実花は慌てて首を振って否定する。「違うよ。私、貴族なんかじゃないよ!」

「え? ですが、名字が……」

「……もしかして、この世界では名字があるのは貴族だけなの?」

「はい。ですので、私は名字を持っていません。ただの、ネルカでございます」

「ああ、なるほど。私の国ではね、貴族とか関係なく、名字が付いているの。というか、まあ、貴族は今の日本ではいないんだけどね」

「……本当ですか? そんなことが、ありえるんですか?」

「うん。少なくとも、私の国ではそうなの」

「……魔法がなくて……貴族がいない……。ミカ様の国は、色々と信じ難いです」

「分かる。私もここに来るまでは、こんな世界があるとは思わなかったよ」

「もう一つ質問をさせて頂いても、よろしいでしょうか」

「もちろん」と実花は快諾する。「何でも聞いてよ」

「魔法がないのは、不便ではないですか?」

「ううん。私たちの世界では、魔法がない代わりに科学があるんだ」

 科学と言う言葉はメルセルウストの言葉の中にはなかった。だから実花は、その部分だけ日本語を使った。

「カガク、ですか?」きょとんした顔で、ネルカは尋ねる。「聞いた事がありません。それはどのようなものなのですか?」

「んー。例えば、魔法で空を飛ぶ事はできる?」

「可能です。魔法の才能に溢れた方ならできます」

「じゃあ、一度に沢山の人を空に飛ばす事は?」

「それは……無理でしょう。出来ても一人二人ぐらいではないでしょうか」

「科学なら、数百人を一度に空で運ぶ事ができるの」

「す、数百人を、一度に……!?」驚愕で目を開くネルカ。「そ、そんなことが、本当に可能なのですか?」

「うん。その代わり、装置を作るのにものすごく時間がかかるし、装置を使う人の訓練もしないといけないの」

「信じ難い、です」

「正直、私も何でそんな事が出来るのかよく分からないんだけどね。でも、魔法も凄いじゃない。違う世界から人を呼び寄せるだなんて、科学の力じゃできないもの」

「それは……私にも何でそんな事が出来るのかよく分からないんです」

 二人で微笑みあう。少しだけネルカと打ち解けたんじゃないかと、実花は嬉しく思った。




 帝都の貴族街にある私的な別宅から離れたメメルカは、何食わぬ顔で王宮に戻っていた。

 こんな夜中に誰かに見つかってしまうと、いらぬ探りを入れられる可能性があったが、幸いにも誰にも会う事なく部屋に戻る事が出来た。

 メメルカは、お付きのメイドに変装用のみずぼらしい服を脱がして貰い、続いて柔らかな素材で出来た寝間着に着替える。作業は全てメイドの手によって行われ、メメルカはせいぜい腕を上げたりするぐらいであった。

「もういい。下がっていなさい」

 命じると、メイドは一度礼をして部屋から出た。それを確認したメメルカは、気怠そうに椅子に座り、机の引き出しから一本の巻物を取り出し、魔力を流し込んで封を解く。ペンを手にしてインクを付け、毎日の習慣になっている日記を書き始めた。

 数分で書き終えた彼女は、ふらふらと大きなベッドの上に寝転んで、実花の発言について考えていた。

 彼女は、自分の兄がこの世界にいる可能性があると言っていた。

 恐らく、実際にいるのだろうとメメルカは思う。ゴゾルの実験体であった数年前に現れた二人組もまた、ゴゾルによって召喚されたのだ。そしてその片割れは男であったと言う。だがその男は生死不明の行方不明である。あるいはそれ以前にもゴゾルは召喚していると思われるが、どちらにしろメメルカは稔について知らない。つまり嘘は言っていないのだった。

 あとは、どれだけこれであの子を引っ張れるか、それが問題ですね、とメメルカはほくそ笑んだ。

 力で言う通りにさせるのは簡単だ。だが自分から進んでこなすのでは訳が違う。効率も、何もかも段違いになる。

 数年前にゴゾルが失敗したのは、強引に言う事を聞かせて来たからなのだとメメルカは確信していた。人間は鞭だけでは駄目なのだ。時には飴も与えなければ自ら進んで服従しない。

 なるほどゴゾルは魔法学の天才だ。それは認める。しかし人間の機微を彼はまるで理解していない。魔法学以外では、ゴゾルは平均以下の人間なのである。

 ああ、楽しい。人を自分の思いのままに動かして行くのは、本当に楽しくて仕方がない。

 メメルカは愉悦を感じるままに笑った。それは仮面の笑顔ではなく、メメルカの素の笑みだった。

 しかし、それを見咎めた者は誰もいないのである。

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