三十五 開戦
グラウノスト帝国にとって、それは全くの予想外であった。
元来ドグラガ大陸に住まう魔人どもは、非常に野蛮であり、群れで行動する事は滅多に無い。少なくとも、ヒカ大陸に住まう人間たちはそう考えていた。
しかしその考えは、あっさりと覆ってしまったのである。
それは反戦派をねじ伏せ、ドグラガ大陸へ侵攻するための準備を着々と進めた矢先に起きた。
玉座に座るオルメル・ノスト・アスセラス三世の元に、一人の使者が現れたのだ。彼はドグラガ大陸から来た人間なのだと言う。魔人であれは速やかに斬り捨てるものの、人間ならそうするわけにはいかない。
彼はマ国の使者を名乗り、一通の書簡を携えていた。
「マ国? 聞いた事の無い国だな」
そう呟いたオルメルは、渡された書簡を受け取った。
「はっ」と、使者は言う。「ドグラガ大陸にて生まれた、初めての国でございます」
「初めて、だと?」
「詳しくは、その書簡を読んで下されば」
「ふ、む」
オルメルは書簡を開き、読み始める。
最初こそ興味深そうに読んでいたのだが、みるみる内に目つきが鋭くなり、ついには身体がぷるぷると震えはじめた。
それをぎょっとした表情で見るのは、傍らに立っていた娘のメメルカである。あの恐ろしい父が、このような反応を示すのを見るのは初めての事であった。
周囲にいる重臣たちも、驚きと恐ろしさで帝王の姿をまともに見る事が出来ない。
「奴隷の解放に魔人を人間と認めろ……だと。笑わせる」オルメルは口角を上げてそう言うが、その目はむしろ怒りに染まっている。「いいだろう。戦争だ。帰ってマ王に言うがいい。我がグラウノスト帝国は、いつでも貴様ら邪悪な魔人と戦争してやるとな!」
どよめきが巻き起こった。血の気を失せた顔をする者、今にも使者を殺しそうなほどの殺気を放つ者。そして今後の算段を交わす者たち。
そうした中にも関わらず、至極冷静な使者は恭しく言う。
「一字一句違わずに、伝える事をお約束いたします」
「ならば丁重に帰す事をここに約束しよう。さあ、帰るが良い。敵と馴れ合うつもりはない」
「失礼致しました」
使者は真っ直ぐな足取りで帰りにつく。まるでこうなることを見越していたかのようだった。
それから四日ほどの時が経った。
南方の端にいた見張りによる監視魔法に反応が起きた。最も付近にいた兵たちが慌てて向かう。そこにいたのは、いくつもの船。乗っていたのは、軍隊規模の魔人たちであった。
不運な事に、兵たちは魔人たちから宣戦布告を受けた事を知らなかった。帝王も、側近たちも、こんなにも早く魔人が攻め入ってくるとは思っていなかったこともあり、連絡が遅れてしまったのである。
一瞬にして恐慌状態に陥った兵たちは、瞬く間に蹂躙された。
その後魔人軍はゆっくりと北上し、進路にいた町や村を征服して版図を広げて行く。町にいた自衛軍は、必死の抵抗を試みたものの、魔人たちの圧倒的な力を前にしては為す術が無かった。
「……なんだと? もう一度言ってみろ」
報告を受けたオルメルは、額に青筋を立てながら怒りの声を発した。
「……は。はっ! マ軍は、現在、タロルの町にて拠点を築いております! 宣戦布告から数日の内に攻め入られたのは、あらかじめ見張りの範囲外の洋上に軍を待機させていたためかと思われます」
報告をしている兵士は、見ていて気の毒になるほど青ざめた顔をしていた。
それを端から見ていたメメルカは、唇を噛んでいる。
ここまでマ軍に侵攻を許してしまったのは、他ならぬ重臣たちが彼らを侮ったからに違いなかった。一人一人の力は恐るべきものであろう魔人たちは、その実、野蛮で、頭が悪いと考えられていたのである。だから、使者は本国に戻り、それから準備期間を経て、ようやく兵たちを出兵させるだろうと予測を立てていた。そのため戦争が起きるのは、一ヶ月以上先だと踏んでいたのだ。
しかし実際は知恵を使う事もできた。恐らくマ国は、要求が突っぱねられる事を予測していたのだ。だからすぐに兵を出せるように、かつ見張りに見つからないような場所で軍を待機させた。四日という日数は、移動にかかった時間で間違いない。結果、帝国は不意を突かれ、被害を被ったのである。
今思えば、馬鹿馬鹿しい公算だ。希望的観測だけで考えられている。
そうしてそれを通したオルメルも、おかしいと思わなかったメメルカも、甘いとしか言いようが無い。ほんの少しでも思考を働かせておけば、もしかしたら気付く事が出来たのかもしれなかった。
だがここに至っては、過去の失策を悔いる事ではない。
オルメルの決断は速かった。正規軍の派兵が鶴の一声で決まる。
兵を率いるのは、かつての戦争で活躍した古強者のゲルト・ノバルツ。
両軍は平地にて激突した。マ軍は帝国の半数ほどの人数である。数の多い方が勝つのが戦の常道。勝利を確信したゲルトはほくそ笑んだ。
けれど彼らは失念していた。相手は人間ではなく魔人であると言う事を。人間相手になら通じた常識でも、彼らには一切通用しないと言う事を。
魔人たちは、見た事の無い魔法を放った。それは兵士を簡単に葬って行く。
圧倒的な攻撃力の前に、人間たちは恐慌状態に陥った。士気はもはや地の底に着いている。
そうした中でも懸命に戦うゲルトの前に、奇怪な姿の魔人が立ち塞がった。それは、全身が岩でできており、得物も何も持っていない。ただ幾人も殺して来た証として、体中を赤く染めていた。
「貴様が大将か」
魔人はしゃがれた低い声で言った。
ゲルトは雄叫びを上げながら剣を振りかぶる。魔人は微動だにせずにゲルトの一撃を受け止めた。
がぎぃん。
剣は、しかしあっけなく折れた。ゲルトは信じられない目で、折れた剣を見つめている。
「この中では、最も良い一撃であった」
と魔人は、堅く握りしめた岩の拳を相手の顔面に無造作に叩き付ける。爆発音に似た音と共に、ゲルトの頭部が文字通り粉々に砕け散った。赤い血を噴出させながら、かつてゲルトだった者はあっけなく死体と化してしまったのだった。
ゲルト戦死の報は、オルメルたちに衝撃をもたらした。
まさか敗北するとは、その場にいた誰もが考えて来なかった。
何しろ魔人と戦うためにこれまで訓練を続けて来たのである。それなのにこの結果は、これから先の戦闘を暗示しているかのようだった。
いかにすれば魔人たちを殺せるか。議論は紛糾した。数年前に現れた二人組を倒すために使用した散魔の実が案として浮上する。だが軍隊規模の人数分を用意するのは容易い事ではない。事態が緊迫している今、準備している時間は何処にも存在していなかった。
そうこうしている内にも、マ軍は着実に侵略を続けている。町に駐在している自衛軍は、貴族たちを逃がす時間稼ぎぐらいにしかなっていない。中には戦う前から降伏を選ぶ町も出る始末で、マ軍は衰える事を知らなかった。
打つ手が見当たらない状況の中、単なる町娘に変装したメメルカは、たった一人で酷く薄暗い裏通りに足を踏み入れた。ヒカ大陸一と噂されるほどの美貌を持つ彼女は、そこら中にいる町の女が着ているような地味な服装をしていても、輝くような容姿を誤摩化す事が出来ない。そのため鍔の広い帽子を目深に被り、顔を隠していた。
しかし護衛も付けずに治安の悪い裏通りに行くなど、幾ら変装をしているとはいえ、一国の王女がすべきことではない。
それにはもちろん理由があった。それもヒカ大陸全体の運命を左右するほど重要な理由が。
メメルカが立ち止まったのは、日当りが悪く、薄汚い家の前である。
ごくり、と生唾を飲み込んだ。がらにもなく緊張していた。
扉をノックしようと上げた手が躊躇している。
この判断が正しいのか未だ迷っている証拠であった。
もしかしたら、あまりに酷い愚策であるかもしれない。もっと言うなら、この国を破滅へと導こうとしているのかもしれない。
それでも、手をこまねいていたずらに被害を拡大させ続けている現状よりも、幾らか可能性がある。
メメルカは扉をノックした。
返事は無い。
留守だろうか。だがドアノブを捻って軽く押してみると扉が開いた。
得体の知れない罠を張っている可能性がある。メメルカは慎重な足取りで中に入った。
部屋の中は暗く、人の気配がない。そればかりか、家具や小物が一切置かれていなかった。
メメルカは指先に魔力を集中させて、ろうそくの灯りに似た光を発生させた。すると奥の壁にある扉が照らし出された。
開けてみると、扉の先には地下へ向かう階段が続いている。だが深い暗闇に包まれていて、メメルカが魔法で出した照明では一番下まで照らし切る事が出来ない。
まるでニーゼ教の伝説にある深淵の世界に続いているみたいで、メメルカの背筋に冷たいものが走った。肌が粟立つなど、一体いつ以来だろうか。新鮮な感覚に、メメルカの口元が緩んだ。
ゆっくりと階段を下りて行く。長い。暫く進んでも底が見えない。
果たして帝都にこのような建造物があっただろうか。ここまで地下深く掘れる魔法技術者はいないはずである。もしも出来たならば、それこそ前代未聞の仕事であり、否が応にもメメルカの耳に届くはずだった。
そうしてついに、終点の扉が見えた。思わずほっと安堵のため息を吐いた自分に、メメルカは軽く驚く。城で退屈な毎日を送っていれば、まず味わう事の無い感覚だ。
扉を開けると、雑然とした部屋が広がっている。用途の分からない道具類、緑色の液体が入っている瓶、それから沢山の書物。
部屋の中心にいるのは、メメルカが会いに来た人物、ゴゾルである。彼は胡乱な目で王女を見やった。
そのあけすけな態度は、メメルカにとってむしろ好感に値する。
彼女が今まで会って来た男たちは、どれもこれも裏にある欲を隠しながら接してきた。だがそうした人物の方が色仕掛けに弱いのか、ちょっと思わせぶりな言葉を言ったり、胸元を寄せたり、軽い身体的な接触を図っりしただけで、笑えるぐらい簡単にべらべらと秘密を喋ってくれた。
反面、ゴゾルは違うようである。色仕掛けが通用しないばかりか、そもそも女性の事などまるで興味ないようだった。
やりにくさを感じながら、メメルカは言う。
「単刀直入に言います。あなた様の知恵を、お貸しください」
彼女の真っ直ぐで澄んだ瞳が、ゴゾルの暗く濁った目を射抜いた。だがゴゾルは平然としている。
「……知恵、ですか。しかし私程度の頭脳で、果たして何の役に立てるのやら」
「謙遜なんて、似合いませんよ、ゴゾル様」
メメルカは微笑みを浮かべた。
「いいえ」ゴゾルは否定する。「先の二人組の魔人の片割れを、私の策のミスで逃がしてしまったのです。私など、所詮はその程度」
「ですが、一人の魔人を殺す事が出来たのも、また事実」それから少しの間を開けてから、メメルカは続ける。「そうしてまた、この国は魔人で構成された軍に脅かされています。しかし帝国は、何の打つ手も見つかっていません。ゴゾル様にとっても、この国が滅びるのは良しとしないのではないですか? 二人のうち一人は殺す事が出来る知恵を、私たちは今こそ欲しているのです」
「……オルメル様なら、何らかの方策を持っているはずです。私程度の策を弄した所で、意味はないのではありませんか?」
「お父様は、おそらく全軍を用いた総力戦を考えているでしょう。ですがそれは、魔人の軍が帝都に接近してからの話です。遠く離れている今の内に、ゴゾル様の策を用いれれば、何らかの打撃を与える事ができましょう。それはお父様の支援にも繋がります。それに……」
「それに?」
「ゴゾル様は、魔人を恨んでおいではないのですか?」
「……なんだと?」
ゴゾルが被っていた仮面が、今一瞬外れた。ここだ、とメメルカは思った。
「失礼ながら、ゴゾル様の事は調べさせて頂きました。あなた様は、遠い過去、魔人に」
「止めろ! その話はするな!」
ゴゾルは見るからに怒っている。
「……申し訳ありません。先程の発言は謝罪します。ですがやはり、あなた様は変に畏まらない方が良く似合ってますね。どうですか? ここなら誰の目もないことは、あなた様が一番ご存知のはずです。従って、王族に失礼な態度をとっても誰も咎めることはありません。畏まるのは止めてみませんか」
ふん、とゴゾルは鼻で笑う。
「それが狙いか。よく口の回る女だとは思っていたが……女の癖になかなか賢しいな」
メメルカは艶やかに笑った。
「ようやく話しやすくなりましたね。それでは続きと参りましょうか。まずは……そうですね。先程からのゴゾル様の発言、あれは全て嘘ですね。あなた様は自分の事を誰よりも賢いと考えていますし、帝国のことなどどうでも良いと考えている。そうではありませんか?」
「そうだな。その通りだ。だがそれがどうしたというのだ?」
「いいえ。ただの確認です。あなた様がこの国をどう思っていようとも、私はそれに対して何かをしようとは思いません。ただ、私が気になるのは数年前の二人組の魔人についてです。あれはゴゾル様がわざわざドグラガ大陸から連れて来たものではないのでしょう?」
「……どうして、そう思う?」
「当時、監視網に引っ掛かったものは何一つありませんでした。あの魔法の優秀さは、開発したゴゾル様こそよくご存じのはずです」
「開発した俺だからこそ、欠点も良く分かっている。誰にも教えていない穴があるとしたらどうだ?」
「ありえません」
メメルカは自信ありげに言い切った。
「なぜだ?」
「確証はありません。しいて言うなら女の勘です。ですが、あの二人に関する話を聞く限り、魔人とは思えないのです。彼らが人を救ったという話は数あれど、人を害した記録は、我々の兵が退治に乗り出した時の一度きりです。人を恨んでいるはずの魔人が、なぜわざわざ助けたりするのでしょうか? そもそも彼らは本当に魔人だったのですか? あの恐るべき魔法は、研究の成果の一つではなかったのですか?」
「帝国の分析では、そもそも人の手では不可能な魔法だったはずだ。それこそ魔人でなければできないとな」
「しかし、数々の先進的な魔法を作り出して来たゴゾル様なら可能だと、私は考えています」
「……仮にそうだとして、王女殿下は私に何をさせたいのだ?」
「魔人と匹敵しうる、いいえ、超えるような魔法を使う者を開発していただきたい」
ぎょっと目を剥いて、ゴゾルはメメルカを見た。それから、くはっ、と息を吐き、
「っはははははははははっ」
哄笑した。
そうしたゴゾルを見て、メメルカは笑みを浮かべる。
「どうでしょうか? 幸いながら、実験対象は沢山います。魔人どもを相手にすれば、多くのデータを得る事が出来るでしょう。開発対象者は奴隷を使えばよろしいかと。私が責任を持って用意させて頂きます。ゴゾル様にとっても実入りの良い話かと思いますよ」
「面白い! 面白いぞ、王女殿下!」ゴゾルは見るからに興奮している。「いいだろう。その話、乗ってやる。だが、奴隷を用意する必要は無い。他に実験したい事がある。俺が開発対象者を用意する」
「すでに目星が付いているのですか? それなら配下に命令して連れて来てやりましょう。町民でも、貴族でも、誰でもおっしゃってください」
「くくく。恐ろしいな、王女殿下。さすがはあの帝王の娘か。いや、帝王よりも恐ろしいかもしれん。とても心惹かれる提案だ。しかし残念ながら、それにも及ばん。開発対象者は、魔法で呼び寄せる」
「……魔法、ですか?」
さすがのメメルカも虚を突かれた。人を呼び寄せる魔法など、もちろん聞いた事が無い。
「そうだ。確か、召喚魔法と前々回に呼び寄せた女が言っていたな。この世界とは違う世界から、人と似た人を呼び寄せる魔法だ」
メメルカには、理解が及ばなかった。
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