三十四 これまでの日々に終わりを告げた

 目覚まし時計が幼子のようにけたたましく鳴いている。

 せっかくお兄ちゃんの夢を見ていたのに、台無しだ。

 津村実花は目を開けた。身体は気怠く、頭はぼーとしている。だけどお兄ちゃんの夢を強制的にシャットアウトしたこの音は、憎い。

 白いベッドから這い出て、のっそりとした動きで目覚まし時計を止めた。

 うーんと唸りながら、軽いストレッチを行う。猫柄のパジャマを脱ぎ、セーラー服に着替えた。

 洗面所へ赴いて、顔を洗い、寝癖を直し、居間へ向かう。

 そこにはすでに朝食が用意されていた。目玉焼きと、サラダと、みそ汁と、白いご飯だ。

 椅子に座る。母である景子は食器を洗っていた。おそらく父の浩一郎と景子自身の食器だろう。浩一郎はすでに出勤したようで、姿は見えない。とは言え、それは朝恒例の景色なのだが。

「おはよう」

 実花が挨拶をした。景子は手を止めずにちらりと一瞥して、「おはよう」と返す。

 実花はご飯を口に運びながら、兄である稔の席を見る。さすがにもう彼の席に食事を置いておく事は無くなっていた。

 食事を終えると、実花は「行ってきます」と言って家を出る。学校まで徒歩一五分の距離だ。




 あれから三年が経過して、実花は中学一年生になった。

 変わった事と言えば、身長が伸び、おっぱいが僅かに膨らんだ。そして友達たちに対して、明るく振る舞えるようになったぐらい。

 だけどそれは演技だった。稔がいなくなった事で生じた心の傷は、少しも癒えていなかった。友達と冗談で笑いあっても、一緒に遊んで楽しいねーと言ってみたりしても、ただただひたすらに空しかった。何も面白くないし、何も楽しくない。どんよりとした悲しみが、実花の心を覆い尽くしていた。

「おはよう」

 公立青嵐西中学校、一年三組の教室に入った実花は、早速演技で作った笑顔を浮かべて挨拶した。

「おはよう」

 と、何人かの友達が返した。彼女たちは一カ所に集まっていて、すでに雑談に興じている。

「昨日のブロッコリーマン、見た?」

 その中でも同じ小学校だった子が、実花に尋ねて来た。

「見た見たー。凄かったよねっ。最後にブロッコリーマンが肉屋から八百屋を身体で守ってた所。感動しちゃったー」

 実花は適当に話を合わせた。特撮ドラマであるブロッコリーマンは、友達と話をするために見ているだけで、自分で言ったシーンも特に感動したわけでもないし、ドラマ自体も面白いと思った事が無い。

「私もー。ちょっと泣いちゃった」

 良いよねーと言い合いながら、白々しい、と実花は思う。言うまでもなく、実花自身の事だ。そもそも目の前の友達が悪いわけではない。作り話に感動できなくなった私が悪い、と考えている。誰かを助けただの、誰かと恋仲になっただの、誰かに助けられただの、馬鹿馬鹿しく思ってしまうのだ。

 そうやって雑談を繰り広げていると、チャイムが鳴って担任教師が教室の中に入って来た。教室中に散らばっていたクラスメイトたちが、ばたばたと慌てた様子で自分の席へ戻ると、淡々とした調子のホームルームが始まった。

 それが終われば、一限目の数学の授業が開始される。実花は引き出しの中から教科書とノートを取り出そうとすると、一番上に紙切れが入っているのに気付いた。

 なんだろう、と見てみれば、昼休みに校舎裏に来て下さい、と書いてある。さらに隅っこには、木下雄二郎と言う名前もあった。

 

 無味乾燥な半日が過ぎて、昼休み。

 昼食を済ませた実花は、校舎裏に行った。

 小学校でも一緒だった雄二郎は、すでに待っている。緊張した面持ちで、身体も何だか無駄に力が入っているように見えた。

「待たせてごめん」

 と、実花が謝ると、

「い、いや。大丈夫、い、今来た所、だから」

 と、雄二郎は、どもりながら言った。

「それで、どうしたの?」

「あ、ああ、それが、さ」

 ちらちらと実花へ視線を送るその顔は、耳まで真っ赤になっている。そうして、中々本題に入らない。

 どうやら彼にとって何か重要な事を喋ろうとしているようだ。実花は辛抱強く待つ事にした。

「お、俺!」意を決した雄二郎が、まっすぐな視線でついに口を開く。「ずっとお前の事が、好きだった!」

「え」

 実花は驚いた。まさか自分が、それも雄二郎に告白されるとは思っても見なかった。嘘だろうかと彼の顔を見ると、これまで一度も見た事の無いような真剣な顔をしている。

「私……あなたの事、ひどく蹴ったんだよ?」

 それでも好きなの? と実花は聞いた。思い出すのは、小学四年生の時、彼にスカートを捲られた実花が蹴り飛ばした事件だ。相手が悪いと思っているものの、少しやりすぎたと今では反省している。それなのに彼は、真剣な顔で、

「ああ。俺は、それでも実花の事が好きだ」

 と、言い切る。

 その言葉を受けた実花は、実のところ何も感じなかった。彼が本当にそう想っているのは分かる。今日告白するために、散々に迷って、考えて、躊躇して、勇気を出したのも分かる。

 だけど実花の感情は、何一つ動かなかった。

「ごめんなさい」と、実花は頭を下げた。「今は、そういう気分になれないの」

 雄二郎は、顔を空に向けて息を吐いた。頭二つ分低い身長の実花では、彼の表情は分からない。

「……そっか。そうだと思ったよ……」

 そう呟いた彼の声は、堅くて、震えていた。

「……もう行かないと、授業、始まっちゃうよ?」

「すまん……先に、行っててくれ」

 実花は踵を返し、それから顔だけ動かして雄二郎を盗み見た。彼は目頭を、手で抑えていた。

「ごめんね」

 と、実花は申し訳なさそうに言った。同時に、酷い奴だな、私、と思った。

 そうしてようやく実花は自分の教室へと戻るのだった。


 放課後。

 この中学校に在籍している生徒は、全員が部活動をしなければならない決まりがある。

 はっきり言えば、実花は部活動なんてしたくなかった。何をやっても面白くないと感じるし、興味があることも一つもない。そんな実花が選んだ部活動は、文芸部であった。

 文芸部は、あまり部活動に熱心でない子たちの受け皿になっていた。何せ顧問は滅多に顔を見せない上に、幽霊部員が大量にいる。

 おかげで活動内容は個々によって違っていた。文芸部員らしく延々と書き物をする生徒がいれば、仲の良い友達を連れ込んでお喋りに興じている人もいる。

 実花自身の活動は、ただひたすら読書をするというものだった。もちろん読書を楽しいと思った事は無い。名作と呼ばれる著作、話題になった本、人から薦められた作品。どれも実花に感銘を与える事は無かった。それでも読んでいるのは、時間つぶしにちょうど良かったからに他ならない。

 実花はあまり家に帰りたくなかったのだ。

 父の浩一郎と母の景子は、今は喧嘩をしていない。だが二人の間で会話をする姿をここ最近実花は見た事が無かった。せいぜい事務的なやり取りが、二言三言行われるだけだ。それに、これは実花の勘なのだが、浩一郎は別の女を、景子は景子で違う男を作っている節がある。

 家庭の中に何か決定的な亀裂が入っているのは明らかだった。それでもかろうじて二人の間を繋ぎ止めているのは、実花の存在があるからに違いない。もしも実花が成長して、一人でも暮らして行けるようになれば、その時二人は間違いなく離婚を選ぶだろう。

 そのせいか、家に入れば酷く冷たい空気が蔓延していて、とても居心地が悪い。

 稔が行方不明になることで出来た傷が、まさかここまで発展しようとは。あの頃の実花には少しも想像できないことだった。

 これで両親の事を嫌いになれれば、まだマシだったかもしれない。だが実花は二人の事が好きだった。だからこそ、今の状態に陥ってしまった事が、とても哀しかった。

「あら、今日はライトノベルなのね」

 ずっと書き物をしていた生徒、三年生の大橋望美が、読書の振りをしながら考え事をしていた実花に話しかけた。

 実花は顔を上げて、先輩の顔を見た。分厚い眼鏡をかけた彼女は、ボブカットにした髪を揺らしながら、実花が読んでいる本を覗き込んでいる。

「えっと、俺の蜜柑がこんなに美味しいわけがない。私も読んだ事あるわ。現代農業ものと見せかけたSFで、ライトノベルのくせにガチなSFしていたのが印象的だった」実花が何かを言う前に、大橋は続ける。「この前は夏目漱石の吾輩は猫であるで、その前は確かオートバイの旅行記……。あなたって、結構乱読家よね」

 大橋は、こうして時々実花に話しかける。気分転換のためだ、と前に説明していたのを実花は思い出した。

 それにしても意外とよく見ているなあ、と実花は思う。今回の本はともかく、前回と前々回は先輩に話しかけれた覚えが無いし、実花が読んでいた本に興味を示した様子もなかった。

「前から気になっていたんだけど……。毎日部室に来てくれるわよね? 大抵の人は滅多に来ないのに。何か事情があるの?」

 同じく毎日部活に来る大橋は、微笑みながらそう言った。

 どうしようか、と実花は迷った。この先輩は良い人だと思う。だけど本当の事を言ってしまっていいんだろうか。

 実花が答えを出す前に、大橋は口を開く。

「言いたくなければ、別に良いのよ。聞いたからってどうこうするつもりもないし。ただ、そうねえ。私の小説のネタになればいいなって、考えていたぐらいかな」

 彼女が書いていたのが小説なのだと、実花はこの時初めて知った。

「あの……」

 と、実花は言った。

「ん? どうしたの?」

「実は、あまり家に帰りたくないんです」

「なるほど」大橋は神妙に頷く。「何となくだけど、そんな気はしてた。本を読むのも、実はあんまり楽しくないんでしょう?」

「……どうして、そう思ったんですか?」

「だって、いつもつまらなそうに本を読んでるんだもの」

 事実を突かれて、実花は黙った。文芸部なのに読書がつまらないだなんて、目の前の先輩にはあまり知られたくなかった。

「いいの、別に。色んな読書の形があると思うもの。でも、そうね。あなたにとって読書は、ただの時間つぶしなのね」

「……はい」

「そっかそっか。よく分かったよ。それじゃあさ、私が書いた小説、ちょっと読んでみない?」

「え?」

 この話の流れで、どうしてこうなるのか実花にはよく分からない。

「実はちょっと詰まっていてね。だからアドバイスとか、ちょっとした感想とか、欲しいなあって、思って。お願い!」

 結局、勢いに押されてつい頷いてしまった。

 実花は手渡された十枚ぐらいの原稿用紙を見る。綺麗な文字で綴られている文章は、流れるようにすらすらと読めた。

 田舎町にすむ女子中学生が、些細な事で家出をして、東京へ向かう。なけなしの小遣いで電車に乗るものの、途中の駅までの切符しか買えなかった。原稿用紙では、電車から降りる所で終わっている。

 家出と言うキーワードが、実花の思考を別の所へと誘った。

 警察の見解によれば、兄の行方不明は家出なのだと言う。そんな訳が無いし、誰もそんなことを信じていない。しかしもしも、兄が帰る事を望んでいなかったとしたら? それは実花にとってとても腹立たしくて、泣きたくなるほど悲しいことだ。

「どうしたの?」

 と、大橋が実花に尋ねた。

 はっとした実花は、自分が酷く落ち込んだ顔をしている事に気が付いて、すぐに元の表情へと戻す。

 大橋は心配そうに実花の顔を見つめている。

「……だ、大丈夫です。その、すみません」

 兄の事を言おうか、と実花は考える。

 だけど結局、言わなかった。


 真っ直ぐ帰ろうか、遠回りして帰ろうか。

 玄関口でスリッパを靴箱に入れながら、実花は逡巡する。

 毎日のように行われたちらし配りも、今では週に二回ぐらいしか行われていない。そうして今日は、しない日なのだ。

 ちらし参加者は、今はあまりいない。実花、景子は当然として、井上春香と山崎加奈は殆ど欠かさず参加している。車田良光と西尾雫は、東京の大学に進学してしまったため、来なくなった。

 それで良い、と実花は思う。どうせ意味のない行為であったし、良光と雫の顔はあまり見たくなった。春香と加奈が参加してくれるのは、よく分からない。だけど二人は実花の事をとても考えてくれている。

 靴を履いた実花は、校舎から出た。友達はいるが、いつも一人で帰っている。遊びに誘われれば、気分が乗らない限りは誘いに乗っていた。だけど自分から誘う事は無い。

 グラウンドでは運動部が日替わりで活動している。今日はサッカー部と、野球部だ。サッカー部と言えば稔が入っていた部活動で、入学当初、実花はマネージャー志望として見学をしたことがある。

 顧問の教師はたまたま稔がいた時と同じだった。稔の事情ももちろん知っていて、当時の兄の事を教えてもらった。稔はとても熱心に練習をしていて、頑張っていた。特に後輩には優しく接していたと言う。

 ここに入れば、兄の面影を追う事が出来るかもしれない。そう考えていた実花は、マネージャーとして入る事を前向きに考えていた。だけどそんな理由で入っても、真面目にマネージャーをこなす事はできないだろう。何よりも真面目にやっている人たちに失礼だ。そう思い直した実花は、結局入部を止めた。

 だから、グラウンドで駆け回る人たちのその中で、稔が同じようにサッカーをしている姿を想像する。そうして、それだけで、十分だった。

 校門をくぐった。やはり今日も遠回りをして帰ろうと、自宅とは反対方向へと足を踏み入れた矢先、車のクラクションがパッと短く鳴った。

 反射的に振り返ると、白い軽自動車が実花の隣で停止した。運転席の窓が下へ降りる。

「こんにちは、実花ちゃん」

 運転手であるスーツを着た若い女性が、にこやかな営業スマイルで言った。

 実花は警戒心を露にしながら、一歩後ろに下がってまじまじと観察する。

 実花の知らない人だった。長い髪を後ろでくくった彼女は、化粧で誤摩化されているが、疲れた顔をしている。

「私、こういう者なんです」

 と、彼女はあらかじめ準備をしていたらしい名刺を取り出して実花に渡した。有名な週刊誌の記者で、滝川優里という名前だ。

「……記者、さん?」

「はい。初めまして」

「初めまして……」

 挨拶を交わすも、実花の警戒は維持されたままだ。

「実は、行方不明をテーマに一本記事を書こうと思っておりまして。……そこで、実花さんのお話を是非ともお伺いしたいなって」

「……いや、です」

 実花の脳裏に浮かぶのは、見たままの事を話した時の警官の顔だった。何を言ってるんだ、こいつ。頭がいかれているのか、可哀想に。もちろんはっきりと口に出していたわけではないが、内心でそう考えているのは、彼らの表情を見れば一目瞭然だった。

 真実を話しても、信じてもらえないと分かっていれば、誰だって話したくなくなる。

 実花はその場から離れようと、足を前に出した。

「警官たちに話した内容、知ってるよ」後ろから聞こえて来た声が、実花を止める。「酷いよね、あの人たち。実花ちゃんの事を、全然信じてなくてさ」

「どうせ」

「ん?」

 実花は顔だけを優里に向けて尋ねる。

「どうせ、あなたも一緒でしょう?」

「違うわ」優里は即答する。「私は、あなたの話が真実だと思ってる」

 実花は何も言わずに、彼女の次の言葉を待った。

「……家に帰りたくないんでしょう? 喫茶店でお話をしましょう。暇つぶしにはなるはずだし、実花ちゃんの許可が下りない限り、記事には載せない」

 結局、実花は車に乗った。


 その店は個人経営の古い喫茶店で、初老の店主がカウンターでコーヒーカップを磨いていた。

 店内では穏やかなジャズの曲が流れており、昭和の雰囲気を残した内装が施されている。

 このような店に初めて入った実花は、緊張した面持ちで優里の後を追った。

 隅の席に二人は座る。

 実花は周囲を見回した。自分たち以外の客は、仲が良さそうな老夫婦がいるだけで、他にはいない。

「ここはコーヒーがとても美味しいのよ」

 と言う優里の勧めに応じた実花は、コーヒーを頼んだ。

「学校はどう? 楽しい?」

「楽しくは、ないです」

「そうね。あなたはずっとつらいままだから、楽しいって思えるような余裕なんてないもの。仕方の無いことだわ」

「あなたに、何が分かるんですか?」

「分からないわ、何もね。ただ人生の先輩として、あなたより少しだけ知っているだけ。でも、それは理解しているとは違う事なの。分かる?」

「……なんとなくは」

「うん、それで十分よ。完璧に理解出来る人間はいないわ。もしいたとしても、それは天才か化け物のどちらかよ」

 不思議な女性だと実花は思った。今までこのような女性に、実花は出会った事が無かった。

「お待たせしました」

 店主がコーヒーを運んで来た。おまけで小粒のお菓子が付いている。礼を言い、受け取る二人。店主は「ごゆっくりどうぞ」と恭しく礼をして、その場から離れた。

 実花は正直苦いのは苦手だ。だから角砂糖を入れようと手を伸ばす。

「待って」と優里は実花を止める。「まずはそのまま飲んでみて」

 実花の手は、迷いを表すように中空で止まった。湯気が立っている黒い液体と、優里の顔の間を、視線が往復する。

「騙されたと思って。ね?」

 そこで、優里がさらに後押しをした。

「……一口だけなら」

 実花はコーヒーカップを持ち上げた。芳醇な香りがする。それから恐る恐る口をつけて、熱い液体を啜った。

 驚いた。実花はこれまでインスタントコーヒーぐらいしか飲んだ事が無かった。親の真似をして、砂糖やミルクを入れずに飲んでみたら、あまりに苦くて顔をしかめた思い出があった。

 でも、これは違った。

「おいしい」

 と、実花は思わず呟いた。

「でしょ?」

 優里は満足げに微笑んで、自身もコーヒーを一口飲んだ。

「んー。やっぱりここのコーヒーはおいしいわ」

「コーヒーがこんなにおいしいだなんて、思ったことなかったです」

「何事も体験してみないと、分からないものよ。さて、本題に入りましょうか」

 そう言った優里は、黒い長方形の機械を取り出した。実花は怪訝な視線を送る。

「ボイスレコーダーよ」と優里は説明する。「あなたの話を録音させてもらってもいいかしら?」

 僅かに迷いながらも、実花は「はい」と頷いた。

「ありがとう」

 優里はボイスレコーダーを操作して、「どうぞ」と促した。

 実花は少し間を置いてから話し始める。長い時間が経った今でも、あの時の光景は目に焼き付いていて離れない。だから事細かに話す事が出来た。

「……ひっく」

 でも、長い時間が経ったと言って、涙を流さない程度に傷が癒えているわけではなかった。実花は涙を流し、鼻水をすすり、震える自分の身体を両手で抱きしめる。

 優里は、それでも一心に語り続ける実花の姿を見て、いたたまれない気持ちになった。やはり私は何も分かっていないと、思い直さずにはいられない。もういい、話すのを止めてと言いたくなる。だがそれは、実花が決心してくれた事を無碍にする行為だ。優里は耐えていた。

「……以上……です」

 と、実花は話を終わらせた。

 それは出来の悪い怪談話に似ている。警官が話を信じなくても無理も無い。だけど、こんなにも必死になって兄のために話してくれたのだ。これは真実。紛れもなく。

「ありがとう」と、優里は未だにすすり泣く実花に優しく声を掛ける。「ごめんね、辛かったよね」

「……いえ」

 実花は涙を手で拭いながら呟いた。嗚咽が止まない彼女を眺めながら、優里はおもむろに口を開く。

「神隠しって知ってるかな?」実花が答えるのを待たずに優里は続ける。「妖怪とか、神様とか、天狗とかが連れ去ってしまう事を言うの。今では、何の前触れも無くいなくなることもそう言うわね。稔君の場合も、神隠しと言えるでしょうね」

「神隠し……そう、ですね。あれは、そういうものでした」

「それでね、今でもそういう神隠しとしか説明できないような事件は起きているのよ。もちろん、何らかの事件や、事故に巻き込まれたと考える方が自然だし、それが殆どだと思うわ。だけどね、稔君みたいに、事件や事故の痕跡が全くない上に、家出するような子でもないのに行方不明になる事件が起きているのよ。それに今回は極めて異例な事に、実花ちゃんって言う目撃者がいる」

 優里は一旦言葉を切って、コーヒーを飲んだ。実花の方へと視線を送ると、彼女は、優里が話した内容を考えているようだった。テーブルの上にコーヒーカップを置いた優里は、再び言葉を紡いだ。

「これは、あくまでもしもの話なんだけど。この神隠しにはね、異次元移動説というものがあるの。稔君は、何らかの現象に巻き込まれて、タイムスリップや、テレポートしたのか……それとも、この世界とは違う世界へ移動した。そういう可能性があるの」

「異次元……移動説」

「はっきり言って、オカルトよね? でもね、飲んでみなければおいしいかどうか分からないように、実際に体験してみなければ分からないのよ。何事もね」

「……あの、もしも、私も、お兄ちゃんと同じ現象に巻き込まれたとしたら……その先には、お兄ちゃんがいるんでしょうか……?」

「そう……ね。ない、と言い切れないわね。その可能性は、確かにある」と、言ってから、優里は実花を心配するような眼差しを向ける。「でも、その事は考えては駄目よ。異次元移動説がもしも本当だったとしても、その先に稔君がいる保証は何処にも無いのよ。いたとしても、すでに酷い目に会っているかもしれないし、同じような酷い目に実花ちゃんが会う可能性だってあるのよ。それに今日まで稔君が帰って来ないのだから、実花ちゃんがこの世界に帰ってくる事ができない可能性の方が高い」

 実花は視線を合わさずに、斜め下を見つめている。危険な兆候だと感じた優里は、さらに言う。

「いい? 実花ちゃんには両親がいる。友達がいる。あなたがいなくなることで、沢山の人が心配になるのよ。もちろん私だって、その一人。だから、稔君の後を追っては駄目」

「……わかり、ました」

 弱々しい声で実花は頷いた。

 しかし、本当に同じ現象に出会った時、逃げられる保証も何処にも無い、と優里は心の中で寒々しく呟いた。そうして、同時に、神隠しの話をしたことを後悔していたのだった。


「本当に良いの?」

「はい。歩きたい気分なんです」

 実花は優里の車に乗せてもらう事を断った。心配そうな顔をした優里は、結局自らの車に乗車する。

 実花はゆっくりと歩いて行く。

 太陽はすでに沈みかけていて、夜の色に染まりつつあった。

 優里の話を思い返す。神隠しに異次元移動説。あれはきっとそういうものなのだと、実花は直感していた。

 けれどそれ以上の事は何も考えないようにして、家に向けて歩を進める。

 最短の道ではなかった。ただ気の赴くままに、家の方角に向けて適当な道を選んでいるだけだった。だからきっと、遠回りをしているんだろう。

 そうして、実花は足を止めた。この道の先で、稔が行方不明になった場所がある。

 別にここに来ようと思ったわけではなかった。

 偶然だった。あるいは何らかの予感めいたものを、実花は感じていたのかもしれない。

 違う道を選ぼうか、と迷う。この場所には、稔がいなくなった日からずっと行く事は無かった。心が、身体が、その先に行く事を拒否していた。

 だけれど、脳裏に浮かぶのは優里の言葉の数々。あの先に、稔がいるかもしれないという可能性。体験しなければ分からない。神隠し。異次元移動説。

 実花は、因縁深いその場所へ向けて足を進める。

 一歩進めるたびに、心臓が高鳴っていた。

 呼吸が荒くなっていた。

 暑くもないのに汗が流れた。

 身体が震えている。脳裏に描かれるのは、稔が最後に浮かべた微笑み。

 一筋の涙が目尻から流れて落ちた。

 そうして、実花は再び足を止める。

 目前にあるのは懐かしくて恐ろしくて憎いそれ。稔を連れ去った黒く四角い穴。

 あの先に、お兄ちゃんがいる。

 だが実花は父の顔と母の顔を思い出す。彼らを悲しませたくはない。今引き返せば、あの穴の中に引きずり込まれないかもしれなかった。

 だけど父と母の仲は、取り返しのつかないほど断絶していて、実花の存在でかろうじて夫婦になっているだけで。

 いないほうが、彼らは幸せになるんじゃないか。

 実花は、進学祝いに買ってもらったスマートフォンを取り出し、目の前の黒い穴の写真を撮った。それから、メモ帳のアプリを起動する。

『お兄ちゃんの所へ行ってきます』

 それだけを入力した実花は、スマートフォンと鞄を道路に置いた。

 一歩を踏み出すと、黒い穴から真っ黒い触手が伸びてくる。今逃げ出せば、間に合うかもしれない。兄の事を悲しみながら、それでも普通の生活を手に入れて、普通の幸せを受け取る事ができる。そんな未来はきっとある。

 でもそこに、お兄ちゃんはいない。そんな未来は、今の実花には無価値に思えた。

 お兄ちゃんに、会いたい。その想いだけが、今までの実花を支えて来た。

 黒い触手が、実花の身体に絡んだ。ずるずると、黒い穴へと引きずって行く。

 もちろん恐怖はあった。行った先に、兄はいないかもしれない。絶望的な結末が、待っているのかもしれない。

 だけど全ては、沢山ある可能性の一つに過ぎなかった。兄と再会できる可能性だって、当然ながら含まれている。

 全ては、体験しなければ分からない。行ってみなければ、兄と再会できるか分からない。

 黒い穴が直前に迫っている。

 脳裏に浮かんだ両親の姿を思い返して、実花は、もっと色んなことをスマートフォンに書けば良かったな、と思った。例えば、ごめんなさいとか、ありがとうとか。

 けれどもう遅かった。

 実花は黒い穴の中へ吸い込まれて、姿形を消失させた。

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