三十二 出立

「明日は夕方で良いよ」

 昨日、メーガストに言われた喜多村由梨江は、太陽が空と山の中間にいる時刻に店に向かった。

 人が混み合う道中を進みながら、由梨江は理由を考える。

 店長の言い分は、

「由梨江抜きで昼のピークを乗り切れるかを実際に試してみる」

 との事なのだが、どうにも信じられなかった。

 ニーセの仕事ぶりは真面目の一言で、一切の弱気を吐かず、さぼる事もせず、接客も丁寧だ。どじっ子なのが玉にきずであるが、彼女なら昼も晩も乗り越えられると由梨江は考えていた。そうしてそれは、シシリアも同意見だ。

 それに先日メーガストから、正式に辞められる日を告げられており、それが今日であったのである。

 メーガスト食堂の前に立つと、中からは物音一つ聞こえない。確かに、この時刻は混むような時間ではなかった。それでもいくらかの客は入っているはずで、それなりの音が聞こえて来るはずなのである。

 やっぱりおかしい、と由梨江は思った。

 そうして、意を決して、扉を開いてみた。何故か中は暗い。照明魔法を発動させていないのだ。

 由梨江は一歩踏み出した。

 すると、ぱぁっん!! と言う花火みたいな音がして、閃光が室内を満たす。

「きゃあっ!」

 由梨江は思わず驚き、後ろに下がった。

 やがて光が晴れてくると、大勢の人がそこにいる事に気付く。メーガストを筆頭に、シシリアやニーセ、それから良く来てくれる客たちがいた。彼らは一様に意地悪な笑みを浮かべている。

「……え、え?」

 何が起きたのかよく分からなくて、由梨江は困惑していた。

 そんな彼女に向かって、シシリアが一歩前に出る。

「驚かせちゃって、ごめんね」

「あの、これは……?」

「ふっふっふ」と由梨江の疑問にシシリアが笑う。「これはね、ユリエちゃんのお別れパーティーなのよ」

「え」

 由梨江の前にいた人だかりが左右に分かれて行く。そこから見えたのは、机の上に乗った様々な料理たちだった。

「またベネトに立ち寄る事があったら、この店に来てくれ。その時までは必ずこの店を続けてみせるからな」

 メーガストは腕を組んで言い、

「ユリエさんの代わりに、これからも頑張って行きますね」

 ニーセはにっかりと笑顔を向けて言った。

「寂しくなるなあ」

「元気でいてくれ!」

「さようなら、おっぱい……」

 沢山の客たちも、口々に声をかけた。

 暖かな言葉の数々は、由梨江の胸を締め付ける。もちろんメルセルウストは嫌いだ。奴隷を認める何てどうかしている。だけど由梨江は、この人たちの事が好きだった。

 数々の思い出が頭の中に蘇り、一滴の涙が由梨江の目から零れて落ちた。

「さあ!」と、大声を上げたのはシシリアだ。「湿っぽいのは終わり! 店長の料理を食べちゃいましょう!」

「そうだそうだ」

「店長はこれしか取り柄が無いんだからな」

「全くだ」

「よっしゃあ。おい、店長! 乾杯の音頭をとってくれ!」

 指名された店長は、ニーセ教の祈りの言葉を捧げると、飲み物が入ったコップを手に取った。それを見習って、他の人たちもコップを持つ。

 もちろん由梨江もそうした。何だか不思議な気分だった。地球と同じような風習が、この世界にもあることが驚きだった。

 由梨江の両脇に、シシリアとニーセが並んだ。

 メーガストはみんながコップを持った事を確認すると、

「乾杯!」

 と、大きな声を上げたのだった。




 部屋の中は窓も扉も閉め切っており、使用している照明魔法もロウソク程度の明るさしかないため、真昼だと言うのに酷く薄暗い。

 闇から染み出るように、二人の男が丸い机を挟んで立っている。男たちの間には気配が消失していた。普通の男ではない癖に、二人の服装は町の中を歩けば十人に一人は着ていそうなほどありふれた格好である。

「明後日、買い出しだ」

「分かった。俺が出張する。お前は引き続き店番を続けろ」

「了解」

 二人が交わした言葉はたったのこれだけであった。それからすぐに、男たちはほぼ同時に、影の中へと溶け込むようにいなくなる。

 照明魔法のほのかな灯りは、部屋から人が完全にいなくなったのを証明するかのように消えた。部屋の中は、完全なる闇に包まれた。




 明後日。津村稔は由梨江に揺り起こされた。

「今日、いよいよ出発だね」

 パルツを食べながら、由梨江が言った。

「ああ」

 そう応えた稔は、シグルミのミルクでパルツを流し込む。

 いよいよ出発だ。そう思っても、稔は特に感慨深いものはなにも無かった。何しろ殆ど引きこもり同然の生活をしていたのだから、無理も無い話である。良い思い出も当然殆どない。唯一、由梨江が楽しそうに仕事の話をしてくれるのが救いだった。由梨江の心の傷は、一生癒えないものなのかもしれない。だけど確実に、以前よりも良くなっているのだと稔は思う。

「それじゃあ、そろそろ行こうか」

 稔は前日に準備しておいた大きな革袋を手に取って立ち上がった。革袋の中には、旅に必要そうな物が入っている。

「うん」

 由梨江も、稔に比べれば幾分か小さな革袋を持つ。これは全部一人で持つと主張した稔をどうにかこうにか説得して、由梨江自身が持つ事が出来た荷物だった。

 教会から出ると、尼のムルレイと神父のベキルガが、庭で待っている。

「いよいよ出発ですね」

 ムルレイはとても残念そうな表情で声を掛けた。

「はいっ」と、由梨江は彼女の表情に気付かない振りをして元気な声を出す。「ムルレイさんには、とてもお世話になりました。今までありがとうございます」

「本当に残念です。あなたを本当の聖女にすることができなくて」

「申し訳ありません。私はどうしても、聖女の器とは思えないのです」

「……そうですか。……願わくば、改心されることを祈っております」

「ありえません」

 由梨江はにかりと笑った。

 ムルレイとベギルガが苛立つ。だが二人は眉をぴくりと動かすだけで止めた。

「それでは、私たちは、もう出発します」

 由梨江はあえて、私たちと言った。ここで望まれているのは、私は、と単数形で言う事だ。ムルレイたちにとって、奴隷である稔は、人としての数に入っていないからである。

 案の定、教会の二人は、またもや眉を痙攣させながら、必死に表情を取り繕っている。その様子がおかしくて、由梨江は吹き出しそうになるのを堪えるのだった。

「……旅の安全を祈っております」

 かろうじて、ベキルガが別れの言葉を告げた。

「ありがとうございます」

 由梨江は最後にもう一度言うと、踵を返して、教会の敷地から出て行く。稔はそれに追随した。


 住宅地を歩きながら、稔は周囲をそれとなく見渡して、抑えた声で由梨江に耳打ちする。使った言語は念のために日本語だ。

「意外と、意地悪なんだね」

 由梨江は顔を稔の方へ向けない。

「うん。でも、嫌いな人だけだよ」

 稔は好きな人だからそういうことはしない、と由梨江は言った。

 会話はそれで終わった。奴隷が不用意に話続けるのは不味いからだ。奴隷相手だと好きなように会話を楽しむ事さえはばかれるこの世界は、やはり間違っていると稔は思う。だけど現状の自分たちでは、変える事はきっとできない。

 郷に入らば郷に従え。不意に日本のことわざが頭に浮かんだ。ことわざは先人の知恵が端的に形を成したものである。なるほど良く出来ている。郷のしきたりを守れない者は、その郷ではまともな生活を送れなくなる。これがこのことわざの意味だろう。そしてメルセルウストにもぴたりと当てはまるのだった。

 この郷のしきたりを変えるにはどうすればいいのだろうか。内部に入り込み、権力を手に入れて、しきたりを失くせばいいだろうか。あるいはもっと手っ取り早く、外部から郷を壊してしまえば、しきたりも関係なくなってしまうに違いない。

 馬鹿な事を考えているな、と稔は思考を止めた。稔が内部から変えるには、そもそもこの国のルールが許さない。ならば滅茶苦茶に暴れ回って、グラウノスト帝国を崩壊させれば良いかと言えば、そもそも稔ただ一人で戦っても、敵うわけが無い。

 ここでも現状に甘んじる他に無いのだ、あの岩窟のように。

 やがて住宅街を抜けて門の前まで辿り着くと、幾人かが由梨江を見ている。

 それはメーガストと、シシリアと、ニーセ、それから由梨江と仲の良い常連客たちだった。

「みんなっ」

 自然な笑顔を浮かべた由梨江は、弾んだ声を発した。それだけで、彼らが由梨江と親しい仲であるのは分かった。

「来ちゃった」

 シシリアははにかんだ。

 他の面々も、暖かい言葉を掛ける。

 稔はそんな光景を、眩しそうに見守っていた。

「その奴隷が」と、シシリアは稔の方を見て聞く。「あの時、森の中に入ってくれた奴隷?」

「はい」

「少しだけ、話しても良い?」

「もちろん。構いませんよ」

 と、由梨江は頷いて、稔へ視線を向けた。

「許可するわ。話をしても、大丈夫よ」

「わかりました」

 稔はようやく声を出して返事をする。奴隷もこうしたやり取りさえ行えば、人前でも話す事が出来るのだ。

 シシリアは稔へと、恐る恐る近づいて、口を開く。

「ユリエちゃんから聞いたよ。あなたが、あの人たちを探すのを手伝ってくれたのよね?」

「……はい」

「あの子から話を聞いた時、正直、びっくりした。だって、森の中、しかも魔物と戦ったりしたって言うじゃない。あなたはどさくさに紛れて、あの子を殺して、逃げ出す事だって出来た。違う?」

 シシリアの質問に、稔はどう答えたものか考えて、それから口を開く。

「はい。やろうと思えば、できました」

「うん。でも、あなたはしなかった。あ、勘違いしないでね。私は別にあなたをどうこうしようってわけじゃなくて。ただ、お礼をしたくて」

「お礼、ですか?」

 稔は怪訝そうに聞き返した。

「うん。その、私、奴隷と話すのは初めてだから、どう話せば良いのかよく分からないんだけど。……ありがとうね。ユリエちゃんを、無事に返してくれて」

 シシリアは、笑った。当然ながらそれは、奴隷に、物に、向けるべき表情ではなかった。その事実に、稔は驚きを覚える。この世界の住民がおよそ決して行わないであろう行為を、彼女は簡単にやってのけたのだ。

「……俺は、ただ、由梨江……様の事を、助けたかっただけで」

「優しいのね、あなた」シシリアは驚いたように目を剥いて、続ける。「これからも、ユリエちゃんの事を守ってね。あの子は、本当に良い子なんだから」

「分かってます。絶対に、守ってみせます」

「うん、よろしくね。信じてる」

 信じてる、その何気ない言葉がこんなにも重たいとは、稔は思わなかった。

「はい」

 と、稔が答えると、シシリアは優しく微笑んだ。

 そうして彼女は振り返ると、人差し指を立てて口元へ持って行き、

「話した内容は、内緒ね。特に、教会には」

 と、意地悪そうに笑んだ。

 もちろんだとも、とか、分かってます、先輩、とか、そんな声が返ってくる。稔はそれらを聞きながら、彼らは本当に良い人たちなんだと思った。

「行ってきます」

 やがて由梨江はそう言って、稔と一緒に門をくぐった。

 由梨江のために集まってくれた人たちは、二人の姿が豆粒みたいに小さくなるまで、手を振って見送り続けている。

 稔はちらりと振り返ってそれを見た。彼らは奴隷という存在についてどう思っているんだろうか。少なくとも、教会の人間のような考え方ではないらしかった。

 続いて稔は、周囲に人がいない事を確認して、

「良い人たちだったね」

 と、由梨江に言った。

「うん。本当に、良い人たちだった」

「なんならさ。このままあの町にいても、いいんだよ」

「稔は……どうするの?」

「俺は、邪魔者だろ? どこかで適当にやるさ」

「なら、私はあの町にいない。私は、やっぱり稔と一緒にいたい」

「……そっか。ありがとう」

「ううん。私の方こそ、ありがとう」




 稔と由梨江は、気付いていなかった。彼らの後を追う二つの影があることに。

「商品は予定のコースを進んでいる」

「分かった。それでは出張をしてくる」

 短い会話が密やかに交わされると、片方の影が音も無く走った。

 恐ろしく速い。恐らくは魔法で筋力を強化しているのだろう。

 影は稔たちに気付かれる事無く横を走り抜ける。

 それから数時間ほどで、目的の場所に辿り着いた。そこには鎧兜で装った集団が、列を成して待機している。

 影は、集団を指揮しているゲーゲル・シュタインの元へ一目散に駆けつけた。

「商品は予定通り辿り着きます」

 そっと、影はゲーゲルに伝える。

「ついに来たか」

 ゲーゲルは口角を上げた。

「者共! 時は来た! 我らが憎き敵に、怒りの鉄槌を喰らわせようぞ!」

 オオオオオオオオ!

 静かな声で雄叫びが上がった。商品に気付かれてはならないからだ。

 だが、それは凄まじい殺意と憎悪の塊だった。見る人が見れば、恐怖を感じずにはいられないだろう。

「者共! 配置に着け!」

 ゲーゲルは号令を下した。

 全ては、奴らを殺すために。

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