三十一 新人は転がる
「本当に、行ってしまうの?」
寂しそうに瞳を潤ませたシシリアは、上目遣いで喜多村由梨江に聞き返す。
メーガスト食堂を閉店させて掃除を終わらせた後、由梨江は、店長のメーガストとシシリアに、店を辞めて旅を再開させる事を告げたのだった。
「はい」と、喜多村由梨江は申し訳なさそうに答える。「……目標の金額に達しましたので、この町を出て、帝都に向かいます。ここでのお仕事は楽しかったのですが……かねてから決めていた事でしたから。その代わり、私の代わりが見つかるまでは続けさせて頂きます」
「君の代わりになれる人は、そうなかなかいないだろうが」と、メーガストは本当に困った顔をして言う。「まあ、分かった。斡旋所の方に募集をかけてみるよ」
その一言に、由梨江はほっと胸を撫で下ろす。後続が見つかるまでは分からないが、どうやら綺麗に辞める事が出来るらしい。
けれど残念な気持ちもあった。ここで店長がごねてくれたら、強引に今すぐ辞めて、稔と一緒にこの町から出られるのだから。だが彼らの事を由梨江は気に入っていたから、出来ればそれはしたく無かったのだった。
「そっか……寂しくなるね」
と、シシリアは言った。
「ごめんなさい。シシリアさんには本当に、とてもお世話になったのに……。大したお礼もできなくて」
「ううん。いいの」シシリアは首を振って続ける。「常連さんの事、教えてくれたじゃない。それだけで……十分すぎるぐらいだよ」
「店長も今までありがとうございました」そう言って、由梨江はお辞儀をする。「ここでのお仕事は、とても良い経験になったと思います。どうか元気でいてください」
「こちらこそ、ありがとう。君が来てくれたおかげで、とても助かったよ。できることなら、ずっとここにいて欲しいぐらいだよ」
メーガストは笑顔を浮かべた。嘘偽りの無い言葉であることは明白だった。
「店長……?」
シシリアがどすの利いた声で呟いた。目が据わっており、ぞっとするような殺気が込められている。
「な、なんだい?」
メーガストは思わず半歩下がってシシリアを見た。
「もしも、わざと新人を雇わなかったら……分かってるわよね?」
「は、はいっ」
縮み上がるメーガストを見て、由梨江はくすりと笑う。シシリアはそんな二人を見て、あははと笑い声を立てた。それはいつもの光景だった。
数日が過ぎて、斡旋所から一人の少女が紹介された。三つ編みに編んだ髪を耳の後ろから二束垂らした彼女は、無事にメーガストの面接に合格して、次の日から働く事となった。
その事を津村稔に伝えると、彼は良かったと喜ぶ。どうやらこのまま新しい人が見つからない可能性を考えていたらしい。
とは言え、彼女が戦力になるまでは由梨江が仕事を教える事になっている。新人が仕事を覚えてから、ようやく由梨江は辞める事が出来るというわけだ。
そういうわけで翌日。一同は開店前にメーガスト食堂のホールに集まっている。
「ニーセと申しますっ。よろしくお願い致しますっ」
青いスカートを履いたニーセは、威勢良くお辞儀をした。あからさまに緊張しているのか、動きがぎこちない。だがこの仕事が初めてならば、動きが堅いのも当然の事である。
続いて事前の説明を行う。仕事を行いながら徐々に覚えていくものだが、それでも最初に説明するだけでも随分と違うのだ。
それが終われば、いよいよ開店である。
人気店であるメーガスト食堂は、開店直後でもある程度の客が来店する。まずは由梨江が見本を見せ、その後にニーセにやらせてみた。
若干ぎこちなさがあるけれど、彼女は特に問題なく行えた。計算も由梨江と比べれば遅いものの、正確に答えを出せている。ちなみにシシリアの場合、計算間違いをして客に突っ込まれる事が日常茶飯事であったため、計算が正確にできるのは、無くてはならない要素だった。
由梨江はほっと胸を撫で下ろす。この調子なら、一週間もすれば慣れるだろう。あとは昼と晩のピークを乗り越える事が出来ればこの店でやっていける。
そうして、地獄のお昼がやってきた。
腹を空かせた大勢の客が一挙に雪崩れ込み、ものの数秒で全ての席が埋まる。口々に注文して行くその様は、阿鼻叫喚の様相を呈していた。
あまりの急変ぶりに呆然とするのはニーセ。
「注文お願い!」
と、由梨江は叫ぶようにニーセに指示を飛ばす。
「は、はい!」
ニーセは我に返り、慌てて接客を行う。文字通り目が回る忙しさで、もはや何が何やら分からない。それでもどうにか接客が出来るのは、シシリアや由梨江が的確な指示をしているおかげだった。
やがて昼のピークが落ち着いた。客は途絶え、由梨江たちはテーブル席に着いて、メーガストが作った賄い料理に舌鼓を打っている。
「ん~」
早速一口食べたニーセは、予想外の美味しさに悶えた。
「どう?」と、シシリアはにんまりと笑みを浮かべて聞く。「店長の料理、おいしいでしょう?」
「はい」
ニーセは頬に手を添えて答えた。
「それで、どうですか?」と、由梨江は尋ねる。「これからもやっていけそうですか?」
「うう……自信ないです」
昼のピーク時の事を思い出したニーセは、震えながら呟いた。
「初めてなら、あんなものよ」軽い調子でシシリアは言う。「大丈夫、すぐに慣れるから」
けれどニーセは半信半疑だ。自信なさそうに俯いていた。
「私も初めはパニックになりましたよ」由梨江は安心させるために微笑んだ。「失敗しても大丈夫。私たちでフォローしますから」
「はい……」
由梨江は心配になった。もしかしたらこのまま辞めてしまうかもしれないんじゃないかと。それはそれで仕方が無いが、ベネトから出ていくのが遅くなってしまう。それでも由梨江は不安が顔に出ないように笑顔を作る。
「次は夜のピークです。酔ったお客ばかりですから、気をつけて下さいね」
「は、はい」
ニーセには、由梨江の笑みが悪魔の微笑みに見えた。
夜。二つの月が頭上に昇っている。
メーガスト食堂は、今晩も酔客で埋まっていた。
てんてこ舞いになっているのはもちろんニーセだ。
タチの悪い酔っぱらいたちが、新人のニーセにセクシャルハラスメントをしようと虎視眈々と狙っている。だがシシリアが先回りをして、情け容赦のない妨害を施し、ニーセに被害が及ばないようにしていた。
「もうすぐ辞めるんだってね、ユリエちゃん」
常連の一人が、由梨江を捕まえて話しかけた。
「はい。それであの子が入ったのですが、まだまだ慣れていませんので、お手柔らかにお願いしますね」
「まあ、今、あの子に手を出そうとすると、シシリアちゃんに殺されるだろうからなあ」
ニーセの方を見てみる。客が彼女の尻を触ろうと手を伸ばす所だった。しかしいつの間にか近くにいたシシリアが、客の顔面に拳を叩き来む。一撃で気絶した客が床に倒れかかるが、シシリアは彼を受け止めて机の上に寝かしつけた。ニーセは自分の身に降り掛った危機と、シシリアの暴力にまるで気が付いた様子が無い。恐るべきはシシリアの手腕である。
「……は、は、は」と、青ざめた常連客は乾いた笑い声を立てる。「ほんと、最強だよ、あの子は」
「……そう思います」
尊敬する先輩だが、由梨江も同意するしかなかった。
「ま、それはそれとして」
常連客の方へと視線を戻すと、彼は指をいやらしく動かしながら、由梨江の豊満な胸へ手を近づけていく。
「このおっぱいともうすぐ別れなきゃ行けなくなるのは、寂しいなあ」
瞬間、がつっ、と鈍い音がした。
「あいたぁっ!」
由梨江が手に持っていたお盆の角で、常連客の手を叩いたのである。
「ゆ……ユリエちゃんも……入った時時と比べると……逞しくなったよね」
「ありがとうございます」
由梨江は満面の笑みを浮かべて言った。その表情を見た周囲の客たちの顔色が青白く染まる。シシリアの影響なのは間違い。今日入ったばかりの新しい子も、同じようにシシリアの色に染まってしまうんだろうか。そう思うと背筋に冷たいものが走った。
知らない所であらぬ心配をかけられたニーセは、ちょうど注文された青色の酒を運んでいる途中だ。その時ちょうど誰もニーセにちょっかいをかけようとはしていなかったし、注文も一時的に途絶えて、束の間の平穏が訪れていた。だからニーセは落ち着いていた。慌てる必要は少しも無かった。
「きゃあっ」
が、不意に、ものすごい音を立てながらニーセが転んだ。酒が入ったグラスが空を飛んで、目の前の男性の股間に青い液体がかかる。ズボンが濡れて染みが出来るが、彼はそれよりも目前で倒れているニーセの姿に釘付けになっていた。しかしそれはこの男だけではない。その場にいた全員の視線がニーセのお尻に集まっているのである。
なぜならニーセが履いていたスカートはすっかり捲り上がっていて、ピンク色の下着が隠される事無くむき出しになってしまっているのだ。
数秒後にニーセははっと起き上がるものの、自分があらぬ痴態を晒した事に全く気付いた様子が無い。そればかりか、あたふたした様子で、
「だ、大丈夫ですか! 申し訳ありません!」
と、お酒をかけてしまった男に対して、何度も何度もお辞儀をしながら謝罪するのである。そのお辞儀はあまりに勢いがついてしまっているせいか、またも下着を周囲に見せてしまっている。
「あ、ああ、大丈夫だ」
「本当に申し訳ありません!」
ニーセはさらに懐からハンカチを取り出すと、男の濡れた股間を丁寧に拭き始めるではないか。とうの男は、どう反応すれば良いのか困惑し、それからほんのりと頬を赤く染めたのだった。
「……どじっ子だ」
一部始終を見ていた由梨江は、思わず口走った。すると周囲にいた客たちが、口々に「どじっ子」「そうかどじっ子か」などと小声で言い出し始めた。これが後にメルセルウストにおいて大流行する『どじっ子』という言葉の誕生であるが、由梨江には全く知る由もないことだった。
店長であるメーガストはこの失態を見て、
「アリだな」
と呟き、腕を組んで神妙に頷いたのであった。
そして当然、シシリアはそれを聞き咎めて、メーガストの脛を思い切り蹴った。
「……うごっ」
呻き声を上げてうずくまる店長であるが、誰も心配する者はいない。なぜならこの店の風物詩であったからだ。
蹴った本人であるシシリアは、ふん、と鼻息を吹くと、客たちを黙らせる、もとい、ニーセのフォローをするために行動を開始したのだった。
やたらと広い城のくせに、会議場だけは必要最低限の広さしかない。そのため隣の席との距離は僅かで、少し動くだけで隣にいる人と接触してしまいそうだった。
上座に座るのは帝王であり、議長でもあるオルメル・ノスト・アスセラス三世だ。他にも帝王の娘であるメメルカ、騎士団長のグルンガル・ドルガと女性副騎士団長のシーカ・エトレセ、それから王が特に信頼を寄せている重鎮たちに、異端の天才であるゴゾルが集っている。そうそうたるメンバーの中、末席に着席していたルセイ・ジャカブは、酷く肩身の狭い思いをしていた。
しかし、ここで堂々と振る舞う事が出来なければ出世は見込めない。ルセイは帝王に向かって挙手を行う。
「話せ」
と、オルメルは促した。
「例の魔人が近々町を出ると言う情報を入手しました」
会議場内がざわめく中、喧噪を切り裂くようにオルメルは問う。
「本当か?」
「は。女が働いている店に密偵を客として潜ませた所、常連らしき客と女が話していたそうです」
ふむ、とオルメルは一度頷いて、視線をゴゾルへと向けた。
「ゴゾルよ。散魔の実の準備は順調か?」
「は。目標の収穫量は達成しています。後は武具に仕込むだけで完成となります。二晩を超えれば、それも終わるでしょう」
「グルンガルよ。兵の準備は良いか?」
「いつでも出兵できます」
「ならば武具が完成した後に、作戦通り兵を配置場所まで移動させるとしよう。奴らが来た時が決行の時だ。指揮する者の選定は貴様に任せる」
「は」
そうしてその三日後。帝王や民衆に見送られながら、百人もの兵は出発した。
魔人退治という恐るべき任務に、彼らは不安と恐怖を隠せないでいる。
それでも彼らが足を進めるのは、この国を守り、さらには大切な者たちを守るという気持ちが勝っているからだった。
指揮を執るのは、五十手前の男だ。名前をゲーゲル・シュタイン。ヒカ大陸で起きた戦争で多大な勝利を収めた老かいな男であるのと同時に、魔人に妻子を殺された男でもあった。
ゲーゲルの後ろに続くのはルセイである。彼はこの戦いに志願したかったが、魔人の動向を引き続き探らなければならないため、隊に加わる事ができなかった。
「ルセイよ、そうカリカリするな」
と、ゲーゲルはルセイに話しかけた。
「しかし……あの、魔人ですよ?」
「気持ちは分かる。だがお前の戦いは別にある。あの魔人どもを調べなければならんのだろう? それに予想ルートに奴らが素直に行くとは限らん。その時は迅速な報告が必要になってくる。これも一つの戦いなのだよ」
「分かっては、おります」
「若いな」と、ゲーゲルは愉快そうに笑った。「何、心配するな。無事に帰れたなら、お前の事は良く報告しておくからな」
「い、いえ、そんな事は」
「遠慮するな。それにチャンスはこれから幾らでも出てくる。幾らでもな」
「ですが……あの魔人ですよ? 本当にこれだけで大丈夫なんでしょうか?」
「かつての英雄たちが考えた作戦だ。お前は何も心配する事は無い」
それでも心配そうな顔をするルセイに、ゲーゲルは続ける。
「もしもこいつが駄目でも、その時は儂が奴らの喉を食い破ってやるわ」
そして、凄惨な笑みを浮かべた。
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