三十 日々が傷心の心を癒す事も無く

 別に大した用事があるわけではなかった。

 一緒に遊ばない? と級友に誘われたからだった。

 けれど兄である津村稔がいなくなってから、友達に誘われるというイベントは久しくなかったのだ。だから実花は遊んでみる事にしたのである。

 でも、つまらなかった。予想していたとはいえ、こんなにも空しい気持ちになるとは思わなかった。

 実花は一言謝ってから、友達と別れて自転車で家に向かう。

 西瀬良川駅の近くを通ったのも、その近くのマンションを通りかかったのも、全くの偶然だった。

 そして、西尾雫と、ちらし配りの時にいつも来てくれている稔の友人、車田良光が一緒にいるのを見つけてしまったのも、やっぱり偶然だったのだ。

 何か嫌な予感に駆られた実花は、自転車を静かに停止させると、建物の影から二人の様子を覗く。

 二人は見つめ合い、うっとりと囁き合っている。顔はほんのりと赤い。それからどちらともなく抱きしめ合って、キスを交わした。長いキスだった。

 キスは好きな人同士でするものだと、実花は少女漫画で読んだ覚えがあった。それなら雫の相手は稔のはずで、だけど目の前の男は良光で。

 つまり雫が好きな人は良光なのだろう。だけど釈然としなかった。お兄ちゃんと雫は恋人同士で、好き合っていた。それは確かだった。なら、今、なぜ、雫と良光がキスをしているのだろう。

 混乱する実花を余所に、二人は腕を絡ませ、身体同士を密着し合い、マンションの中へと迷わずに入っていく。

 確かな事は一つだけ。

 雫は稔を裏切ったのだ。


 行方不明の恋人は生死不明。手がかりは全くなく、見つかる見込みは皆無。そうした中で新しい恋人を作る事は、恐らく賛否両論あるだろう。

 だが少なくとも実花は許せなかった。汚らしいと思った。稔は絶対に帰ってくると口では言いながら、違う男とキスをする。それは本当に帰ってくると信じている台詞なのか。信じているならどうして違う男とキスをしたのか。

 チラシを配っている時、さりげなく雫を見てみれば、彼女と良光はいつも近くにいた。二人は時折、時間にしてほんの数秒だけれど、見つめ合っている。見る人が見れば、親密な関係に映る事だろう。気付くべきサインは色々な所にあったのだ。実花はそれに気付けなかった事に愕然としていた。

 次の日の朝、実花は早めに起きて玄関前で立っていた。そうしていつもの時間に雫がやってくる。稔がいなくなっても、こうして彼女は実花を送るためにかいがいしく来るのだ。その行為すら、実花は許せない。

 いつもは呼び出してから出てくる実花が、今日は玄関前で待っている事に雫は驚く。

「おはようございます、雫さん」と、実花は雫が何か言う前に挨拶して、それからすぐに首を振って笑顔で訂正する。「あ、違った。西尾さん」

「え?」

 わざとらしい実花の態度に、雫は思わず面食らう。目の前にある実花の笑顔が、怖く見えた。そもそも実花は、稔がいなくなってから笑顔を見せなくなったのではないか。

「私、昨日見たんです」嫌にニコニコした顔で、実花は告げる。「車田さんと抱き合って、キスするあなたの姿を」

 途端、雫の顔面から血の気が失せた。

「私、あなたの事が嫌いです」

 じり、と雫は一歩後ろに下がる。

「あなたは、最低、ですね。お兄ちゃんは、あんなに……」笑顔をやめた実花の目から、ぽろぽろと涙が零れて落ちて行く。「あんなに! あなたのことが好きだったのに!」

 雫の目線が地面に落ちた。それでもかろうじて声を出す。

「……ごめん、なさい」それは普段の勝ち気な性格とは真逆な、酷く惨めな声音だった。「……さびしくて……本当に……さびしくて……それで……つい……」

「……あなたの声なんて聞きたくない。顔も見たくない。ちらし配りは好きにしていいですけど、私たちの家にはもう来ないで下さい」

「あ、う」

「私はこれから学校に行きます。あなたはついて来ないでください」

 雫は無言でうなだれていた。だが最早、実花は彼女に何の興味も持てなかった。

「返事は?」

「……は、い」

 雫はとぼとぼと歩き去った。

 その小さく丸めた背中は、彼女が変わってしまった事を示していて、実花は何だか悲しかった。




 公立青嵐高校二年三組の教室。

 時刻は昼休みを迎えて、雫はいつ通り井上春香と山崎加奈と昼食を食べていた。

 春香と加奈はいつも通り騒々しくて、そうした二人にいつも励まされて来た。

 三人ともほぼ同時に昼食を食べ終える。いつも通りならこれから本格的な雑談時間に突入する。そうなれば、今朝、実花に言われた事に対する気を紛らわす事ができると期待した矢先、春香と加奈は真剣な顔になった。

「ねえ、雫。ちょっと歩かない?」

 と春香が提案した。

 嫌な予感がしながらも、雫は断る事ができない。こくりと頷いて返事をする。

 立ち上がる春香と加奈。二人はあらかじめ示し合わせていたようだった。

 二人が歩いて行くのを雫は追った。

 楽しい雑談は消え失せて、ただ無言の空気が流れている。

 怒っている? 悲しんでいる? それとも相談したい事があるのかな? 雫は推測するがまるで答えが分からない。

 やって来た場所は体育館裏だ。定番の告白スポットであり、雫は何度もこの場所で告白を受けて、そのことごとくを振って来た。

 春香と加奈は立ち止まると、振り返って雫を見る。二人は、悲しそうな、哀れんでいるような、あるいは怒っているような瞳をしていた。

「ねえ、どうしたの?」

 と、雫は聞いた。

「分からない?」

 と、加奈は言った。

 雫は首を傾げる。本当に、何の事だか分からない。

「車田と付き合ってるでしょう?」

 え? 春香の質問に、雫は間の抜けた顔をした。

「な、なんのことかな?」

「とぼけないで」

 春香は強く言った。視線は真っ直ぐ雫を射抜いている。

「……実花ちゃんに聞いたの?」

 暗い声で雫は尋ねると、二人はぎょっとした。

「まさか……実花ちゃんに見られたの?」

 加奈は恐る恐る質問を投げかける。稔が大好きな実花にとって、兄の彼女が浮気をしている現場を見せられたのは、さぞかしショックだったろうと心配だった。

 とうの雫は質問に答えようとせずに、気まずそうな視線を斜め下へと落としている。

 その態度は、春香と加奈にとって酷く悲しいものだった。あの雫が、こんなにも情けない姿を晒すだなんて思いもしなかった。

「津村君が帰って来たら、一体どうするつもりなの?」

 一向に口を開こうとしない雫に業を煮やした春香は、さらなる疑問をぶつけた。

 雫の視線が後ろめたそうに泳ぐ。

「その……」と、ようやく雫が声を発する。「二人は、稔が帰ってくるって……信じているの?」

「はあ?」

 と、春香と加奈は呆れた。

「そもそもあんたが、帰ってくるって、信じていたんでしょうが!?」

 加奈は言葉を荒げた。雫に対する怒りが抑える事ができなかった。

「……最初は、私だって、信じていたよ……」雫は体中を振るわせながら、ぽつぽつと話始めた。「でも、あんなにちらしを配ったのに……何にも集まらない。警察も役立たずで……明らかに家出で片付けたがっているし……。信じ続けるにも……限度があるよ」

 雫の目から、涙が落ちて行く。だがそれを可哀想だとは、春香も加奈も思わなかった。

「……車田の事、本当に好きなの?」

 春香は優しく問い掛けた。それは親友に対するせめてもの情けだった。

「……うん」少し悩む様子見せたものの、雫は頷く。「好き……なんだと思う」

「そう」と春香は呟いて、続ける。「なら、津村君が帰って来たら、きちんとけじめはつけるんだよ」

「……うん。わかってる、わかってるよ……」

 そうして、予鈴がなった。三人は無言で、教室へと戻った。




 ちらしを配り終えて帰宅した実花は、晩ご飯とお風呂を済ませると、稔の部屋に入った。

 敷かれたままになっている彼の布団の上に寝転がり、天井を見上げる。

「お兄ちゃん」

 と、今はいない部屋の主に向かって呼びかける。

 雫さんが車田さんとキスしたことを兄が知ったら、どう思うんだろう。多分、仕方が無いと、自嘲気味に笑いながら許してしまうんだろう。ずっといなかったのが悪いんだ、とかなんとか言って。

 実花はのそのそと起き上がってゲーム機の電源を入れる。勇壮な音楽と共に、マジッククエストⅣのロゴマークが浮かび上がった。

 このゲームも、もう三周はしている。面白いゲームだと実花は思う。だけどこんなにもこのゲームをやり続けているのは、そこに稔の温もりを感じることが出来ると思うからだ。それはゲームだけではない。布団に寝転がるのも、稔が買った漫画を読み漁ったりもしているのも、同じ理由からだった。

 でも想像せずにはいられない。今、この場に稔がいたら、何を言うんだろう。何を思うんだろう。

 そんな事を考えながらゲームを続けていると、階下から怒鳴り合う声が聞こえて来た。

 父の浩一郎と、母の景子の声である。

 まただ、と実花はげんなりした。

 父と母が喧嘩しているのに気が付いて、止めに入ったのは何週間か前の事だ。けれど二人のわだかまりがそれで解消するはずもなく、こうして喧嘩が行われるようになった。

 初めこそ喧嘩の仲裁を行っていたのだが、こうも恥ずかしげも無く何度も何度も繰り返されれば嫌にもなるし、呆れ果てる。

 どん! と実花は強く足音を立てた。それで一瞬喧嘩は止むものの、またすぐに再開されるのだから始末に負えない。

 実花はため息を吐くと、ゲーム機のコントローラーを手放して、再び布団の上で横になる。それから枕を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。

 目を閉じた実花は、兄の姿を脳裏に描き出して、心の中で語りかける。

 お兄ちゃん。お兄ちゃんがいなくなってから、色々おかしくなったよ。雫さんは浮気をして、お父さんとお母さんは最近は喧嘩ばっかりしてる。これからどうなっちゃうのかな。怖いよ。悲しいよ。寂しいよ。

 瞼の隙間から涙が流れた。

 胸の中にある不安は、日に日に大きくなっていく。最後には風船みたいに呆気なく破裂してしまうんじゃないかと実花は思う。

 だけど稔にもう一生会えないのだとしたら、それもいいかもしれない。雫は不安に圧し潰されそうになって、その逃避先に良光を選んだ。両親が喧嘩ばかりしているのも、稔がいない事が二人の間に亀裂をもたらせたせいなのかもしれない。

 実花には逃避先も、不安をぶつける誰かも思い浮かばない。稔がいない生活に、生きて行く価値を見出す事も出来ない。

 それでも生きているのは、稔に会いたいから。一緒に笑ったり、泣いたり、ご飯を食べたり、それからちょっと虐めたりしたいだけ。

「お兄ちゃん、会いたいよ」

 何度も呟いた言葉を吐き出して、今日はこのまま寝てしまおうと思った。ここで眠れば、夢の中でお兄ちゃんと会える気がしたからだった。

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