二十六 盾

 全身を覆う灰色のローブを纏った二人組が、森の中へ足を踏み入れた。

 木々が、枝が、草が、まるで部外者を拒んでいるみたいに雑然と生えている。それでも二人は不慣れな足取りで恐る恐る進んでいく。

 二人組は、津村稔と喜多村由梨江である。

 水が入っている革製の水筒と、バルツが詰められた革袋を稔が持ち、岩窟にいた頃に入手したナイフを由梨江が所持していた。持ち物はこれだけである。

 こうして森の中を歩いていると、稔はグリアノスを思い出す。グリ村で助けてくれた彼は、魔人と言う色眼鏡で見る事なしに、稔と言う人物そのもので見てくれた。

 ふ、と稔の口元から笑みがこぼれた。森が得意な彼ならば、苦労しながら歩く稔たちと違い、難なく進んでいくに違いない。この森の中に潜んでいる新種の魔物も、彼にかかれば見つかる事無く狩る事ができただろう。

 だが、ここにグリアノスはいない。

「ねえ、稔」

 ナイフで木に目印を入れた由梨江が、前方を歩く稔に声を掛けた。

「ん?」

「グリアノスさんって、今どうしてるのかな?」

 どうやら由梨江も同じように彼の事を考えていたようで、稔は軽く驚いた。

「きっとあの格好で今日も森に入ってるんだろうな」

 思い出すのは、獣の糞まみれになったあの姿。狩りのために必要なのは分かるのだが、あの臭いはあまりに強烈だった。

「うう……そうね」

 由梨江もまた、あの時の臭いを思い出したのか顔をしかめた。

「俺たちも、あの格好をした方が良いのかな」

「……も、もしも、稔がしろって……言うなら……私は」

 ものすごく嫌そうな顔をしながらも、由梨江は決然と言った。本気の目だった。

「いや! 冗談! 冗談だからっ!」

 否定すると思った稔は慌てて弁解する。

「冗談? あ、う、うん。分かってたよ。うん分かってた」

「そ、そうか。それなら良いんだけど」

 ははは、と二人とも乾いた笑い声を発する。

「そういえばね、稔。私、結構字を覚えたんだよ」

 由梨江は稔の身長を遥かに超える高さの草をかき分けながら言った。

「本当か? 凄いな。今度、また教えてもらってもいいか?」

「うん、もちろん。……それでね、字を教えてくれたのは、前にも言ったバイトの先輩のシシリアさんっていう人と、それから常連さんにも教えてくれたんだ」

「常連さんって言うと……」

「うん。この森の中に行ったきり……帰って来ない人たち……なの」

 気落ちした声が稔の背後から聞こえてくる。けれど稔は、簡単な相づちしか打つ事ができない。

 由梨江は悲しい声で続ける。

「その人たちはね、顔は恐いけど、本当に良い人たちだったんだよ。字を教えてくれたのもそうだけど、初めて仕事をした時には色々と他のお客さんについて教えてくれたし、ミスをしても笑って許してくれた。冗談を言うのも得意で、仕事中なのに笑ってしまうのは一度や二度じゃなかった。本当に、面白くて、良い人たちだった」

「そっか。……それなら、見つけてやらないとな」

 そう言いながら、稔は、恐らくは生きていないんだろうなと考える。由梨江もそれは分かっているのだろう。だがはっきりとその目で見ていないから、希望を捨て切る事ができないのだ。

「うん」

 と由梨江は頷いた。


 進んでも進んでも一向に景色は変わらない。時間の感覚も、距離の感覚も、もはや感じられなかった。

 いつしか稔と由梨江の間から会話が消えてしまっていた。ただ二人の息づく音が、静寂に包まれた森の中で響いている。

 この険しい道のりは、慣れぬ二人にとって非常に大変であった。特に、人がいた痕跡がまるで見つからない現状に置いては、肉体の疲れはもちろん、精神的な疲労も色濃く蓄積されていく。

 稔はちらりと後ろを振り返ると、由梨江の顔色を伺った。彼女の視線は下を向いており、稔が見ている事に気付いていない。これまでの経験上、疲れは回復魔法で回復できない事は分かっている。

 稔はふと立ち止まると、由梨江の頭が彼の背中と接触した。

「きゃっ」

 由梨江は小さな悲鳴を上げて、額を抑えながら顔を上げた。

「そろそろ休憩しようか」

 稔は気にする素振りを見せずに提案した。

「あ……」と由梨江は呟いてから、頭を縦に振る。「うん」

 ちょうど近くに稔と同程度の大きさである葉っぱがあったので、それを倒木にかけて即席の椅子に仕立て、二人は並んで腰掛けた。

 一息つくと、溜まっていた疲労がどっと押し寄せる。足が重たく感じて、再び立ち上がる気力がまるでなくなっていた。

 ぼんやりと辺りを見回す。もしかしたらどこかに他の人が残した手がかりがあるかもしれないと思ったが、うっとうしいほど生い茂る草木が探すのを困難にさせていた。声を出して探す事も考えたが、どこから何が飛び出てくるか分からないこの場所では、愚策中の愚策にしか思えない。

「ねえ」由梨江は稔に尋ねる。「新しい魔物が出て来たら、どうするの?」

「常連さんたちが討伐行ったって言う奴の事?」

「うん」

「多分……常連さんたちがいる近くに、その魔物がいる確率は高いと思う……だから」

 と、稔は言葉を区切った。由梨江は彼の顔を見つめる。

「倒せるなら、倒そうと思う」

「危険……だよ。もしかしたら、稔が死んじゃうかもしれない」

「うん、そうだな。死ぬのはやっぱり怖い。でも、俺は倒すべきだと思う」

「分かった」と、由梨江は決然と言う。「稔は、私が守る」

 彼女の回復魔法なら、例え瀕死の状態になったとしても、稔は助かるに違いない。だから、その事を言っているんだろうと稔は考えた。

「頼むよ」

「うん。任せて」


 休憩を終えて、二人はさらに森の奥へ行く。

 樹木の葉は空を覆い尽くすほどで、小さな隙間から零れる僅かな光だけが森の中を照らしていた。見た事の無い草やツタは、ますます縦横無尽に伸びている。

 そうした状況下で、さらにいつ魔物や獣に襲われるか分からないがために、二人は周囲を警戒しながら歩いていく。

 不意に、稔は、自分の右手に冷たい感触があることに気が付いた。由梨江が彼の手をいつの間にか握っていたのである。

 女の子らしい柔らかくて細い手は、後ろを振り返ることをせずとも由梨江の存在を感じ取る事ができた。ただそれだけで、稔は不思議と勇気が湧いてくる。

 それからさらに歩いていくと、稔は何かを踏んだ。植物とは違う弾力性に富んだ感触だ。

 嫌な予感がして視線を下に向けると、それはどす黒い肌に真っ白な色の髪をした人が、うつむせになって倒れていた。それは稔が踏んでいるのにも関わらず、身じろぎ一つしない。

「うわあ!」

 思わず声を出した稔は、慌てて足を上げた。

 由梨江は怪訝そうな顔で稔を見て、次いで、目線を地面に下ろす。

「ひ」

 口元に手を当てて、由梨江は驚く。

「これは……人、なのか?」

 信じられない様子で、稔は言った。

 由梨江は呆然と立ち尽くし、地面に横たわるそれを見続けている。

 意を決してしゃがみこんだ稔は、震えるような手つきでそれの頭部を横に向けた。まるで夜の闇みたいに黒いせいで、顔付きがよく分からないが、恐らくは痩せ形の男らしかった。

「由梨江……この人は?」

 常連さんの一人なのか、と稔は聞いた。

 由梨江は首を横に振って否定する。

 立ち上がった稔は、周囲に視線を巡らした。同じような黒い死体が、点々と倒れている。

 一つ一つを丁寧に検分して、そのどれもが常連たちではない事を確認した二人は、合掌して目を瞑った。

 黙祷を終えた二人が足を進めると、行く先々に黒い死体が点在している。

 その全てを確認して、黙祷を捧げていく。

「これってさ、やっぱり」

 と、合掌を解いた稔はぽつりと言った。

「うん。多分、あの病気だと思う」

「それなら、もしかしたらさ、元凶がこの先にいるってことじゃないのか」

「だと、思う。多分それは」

 魔物、と由梨江は答えた。

 そうして、恐らくこの先のどこかに常連たちがいるだろう。

 魔物にも近づいて来ているのは間違いない。

 稔は生唾を飲み込んだ。

 恐怖があった。常連たちはもう手遅れだというほぼ確定に近い恐怖。稔自身が死ぬかもしれないと言う恐怖。だが由梨江は死なない。それだけは間違いない要素であり、救いだった。

「行こう」

「うん」


 稔と由梨江は、木の陰からこっそりとそれを覗いている。それは木の魔物であった。

 八本足の根と葉の付いた枝が、うぞうぞと蠢いて、怖気が走るような気色の悪さがある。幹は太く、稔が両手を広げて抱きついても、手が後ろまで届かないだろう。

 地面の方を見れば、黒い死体が数多く倒れている。その内の数体からは、木が生えかかって来ていた。

 まるで出来の悪いホラー映画の一場面でも見ているみたいに、目の前の光景は現実味が無い。

 けれど、これは好機でもあった。あの魔物は、どうやら稔たちに気付いていないようなのだ。

「メドル」

 稔は早速、魔力を溜め始めた。このまま不意を突く事ができれば、あっけなく魔物を倒す事ができるだろう。

 だが、稔が唱えた瞬間、魔物の枝が一本、稔に向かって襲いかかったのである。

「な!」

 声を上げるも、稔は驚愕のあまり咄嗟に動けない。もう、だめだ。そう覚悟を決めた時、稔の前に影が躍り出た。

 それは由梨江であった。

 魔物の枝が、彼女の胴体に両腕ごと絡み付く。ぎちり、と身体を締め付けられて、苦悶の表情を浮かべた。葉は鋭く、彼女の肌を切り裂いて、朱色の筋を走らせる。

「稔……」由梨江は苦痛に悶えながら言う。「私が……引き付けるから……その間に、魔法を……」

 稔は奥歯を噛み締めて、早く魔力よ溜まれと念じる。だが遅々として進まない。

 その間にも、由梨江は苦しみ喘ぐ。枝がますます強く食い込んで、ローブに隠れた起伏のある身体の線が浮かび上がった。

 魔物は全身から粉を放出。あの黒い病をもたらす粉だ。由梨江はもちろん、稔もまた粉を吸った。

 これで終わりだ。もう何もできやしない。魔物はそんな確信を抱いているかのように、由梨江に絡み付けた枝を緩めて、彼女を解放させた。

「げほっ! げほっ!」

 苦しみから解放されて咳き込んだ由梨江。だが男共を一瞬で無力化した粉の効果は表れていない。それは由梨江自身の魔法が早速効果を出しているおかげか。だが不思議な事に、稔にも症状は出ていなかった。

 由梨江はナイフを懐から取り出して腰だめに構える。木の魔物はなぜか攻撃を仕掛けて来ない。

 好機だと、由梨江は思った。

 彼女はそのまま軽い足音を鳴らしながら前へ走る。狙いは幹だ。

 魔物が動いた。根っこが跳ね上がり、由梨江の腹を鞭のように打ち上げる。強烈な衝撃が五臓六腑に響き渡った。

「げぶっ」

 胃液を吐き出した由梨江は、そのまま腹を抑えてうずくまる。魔物はその隙を逃さずに枝を伸ばし、頭部から足の先までをがんじがらめに拘束。

「う、ぎぃ」

 骨が軋むほどの強さで締め付けられて、由梨江の全身が酷い痛苦に苛まれた。

 魔物は再度粉を発散させた。けれどやはり二人には効かない。困惑しているのかどうか、魔物の外見からは分からない。だが戸惑いを表現しているみたいに、拘束している枝をより強く締め付ける。

「あ、が」

 稔はいよいよ辛抱溜まらなくなって、溜めた魔力を解放しようと狙いを付ける。溜まっている魔力量は少しだけ。これだけでは奴を倒せないに違いない。しかし苦しんでいる由梨江をこれ以上見ていたくなかったのだ。

 その様子を、苦痛に耐えながら由梨江は見ていた。

「……だ……めぇ……!」

 と叫ぶ。

 拒否しようとする稔に対し、彼女はさらに声を重ねる。

「稔は……じっと……してて……。多分……あいつ……は……音に反応……してるからぁ……!」

 それは事実である。植物に視覚はないが、聴覚は存在しているという実験結果が地球にはあった。もちろんここはメルセルウストであり、この世界の植物にも同じような特性があるとは限らない。しかし由梨江は、注意深く観察する事によって、目の前の魔物も地球の植物と同じように音を聞いている事に確信を得たのである。

 恐るべきは、このような状況においても冷静に観察と分析をし続けた由梨江だろう。だが決して褒めるべきではない。それはゴゾルの実験によって培われてしまった由梨江の異常性なのである。

 だが、今すぐにでも由梨江を苦痛から解放してやりたいと思っている所で、じっとしててと言われた稔はたまらない。

「……私はぁ……大丈夫……だから……。こんなの……私……慣れっこだから……。それに……私は……稔の……盾に……なるんだからぁ……!」

 そうした稔の気持ちを察したかのように、由梨江は息も絶え絶えに続けて言った。

 こんなのは、酷すぎると稔は思った。頭の中に浮かぶのは、ゴゾルの魔法によって動けなくなった稔が、実験を受ける由梨江をただひたすらに見続けさせられた記憶だった。だが今回は、由梨江自身の意思で、稔にそれを課していた。

 稔は血が滲むほど唇を強く噛んだ。魔力を溜めて打つしかできない自分に腹が立つ。しかし稔が魔物と戦うにはそれしかない。溜めている間は誰かが魔物を引き付ける必要があり、それは超絶の回復魔法を使える由梨江が最適なのがまた酷く嫌だった。

 音は聞こえても意味を解さない魔物は、さらなる力を込めて締め付ける。

 由梨江の全身から嫌な音が鳴った。それは彼女の全身の骨が砕けていく音だった。

「あぎゃああっ!」

 狂えるような激痛で叫び声を上げる由梨江は、岩窟以来の失禁を催した。

 それを稔は、涙を流しながら見つめるしかなかったのだった。

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