二十五 ムルレイの講義と森の魔物

 それから数日が経った。今日は仕事が休みである。

 喜多村由梨江としては、一刻でも早く津村稔を奴隷から解放してあげたいから、一日でも多く働きたいと思っていた。けれど稔は、

「いいじゃないか。たまには休まないと身体がもたないよ」

 と、由梨江が違う仕事を探そうとしたので止めたのだ。散々迷った挙げ句、由梨江は今日は仕事を休む事に決めた。何しろ休みは稔と一日中いられる日でもある。由梨江はその誘惑に抗う事が出来なかったのだった。

 さて、これからどうしようか、と二人して考え始めた所で、こん、こん、と二度扉がノックされた。

「ユリエ様。今はよろしいでしょうか?」

 ムルレイの声が聞こえてきた。由梨江は稔の方を見ると、彼は頷いて答えた。

「はい。大丈夫です」

「失礼します」

 と、扉が開く。

 ムルレイは、相も変わらず稔を見ようとせずに、由梨江にだけ視線を送っている。

「……どうしました?」

 由梨江は尋ねた。

「はい。実はこれから子供たちに講義を行うのですが、もしよろしければ、ユリエ様もご一緒に受けてみませんか?」

「講義……ですか?」

 由梨江はちらりと稔を見た。彼は小さく頷く。

「……はい、受けさせて頂きます」

 由梨江は承諾すると、ムルレイが「こちらです」と言いながら先導し始める。由梨江と稔は後を追った。けれどムルレイは、追ってくる足音が二つある事に気が付くと、振り返って険のある表情を稔に向けた。

「申し訳ありませんがユリエ様。奴隷はこの部屋で待って頂くようにお願いします」

「え? ですが……」

「決まりなのです。神聖なる講義を奴隷に聞かせる事で穢れさせるわけにいはいきません」

 それなら私は講義に参加しません。由梨江は強い語調でそう言おうとした。しかし彼女の服の裾をこっそりと稔が摘んで緩く引っ張る。視線を後ろに投げると、稔は首を横に振りながら一歩後ろに下がっていた。

 それが彼の意思ならば、と由梨江は怒りを無理矢理押さえ込んだ。そうして、唇を軽く噛んでから、

「……分かりました」

 と、言った。


 教会の二階に、広めの部屋がある。中に入ると机と椅子が整然と並んでいて、年端も行かぬ少年と少女たちががやがやと騒いでいた。

 黒板は無い。だけどその光景は学校の教室を連想させる。由梨江は学校の生活に上手く溶け込んでいた訳ではなかったけれど、その光景はとても懐かしい想いを抱かせた。もしも稔が一緒にいてくれたなら、感傷に浸る事ができただろう。しかし今彼女の胸を焼かせているのは怒りであった。

 中に入って来た由梨江に気が付いた子供たちは、一瞬にして言葉を失った。背後に控える鬼講師のムルレイのせいとも言えるがそれだけでないのは明白だ。

 由梨江はあからさまな怒気を発していたのである。大人たちの感情に敏感な子供たちにとって、彼女の感情を感じ取るのは勉強するよりも容易かった。

 教室の中で唯一由梨江の感情を察する事が出来ていないのは、他ならぬムルレイである。彼女はむしろ喜んでいた。由梨江が奴隷の扱いに反論する事無く従ったのだ。ムルレイにとって、これは大きな一歩と言える。このまま認識を改めてもらえれば、きっと彼女は聖女になることを受諾してくれるに違いない。もちろんそれは大きな勘違いなのだが。

「みなさん! 授業を始めましょう!」

 教室の前方に移動したムルレイは、にこやかに笑いながら宣言した。

「今日、一緒に勉強をしてくれるユリエ様です。みなさん仲良くしましょうね」

 紹介を受けた由梨江は、「よろしくお願いしますね」と言って軽く頭を下げると子供たちを見回した。黙って彼女を見つめる子供たちは、どことなく怯えた様子だ。怒りの感情が剥き出しであったことにようやく気付いた由梨江は、黒い感情を押し殺してにかり笑う。すると子供たちは、ほう、と安堵したようである。

 ムルレイに促されて、由梨江は一番後ろの席に座った。

 講義は魔法学についてだ。

「いいですか」と、ムルレイは言う。「みなさんご存知の通り、魔法とは魔力を操る事で生まれる力の事です。では、どのように操れば良いのか。大切なのはイメージだと言われています。魔力の形を想像し、どう動かし、どう結果へ繋げていくのか。例えば、そうですね、両手を出してみて下さい」

 由梨江と子供たちは皆一様に手を出した。

「出しましたね? そうしたら、手の平同士で擦り合わせてみて下さい。なるべく強く、早くを心がけて」

 ムルレイはそう言って、手を激しく擦り合わせる。他の人たちもそれに追随した。もちろん由梨江も。

「手の平が熱くなってきましたね? このように物と物を擦り合わせると熱が発生します。同じように魔力同士を擦り合わせれば、熱が発生し、より強く激しくすれば火が発生します。これが火の魔法の基本的な原理です。つまり魔法とは、魔力の操作や、堅くしたり柔らかくしたりといった性質の変化などを操る事で発生する現象というわけなんですね」

 由梨江は興味深く聞いていたが、ふと疑問が起きた。ゴゾルの魔法は、どう魔力を操作してできるのか、だ。話の切れ目を狙って、由梨江は手を挙げた。

「なんでしょうか? ユリエ様」

「歩いて一日以上かかる距離でも一瞬で移動できる魔法は可能なのでしょうか?」

「そのような距離を一瞬で移動する魔法は見た事も聞いた事もありません」と、ムルレイは淡々と答える。「ですが、使える者は限られますが、目も止まらぬ程の高速移動を可能とする魔法はあります。もしかしたら、高速移動をさらに極める事ができれば、可能かもしれませんね」

 子供たちはどよめいた。魔法はそこまで可能なのかと単純に驚いているのだ。

「やはり難しい事なんですね。……ありがとうございます」

 反面由梨江は、違う、という感想を抱いていた。ゴゾルの魔法は簡単に言えばワープだ。高速移動とは違う代物である。やはりあの魔法は、ゴゾルにしかできない特殊なものなのかもしれない。

 ムルレイの講義は続く。

「そういえば、面白い説があります。人が持つ感情には、それ自体に強いエネルギーを持っていて、魔法に影響を与えるという説です。作用の仕方は人によって違うらしいのですが、魔法の威力が感情によって上下するのが一般的であるようです」

 本当にそうなんだろうか、と由梨江は半信半疑だ。感情で変わるのなら、岩窟の日々で使った由梨江の魔法こそ、何かしらの変化があるべきだった。しかし、今とその当時とを比べても、違いがあるようには思えない。もちろん彼女の魔法は手術によって与えられたものだ。だから自身が例外であってもおかしくはない。

「このように魔法には様々な可能性が秘められています。魔法学とは、こうした魔法の可能性を追求する学問のことなのです。……余談ですが、ここ東ベネト教会で魔法について学び、帝都の魔法研究所にスカウトされた子もいました。彼は非常に優れた魔法学者で、帝都では大変な活躍をされたと聞き及んでいます。あなた方も、まじめに魔法について勉強していけば、いつか彼のように立派な魔法学者として名を馳せる日がくるやもしれませんね。では、ここまでで何か質問はありませんか?」

 ムルレイは室内を見回した。挙手をする人は誰もいないようだ。するとムルレイは、次に由梨江を見た。ほんの一瞬の事だったが、彼女は口角を少しだけ上げる。

「では、次に、ちょうど奴隷をお持ちになっておられるユリエ様がいますから、奴隷についてお話しますね」

 由梨江は合点した。ここからが本題であったのだ。

「みなさんご存知の通り、奴隷とは人間ではありません」と、ムルレイは淡々と前置きをする。「奴隷とは、家畜です」

 由梨江は怒りをこらえてムルレイを見る。ここで怒ってみせても、それは意味の無い行為だ。彼女を怒っても奴隷制はなくならないし、彼女が奴隷制を作ったわけでもないのだから。

「同じ人間だ、と主張する人も中にはいるようですが、奴隷は人間を捨てています。そもそも奴隷になる人間と言うのは、かつての戦争で負けた者であったり、犯罪者であったり、貧しい家が口減らしのために商人に売る事で生まれます。つまり卑しい身分である者が奴隷となるのです。彼らは奴隷となった時点で神様から見放されます。当然の事ですね。なぜなら神様は、卑しい者たちを、醜き汚らしく悪性の者だとおっしゃっているからです。そのような者たちを、家畜として扱う事は何もおかしいことではありません。むしろ彼らは感謝をするべきです。人間に労働を捧げる事で、死を免れて生きる事ができるのですから」

 吐き気を催すほど、あまりにも気持ち悪い話であった。それでも由梨江は、露骨に眉をひそめながらも黙って聞き続ける。

 ムルレイの話は、終始、奴隷制度を賞賛する内容であり、奴隷がいかに下等であるかをこれでもかと言うほど懇切丁寧にしつこく説明するものだった。子供たちは、そうしたムルレイの話を、ふんふんと頷きながら熱心に聞き入っている。

 何が、聖職者なのか。現代日本で育った由梨江にとって、彼女の話は不快でしかない。それでも拷問とも呼べるような長い時間を、由梨江は何も言わずに耐え続けたのだった。

 

 太陽が青空の真上に上がった時刻。

 所々で小休憩を挟みながら行われた講義は、午前中で終わりを告げて、由梨江は自分たちの部屋へと戻っていた。

 由梨江は荒々しく扉を閉める。見るからに憤然とした彼女を一目見た稔は、

「ど、どうしたんだ?」

 と、思わず聞いていた。

 由梨江は一瞬迷ったものの、すぐにかぶりを振って微笑を浮かべる。

「なんでもないよ。それよりこれからどうしようか」

 明らかに取り繕っているが、稔はこれ以上触れない事にして提案する。

「町に出ないか?」

「町に?」

 由梨江は考える仕草を見せた。町に出れば、稔の正体に気付かれる可能性が上がる。それを彼女は危惧していた。

「ずっとこの中に閉じこもっていたからさ。外の空気を吸いたいんだ」

 稔にそう言われると、由梨江はさすがに申し訳なく思う。彼に対して外に出ないように言ったのは、他ならぬ由梨江自身であったからだ。

「そう、ね。そうしようか」

 承諾して、二人で外に出る。

 街の中心地にまで行くと、今日も喧噪で包まれていた。

 幾つも並んだ出店を順繰りに回っていく。由梨江の一歩後ろを歩いて着いてくる稔は相変わらず喋らないけれど、楽しそうな様子だった。やはり部屋の中でずっといることはストレスだったのだろう。由梨江は反省して、これからもたまにはこうやって二人で外に出た方が良いな、と思った。

 とても穏やかな時間が過ぎていく。これで稔が奴隷でなければ完璧な時間だった。

 由梨江は少しでも早く、お金を稼ぐ事を改めて心に決めた。

 




 森は濃い影の中に沈み込んでいる。

 五人の見るからに屈強な男たちは、木々の枝や背の高い草をかき分けながら慎重な足取りで進んでいた。小さな円を描くような陣形でいる彼らは、あらゆる方向に細心の注意を向けている。

 彼らの間に言葉は無い。全て目配せと手による合図で意思疎通を図っているのだ。彼らの無駄の無い動きは、長い間チームを組んで活動して来た証だった。

 五人がこうして危険な森の中を歩いているのには理由があった。最近森の中で新種の魔物が出現したと言うのである。まだ噂の段階で、確証はない。しかし森に入った者たちの多くが戻らなかったり、一部帰還に成功した人が、見た事の無い魔物を見たという話を門兵にしたそうだ。

 ベネトの町長はこれを問題視して、斡旋所に依頼を出した。新種であるから、まずは情報収集が一番に優先されるため、目撃するだけでも報酬は入る。だが魔物の一部を持ち帰れば報酬に色が着き、処分することができれば大量のお金を手に入れることも出来た。

 男たちの目標は、当然討伐することである。そのため全員が全員、使い慣れた武器を手にし、鎧を着込んでいるのだった。

 彼らは魔物の討伐に慣れている。ベネト周辺の魔物であるなら、百匹は殺して来た。それでも新種の討伐は初めてだ。それもいるかもしれないと言う曖昧な情報ならなおさらである。

 果たしてどのような魔物であるのか。歴戦の男たちは、緊張で身を竦めながら森の奥へと入っていく。

 不意に獣の鳴き声が聞こえて来た。来たか、と男たちは武器を構える。しかしそれ以上何も音沙汰がない。彼らは安堵して、歩みを再開させた。

 先頭を歩く一人が手信号で停止の合図を行い、指を指す。示された場所には人の形をした黒い塊があった。

 動く様子の無いその塊は、衣服を身に着けているものの、晒されている肌が漆黒に染まっている。頭髪はあらゆる色素が抜け切っていて、真っ白になっていた。

 男たちの脳裏に描かれたのは、最近流行している原因が不明の奇病であった。それは黒い斑点が肌に浮かび上がるというものだったが、もしもその病が進行すれば、目前にある黒い塊のようになるのではないか。

 周囲を見回せば、同じような黒い塊が点々と倒れているのが目についた。その異様な光景に、男たちの肌から冷たい汗が滑り落ちる。想定していた危険度よりも遥かに危険であると彼らは勘付いた。そうして、この魔物を放置しておく事もまたできないのだと。放置すれば、より一層の被害が広まるのは間違いない。今は幸いにして、凄まじい回復魔法を操る者がいるおかげで被害は止まっている。だがそれも水際でかろうじて止めているだけだろう。関が切れれば、ベネトの町が文字通り終わる。

 男たちは大切な人の姿を思い浮かべた。最初は純粋に金のためだった。だが今は使命感で燃え上がる。今回の仕事は今までで最も危険になるのは間違いない。今すぐ引き返し、町に掛け合って、正規兵の討伐に頼るべきだった。それが最も安全で確実だ。

 だが回復が追いつかなくなるのは今日かもしれない。明日かもしれない。あるいは術者が病にかかってしまう可能性だってある。倒すなら早ければ早い方が良い。しかし正規兵の派遣には日数がかかってしまう。彼らは経験上、それが分かっていた。

 男たちは互いの顔を見合わせて、一言も言葉を交わさずに頷き合った。長い付き合いだ。互いの考えは何も言わずとも大抵の事なら分かる。そして今、みんなが考えている事が同じであろう事さえも。

 彼らは恐怖ですくみ上がりそうになる足を無理矢理に動かして、前へ進ませる。

 歩けば歩くほど、黒い死体が増えていく。その異様な光景に戦慄を覚えながらも、男たちは歩みを止めない。

 暫くしてついに魔物の元へ辿り着くと、男たちは驚愕した。

 それは木の魔物であった。大人四人ほどを束にしたような太さの幹から、八本の根っこが足の代わりに生えている。大振りの葉っぱで生い茂っている枝は、でたらめに伸びて、まるで鞭みたいなしなやかさでうねうねと蠢いていた。

 植物の魔物など、これまで聞いた事も見た事も無い。

 思わずたじろいて後ろに半歩下がった男たちの足下には、真っ黒い死体が倒れている。それだけならば、これまでの道中で幾度も見て来た。だがその死体からは、根が生え、幹が生え、枝が伸びているのだった。

 なんだこれは?

 彼らは愕然と死体を見つめる。奇病が真に行き着く先が見えた気がして、男たちは生唾を飲み込んだ。

 そして、男たちの一人が小枝を踏み、ぱきりと音が鳴った。

 それが切っ掛けになったのか、魔物が急速に動く。一本の枝が小枝を踏んだ男に向かって襲いかかった。

 不意を突かれた男の身体に、抵抗する間もなく枝が絡む。恐ろしく強い力で締め付けられて、身動きが取れなくなった。そればかりか、苦痛で男の顔が歪んだ。

 唐突な出来事に、周囲の男たちは驚きの声を上げる。そうした彼らにも枝が巻き付き、動けなくなった。

 呻き声が重苦しく響く。

 けれどさすがは熟練の戦士だ。彼らの内一人が魔法を紡ぐ。自らを縛り上げている枝が炎に包まれた。この窮地にあって、何と言う冷静さであろうか。魔法を使うには集中しなければならない。だがこの男は、ぞうきん絞りにされたが如く苦痛の中で集中し、植物の弱点である火の魔法を迷わず発動させたのである。

 しかし残念ながらそれは、悪手だった。

 枝に発生した炎は、数秒も経たずに鎮火してしまったのだ。

 男の顔が絶望の色に染まった。

 何故火が消えてしまったのか。それは生木であったから、などという理由ではない。男が放った火の魔法は、例え生木であったとしても、簡単に燃やせられる温度に達していたのだから。

 ならばなぜ消えたのか。魔物の全身には絶えず魔力が流れており、その力でもって枝を動かしている。問題は魔力が流れている箇所である。それは内部と、表面であった。では火の魔法が発動したのは、枝のどの部分だったのかと言えば、それは無論表面上だった。表面を流れる魔力は、火の存在を感知した途端、魔力自体が火を包み込んでしまい、消化してしまったのだ。魔素で変異した木が、天敵である火に備えを持つのは当然の事と言えなくもないが、何とも恐るべき防衛本能である。

 火の魔法が効かず、最早心がへし折れた男たちだったが、本当の地獄はこれからだった。

 木の魔物は、その全身から目に見えないほど細かな粉を発して、風も吹いていないのにひとりでに飛んでいく。粉は男たちの口や鼻から体内に侵入し、メルセルウストの人間のみ存在する魔力器官へ集結するのだ。そして、体内の魔力と粉は結合し、全身を回る。その結果、男たちの身体にある変化が訪れた。皮膚に禍々しい黒い斑点ができたのである。これこそが奇病の正体であり、原因なのだった。だが教会にいた患者たちと決定的に違う点がある。それは患者たちよりも格段に濃く粉を吸収してしまったという点だ。黒い斑点が広がっていく早さは、驚くべきものであった。

 木の魔物は拘束を解いた。それもそのはずで、もはや男たちに逃げ出す気力も体力も力も残されていないのだ。

 断末魔の絶叫すら上げる余裕も無く、ただ静かに圧倒的な苦しみと痛みを味わいながら、男たちはゆっくりと息絶えていった。




 地球の時間に換算して一週間後のメーガスト食堂。

 嵐のような昼が過ぎて、遅い昼食をシシリアと由梨江は取っている。

 シシリアはここ最近静かだった。客の前では元気が溢れるばかりであったが、客がいなくなると途端に口数が減った。

 原因は分かっていた。ほぼ毎日欠かさず来ていた常連が、ずっと来ていないせいだ。話によれば、魔物討伐の仕事をするために森に入ったが、それきり帰って来ていないのだと言う。

 確かに仕事の都合で店に来れない日がこれまでにもあった。だが近場の森に入って今日まで帰って来ていないのは明らかにおかしい。何かが起きたのは間違いが無かった。

 店長のメーガストも心配していて、いつもの覇気が無くなっている。

「ねえ、ユリエちゃん。あの人たち、来ないね。どうしたのかな」

 シシリアの呟きは聞いているだけで痛々しかった。

「きっと……きっと大丈夫ですよ。多分、旅行にでも行ってるんじゃないんですか?」

 と、由梨江は返した。あまりに楽観的で、希望的観測に満ちた発言だった。

「そうね……」シシリアは寂しそうに笑んだ。「きっといつもみたいに下品に笑いながら入って来て、セクハラをして、そしたら私が殴り飛ばして……いつもみたいな毎日がまた始まるんだよね」

「そうです。きっとそうですよ」

「……ありがとう、ユリエちゃん」

 力なく言うシシリアは、そんないつもの毎日が決して来ない事を悟っていた。

 がはがはと大きな笑い声が外から聞こえて来て、思わず二人は扉に注目する。もしかしたら無事に帰って来たのではないかと期待せずにはいられない。だけれども、入って来たのは見覚えの無い客だった。

 とんだ肩すかし。しかし顔に出すわけにはいかなかった。空元気を吹かせて、由梨江とシシリアは接客をする。

 そうした調子で仕事を終わりまで続けた。

 帰り道では由梨江とシシリアは会話を楽しむ気分にはならなかった。沈鬱な雰囲気のまま、別れの言葉を一言だけ交わすだけだった。

 由梨江は気落ちしたまま稔が待っている扉を開ける。

 稔はおかえりと言いながら、彼女の様子が変な事に気が付いた。

「どうしたんだ? 何かあったのか?」

 心配そうな声を掛けられて、由梨江は稔を見る。黙っていよう。稔に余計な心配をさせたくない。そう考えていたのに、由梨江は気が付けば説明をしていた。

 稔は神妙な顔で聞き終えると、おもむろに口を開ける。

「分かった。なら森に行ってみよう」

 彼は特に迷った様子がなかった。考えた素振りすら見せなかった。まるで、その辺に散歩に行こうか、と誘っているみたいな気軽さだった。

「そんなの」

 危険よ、と由梨江は言った。だけど稔は、真摯な瞳で由梨江を見つめる。その視線に、由梨江は弱かった。稔が望む事を、したい事を優先する。何よりも稔の事を優先して生きる。それが由梨江の基本的な行動理念なのだ。

「どうしても、行くの?」

 お願い、断って、と由梨江は願った。だが、そうなるわけがないと、彼女は同時に考える。そして、案の定、

「ああ。行って、助けられるなら、助ける」

 稔は答える。

「……分かった。でも、その代わり、私も行く」

 由梨江は承諾した。けれど稔は、彼女も行く事を良く思わなかった。

「だめだ。俺一人でいい」

 しかしその回答は、由梨江にとって予想通りの事だった。だからあらかじめ用意していた言葉で返す。

「でも、稔は回復魔法を使えないじゃない。どうやってあの人たちを助けるの」

 私の回復魔法なら、生きている限りは助ける事が出来る、そう由梨江は説得した。

 稔は逡巡しながらも、結局は承諾するのであった。

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