二十四 新しい日常

 ちゅん、ちゅん。

 小鳥のさえずりが聞こえる。

 車の音が流れていく。

 窓から朝日が射し込んだ。

「……起きて! 稔!」

 大声が響いて、津村稔は自室の布団の上で目を開けた。

 制服姿の西尾雫が腹の上で馬乗りになっている。

「しず……く? どうして」

 メルセルウストにいる? その当然の疑問に、雫は答えずに稔を見下ろしたままだ。

 稔は変に感じて周囲を見回すと、ここはメルセルウストのベネトにある教会の一室ではなく、地球の日本国の片隅にあるよく見知った自分の部屋だった。

 ああ、そうか。今まで俺は夢を見ていたんだ。そりゃそうだ。あんな滅茶苦茶な事が、現実にありえるわけがない。そうほっと安堵してから、とりあえず恋人に向かって、

「てか、重い」

 と、思った事を正直に言う。すると雫のこめかみに怒りの四つ角が浮かんだ気がした。

「重たくない!」

 雫は叫ぶように言って、右拳を振り下ろした。稔の左胸に直撃して鈍い音した。

「うぐ」

 呻き声を反射的に出したものの、あるはずの痛みが無い。

 ああそうか。稔はようやく理解する。

 こっちの方が、夢だ。

 そこで本当の意味で目が覚めた。

 雫はいないはずなのに、どういうわけか腹に重さを感じる。

 うとうとしながら見てみると、ベネトで購入した地味目の服を来た喜多村由梨江が、腹にのしかかって稔の顔を見つめていた。彼女の大きな胸が押し当てられていて、その心地よい感触に気がどうかなってしまいそうだ。

 由梨江と視線が合うと、彼女は熱っぽい瞳を細めてにんまりと笑う。

「お、おはよう」

 稔はぎこちなく挨拶をすると、由梨江は平然とした様子で返す。それからますます強く胸を押し付けて、

「ねえ、しても、いいんだよ?」

 と、囁いた。

「……いや。しないよ」

 稔は理性が崩壊しそうになるのを寸での所で止めた。

「やっぱり、まだ雫さんの事が……?」

「ああ。俺は、雫の事が好きだ」

「でも、雫さんだって、今頃どうしているか分からないよ? もしかしたら、違う男の人と付き合っているかもしれないんだから。それに稔は、もう帰るつもりはないんだよね? だったら、もう気にしなくてもいいんじゃないかな。雫さんだって、許してくれると思う」

「……そうだな。由梨江の言う通りだと思う。雫が別の奴と付き合っていてもおかしくないし、俺が君としても許してくれ……るかはちょっと分からないけど……。それでも俺は、雫の事を裏切れない」

「そう……」

 由梨江は残念そうな顔をしながら身体を起こした。

「ごめんな」

「謝るぐらいなら、私としてよ」と由梨江は苦笑しつつ、続ける。「だけどこれだけは覚えておいて欲しいの。私は稔が望むことは何でもしてあげたいし、稔がすることは何でも受けれ入れたいの。私は、稔のために生きるって、決めたから。だから、私の事は気にしないで。苦しい事は我慢しなくてもいいの」

 稔は頬を掻く。まるで彼女は、奴隷なんてならないで、と言っているようだった。

「分かってる……分かってるさ」

 と、稔は言った。

 由梨江は憮然とした様子で彼の身体から降りて、続いて稔も身体を起こす。

 朝食のいつものパルツを食べ終えると、由梨江は身支度を整えた。

「それじゃあ、私、仕事に行ってくるね」

「……ああ、行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 そう言って部屋から出て行く由梨江を見届けると、稔はため息を吐いて部屋の中を見渡した。物の無い無味乾燥な部屋は、一人の人がいなくなるだけで、途端に寂しくなる。

 ベネトに来てからどれぐらい経ったのだろう。この世界にはカレンダーと言うものが無い。強いて言うならば、月の満ち欠けが日付代わりと言える。

 その周期で計算してみれば、およそ一ヶ月ほどが経過しているんじゃないか、とは由梨江の談だ。

 稔は部屋の片隅で大人しく立っている箒を手にすると、軽く床を掃く。一般的な男の奴隷の扱い方と言えば、肉体労働に尽きるだろう。主人は奴隷を過酷な仕事場へと放り込み、仕事主から金をもらうのだ。中には特殊な性癖を発散させるために購入する者もいるが、そう言った者はごく一部に過ぎない。

 もっとも奴隷の振りをしているだけの稔がやる事と言えば、こうやって部屋を掃除するぐらいしかなかった。だが部屋が狭いため、念入りな掃除を行ってもすぐに終わってしまうのが玉にきずだ。

 これではまるでヒモだな、と稔は自嘲する。

 基本的に教会の宿は旅人のためにあり、例外を除けば短期の宿泊しか認められない。稔と由梨江は長期の宿泊を認められているが、それは由梨江が傷病人を治療する事で、教会に貢献しているおかげだった。

 そうした由梨江に申し訳が立たなくて、稔は自分も働きたいと何度も言って来た。しかし働く事で稔の正体がバレるかもしれないから、部屋の中で大人しくしていて欲しいと説き伏せられると、ぐうの音も出ない。稔が奴隷となったのは身体から生えた角をごまかすためだ。だからわざわざばれる危険を冒しにいくのは本末転倒も良い所なのである。

 そう言った訳で、稔はほぼ一日中この部屋の中で過ごすはめになってしまったのだった。


「お待たせしました! ミートル包み焼き定食一つ、カサブラ定食一つです!」

 昼の食堂は戦場だ。昼休憩の時間は大抵同じ時間になるため、多くの労働者が殺到してくる。しかも彼らの休憩時間は限られているから、接客で余計な時間を取らせるわけにはいかない。特にこのメーガスト食堂は、手頃な値段で美味しく、その上料理が早く出てくる事もあって、肉体労働者に人気があり、一際忙しいのだった。

 白いエプロンドレスを着た由梨江は、威勢の良い声を張り上げながら、あちこちに走り回って接客をする。するとぷるんぷるんと胸が踊り、男性客の目を釘付けにさせるのだ。おかげで男性客が以前よりも一割増えた、という噂が広まっている。だが、その事を当の本人である由梨江が知らないのは、店主、メーガストを含む男性たちが、彼女の耳に入らないように情報封鎖を徹底的に行っているからだった。

「ユリエちゃーん! ごちそうさま!」

 三人の強面の中年がユリエを呼んだ。昼時にいつも来てくれる常連である。

「はーい!」

 大きな声を上げて返事をした由梨江は、早足で向かう。上下に揺れる胸に合わせて、男たちの視線も上下に揺れた。

「百ポルツになります」

「ほい、百ポルツ。今日も美味しかったよ」

「ありがとうございました!」

 由梨江はお辞儀をした。エプロンドレスの隙間から彼女の胸の谷間が見えて、男たちの鼻の下が伸びる。由梨江が顔を上げれば、男たちは平然とした表情に戻った。

 厨房で料理を作りながら、由梨江の様子を見ていたメーガストは、にやりとほくそ笑む。

 彼女には字が読めないという欠点があったため、雇うのをためらったのだが、一人が急に辞めたせいで猫の手も借りたい状況に陥ってしまっていたのだ。そこで急きょ仕方なく雇ったのが由梨江だった。これが思わぬ掘り出し物であった。何せ容姿が良く、字が読めないのになぜか計算が早く、物覚えも良い。おまけに笑顔を振りまきながら丁寧な接客をする。一ヶ月経った今、彼女は戦力として無くてはならない存在だ。おっぱいが大きいのも良い。彼女の胸が揺れ動く様を見るために店にくる客が増えたほどで、かくゆう店主自身も時折目の保養にさせてもらっていた。

「てんちょー」

 と、不意に呼ばれたメーガストは、聞き覚えのある声にはっとして、恐る恐る声の主に顔を向けた。そこにはじとーとした目つきで彼を見咎める若い女性がいる。名前はシシリア。身長は由梨江よりも頭一つ分低く、赤茶色い髪を腰まで伸ばしおり、起伏の少ないスレンダーな体型の持ち主だ。由梨江と同じ白いエプロンドレスを纏っていて、接客のリーダー的存在である。と言っても、他に接客をしているのは由梨江だけなのだが。

「な、なんだ?」

 メーガストは罰の悪い顔をしながらも、威厳を保とうと低い声で聞いた。

「ユリエちゃんのおっぱいが魅力的なのは大変分かるんですが、手が止まっていますよー。早く作って下さいよー」

「な! し、心配して見ていたんだ!」

「えー? でも、鼻の下がびろんびろんに伸びてますよ?」

 う、ぐ、とメーガストは言葉に詰まる。その様子を見ていた周りの客たちが、ぎゃはははは、と盛大に笑った。

「言われてやがるぜ店長! だが気持ちは分かる。ユリエちゃんのお胸には魔法がかかってやがるからな!」

「違いない。全く店長は大したもんだ! あんな上玉を引っ張り込んだんだからな」

 次から次へとはやし立てる声が上がる。ここの常連はとても仲がいいのだ。

「あんたがた! ここにもないすばでいがいるんですからねー」

 体全体でしなを作りながら、シシリアは発言した。

 男たちはじっとシシリアの平坦な身体を観察をして、深いため息を吐く。

「シシリアみたいな幼児体型じゃあ、なあ」

「全くだ。凹凸が足りねえよ」

「そうだそうだ。お前ほんとに大人かよ」

「……良い」

 口々に好き勝手な事を言う男たちに、シシリアは、むーと頬を膨らませる。

「いいからあんたがたは早く食べなさい! 昼休憩が終わっちゃいますよ!」

 おっと、いけねえ。遅れちまう。男たちはシシリアの一喝に慌てて昼食をかき込んだ。

「まったくもう」

 シシリアは呆れた様子で呟いて、店内を急がしそうに駆け回るユリエの胸を見た。跳ねる彼女の胸は、本当に大きい。

 次いで、自分の胸と見比べる。膨らみが少しも無い。同じ女なのにどうしてこんなに差があるんだろうか。釈然としないまま顔を上げると、メーガストがにやけた笑みをシシリアに向けている。

 何だか腹が立って、シシリアは店長をぶん殴った。

「いでえ!」

 と叫ぶ誰かの声など少しも構わずに、シシリアは笑顔を浮かべて仕事を再開したのであった。


 昼のピークが終わると、客足が一気に途絶えて暇になる。このタイミングでシシリアと由梨江は、カウンターで遅い昼食を食べていた。

 机上には昼食の他に一冊の本が置かれている。由梨江は食事をしながらシシリアに文字を習っているのだ。

 マナーとしては良くない行為だが、生憎ながら店主も客もそのような事を気にしない性質だった。

「ユリエちゃんって確か、帝都目指して旅をしている途中なんだって?」

 シシリアはシグルミの乳にパルツを漬けながらふと思いついて聞いた。

「はい。それで資金が尽きてしまったので、暫くこちらでお金を貯めようと思いまして」「そうなんだー。でも、一人で旅を?」

「いえ、み……奴隷が一人だけいます」

「へー、奴隷がねー。それならその奴隷に働かせれば楽できるんじゃない?」

「その、私、働くのが好きなんです」

 もちろん嘘だ。地球にいた頃は、アルバイトを一度もしたことがなかった。だから働くのが好きかどうかは、分かるはずが無い。

「ふーん。変わってるねー。私だったらその奴隷に働かせちゃうよー」

「そうなんですか? いつも楽しそうに仕事をしているから、てっきりこの仕事が好きなのかと……」

「そりゃあ、嫌いじゃないよ。常連さんも店長も、エロ親父ばっかりだけど、失礼なことばっかり言うけど、みんな良い人だと思う。本当にそう思う」一旦言葉を区切ったシシルカは、続いて力強く言う。「だけどね! お昼の時とか、夕飯時とか、忙しすぎるのよ! 私は、もっとのんびり仕事をしたいんだっー!」

 突然の大声に、由梨江は驚いて後ろにのけぞった。興奮したシシルカは、ぷんすかーと鼻息を荒くする。

 由梨江は恐る恐る当然の疑問をぶつけてみることにした。

「あの、それならどうして辞めないんですか?」

「それは……」

 シシルカはカウンター上にある皿に視線を落とした。そこにはメーカーと呼ばれる鳥の胸肉を蒸し焼きにした料理が乗っている。彼女はフォークで突き刺すと、一口かじった。

「んんー」

 シシルカは幸せそうな顔で唸る。ああ、そうか。由梨江が理解するのと同時に、

「料理が、美味しすぎるのが良くないのよー……」

 と、彼女は複雑な表情で呟いた。

「分かります」由梨江は同意する。「店長の料理は、本当に美味しいと思います」

「そうなのよ……。辞めようって、何度も思ったの。でもね。美味しすぎてね。辞められないのよ……」



 

 その頃稔は、閉め切った部屋の中で腕立て伏せをしていた。

 由梨江はいない。娯楽はない。外に出る訳にもいなかい。となると、もはや筋肉トレーニングぐらいしかやることがなかったのだ。

 それにグリ村の時のように、何かしらの戦いに巻き込まれる可能性は否定できない。だからせめて身体だけでも鍛えておこうと考えたのである。

 腕立て伏せが終われば、次は腹筋、その次は背筋と続けていく。

 一日のメニューが終わると、稔はローブの隙間から腕を出して、力こぶを作ってみる。何だか力がついて来ているような気がする。もちろんすぐに効果が現れる訳が無いのだが、稔は笑みを浮かべて自分の二の腕を触っていた。




 太陽が沈みかけた時刻。

 メーガスト食堂は、一日最後の喧噪へと突入していた。

 客は無論多く、その上酔客が殆どなせいで異様なテンションで店内は包まれている。

 尻を触られたシシリアが客を殴り、おっぱいを触られて小さな悲鳴を由梨江が上げれば、やっぱりシシリアが客を殴った。

 それから酒のせいで口が良く回るせいなのか、噂話が由梨江の耳に入ってくる。

「なあ、知ってるか? 森の奥で見た事も無い魔物が出たってよ」

「なんだって? いったいどんな魔物なんだ?」

「ああ、それがな。どうも生きて帰って来た者は、おかしな病にかかるらしいんだ」

「病に? そんな魔物、聞いた事が無いな」

「そうだろう? 因果関係がよく分からないから、魔物のせいで病になっているかどうか確証できなくてな。討伐対象にはなっていないんだ」

 あるいは他の席では。

「南の方で魔人が出たらしい」

「魔人がか? 信じられん。海岸には見張り専門の魔法士がいるはずだろ? それを全部くぐり抜けたっていうのかよ」

「事実だとすれば、大変な事だ。実際、騎士団が調査に乗り出しているそうだ。あの大穴に関係しているという噂もある」

 噂話は、しょせん真偽が曖昧な話でしかない。分かっているのだけれど、由梨江はつい気になってしまい、たびたび手を止めてしまう。けれど忙しさは、そうした由梨江を許さなかった。すかさず店員を呼ぶ声が聞こえて来て、一番近くにいた由梨江が対応に走る。

 忙しすぎてシシリアが辞めたくなるのも無理な話だと由梨江は思う。ピーク時は殆ど息吐く間も無いのだ。

 それでも由梨江は必死になって働いた。稔のためだと思えば苦しくない。むしろどうしようもない自分が稔の役に立てている事が実感できて嬉しかった。

 忙しさに身を任せると、時間はあっと言う間に過ぎ去って、閉店時間となった。

 後片付けをして、今日の分の給料を貰い受けてから帰路につく。

 外はすっかり暗くなっていて、二つの月が細い弧を描いて浮かんでいた。

「はぁー、終わった終わった。今日も疲れたねー、ユリエちゃん」

 んー、と背伸びをしたシシリアは、夜空を見上げている由梨江に声を掛けた。

「はい。今日もありがとうございます、シシリアさん」

 客からの数々のセクハラから守ってくれた事の礼を由梨江をした。

「いいってことよ」と、シシリアはにかっと笑う。「ああいう奴らはね、一発ぶちかましてやればその後は黙るもんなのよ。問題なのは、翌日にはころっと忘れちゃう事だけど。ま、何かあれば、私に任せなさい。店長だろうが客だろうが、容赦なくぼこぼこにしてやるんだから」

 今日は殴っただけであったが、実際に客の顔が変形するぐらいまでシシリアは殴った事がある。原因は彼女の胸を触りながら、「お前、男か?」と酔った客が言ってしまった事だ。由梨江もその場にいたが、あの時は本当に大変だった。何せ彼女を止めるために、数人の男が必要だったのだから。

「……ほ、ほどほどにして下さい、ね?」

 引き気味に由梨江は言った。

 それからシシリアと別れ、住宅街の合間を抜けるように歩いていく。

 日本の町と違い、排気ガスで汚染されていない夜空は、満点の星が見える。メルセルウストの中で、数少ない好きな要素だ。覚えている星座が一つも存在していない異世界の星空を眺めながら帰るのが、由梨江の習慣だった。

 それでも早く稔の顔が見たくて、彼女の足はいつも速い。寄り道せずに真っ直ぐに歩いて教会に着くと、自分の部屋の扉を開く。

「お帰り、由梨江」

 するともう遅いのに、寝ずに彼女を待っていた稔が出迎えてくれた。

「ただいま、稔」と、由梨江は笑顔を浮かべると、申し訳なさそうに続ける。「本当に、私が帰るまで起きていることないんだよ。先に寝ててよ」

「いいんだ。これは、俺がしたくてしていることなんだから」

 だから気にするな、と稔は言う。

 由梨江は困ったような顔で笑った。

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