二十三 失くしたパズルのピースを探す日々

 公立青嵐高校は、昼休みに入っていた。

 昼食を食べ終えた西尾雫が体育館裏に赴くと、すでに先客がいる。良く引き締まった体躯に、美形の顔付きの彼は、校内屈指のイケメンであり、サッカー部のエースであり、そしてかつて雫に告白をして断れた男でもあった。

「和田島先輩……?」

 と、雫は彼を呼んだ。

「西尾さん」

 和田島はぱっと顔を輝かせた。その屈託の無い笑顔に、果たしてどれだけの女生徒が心をときめかせたのだろうか。

「一体……何の用でしょうか?」

「前に、君に告白したよね? 覚えている?」

「はい」

「ショックだった、本当に。でも、その後すぐに彼氏が出来たって聞いて、僕が振られるのも最もだって思った。彼の事が好きだったんだね」

「はい」

「でも、その彼は今はいない」

 雫の視線が下を向いた。

「ごめん。別に君を困らせたいとか、悲しませたいとか、そういうつもりは全くないんだ。ただ、あれから、君への想いを諦める事が出来なかった。本当だ」

「でも、私知ってるんです。あの後で、先輩は他の子と付き合い始めたことぐらいは。先輩は有名人ですから」

「……参ったな。知っていたのか……。確かに僕は、あの後違う女の子と付き合っていた。それは認めるよ。だけど他の子と付き合ってみて、ますます実感したんだよ。君以上の女の子はいないんだって。……そういえば、ちょうどその頃だったよ。君の恋人の稔君が行方不明になったって聞いたのはさ」

 雫は表情も作らずに黙って和田島の話を聞いている。

「それで、今はいないと知って、いても立ってもいられなくなったんだ。もちろん我慢したさ。稔君の事を僕は良く知らないけれど、君にとってとても大切な人なのは分かっていたし、何よりも傷心の心を利用しているみたいでフェアじゃないと思った。だけど、君の事が好きだって気持ちだけはどうしても止められなかったんだ。だから僕は、付き合っていた子と、時間がかかったけど別れた。何もかも全て、君にもう一度告白するために」

 和田島は言葉を切った。

 校舎から響く楽しく騒ぐ声が、やけに遠くから聞こえてくるように雫には感じられた。ひんやりとした空気が、彼女の熱く火照った肌を冷やす。

 やがて和田島は、口を開く。

「好きです! 付き合って下さい!」

 真剣な表情を浮かべた彼は、頭を下げて、右手を前に突き出した。

 困ったような顔を雫は浮かべながらも、彼の右手を取る事はしなかった。

「……ごめんなさい」やがて彼女は頭を下げて、申し訳なさそうに言う。「先輩が本当に私の事が好きだって言う気持ちは、伝わってきました。とても光栄だと思います。ですが、ごめんなさい。先輩とは、付き合う事はできません」

「そっか」頭を上げた和田島は、寂しそうに言った。「そうだよな。今でも稔君の事が好きなんだね」

「……はい」

 と、雫は間を置いてから呟いていた。

「見つかると良いね」

「……はい」


 学校に行き、放課後はチラシを配る。それからその後は、車田良光とほんの少しだけ遊ぶ。それが今の雫の習慣だった。

 良光との事は、雫自身にもどうしてこうなってしまったのかが不思議だ。けれど彼と遊んでいると、稔がいないことを忘れる事が出来たし、何よりも寂しさを紛らすことが出来た。だからこうして良光と遊んでしまうんだろう。少なくとも雫はそう考えている。

 罪悪感はある。苦しんでいるはずの稔を放っておいて楽しむのは悪いと思う。それから世間一般的な価値観から言えば、この行為はデートと呼ばれるものだろう。つまり浮気と思われても仕方が無い。しかし雫は違うと自信を持って言い切れる。

 なぜなら、これはただの気晴らしだからだ。本当に好きなのは稔で、良光はただの友達。本当にただそれだけなのだ。

 けれどどうしてだろうか。雫は考える。先日、和田島先輩に告白された時、真っ先に思い浮かんでしまったのが良光の顔だった。恋人である稔を差し置いて、だ。もちろん好きなのは稔だ。間違いない。でもどうして稔の顔が真っ先に出て来なかったのだろう。

 きっとそれは、稔のせいなのだと雫は思う。長い間恋人をほったらかしにしているから、最近特に印象強くなっている良光が表に出てきやすくなっているに違いない。

 だから、稔、早く帰って来てよ。毎日スマホの写真を見ていないと、稔の顔を忘れてしまうんだから。

 ベッドの上でうつ伏せになっている雫は、片手で最近手に入れた犬のぬいぐるみを抱きしめながら、スマートフォンに映る稔の笑顔を見つめていた。


 休み時間、雫の机を二人の少女が取り囲んでいた。井上春香と山崎加奈である。大地震でも起きてしまうんじゃないかと思えるほど珍しく真剣な顔を二人は浮かべていた。

 二人の視線を真正面から受け止めているのはもちろん雫だ。彼女は嫌な予感を感じながらも、何も言い出さずにいる。

「ねえ、本当にいいの?」

 口火を切ったのは春香。

「……何が?」

 雫は何気ない風を装いながら聞き返した。

「最近チラシを配ってから、車田と二人で遊んでいるよね?」春香が答える。「本当にそれで良いの?」

「……ただの気晴らしだよ。変な想像はよしてよ。車田とは普通の友達で、それ以上でもそれ以下でもないの」

「それなら良いんだけど……。でも、もしも、だよ」加奈が心配そうに言う。「もしも間違いが起きたら、雫はどうするつもりなの?」

「間違い?」雫はわざとらしく顔を傾ける。「間違いって、なに?」

「それは……その……間違いは、間違いよ」

「何の事か分からないけれど、大丈夫だよ。車田とは本当にただの友達だし、私は今でも本当に稔の事が……」雫は急に恥ずかしそうになって、声を小さくして続ける。「その、好きなんだから」

「それは分かるんだけど」

「うん、私も分かるよ、分かるんだけど」

 二人は口々にそう言いながらも、不安そうな視線を向け続けている。雫は後ろを向きたくなった。けれどこのタイミングでそんなことをすれば、ますます怪しまれるのは明白だ。

「それよりも!」雫は唐突に声を張り上げた。「今度のテスト、二人は今度こそ大丈夫なんでしょうね」

 あからさまな方向変換だった。しかしこれ以上は埒が明かないと、春香と加奈は雫の話に乗る事にした。

「大丈夫だよ。赤点なんか取らないから」

 と、春香が言えば、

「ほんとよ、ほんと。この前みたいな失敗はしないから、安心してよ」

 加奈は無駄に自信たっぷりに胸を張った。

 そうした二人の態度に安堵を覚えながら、雫は他愛ない雑談に興じる。

 どうして罪悪感を抱くのか。なぜ後ろめたさを感じているのか。自らに生じた疑問さえも置き去りにして、これ以上この話題をさせないために、雫は休み時間が終わるまで話題を提供し続けるのだった。

 それが逃避だと知りながら。




 すごく面白いんだから!

 津村実花は、教室の中で同級生がそんな事を言っているのを、自分の席でぼんやりと聞いていた。実花から少し離れた所で、他の友達に熱弁を振るう姿は、ああ、本当に好きなんだなあと思わせる程だった。

 それで興味が湧いた実花は、寝る前にインターネットで調べてみた。サイトの名前は、『小説家に俺はなる!』である。

 なんでも無料の小説投稿サイトで、中には編集者の目に留まり、書籍化を果たしてプロになった人がいると言う。

 とりあえず実花は、目に付いた小説を読んでみる事にした。

 トラックとぶつかって、その衝撃でファンタジーな異世界に召喚された男の主人公が、神様から貰った強い能力で敵を圧倒しながら、複数のヒロインと仲良くすると言うお話だ。暫く読み進めてみるも、実花には面白さがよく分からない。選んだ作品が良くなかっただけかもしれない。

 ただ気がかりがあった。この主人公にも家族がいるはずだった。家族は彼がいなくなった事で、嘆き悲しんでいるのではないだろうか。しかしながら、その描写はないため、残された人々がどう思っているのかを知る事は出来ないのだ。

 実花は自分の兄である稔の事を思わず頭の中で思い浮かべる。それから夢想する。例えば稔が、この主人公みたいに異世界に召喚されて、複数の女性とイチャイチャしている姿を。

 実花は何だかむかむかした。少し、いやかなり腹立たしい。

 冷静に考えてみれば、あの兄にそのような甲斐性があるとは思えないのだ。しかし残された人がこんなに苦しんでいるのに、能天気にへらへらと楽しそうにしているかもと考えるだけで、はらわたが煮えくり返るようだった。

 だけどそれでも良いと、実花は思った。死んでいるよりも、よっぽど良い。生きてさえいてくれれば、また会う事が出来るかも知れない。もしも本当に、作中に出てくるみたいな神様がいるのなら、稔を死なせないようにして欲しかった。

 そして出来れば、稔をこちらに返して欲しい。もしも稔が向こうの方が楽しすぎて戻りたくないのであれば、実花も稔がいる世界に連れて行って欲しい。そして思う存分蹴飛ばして、踏みつけてやるんだ。実花はそう願った。願っただけで涙が零れ落ちた。

「何て事を言うの! あなた!」

 部屋の下から怒鳴り声が唐突に聞こえて来て、実花はびくりと身体を震わせた。それは母、景子の声だった。稔を怒る時の雷声とは違って、恐ろしい迫力がある。

「……え?」

 こんな母の声を実花は聞いた事が無かった。嫌な予感がして、耳を澄ませると、父である浩一郎が静かな声で何かを言っている。けれど何を喋っているのかを聞き取る事が出来ない。

 迷った末に、実花は身を竦ませながら席を立ち、部屋から出て、恐る恐る階段を下っていく。

 興奮した母の金切り声と、父の冷静な声が聞こえてくる。母の声が響く度に、実花の身体が震えた。怖かった。でも、何が起きているのか心配で、知りたくて、実花は一歩一歩進んでいく。そうしてついに一階に辿り着いてしまった。

 居間と廊下を隔てるドアの前に立つ。ドアは何だか途方も無く大きくて恐ろしいものに思えた。開けたくなかった。開ければ見てはいけないものが広がっている気がした。だけど、ドアはほんの少しだけ隙間が空いていて、そこから中を覗けそうだった。

 実花の心臓が痛いぐらいに鼓動を打っている。冷や汗が顔から滲み出てくる。

 お兄ちゃん。心の中で呟いてから、実花は小さな顔を隙間の前に近づけた。

 机の上には料理が乗っていて、椅子に座っていた浩一郎が嫌そうな顔をしながら白いご飯を箸で口に運んでいる。決して料理が不味いわけではない。他ならぬ実花はその事を良く知っているし、浩一郎もいつも美味しいと言って食べている。けれど父が嫌そうな顔をしている原因は、机を挟んだ所で立っている景子の存在だった。

「——あなたは! 稔の事を信じていないんですか! 帰って来ないなんて、それでもあなたは父親ですか!」

「そうは言っていないだろう。ただ、稔の事にかまけすぎて、他が疎かになっていないかと言っているんだ。あいつはもう高校生、立派な男だ。大抵の事は一人でも何とかなる年だ。けど、うちにはまだ小学生の実花がいる。あの子の事を優先すべきじゃないのか?」

「だからって! チラシを配るのを止めろだなんて!」

「実際、効果は出ていないだろう? 集まってくる情報は、どれもこれも報奨金目当ての眉唾物だ。もう長い事続けて来ているんだ。そろそろ切り時じゃないのか?」

 感情的に叫ぶ景子と、冷静な理詰めで説得をする浩一郎。二人がこんな風に言い争いをする光景を、実花は今まで見た事が無かった。

 二人を止めるには一体どうしたらいいんだろう。実花にはよく分からなかった。分かるのは、稔がいないことでこの喧嘩が起きていることだけだった。そして実花自身もどうやら問題の一つらしかった。

 とても悲しい気持ちで胸が一杯になる。両親のこんな姿を見たくなかった。

 気付けば両目からぽろぽろと涙を流していた。鼻をすすり、視界があやふやになった。

「……やめて」

 と、か細い声で呟いた。けれど景子の大きな声で掻き消されてしまう。

「もう、やめて……」

 二人には、やはり聞こえていないらしく、言い争いはより激しくなっているようだった。

「もう! やめてよっ……!」

 そして今度こそ、実花は大きな声を張り上げた。

 途端、居間にいる両親から息を呑む気配があった。しんと静まり返る中、実花のすすり泣く声だけが響いている。

「……実花?」

 と、呼ぶ声がドアの向こうから聞こえて来た。実花はそっとドアを押すと、きぃと言う音と共に開く。

 血相を変えて実花を見つめる二人の姿がそこにはあった。

「お父さん……お母さん……もう、やめてよぉ」

 浩一郎と景子は、慌てて実花に対して取り繕い始めた。


 チラシを配り、テレビの取材を受け、ついこの前は新聞の特集で紹介してくれた。だけど進展は何も無い。

 空しさを覚えるなと言われても無理な話だ。

 いつまでこんな事を続ければ良いんだろうか。チラシを配りながら思わずため息を吐きそうになった雫は、危うい所で我慢した。発案者である雫が、稔の家族や他の協力してくれる友達たちの前で、弱気な姿を見せるわけにはいかなかった。

 雫は気を取り直して、チラシ配りに集中する。そうすれば、弱気になっている自分を隠すことが出来ると思ったからだ。

 そうやってチラシを配っている時だった。ふと気付けば、ごく自然な動作で良光が近づいてきて、身体と身体が触れ合いそうな距離までやってきたのだ。

「……何よ?」

 雫はつんけんとした態度で呟いた。春香と加奈に言われた言葉が脳裏にこびり付いていた。

「……釣れないねえ」と、言いながらも、良光は少しも気にする素振りを見せずに続ける。「実はさ、悪いんだけど、今日はこれから用事があるんだよ。だから一緒に遊べないんだ」

 え、と雫は不意を突かれた心持ちで良光に視線を送った。そしてその瞬間、しまったと思う。咄嗟に視線を逸らしたが、遅かった。良光と目が合ってしまっていた。

「本当にごめん。まさかそんなにがっかりした顔をしてくれるとは思わなかったよ。楽しみにしてくれていたんだ。嬉しいよ」

 良光はにやにやとした笑みを顔に張り付かせて言った。

 この後の遊びはただの気晴らしだ。だからなしになっても何とも思わないはずだった。けれど良光の言葉を否定する事が出来ない。残念だと思う気持ちが、心の隅に隠れているのを気付かされてしまったからである。

 だからと言って、頷いてやるのは何だか悔しい。それで雫は、ぷい、と顔を横に向けて、彼の視線を後頭部で受けた。

「……それでさ、こっちが本題なんだけど」雫の顔の向きなど構わずに、良光は言葉を投げかける。「今度の土曜日、空いてるかな」

「……どうして?」

 雫は質問で返す。その日に用事はないが、明言は避けたかった。

「あーその。実はちょっと買い物がしたいんだ。それで女の人の意見を聞いておきたくてさ」

「それなら、春香と加奈でもいいんじゃない?」

「あいつらは駄目だよ。絶対、茶化すからさ。てか、それしかしないと思うし。その点、西尾さんなら真面目に意見してくれるから」

 確かに、と雫は思った。良光を相手にした場合、春香と加奈は自分たちが面白がる事を優先するだろう。

「と、そろそろ離れないと不味いかな。それじゃあ、詳しい事はあとでメールで送るから」

 良光は雫の返事を待たずに離れた。その瞬間を待っていたのか、今度は春香と加奈が近寄ってくる。

「……ねえ、何て言っていたの?」

 と、春香が尋ねて来た。

「何って……」雫は少し間を置いてから答える。「今日の気晴らしは用事があるからなしって話よ」

「それなら良かったね」

 加奈は明るい調子で言った。

「うん」

 雫は頷いた。嘘は吐いていないのに、胸の中に小さなトゲが刺さっているみたいだった。


 土曜日は、情け容赦なくやってきた。

 どうしてなんだろう、と雫は自問しながら道を歩く。

 服装は稔とのデートのために奮発して買った服だ。けれど稔に見せる前に彼が行方不明になってしまったせいで、今まで着なかった服でもある。それを今日は着ていた。

 髪も稔とのデートの時と同じくらい鏡の前で時間をかけてセットをした。

 家を出る時は、母親の良枝に、そんなに気合いを入れてどうしたの、と聞かれたほどだ。ちなみに雫は、ちょっとね、と誤摩化して家を出た。

 向かっている先は、青嵐公園の噴水広場。稔と初めて出会い、告白を受けた思い出の場所であった。そこはあの日のチラシ配りの後に、良光がメールで指定した場所なのだ。

 しかし雫は、メールに返事を出さなかった。高校でも土曜日の事は何も言わなかったし、良光も気にしている様子はなかった。チラシを配った後も、いつものように遊ぶ事こともせず、他愛ない話を繰り広げるだけに止まった。

 そうして土曜日が来たのである。

 行かないという選択肢はもちろんあった。稔の事を想うなら、メールが来た時に行けないと返事をするのが正解なのは間違いない。だが、雫はしなかった。迷っている証拠だった。そればかりか、当日である今日、実際に行かなければ済む話なのだ。それに了承したわけでもないから、良光が来ている保証は何処にも無い。しかし、雫は向かっている。

 どうしてなんだろう。雫は自問する。

 多分、きっと、それは仕方の無いことなのだ。

 だって、買い物に女の子の意見が欲しいって言っていた。春香と加奈は信用できないと言っていた。そして、それは雫も同意してしまった。

 だから、仕方の無いことなんだと、自分に言い聞かせる。

 けれど、雫は精一杯のお洒落をしていた。行きたくないのなら、そんな事をする必要が無い。いつもの普段着で十分だった。しかし雫は、その矛盾に気付いていなかった。気付いていない振りをしていた。

 今からでも遅くはない。引き返してしまえばいい。急用が出来たとか、言い訳をして。そう思う。でも思うだけだった。足は着実に進み、やがて公園の中に入って、そして、噴水広場に辿り着いてしまった。

 良光は? と探してみると、ベンチに座っている。いつもと違う服だ。服装に気を遣っているのが分かる。よく似合ってる、と思った。

 雫は恐る恐る近づいていくと、良光は彼女に気付いて立ち上がり、駆け足で駆け寄って来た。

 公園の時計は、待ち合わせ時間から十分ほど経っている。

「その、ごめん」と、雫はまずは謝った。「待った? 待ったよね?」

「いいや、大丈夫さ。今来た所だからさ」

 良光の明らかな嘘に、雫ははっとした。それは稔との初デートの時に、期待していたのについに言われる事の無かった台詞だったからだ。

 良光は稔の友達だが、違う男なのだ。雫は今更ながら実感した。

「その、台詞」

「ん?」

「稔は……言ってくれなかったんだ。初デートの時にさ」

「そうなのか?」良光は驚いた顔をした。「分かってないなあ、あいつは。デートの時の定番だろうに。まあ、あいつらしいけどね」

「……うん」

「ああ、それと、その服。すごく似合ってるね。めっちゃ可愛いよ」

「……ありがと」

 稔は服を褒めた事もなかったな。そう思いながらも、可愛いと言われた事が素直に嬉しくて、恥ずかしくて、雫の頬がほんのりと赤く染まった。


 二人が来たのは定番である晴嵐駅の駅ビルだった。相も変わらず人が多い。

 雫も稔と何度か来た事があるせいか、ここに来るとつい稔の事を思い出してしまう。だからいなくなってからは、商業施設の方へは行かなくなってしまっていた。

 それが今日は、あっさりと来てしまった。その事に雫は驚きを禁じ得ない。そして稔の事を思い出してしまうのは、何よりも稔の事が好きである証左なんだと思う。

「それで、一体何を買うのよ?」

 稔への気持ちを確認して、元気を取り戻した雫は、強めの口調で尋ねた。

「ああそうそう。実は服が欲しくてさ。それで西尾さんの意見が欲しいんだ」

「服を? でも、私でいいの?」

「西尾さんはセンスが良いと思う。今日着ている服も、本当にセンスが良いよね」

 ちょっと褒め過ぎなんじゃないのかな、と雫は思うが、まんざらでもなさそうにはにかんだ。

 アパレルショップが集まる階に着くと、早速適当な店に入ってあれこれと吟味をし始める。

 雫は真剣に選んでいた。良光に合う色は、デザインは、一体どういうのだろうか。次から次へと服を与えて良光に着替えさせる。まるで着せ替え人形になったみたいだ、と良光は笑った。雫も釣られて笑う。

 楽しかった、本当に。時間を忘れるほどに。

 やがて予算と好みを勘案して三着まで絞りこんだ。

「どれがいいかな? 西尾さんが選んでよ」

 と、良光は尋ねた。

「私が選ぶの?」

「ああ。君に、選んで欲しいんだ」

 分かった、と雫は頷いて、悩んだ末に一着を指差した。

「ありがとう」良光は破顔した。「とても良い服だよ。やっぱり雫はセンスが良いよね」

「さっきから褒め過ぎよ。本当にそう思ってるの?」

「ほんと、ほんと。センス良いって、マジで」

「ふーん。ま、そういうことにしておくね」それから雫は、ふと思いついた。「じゃあ今度はさ、車田くんが私の服を一着選んでよ」

 言ってから、雫は何を言っているんだろうと思った。でも思いついたとき、それはとても良い案に思えて、深く考える事も無く反射的に口から出てしまった。

 断って欲しい、と理性が願う。

 だがそんな内心の願いを、良光が聞いている訳が無く。

「もちろん、構わないよ」

 と、あっさりと承諾していた。


「もう、時間ね」

 と、雫はスマートフォンの時計を見ながら呟いた。その手に持っている紙袋には、良光が選んだ服が入っている。

「本当だね。いつも思うんだけど、どうして楽しい時間はいつも早く過ぎてしまうんだろうな」

「不思議だよね。長く楽しみたいのに、そういう時だけ時間は早くなる。早く終わって欲しい時は、すごくゆっくりなのに」

「まだ、遊び足りないな」良光は思案する様子を見せてから提案する。「そうだ。今日のチラシ配りの後もさ、また遊ぼうよ」

 雫は悩んだ。けれど、ほんの数秒の事だった。

「……うん、いいよ。私も、遊び足りないから」

 そうして二人は別れて帰路についた。

 家に帰って来た雫は、時間が来るまでぼんやりと椅子に座っていた。目線は机の上に置かれた紙袋。中には良光が選んでくれた服が一着入っている。

 良光は良い奴だと思う。稔と一緒にいた頃は、よくからかってくるしようの無い奴だと感じていた。しかし実際に遊んでみると、彼はとても紳士的な男でもあった。

 稔とは違う。

 雫は自分が以前とは変わって来ている事を自覚していた。

 こうして何もしていない時、前は稔の事ばかり頭に浮かんで来ていた。だけど今は違っていて、良光のことばかりが脳裏に描き出されている。

 罪悪感は今でもある。稔に悪いと思う。我ながら最低だと思う。だけど雫が感じている寂しさは、今は良光のおかげで感じなくなっていた。

 雫は駅でいつものチラシを配るために家を出る。同じタイミングで、お隣に住んでいる景子と実花が出て来た。

 軽く挨拶をしてから一緒に向かう。

 会話は少なかったし、喋っているのは主に景子と実花だ。だがそれも稔が行方不明となってからは、ずっとこのような感じであった。いや、それでも今日はいつもと違うようである。二人の親子の間からは、ぎくしゃくしたものを雫は感じた。何かあったのだろうかとは思う。けれど雫は聞く事はしなかった。

 駅に着いた。集まったメンバーは、他に良光と、春香と、加奈。全員で六名だ。いつものメンバーだけで、他に協力してくれる人は来ていなかった。

 仕方が無いと思う。

 慣れた仲間たちだけだったから、特に打ち合わせもせずにチラシを配り始める。

 雫の近くで配っているのは良光だ。そのせいか、自然と目が合ってしまう。そしてその度に、この後遊ぶ事について頭を巡らしてしまう。駄目だとは思う。だが慣れた身体は、特に意識をせずともいつものように笑顔を振りまきながらチラシを配っている。おかげでよそ事を考えていても特に支障がなかった。

 ある程度の時間が経ち、チラシ配りは終了した。

「お疲れさまです!」

 みんな一斉に挨拶をした。景子と実花は一緒に帰っていき、良光は駅に向かう。雫は三人とは別の方向へと足を向けた。

「あれ、どうしたの、雫?」

 方向が逆じゃない、と見咎めたのは春香だった。しかしこれは想定済みだ。

「ちょっと用事があるんだ」

「そうなんだ」

 春香はそれで納得してくれたようだ。雫は内心ほっとした。一応、念のために、チラシ配りが終わったら一旦は帰る振りをしてからまた集まろうと、良光と打ち合わせをしていたのだ。それが功を奏した。

「それじゃあまた明日ね」

「うん、また明日」


 そうして別れた一時間後。晴嵐駅から二駅離れた西瀬良川駅の改札から雫が出て来た。改札の前で待っていたのは良光である。

「お待たせ」

 そう雫が言うと、

「いや、今来た所だよ」

 と、良光が返す。二人はくすりと笑った。

「どこに行く?」

 雫は嬉しそうに聞いた。

「そうだな。この近くにゲーセンがあるんだよ。そこに行ってみないか?」

「いいね。行こうよ」

 良光に案内されたゲームセンターは、晴嵐駅の近くにあるものよりも狭かった。けれどその代わりに、人は少ない。

 雫がまず向かったのはUFOキャッチャーのコーナーである。気になる景品を見つけた雫は、じっとその犬のぬいぐるみを見た。耳が垂れ、まん丸い目がとても可愛いと思う。

「ねえ、車田くん。あの犬のぬぐるみを取ってよ」

 と、雫は良光に頼んだ。

「いいぜ」

 良光は自信満々に言った。

 雫が百円玉を投入すると、良光は早速操作を開始する。横移動、それから縦移動。UFOキャッチャーのアームは、見事に犬のぬいぐるみを掴んだ。重心の位置で捕まえたそれは、道中で落とす事無くあっさりと手に入れることができた。チラシ配りのあとで遊ぶ時、彼はこうやって雫のためにぬいぐるみを取ってくれていた。おかげで雫の部屋にはぬいぐるみが増えてしまっているのだった。

「やった!」

「よっしゃあ!」

 二人はハイタッチをして喜びを分かち合う。端から見れば、それは恋人同士にしか見えない。だが雫は、その事に気付いていなかった。

「本当にありがとう! 車田くんって、本当に上手だよね」

「だろう。稔はどうだった」

「……稔は、あまり上手じゃなかったな。一つ取るのに、どれだけつぎ込めばいいのか分からないから」

「そうか。まあ、あいつはあまりこういう所で遊ばなかったからなあ。それにあいつは小遣いが少ないから、仕方が無いとは思うけどね」と言うと、良光は、あ、という顔をして、一言加える。「ごめん。あいつの事は、話題にするべきじゃなかったな」

 少し考える素振りを見せた雫は、微笑みを浮かべて首を横に軽く振るう。

「……ううん。いいよ、気にしてないから。それよりも楽しもうよ」

「そうだな。うん。そうだ。あいつが羨ましすぎてすぐに帰ってくるぐらい、楽しんでやろう!」

「うん!」

 そして、遊んだ。ダンスゲームで踊り、太鼓を叩き、エアホッケーで軽く汗を掻く。

 雫はとても傷心しているように見えないほどはしゃぎ、良光はそんな雫を楽しませようと手を尽くす。

 最後の〆にプリクラを二人並んで撮った。出来るだけ可愛らしくなるようにデコレーションをして。稔と撮った時、彼は文句を言っていた。良光は軽いノリのまま受けてくれたのが嬉しかった。

 時間を忘れて楽しんだから、当然のように外はもう暗い。

 名残惜しさを感じながらゆっくりとした歩調で歩いていけば、すぐ近くにあるせいで、良光が住んでいるマンションにあっという間に着いてしまった。

 もっと一緒にいたい。遊んでいたい。雫は自分の胸の中で芽生えた欲求を振り払う。

「今日はありがとう。ぬいぐるみも取ってくれて。本当に楽しかった」

 雫は犬のぬいぐるみを抱きかかえながら、大輪の花が咲き誇るような笑顔を浮かべた。

 良光は、そんな雫の表情を何も言わずに見つめている。それは真剣な顔だった。

 雫は彼の顔付きに気が付くと、そのただならぬ気配にはっと息を呑む。そうした男性の真剣な顔を、雫はこれまで何度も見て来ていた。

 告白して来た時の稔に、和田島先輩。それから他の多くの男性の真剣な顔。

 雫は胸の高鳴りを感じた。でも、すぐにいけないと考える。なぜなら雫には彼氏がいるから。稔がいるのだから。

「な、なに? ど、どうしたの?」

 雫は思わず上擦った声を出した。

 だが良光は、何も言わずに一歩踏み出して近づいた。そして、

「雫」

 と呟きながら、良光は両手をゆっくりと前に出す。

 いけない、拒否しないと。頭の中で考えながらも、雫は行動に移せない。おろおろとしたまま、良光が雫の背後へ手を回すのを止めなかった。

 明確に拒否しない雫を確認した良光は、彼女のぬいぐるみを抱く腕ごと緩く抱きしめる。

 雫の心臓が早鐘を打った。暖かな彼の体温のせいなのか、彼女の顔が熱く火照る。

 良光の口元が、雫の耳の側にまで寄せられて、再度、

「雫」

 と優しく、熱く、囁いた。

 まるで魔法がかかったみたいに、雫は顔を上げると、すぐ前に良光の顔がある。

「だ、だめだよ……」

 雫はかろうじて弱々しい声を上げた。だがそれだけだった。軽く抱きしめているだけの良光の腕には力があまり入っていないから、彼の抱擁から抜け出すのは簡単だ。それに拒否すれば良光は潔く身を引くだろう。その事は雫も理解していた。しかし、彼女は払いのけようとはしなかった。

 良光は、鼻と鼻が触れ合いそうなほどの距離まで顔を接近させる。

「……だめ」

 という雫の声が、またも小さく発せられた。

 良光は顔を近づけさせるのを止める。それから、彼女のつぶらな瞳を真っ直ぐに見つめて、

「雫」

 と、甘い声で呟いた。

 脳髄が痺れるような感覚を、雫は覚える。頬はますます赤く染まる。

 いけない。だめ。拒否しないと。私には稔がいるんだから。私は稔の恋人なんだから。

 雫は心の中で警鐘を鳴らした。

 けれど良光の凛々しい瞳から逃げられない。腕に力が入らない。

 だめ、だめだよ、だめ。理性が必死になって止めようとするが、身体を動かさない。

 ——でも、その彼はもういない。

 不意に、和田島先輩の言葉が脳裏に蘇る。

 稔はいない。そればかりか、もう一生会えないのかもしれない。

 だけど、今は良光がいる。

 いいの? 本当にいいの? 心の声は何処か遠い所から発せられていた。

 雫は瞳を閉じる。

 なんで? どうして? 疑問の声が頭の中で響くが、もはやどうすることもできない。

「……いいんだな?」

 良光の質問に、雫は答えない。その代わりに動く事もしない。

 良光は、自らの唇と雫の唇とをそっと重ね合わせる。

 それは柔らかで、優しくて、心地の良いキス。

 稔とすらしたことのない、雫の人生の中で初めてのキスだった。

 時間にして数秒ほどで、良光は唇を離す。

 その瞬間、雫は理解した。

 心の中にあったパズルは、稔と言うピースが欠けて空洞になっていた。だけどいつの間にか、その欠けた場所には良光のピースがこれ以上無いぐらいぴったりとはまっていたのだ。

 雫はもう、自分に言い訳をすることすらしなかった。

「今日はさ」と、良光は雫に語りかける。「俺の両親が明日の夜まで帰らないんだ」

 そしてまた、雫は良光とキスをした。

 良光は腕を雫の腰に回して、マンションの中へと誘導する。

 雫はそれを、黙って受け入れていた。

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