二十一 ベネト到着
「どうしよう……」
茜色で照らされた喜多村由梨江の気落ちした顔を見た津村稔は、すぐに心配の種が自分にあることを察した。
ベネトの門の前で行列を作る人々を見ながら、稔は真摯な表情で言う。
「俺なら、大丈夫だよ」
「え?」
由梨江は思わず顔を上げた。
「俺は外にいるから、由梨江は町の中に入りなよ」
「え、でも」
予想していなかった提案に、由梨江は困惑を隠せない。
「大丈夫だから。由梨江は町の中で休んでいてよ」
由梨江は稔が望む事なら何でもする覚悟だ。しかし、これは違う。これは稔が由梨江のためにしたい事だ。由梨江はそんな事を望んでいない。
「嫌」由梨江は強い口調で断る。「私、そんなことをされても嬉しくない。それに知ってるよね。私はもう稔と一緒でないと眠れないの。稔が側にいないなんて考えられない。稔から離れたくなんかない」
稔は困ったように頬を掻く。昨日の夜に起きた教会での出来事を思い出しているのだろう。
「……それだと、野宿をすることになるよ」
「うん。私は、稔と一緒ならどこだって良いの」
二人は話し合いは拮抗していた。
そうした中で、彼らに近づく一つの人影があった。
「もし、そこのお二人さん」
しゃがれた声で話しかけられて、二人は振り返る。
そこにいたのは背の低い男性だ。年齢は四十代から五十代と言った所か。顎から髭が芝生みたいに生え揃い、頭に頭巾を被っている。
「もしかして、中に入りたいけれど、検問をされたくなくて入れないんじゃないかな?」
男は妖しい笑みを浮かべて言った。
図星を突かれてギクリとした二人は言葉を失う。一体何者だろうかこの人は。いかにも胡散臭い。稔と由梨江は訝し気な視線で男を見る。
「それで、一体どちらがまずいのかな? それとも二人なのかな。大丈夫、いい方法がある」
「方……法?」
稔は思わず男の甘言に反応してしまう。男はにやりと笑んだ。
「まず確実に入れる方法さ。それはね」男は間を置いてから言う。「奴隷になればいいんだよ」
え。稔と由梨江は目を剥いて驚いた。奴隷になる。そんな言葉が出てくるとは思わなかった。
男は困惑する二人を楽しそうに見つつ、現代日本人の価値観から遠く離れた説明を始める。この世界は地球とは違う異世界で、目の前にいる人物は異世界の住民で、そして自分たちは異邦人なのだ。その事を改めて突きつけてくるようだった。
「奴隷と言うのはだな。分かっているとは思うが、主人の持ち物という事になる。検問には奴隷の烙印を見せるだけで良い。身体や顔までは改めないのさ。なぜなら奴隷が何かをしでかした場合、主人が責任を負う事になるからね。ただ町の中で他人に酷い扱いを受ける事もそうないだろう。主人の許可が下りれば別だが、奴隷をけがさせたりすれば主人に賠償金を払わなければならない決まりだからね」
二人は動揺を隠しきれない。自分たちが培ってきた価値観を、根底からひっくり返されたような衝撃だった。
「奴隷になれと言われて抵抗があるのは分かる」二人の動揺を別の理由で解釈した男は続ける。「だが実際に奴隷になるわけではないんだよ。私の魔法で奴隷の烙印を偽造するだけだからね。解除も簡単にできる。ただしお金は貰うがね」
どうする? と、男は問うた。
「……お金は……持っていない」
稔はかろうじてそれだけを返した。しかし目の前の男はそんな返答を予期していたのか、にかりと笑う。
「後払いでも結構。そんな人は大勢いるよ。仕事なら町で見つけられるわけだしね。ただし、払って貰うまで解除はできないがね」
稔は考えていた。後払いが可能と言う事は、男が言っている事は信頼してもいいのだろう。だが首を縦に振る事は、まるで奴隷制度自体を認めているような気がして仕方がなかった。それでも町の中に入れる利点は捨て難い。
「駄目」稔の思考を割って入ってくるように聞こえてきたのは、由梨江の声だ。「稔が奴隷になるなんて、そんなの駄目」
「けどさ。町に入れるんだ。それに本当に奴隷になるわけじゃない。フリをすればいいだけなんだから」
「でも……フリでも私は嫌だよ。奴隷だなんて。なるなら、私が……」
「それじゃあ意味ないんだよ。分かってるんだろう?」
と、稔は言った。彼の全身には角が生えている。それを見られれば魔人に間違えられて厄介な事になるのは目に見える事だった。だからこそ奴隷になると言う提案は時節に叶っているのだ。多少のリスクは考えられるが、魔人だと疑われるよりも遥かに良い。
「私は、野宿でも……」
「野宿も駄目だ。危険だし、食料もない。なるべく避けたい」
由梨江には、もう返せる言葉はなかった。稔の頭には、奴隷になる以外の選択肢はもはや存在していない。由梨江自身にも、町の中に安全に入れる方法を思いつく事が当然出来るわけがなかった。だから、
「分かっ……た」
渋々と承諾したのである。
「決まったな」
二人のやり取りを黙って見守っていた男は、満面の笑顔を浮かべる。
それから「俺の名前はトルガだ」と名乗ると、
「では、どちらが奴隷になるかな?」
そう二人に向き合って尋ねた。
「俺が」
稔が答えて一歩前に出た。
「手の甲を出してくれるかな? 左右どちらでもいい」
トルガの要望に稔は素直に応じて左手を差し出す。幸いにも手に角は生えていないのだ。
トルガは「ちょいと失礼」と呟くと、稔の左手の甲に自らの人差し指で触れた。魔力を集中させているのか、トルガの指先はほんのりと輝き、おまけに少し暖かい。それから慣れた手つきで指先を動かし始めた。指が動いた後には赤い軌跡が残り、ある種の図柄が描かれていく。
「これで出来上がりだ」
そう言ってトルガは指を上げた。描き出された奴隷の烙印は、直線で構成された単純で覚えやすいデザインだった。
「検問では兵士にこれを見せるだけで良い。それから、こいつをはめろ」
言いながら取り出したのは、黒光りする首輪である。二人の脳裏に浮かぶのは、ゴゾルに取り付けられた首を締め付けるあの首輪であった。苦痛を思い出して、二人の顔色が曇る。
「安心しろ」と、トルガは言う。「これはただの飾りでね。重さはないし、魔法の機能も一切ない。ただ奴隷はこいつを付けていないといけない決まりだからね。だからこいつは模造品だ」
稔が受け取ると、なるほど確かに重さを感じない。由梨江は稔の事を心配そうに見ている。なので、稔は彼女を安心させるために目配せをしながら軽く頷き、自分の首に首輪を取り付けた。
準備が完了した二人は、トルガと少し打ち合わせをした後に列に並んだ。
十数人が並んだ列の進みはゆっくりだ。それでも三十分ほど待つと、ようやく由梨江と稔の番が来た。
「名前は?」
兵士の男は面倒くさそうに尋ねた。
「由梨江です」
男はじろじろと由梨江の全身と顔を見て、次に稔へと視線を移す。
「お前は……奴隷か。印を見せてみろ」
事前の打ち合わせ通り、稔は由梨江の「見せろ」と言う命令を待ってから左手の甲を差し出す。
「ふん。確かに奴隷のようだな。しかしお前さんみたいな若いのが奴隷を持つなんてな」
「お父様が……私の誕生日に下さった物なんです」
「なるほどな。ま、いいだろう。通ってよし」
「ありがとうございます」
由梨江は兵士に頭を下げて門をくぐった。稔はその後に続く。
トルガの言う通り、稔の顔や身体を見られる事なく中に入る事が出来たのである。
門を通ると、旅人たちを迎えるように、酒場などの飲食店や、商業施設が軒を連ねていた。店の前に立った商人たちが、盛んに呼び込みを行っている。
道は全て敷石で出来ているし、建物も四角く加工された白い石を積み上げて、セメントかあるいはそれに良く似た何かで接着させて建てられていた。石に歪みが殆どない所から、石工の技術力の高さを窺い知る事が出来る。
稔と由梨江は、白く美しい町並みと活気に溢れる人々に目を奪われていた。
「凄いだろ。帝都を除けば、帝国で一、二を争う程なんだ」
二人の後に続いて町に入ってきたトルガは、二人の背後から自慢げに声を掛けた。
「確かに……凄いですね」
と、由梨江は後ろを見ずに返事をした。
稔は黙っている。トルガから、奴隷は自分から喋ってはいけない、と言われているからだ。特に決まりはないが、それがごく普通の奴隷が行う振る舞いらしい。
「さて、仕事の斡旋所を教えてやらないとな。こっちだ」
二人はトルガの先導に従って歩いていく。
通りを歩きながら、稔は店に掲げられた看板を見る。そこには恐らく字が書かれているのだろうが、ミミズが這った跡にしか見えない。
そこで稔はそっと由梨江を小突いた。彼女が目線をこちらに向けたのを確認すると、稔は声を出さずに口の動きだけで、
(読める?)
と日本語で尋ねてみた。果たして由梨江は小さく首を横に振って否定する。
やがて一五分ほど歩くと、斡旋所に辿り着いたらしく、「ここだ」とトルガが言って立ち止まった。
木製の扉には、縄で括り付けられた看板が下げられており、文字が書かれている。それを見たトルガは顔をしかめた。
「もう閉めやがった。いつもいつも終わるのが早いんだよな」
どうやら今日は店じまいらしい。
「ま、明日また来れば良いさ。それで泊まるアテはあるのかな? ついでに案内しよう。こいつはサービスだから、気にしないでくれ」
「東にある教会に泊まれば良いと、来る途中にあった教会で聞きました。とりあえずそこに行ってみようと思っています」
「……あそこか。文無しだから仕方ないが、この町は安価でも良い料理と酒を出す宿が多いんだ。だからお金があるときは、宿屋をお勧めするよ」
「そうなんですか? それは気になりますね」
トルガの案内に従って歩きながら、由梨江は呼び込みを行う店を見る。恐らくは酒場だろう。酔客の楽しそうに騒ぐ声が、往来の真ん中まで聞こえてくる。店の前にある看板には料理の絵が描かれていて、そのどれもが日本で見た事がない。由梨江は、ある程度お金を稼いだら、一度行って見たいと思う。もちろん、稔も行きたいと言った場合だけれども。
その稔も、平然を装っているが、視線はきょろきょろと目まぐるしく動いている。見る物全てが珍しいという風体だ。
それから道を二つぐらい折れると、さっきまでの喧噪が嘘のように静かになった。生活感溢れる様子から、一見して住宅街だと窺い知れる。夕飯時なのか。屋根から突き出た煙突から白い煙が上がり、香しい香りが漂ってくる。時折聞こえてくるのは、無邪気に笑う子供の声だ。
暫く進むと、住宅の合間にひと際大きな建物が見えた。三角形の形をした屋根の頂点には、二つの月を模した飾りが取り付けられている。
稔と由梨江は、シニャの教会にも同じ飾りがあった事を覚えていた。だからその建物が教会だとすぐに気付く。
教会の前に着くと、トルガは、
「それじゃあ俺は帰るとするよ。さっき言った通り、五万ポルツあれば印を消す方法を教える。日が暮れるまで、大抵外で君たちみたいなのを探しているから、町を出る時に探してくれ」
と、言った。
稔と由梨江はそれぞれ礼を言う。それを聞いてから、トルガは元来た道を戻っていくのだった。
二人は改めて教会を仰ぎ見る。
シニャの教会は木造で、厳かであったけれどとても質素な佇まいだった。けれどベネトの教会は、輝くような純白の石を積み上げて作られている。また、デザインも少し変わっている。向かって中心より左側が、右側に比べて一回り大きいのだ。
教会の前には大きな庭が広がっており、入り口に繋がる歩道を挟むように大きな花壇が設置されている。そこには色とりどりの花が咲いていた。どの花も見た事がないけれど、鮮烈に目に映る色彩の洪水はとても美しい。
稔と由梨江は、花々で目を楽しませながら庭の中をゆっくりと歩くと、教会内部に繋がる両開きの大きな扉の前で立ち止まった。その木製の扉も建物と同じように、左側が大きく、右側が小さい。なぜだろう、と稔が考えていると、
「これ、きっと月を表してるんだと思う」
由梨江がそう自説を述べた。
「月を?」
と稔は言ってから、はたと気づく。二つあるメルセルウストの月は、当然ながら大きさが違う。シニャが教えてくれた事を思い出すと、大きい方には男神のウストが、小さい方には女神のメルセルが住んでいるそうだ。そのため、月は神が住まう楽園が広がっているとされている。
その事を踏まえて扉を良く見てみると、そこには精細なレリーフが彫り込まれていた。特筆すべきは、右と左とでは彫られた絵柄が違うことだろう。左側には大きく背の高い樹木で構成された森が、右側には可憐な花が咲き誇っている様子がそれぞれ彫刻されている。月の楽園を表現しているに違いなかった。
「入ろうか?」
小さな声で稔が尋ねると、由梨江はこくりと頷いた。
稔と由梨江は同時に扉を押した。図らずも、左側を稔が、右側を由梨江が開ける。
ぎい、と軋んだ。
教会の中は、白塗りの木の板が床に貼られ、木製の長椅子が何列も並んでいる。奥には真っ白い石で出来た逞しい男性像と、美しい女性像が向かい合って立っていた。彫像の前には、二つの月を模したオブジェが置かれている祭壇がある。修道服を着た四十前後の女性は、たった一人で祭壇に向かい、膝を突いて祈りを捧げている最中であった。
扉が軋む音に気が付いた彼女は、はっと後ろを振り返った。稔の事を一瞬だけ確認すると、すぐに由梨江へと視線を合わせる。奴隷である稔がこの場に存在していないかのような振る舞いに対して、何の呵責も感じていない聖職者は、背筋を伸ばして立ち上がり、優しそうな笑顔を由梨江にだけ向けて言う。
「東ベテト教会にようこそ。どのようなご用件でございましょうか?」
由梨江は稔を無視するなと怒りたかった。けれど稔はこの町では奴隷なのだ。そして稔の身体に生えた角が発覚してしまえばこの町にいられなくなる。最悪殺される。だからぐっと我慢して、
「この町に来る途中にあった教会で泊まらせて頂けたのですが、ベネトではここを宿の代わりにすれば良いと教えて貰えたんです」
と説明をする。
「あら。もしかしたらシニャの所でしょうか?」
「はい。紹介状も預かっています」
由梨江は懐からシニャに渡された紹介状を取り出して、彼女に近寄ってから手渡した。
「ありがとう。拝見させて頂きます」
彼女は紹介状をふむふむと頷きながら読み始める。
固唾を飲んで見守るのは、稔と由梨江だ。果たしてどのような事が書かれているのだろうか。
「え」
と、不意に目の前の尼は、顔を上げて由梨江を見た。それから二度、三度と書面と由梨江の間で視線を往復する。
「申し遅れました。私はムルレイと申します。あなた様がユリエ様なのですか?」
「はい」
「ここに書いてあるのですが」とムルレイと名乗った尼は恐る恐る言う。「病を治した、と言うのは、本当の事でしょうか?」
由梨江は少し間を置いてから頷いた。
「……なんと。にわかには信じられませんが、シニャがそう言うのですから、そうなのでしょう。続いてお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「はい」
「あなた様と一緒におられたミノル様というのは? 今はいらっしゃらないようですが」
ムルレイの言葉に、由梨江はぎょっとした。今この場にいるのは、たったの三人だけだ。消去法で、由梨江の隣にいるのが稔であると予想がつくはずなのに。
「あの、この人が、稔です」
由梨江は手で指し示して稔を紹介すると、今度はムルレイがぎょっとした。
「え? 嘘でしょう? 彼は奴隷ではないですか。シニャの手紙によれば、お連れの方は一人だけと書かれておりますよ? まさかシニャが奴隷の事を人数に入れてしまうわけがありませんし……」
あまりに衝撃的で、ぽかりと由梨江の口が開いた。神様に使えているはずの修道女ですら、奴隷を人と見ていない。物としてしか見ていない。
「ああそうですか」ムルレイはくすくすと笑い一人で合点する。「全くお戯れを。冗談はよして下さい。ミノル様は今はご一緒ではないんですね」
違う。大きな声で否定しようとした由梨江の腰を、稔の手が優しく触れた。由梨江は横目で稔を見ると、彼は小さく首を横に振る。
いいんだ。大丈夫だ。
そう言っているように由梨江には聞こえた。
「……ごめんなさい。実は……そうなんです」由梨江は、唇を噛んでから言う。「やっぱり、分かっちゃいますよね。稔は今、事情があって、この町には……いないんです」
「そうでしょう。そうでしょうとも。分かりますよ。ユリエ様は思ったよりもお茶目な方なんですね」
「は……は……は」
由梨江は乾いた笑い声を立てた。けれどムルレイは、そうした由梨江の反応を少しも疑問に思っていない様子だった。それが由梨江には腹立たしかった。そして怒りの感情を抑えなければいけないのが、何よりも嫌だった。
「ところで私たちの教会にも、病気の方が大勢いらっしゃるのです。もしよろしければ、彼らの治療をお願いしたいのですが。もちろんそれなりのお礼はさせて頂きますし、泊まる部屋もご用意させていただきます」
拒否したかった。だけど、ここで自分の意地を優先させても良い事はないと、由梨江の理性が告げている。
だから、由梨江は首を縦に振った。
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