十七 一撃
ズヌーが暴れている。
三本の長い鼻を縦横無尽に走らせて、人間たちに暴虐の限りを与えようとしている。
しかしガルベルの指揮は巧みで、的確だった。
戦士たちは決してズヌーの攻撃範囲に近寄らずに、魔法や弓矢で攻撃している。足を凍らせる者、炎を投げつける者、矢で注意を逸らさせる者と、役割分担がなされており、その全ての指示をガルベルは行っていた。
だが並の魔物であれば何度も死んでいるほどの痛手を与えながらも、ズヌーは少しも衰えを見せていない。足取りは重く、ゆっくりであるが、確実に村へと近づいてくる。
そうした中、一人の男がズヌーに肉薄していた。
カースである。
彼の身のこなしは見事としか言いようがない。次から次へと襲いかかる鼻を、時に飛び跳ね、時にしゃがみ込んで避けて行く。優れた反射神経と判断力がなければこうはいかないだろう。
そうしてカースはズヌーの間近に迫った。ここまでくれば長大な鼻は彼に当たらない。そればかりかズヌーの六つある目でも、巨体が仇となって死角になる。無論、ズヌーの大樹みたいに巨大な足は脅威である。踏まれればそれだけで死ぬ。しかし俊敏なカースにとって、鈍重な足はのろまな亀だ。注意さえしていれば容易に避けられる。
カースはズヌーの腹の下に潜り込んだ。剣では届かない距離に無防備な腹がある。けれど彼の得物は長い間合いが最大の利点である槍だ。迷わず真上に向かい、突く。槍の先端は腹に突き刺さった。そこから赤黒い血がぶしゅっと音を立てて吹き出して、カースの顔に点々と降り掛かる。口元に垂れた血液を舌で舐めとった。
ぐるるるるるる。
地響きのような唸り声が、腹の底から震えるように聞こえてくる。
カースはにやりと笑んだ。
これからここで暴れてやる。お前がやったようにな。
何度も何度も突きを繰り返す。点々とした赤い跡が、腹に穿って行く。
しかしそれでもズヌーの歩みは変わらなかった。
そこでカースは、今度は足に狙いを定めて、槍を横に振るい、ズヌーの踵より少し上を切り裂く。ぱっ、と朱色の線が走った。
分厚い皮膚に阻まれて、腱を切断する事は叶わなかったが、ズヌーは嫌がるように斬りつけられた足を上に上げる。
ぐおおおおおお!
先程よりも大きい唸り声が響く。奴は痛がっていると、カースは手応えを感じた。
ズヌーは腹の下にいる何者かに制裁を加えようと、滅茶苦茶な足踏みを始める。
だがカースには当たらない。そればかりか振り下ろされた瞬間に合わせ、槍を繰り出して傷を増やす。
痛いか! 痛いだろう! だが足りない。もっともっと味合わせてやる!
カースは吠えていた。目の前で仲間たちを蹂躙された恨みがあった。怒りがあった。激しく熱い感情の全てを、カースは槍に全てを乗せて撃ち出していた。
「あの野郎、やりやがったな」
言葉とは裏腹に嬉しそうな調子で言うガルベルの事を、喜多村由梨江は足を折った男性を治療しながら横目で見た。
戦況は優勢のようだ。先程から多少のけが人は出ているが、死者を出していないのがその証である。それにカースの活躍により足止めに成功しているのもある。
足の骨折を由梨江に治してもらった男は、あまりの治療速度に目を白黒させながらも、
「ありがとうございます!」
と早口で礼を述べ、武器を手に取ると再び戦列に加わるべく走り出した。
もっとゆっくりしていけばいいのに。
由梨江はそう思うのだが、男たちの戦意はけがをしても高いままなのだ。
「ユリエさん! 次はこちらをお願いします!」
大声で呼ばれた由梨江は、すぐに頭を切り替えて声の元へ走った。
彼女を呼んだのは、この村で唯一回復魔法を扱う事ができる女性だ。当初、彼女は重傷者の治療を優先していたのだが、由梨江が使う回復魔法の凄まじさに圧倒されてからは、自身は軽いけがの回復を引き受けて、重傷者の回復は由梨江に全てまわすように計らった。何しろ彼女が切り傷を塞ぐよりも、由梨江が重傷者を治す方が速いのである。それは自らの自信を喪失してしまうほどの衝撃であったが、今はともかく彼女の存在がありがたかった。
それに由梨江自身に自覚はなかったが、戦況の優勢は、彼女の回復魔法のおかげで戦力の低下を最小限にまで抑えられている事も大きいのだ。
由梨江はけが人の元へ走っては治療して、また別の所まで走って治療する。回復魔法を使う事自体に疲労はない。しかしこうもあちらこちらに走り回っているのはさすがに疲れる。それでも、由梨江は手を抜く事をしなかった。自分が必要にされているのが嬉しかったのだ。
グリアノスは矢を放ち続けている。
カースのように真っ正面から鼻をかいくぐりながら接近する自信はなかった。もちろん気配を殺して背後から回ればズヌーの近くに寄る事も出来よう。グリアノスなら容易に出来る。しかしカースと同じように暴れ狂うズヌーの足踏みを避けながら攻撃する芸当はとても出来そうにない。グリアノスは待つのは得意だが動き回るのは不得手なのだった。
そこで結局は矢を射る仕事に従事しているのである。村で一番の腕ではないが、それでも平均よりは上の実力を持っている。
問題は矢を幾ら撃ってもズヌーに効いた様子が見えないことだ。嫌がらせにしかなっていない。
「グリアノスさん! 追加の矢です!」
村の警備隊に入ったばかりの青年が、沢山の矢が詰まった矢筒を持って来た。
「ありが、とう。そこに、置いて、いけ」
「はい!」
青年は矢筒を地面に置くと、また別の男の元へ違う矢筒を運びに走った。
村に蓄えられている矢は、あとどれぐらいあるのだろうか。グリアノスは津村稔を見る。最初にメドルと唱えた以降、まるで動きがない。矢が尽きる前に稔の魔法は間に合えばいいのだが。カースの体力も、恐らくそれぐらいか、あるいはもっと早く限界が来るに違いない。
「グリアノス」
と、ガルベルが声を掛けてきた。
「なん、だ?」
「ここから目を狙えるか?」
「少し、遠い。俺、よりも、もっと、上手い奴、が、いるだろう」
「駄目だ。あいつはカースの援護で手一杯だ」
「しか、し。遠、距離用の、矢は、もう、ない」
「なら魔法で援護してやる。やれるか?」
「それ、なら」
グリアノスはそう言うなり、両手を前にかざし、魔力でレンズを生み出した。それから弓を構え、目に狙いを付ける。
「射る、ぞ」
「いつでも来い。合わせてやる」
グリアノスは、弦を手放す。矢は勢い良く飛び出した。
そこにすかさずガルベルがあらかじめ準備していた魔法を発動する。それは爆発的な風を呼び起こし、飛行する矢の背中を強く押した。矢は勢いを殺さずに伸びて行く。
ずぐり、と矢は見事にズヌーの目の一つに突き刺さった。
激痛に苦しみ、大きく鳴き声を上げるズヌーは、三本の長い鼻を闇雲に振り回す。しかし、そこには誰もいない。あらかじめガルベルが待避させていたおかげだった。
大変なのはカースである。より一層でたらめにズヌーが地団駄を踏み始めたせいで、避けるので手一杯になってしまった。そのため一時カースはズヌーの尻の方へ逃げた。
半狂乱状態に陥ったズヌー。今だ、とばかりに、魔法を得意とする者たちは、矢継ぎ早に魔法を繰り出した。
ぐおおおおおおおお!
ズヌーが苦しそうに叫ぶ。
いける。その場にいる男たちはそう確信を抱いた。ズヌーを倒せる。
しかし彼らは気付いていなかった。彼らの攻撃は、微々たるダメージしか与えていないということを。
ガルベルはこの状況を見極められた数少ない男だった。決定的な攻撃が、やはり足りない。だがその決定的な攻撃を行うはずの若者は、未だ動かない。
不意に、ズヌーに変化が訪れた。ただ考えなしに暴れるだけだったズヌーの動きが、ぴたりと止まったのである。
おかしい、とガルベルは感じた。空気がさっきまでと変わっていた。
ズヌーは三本の長い鼻を前に突き出す。そこに、ある種の力が収束して行く。魔力を集中しているのだ、と気が付くのと同時にガルベルは叫んだ。
「逃げろ! 散開しろ!」
突然の指示に、男たちは慌てて逃げ出した。ガルベルも急ぎ離れる。
「な、何している! 早く逃げろ! 小僧!」
逃げた後で、ガルベルは稔が逃げ出していないのに気付く。いや、稔だけではない。由梨江もまた、稔のすぐ後ろに立っていて、逃げようとしていなかった。
もう駄目だ。間に合わない。
ズヌーの鼻から、収束された魔力の砲弾が三発同時に発射された。それは真っ直ぐ稔へ向かって飛んで行く。
愕然とした面持ちでその光景を眺めていたガルベルの耳に、小さな言葉が届いた。
「ハーゲン」
その、瞬間。
稔が掲げていた右手から、魔力の光が迸った。それは定規で線を引くみたいに一直線に伸びて行き、ズヌーが放った魔力の砲弾と衝突した。
目の前が真っ白に染まり、次いで耳をつんざくような轟音が鳴り響く。衝撃が風と伴って周囲を襲う。
ガルベルは倒れないように地面を踏み締める。何も考えられないほどの刹那の時間が過ぎて、ようやく視界がはっきりとし始めた時、余波の風に耐えながらガルベルは驚いた。
ズヌーの上半分が、消失していたのである。その後ろでは、カースが尻餅をついていて、泣きそうな顔になりながら見上げる姿も見えた。
ほっと安堵しながら、ガルベルはこれをしでかした張本人の方へと顔を向ける。
再度、驚愕。
客人が纏っていた灰色のローブが、強風に煽られてはためいていた。そこに見えた少年の体躯全体に、得体の知れぬ角がびっしりと生えていたのである。
「……魔人」
「魔人だ」
「魔人……」
恐怖に色づいた声がそこかしこから聞こえてきて、地面に尻を付けていた由梨江ははっとした。
稔のローブが風でまくれて、角が生えた身体が露出している。彼は唇を噛み締め、足下に視線を落とし、周囲の囁くような声に耐えていた。
「見たか、あの魔法」
「ああ、ありえねえ。強すぎる」
「化け物だ」
「魔人だ」
由梨江は周囲を見やった。男たちは、みな、怒りと恐怖で顔色を染めている。
その中の一人が、弓を手に取ってキリキリと弦を引いているのを見つけた。
由梨江は立ち上がり、両手を広げて稔の前に立ち塞がるのと、男が矢を射るのは同時だった。放たれた矢は彼女の胸に突き刺さり、肺を貫く。
ごぽ、と口から血が零れた。
しかし由梨江は平然とした様子で矢を引き抜く。傷口から血が吹き出した。
男たちは、次の瞬間さらにどよめく。
なぜなら、由梨江の傷が瞬く間に塞がれたからだ。男たちの目には、魔法も使わずに再生されたように見えただろう。実際、そうとしか見えない。
「俺、あいつに足の骨折を治してもらったんだ。あっと言う間だった。異常だった」
誰かがぽつりと呟いた言葉が、風に乗って周囲に伝わった。
「化け物。あいつも、魔人だったのか」
「どうりで……回復魔法の常識から外れてると思っていたけど、魔人だったのね」
「魔人!」
「魔人!」
「魔人は出ていけ!」
「魔人は死ね! 死ね! 死ね!」
誰かが、手を稔たちに向けている。魔法を使おうとしているのだ。
由梨江の腰が誰かに掴まれた。掴んだのは稔だった。彼は何も言わずに、手にぐっと力を入れて由梨江を促した。
二人は踵を返して駆け出した。手を握りしめ合い、森に向かう。
「逃げたぞ! 追え!」
男たちの声が、背後から聞こえてきた。沢山の足音が追ってくる
由梨江はこれまでの頑張りを否定された気がして、悲しい気持ちで一杯になった。
「……人間なんだ。俺たちは、人間なんだ……」
木々の間をすり抜けるように走りながら、稔の悲痛な呟き声が耳に入ってくる。
胸がどうしようもなく痛かった。
由梨江の目から涙が流れる。今まで沢山泣いてきた。もう涙は枯れ果てたと思っていた。だけどどうしようもなかった。悲しみを味合う度に、涙は生まれるのだった。
「二人、とも、こっち、だ」
不意に声が聞こえて、稔と由梨江は思わず足を止める。木の陰からグリアノスが音も立てずに現れて、手招きをしていた。
「大、丈夫だ。二人を、逃がす」
稔と由梨江は顔を見合わせて頷き合った。
グリアノスの先導で走り始める。彼は時折後ろを振り返って、二人が着いてきているか確認していた。
まるで追っ手の隙間を縫うように、薮と薮の間を屈んで移動する。時には大木の陰に隠れて男の視線をやり過ごす。
見つかりそうになった時もあったが、それでも誰にも気付かれずに森を抜ける事ができた。
黄緑色の草が一面に広がっている平原を、三人はさらにひた走っていくと、やがて一本の道が見えてきた。四角く切り揃えられた白い石が敷き詰められたその道は、どうやら街道のようである。
「ここ、まで、だ」
立ち止まったグリアノスは、そう言って振り返る。
稔と由梨江は荒い呼吸を繰り返し、疲れ果てた様子だ。それでもさすがに稔はまだ余裕があるが、由梨江は膝を折り曲げて目線を地面に落としている。
「二人、とも、すまな、かった」
グリアノスは申し訳なさそうに頭を下げた。
え、と稔と由梨江は彼を見た。
「昔の、話、だ」凄腕の狩人は神妙な顔付きで語り始める。「この、村に、ある、魔人が、来た。魔人、は、凄まじい、魔法で、俺、たち、を、襲った。俺、たち、は、戦っ、た。だが、奴、は、強、かっ、た。沢、山、死ん、だ。女、も、子供、も、老、人も、関係、なく、殺され、た。何、とか、追い、出す、こと、が、でき、た、が、村、の、三、分の、一、は、死ん、だ。それ、以来、村、は、魔人、を、嫌、うよう、に、なっ、た」
二人は絶句した。あまりに衝撃的な内容だった。
グリアノスは表情を作っていない。途方もない感情が、顔の裏側で渦巻いているのは、容易に察することができる。
「すま、ない。そう、いう、事情、が、ある、とは、いえ。村の、恩人に、すべき、こと、では、なかった。村長も、このような、形、で、お前、たちを、村から、出すのを申し訳、なく、思っている」
グリアノスは街道の一方向に向けて指を指した。
「この、方向に、道なり、に、行けば、いくつか、の、町を、通過した、後に、帝都、に、着く。早く、行け。追っ手、が、ここ、まで、来ない、保証は、ない。旅の、無事を、祈って、いる」
稔は、村人たちに対する怒りや悲しみをぐっと飲み込んだ。そして、
「ありがとうございます」
とだけ、言った。
グリアノスは「よせ」と首を振った。
「お前、たち。その力、その姿、あまり、見せない、方が、良い。この、辺りの人、は、みな、魔人を、嫌って、いる。グリ村、だけが、例外、では、ない」
「わかりました」
二人は頷いた。それから、グリアノスに教えられた方向に向けて歩を進み始めた。
村の男たちが捜索する森の中に、ゴゾルがいる。彼の近くを稔たちの追っ手が通るのだが、不思議な事に誰にも彼に気付かない。それもそのはずで、ゴゾルは周囲の空間を捩じ曲げて、自分の姿を見えないようにしているのだ。その魔法技術は、村にいる魔法が得意な者でも見破れないほどだった。
しかし、この特異な魔法学者は険しい顔をしている。
ミュルをけしかけたのはいいが、村の男に殺され、さらにズヌーすらミノルの魔法によって呆気なく死んでしまった。
素晴らしい力だと、ゴゾルは思う。実験体として非常に優れた個体であると。
しかしそれ故に危険であった。あの力は、いつかゴゾルを脅かす。その確信があった。
だから殺そうと考えたのである。自らの手で殺すことは考えなかった。戦いは野蛮な者がするべきであり、高尚な自分が行うことではない。それがゴゾルの思想だった。
しかし村の男たちの戦闘能力が誤算であった。人海戦術でミノルを殺し、さらに実験っと罰をかねてユリエを痛めつけた後に捕獲する算段を立てたのが、村人たちの予想外の抵抗によって崩壊した。
低脳共は総じて不愉快だ。誰も彼もが、ゴゾルの思う通りに動いてくれない。ゴゾルの考えを理解しない。遥かに優れた者の足を引っ張ることしかしない。
ゴゾルはその場から文字通り消えた。
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