一五 グリ村

 雑然と生える木々の隙間から抜け出ると、森の中でひっそりと佇む小さな村があった。歪な木の板と枝で組まれた柵には、波打つような太く黒い線と、単純な記号で構成された文様が、一定の規律に従って描かれている。また木で出来た簡素な塔が村の角に一つずつ立っていて、村の周囲を見張っていた。遠目から見える家々は、どれも丸太で組まれて出来ている。

「ここ、だ」

 グリアノスは一言告げて、ここまで案内して来た津村稔と喜多村由梨江を一瞥した。

 村の入り口には槍と弓矢で武装した男が一人で立っている。

「なんだあ、グリアノス。今日の獲物はずいぶんと変わっているなぁ」

「ガガルガに、襲われているのを、助けた。村長は、いる、か?」

「村長なら家にいるはずだぜ」

「そう、か」

「あ、おい、ちょっと待て」グリアノスが歩き出すのを男は止めた。「その格好で行くつもりか? 洗ってからにしろよ、臭いんだから」

「わかっ、た」

 グリアノスは素直に頷いた。

 次に男は、稔と由梨江の二人に男が声をかける。

「すまんな、ああいう奴でな。悪気はないんだ。腕もいいしな。だから悪く思わないでくれよ?」

「いえ、大丈夫です」

 稔が答えた。追随するように由梨江は首を縦に振る。

「そうか、ならいいんだがな。俺はカースっていうんだ。お前らは?」

 二人はそれぞれ自分の名前をカースに伝えた。

「へー。変わった名前だなあ。それに、森の中を歩くのに何も持たないで、しかもその格好……。分かった、駆け落ちか?」

 カースはにやりと口角を上げた。

「いやいや、違いますよ。そういうんじゃ、ないんです」

「んー? そうかあ? けど、そっちの子はまんざらでもなさそうだがなあ?」

 カースは由梨江の表情を窺った。稔も釣られて見てみれば、由梨江は頬をほんのりと赤く染めている。

「い、いえ」由梨江は反論を試みてみる。「本当に、違うんです」

「ま、そういうことにしておくか」

 カースはあっけなく引き下がった。稔と由梨江はほっとする。

「お、い」と、声を出したのはグリアノスだ。「あまり、からかう、な。客人、だ、ぞ」

「分かってる分かってる。ちょいっとからかっただけさ」そう言ったカースは、稔と由梨江に向き合い、頭を下げた。「すまんな。気を悪くしたなら気にしないでくれるとありがたい」

「大丈夫です、気にしてません」

「そか。なら、良かったよ。何もない所だが、ゆっくりしていってくれ」

「はい」

 と、二人揃って頷いてから、いつの間にか先を歩いて行くグリアノスを慌てて追っていく。

「……ふう。しかし、仕方ないとは言え……やっぱ臭いな」

 カースはグリアノスに聞こえないように、ため息を吐いた。


 グリアノスが最初に赴いたのは、村の端にある小汚い一軒家だった。

 丸太の壁から緑色の苔が生え、家の周りは背の高い草に囲まれている。どう見てもあまり手入れがされていない。おそらくここがグリアノスの家なのだろう。稔は教えられてもいないのに、何となくそう思った。

「ここで、待っていろ」

 と、グリアノスは言って、家の裏へ向かった。

 水を浴びるような音が聞こえてくる。カートの言う通りに、グリアノスは身体を洗っているに違いない。

 不器用だけど、良い人なんだろうな。

 稔はグリアノスに対してそうした印象を抱いた。二人を真っ先に助けようとした事、二人を逃がすために自らの身体を囮にした事。どれもやろうと思っていても、なかなか出来ることではないと思う。だけどどうして、うんこの臭いがしたのだろう。稔には分からなかった。

 程なくしてグリアノスがさっぱりした様子で裏から出て来た。白い肌、丸刈りにした頭、濃く太い眉は強い意志を感じさせる。細身だが、無駄な肉がついていない肉体は、研ぎ澄まされた筋肉で全身が覆われていた。

「行く、ぞ」

「はい」

 と二人は返事をして、グリアノスの後をついて行く。

 道すがらすれ違う村の住民たちは、外から来た人間が珍しいのか、あるいは稔たちの姿が不可解なのか、奇異の視線を向けてきた。

 気にならないと言えば嘘になる。けれど二人は仕方のないことだと諦めていた。

 自分たちは村にとっての部外者であり、メルセルウストの人間ですらない。完全なる異邦の者なのだ。

 稔はグリアノスの逞しい背中を見る。寡黙な男は必要最低限しか喋らない。だが二人の事を奇異な視線で見ない村人だ。思えばカースもそうだった。彼はからかいはしたが、奇異な目で見なかった。

 色々な人がいる。それはメルセルウストでも同じなのだ。

 やがてグリアノスは足を止める。目の前には一見しただけで特別だと分かるような、大きな家が建っていた。丸太で組まれているのは同じだが、壁に奇妙な文様が描かれているのだ。それは村の周りを囲んでいる柵と似ていた。けれどこの家の文様は、綺麗な朱色で描かれているのである。

「ここ、で、待っていろ」

 グリアノスは扉の前で二人を待たせ、自身は家の中に入って行った。

 稔と由梨江を呼ぶ声が聞こえたのは、それから数分が経ってからの事だ。


「グリ村にようこそ」

 朱色の絨毯が敷かれた板張りの部屋の中で、稔と由梨江とグリアノスが並んで座っている。三人が目線を向けているのは、一段高くなった部屋の奥に座している老人だった。二人を歓迎する声を発したのもこの老人である。

 しかしそれにしても、老人とは到底思えぬ体格をしている。肩幅は広く、発達した筋肉がゆったりした服の上からでもよく分かる。彼が老人だと分かるのも、顔に刻まれた皺が長い年月を物語るからであった。

「私は村長のガルベル。旅の者よ、まずは名前を教えてはくれぬか」

「ミノルです」

「ユリエと言います」

「グリアノスから話を聞いた。何でも凄まじい魔法を使うそうだな。特にユリエ殿。そなたの回復魔法は怪我を一瞬で治したとか。村にも回復魔法を使える者はいるが、そこまでの魔法はできぬのだ。そこで不躾で申し訳ないが、そなたの魔法の力を貸していただきたい」

「私の……魔法を」

 由梨江は困ったように稔の顔を見る。稔は頷く。それで決めた。

「分かり……ました。私の力でよければ、いくらでもお貸しします」

「本当か!」ガルベルは嬉しそうに身を乗り出して言う。「感謝する。今晩は宴を用意させよう。無論、宿もだ。――さて、私は村の長としてそなたたちに聞かなければならぬことがいくつかある。グリアノス、下がれ」

 グリアノスは頷いて、音もなく部屋から出て行った。扉が完全に閉まるのを待ってから、ガルベルは話し始める。

「まず初めに、そなたたちはどこから来た?」

 稔と由梨江は、早速言葉に窮した。どう説明するべきなのか分からない。ガルベルはじっと二人の言葉を待ち続けている。

「日本、からです」

 沈黙に堪え兼ねた稔は、ついに答える。ガルベルは当然の事ながら首を傾げた。

「ニホン? 聞いた事のない名じゃな? それは町か、村の名か? それとも国か?」

「国、です」

「ふむ……。それはどこにあるのだ?」

「遠い所です。本当に遠い所にある、島国です」

 一種の賭けであった。メルセルウストにも船があるだろう。しかし星にある全ての島を把握しているとは考えにくい。それも森の中にある小さな村の人間が、そこまで外の世界の知識を有しているとは思えなかった。

「ふむ……」

 ガルベルは顎に手を添えて考え込んでいる。稔と由梨江は、そんなガルベルの様子を見守り、彼が言葉を発するのを待った。

「分からんな。だが納得もした。この辺りでは聞かぬ珍しい発音の名前。肌の色も見た事がない。しかし遠い島と聞いて合点した。船が生まれて長い年月が経ったが、未だに世界の全てを見つけたわけではないと聞く。そなたたちは、そうした島の一つから来たのじゃな」

 稔は少し考えた末に、

「……そうです」

 と答えた。

 得心がいったのか、ガルベルは深く頷く。

「ふむ。では、どうしてそのような格好で旅をしているのかな。それに顔もよく見えぬ。良ければ見せてくれぬか?」

 由梨江が稔を心配そうな視線を送る。もしも言われるがままフードを取るとどうなるのか。愉快な事が起きないのは間違いない。

 再びの沈黙。しかし今回は、ガルベルが助け舟を出す。

「何か、事情があるのか」

「はい……」稔は呟き、続ける。「……逃げて、来たんです」

「逃げた……?」

 ガルベルは思案している。だが、すぐに思い当たる節があったのか、神妙な面持ちで呟く。

「そうか……。奴隷か……」

 二人に聞かせる気はなかったのだろう。小さな声だった。けれど稔と由梨江には、微かながらも聞こえていた。

 メルセルウストには、奴隷制度があるのか。二人は衝撃を受けた。かつていた世界でも、一部の国が昔行っていたことを思い出す。

 内心、稔と由梨江は穏やかではなかった。だが二人は平静を装っている。

「あの、この事は誰にも……」

 由梨江は否定も肯定もせずにそう言った。魔法学者のモルモットであった二人だが、奴隷と似たようなものだ。人格も、人間性も、何もかもあの男は否定し尽くしていた。そこにいたのは、人間ではない何かでしかなかった。

「心配せずとも、ここで話した事は誰にも言わぬ。そなたたちは我らにとって大事な客人。その事には変わりはない」

 にかり。ガルベルは笑った。

「ありがとうございます」

 稔と由梨江は共に礼を言った。

「さて、次に、そなたたちは何処に向かっている途中であったか? 良ければ話してくれぬか」

「はい。大きな城のある町に、向かっていた所でした」

 由梨江が答えた。

「大きな城……帝都グラウの事か。分かった。もう良いぞ。そなたたちの方から何か質問はあるか?」

 二人は首を横に振った。

「それでは先ほど言った頼みについてだが、これからすぐにでもできるだろうか?」

「大丈夫です。できます」

 由梨江は迷う事なく言い切った。疲れてはいたが、由梨江の魔法に疲労は関係ないのである。

「それならば、外で待機しているグリアノスに案内をすでに頼んでおる。詳しい話も奴に聞くと良い。それでは早速頼む」

「はい」

 返事をした稔と由梨江は立ち上がり、部屋の中から退出した。二人の背中を、ガルベルは扉が閉まる瞬間まで眺めていた。


「こっち、だ」

 部屋から出て来た二人に気がついたグリアノスは、村長の家に案内した時と同じように前を歩いて行く。

 辿り着いた家は、他の家と同じように丸太で組まれた一軒家だ。

 グリアノスはノックもせずに扉を開けて中に入った。だが後に続かない二人に気付くと、扉の隙間から顔を出して、

「来い」

 と言った。

 稔と由梨江は恐る恐る家の中に入る。

 タンス、窓、机、棚、ベッド。普通だ。構造的には日本の物と変わらない。使い勝手を考えると、似通った物になってしまうのだろう。

 稔と由梨江がベッドの方へ目を向けると、そこには白い掛け布団で覆われた女性が仰向けになって眠っている。

 思わずぎょっとした。

 彼女の右頬には、大きな青黒い染みがあったのである。

 呼吸は荒く、寝苦しそうだ。顔色も青ざめていて、まるで生気が抜け出して行くかのようだった。

「彼女、を、治して、やって欲しい」

 グリアノスは悲しい声色で言うと、白い掛け布団をやけに丁寧な手つきで捲った。

 青黒い染みは、顔だけではなかった。首にも、腕にも、足にもあった。服で覆い隠された肌にも、おそらく同じような染みがあるのだろう。

「村で、回復魔法を使える者に、治療を、して、もらった。だが、命を、つなぎ止める、だけで、精一杯、だった」

 グリアノスの説明で生唾を飲み込んだ由梨江は、手を出すのを躊躇した。彼女がこれまで治して来たのは外傷だけだ。病を治した事はない。

 なんとかしてあげたいと本心から思う。だけど自信が湧かなかった。回復魔法を由梨江も試してみても、同じではないのか。施してみて失敗した時、グリアノスは酷く落ち込むのではないか。そして由梨江は、グリアノスが落ち込む姿を見たくはなかった。

 しかしグリアノスは、真剣な表情で由梨江の顔を真っ正面から見つめている。

「……頼む」

 グリアノスは呟いた。

 その時、由梨江の肩に柔らかく置かれたものがあった。それは稔の手だった。暖かな感触がローブ越しに伝わってきて、自然と勇気が湧いて来る。

 由梨江は意を決した。

 両手の平を女性の身体の上にかざし、魔力穴を開いて魔法を発動させる。

 淡い光が女性の身体を包み込んだ。

 由梨江は目をつぶった。それから強く願う。どうか彼女を助けて欲しい。

 分かっている。自分の魔法は自動的だと言う事を。由梨江に植え付けられた細胞自身の本能が、魔法の正体である事を。

「おお……」

 女性の変化に気がついたのか、グリアノスは感嘆とした声を上げた。寡黙な彼が感情を露にする声を上げるとは想像していなかったから、由梨江は軽く驚いて目を開く。

 女性の身体にあった青黒い染みが、徐々に薄れていく所だった。それにつれて、顔色も、呼吸も、正常に戻りつつある。

 安堵した由梨江は、引き続き手の平をかざし続けた。嫌いだった魔法が、ほんの少しだけ好きになった。

 由梨江にとってこの魔法は、死を望んでいても叶えさせてくれない魔法だった。地獄から解放させないための枷だった。

 だけど、人を助ける事ができる魔法なのだ。この魔法で、稔を沢山救い、目の前の女性も癒す事が出来た。

 ゴゾルに強制的に植え付けられた魔法は、悪夢のような記憶と共にある。だから嫌いだった。それは間違いようのない由梨江の感情である。だけど、人を治療するこの魔法は、そう悪いものじゃない。由梨江はそんな風に思い直したのだった。

 やがて女性の顔から染みが消えたのを確認した由梨江は、魔力穴を閉じて魔法を停止させた。

 青白かった顔は、見るからに血色が良くなっており、苦しそうな呼吸も、楽に行われている。

 グリアノスは由梨江の両手を包みこむように握りしめ、

「あり、がとう」

 と頭を下げた。彼の感謝と喜びの気持ちが、熱く、ごつごつした手から直に伝わってくる。

「いえ」由梨江は恥ずかしそうに返した。「大したことでは、ないんです。それに、本当に良くなったのかはまだ分かりませんから」

 実際、不安があった。由梨江は医者ではないから、女性が完治しているのかどうかを判断することができない。

「いや」グリアノスは、強く感情を込めて言う。「格段に、良く、なって、いる。あなた、の、おかげ、だ」

「そんな……」

「本当に、あり、がとう」


 夜の闇の中、幾本もの松明が掲げられ、村の中を照らしている。

 村人総出で行われる宴は、実に盛大だった。

 手の平で打たれた太鼓の力強いリズムと、木製の横笛で奏でられる美しいメロディーに合わせて熱狂的に踊っている村人たちがいれば、豪勢な食事を囲んで談笑する者たちもいる。

 主賓である稔と由梨江は、宴の全体を見渡せる特別な席で、グリアノスとガルベルに挟まれて座っていた。グリアノスの隣には、由梨江が治療した女性が腰掛けている。

 女性はツーメルと名乗り、由梨江に向かって頭を下げた。グリアノスも彼女に追随する。

「改めまして、今日は本当にありがとうございました」

 聞けば彼女は、グリアノスの婚約者だと言う。本来の予定ならばすでに式を挙げて正式な夫婦となるはずだったのだが、病気のせいで順延になってしまったのだ。

 はきはきとした口調で話すツーメルの姿は、今まで病を患っていたとは思えぬ程元気そうだ。

 由梨江は心から安堵していた。素人目で見ても、彼女はもう大丈夫そうだった。

「本当に、良かったです。これで式を挙げられますね」

 と、由梨江は言った。

「はい! それもこれも、お二人のおかげです!」

 ツーメルは幸せそうに笑いながら、グリアノスの腕を取った。グリアノスは恥ずかしそうにそっぽを向いている。

「お二人とも」ガルベルが口を挟む。「さあ食事の方もどうぞ。なにぶん小さな村だ。大したものは出せないが、それでも腕によりをかけて作らせた。存分に楽しむとよい」

「はい」

 と二人は返事をして、目の前に用意されたご馳走を注視した。目の前には巨大な肉の塊がどっしりと皿の上にいる。黒く焼かれ、良く火が通っていそうな塊は、それまで見た事がない迫力だった。また嗅いだ事のない臭いが鼻孔をくすぐっていて、それが何とも食欲を誘い、口の中で涎が染み出てくる。

「それはミノル殿が倒したガガルガの肉じゃ」

 ガルベルはそう説明した。

 凶暴極まりない獣を殺した瞬間の映像が、稔の脳裏に蘇る。血の色、歩いて倒れる姿。あの時は必死だったせいか、何も感じる事はしなかった。だが確かに稔はあの時生き物を殺したのだ。

 虫を殺した事なら何度もある。特に蚊はどれほど潰して来たか分からない。けれどこれほど大きな生き物を殺した事はなかった。今更ながら、稔は衝撃を受けていた。

 ふと気付くと、由梨江が怪訝そうに稔の顔を見つめている。

 日本にいた頃に食べていた牛や豚なども、生き物だ。それを普段から食べているくせに、自分がいざ躊躇していることが酷い偽善のように感じられた。

 稔は恐る恐る手を伸ばして、ナイフを手に取ると、ガガルガの肉を一口大に切り取って、口の中に入れた。

 歯を立てると強い抵抗がある。稔はぐっと顎に力を入れた。どうやら堅いのは表面だけで、中は程よい柔らかさと弾力があって、思いのほかすんなりと噛み切る事が出来た。

 口の中で肉の味が充満する。咀嚼するごとに味が濃厚になっていく。それをぴりっとした独特な香辛料の辛みが引き締めて、より一層味を際立たせていた。

 これが、稔が殺した生き物の味。

「おいしい」

 稔は思わず声を発した。日本語だった。それを聞いた由梨江は、緩やかに笑う。

「何だね、それは」

 ガルベルは、当然の事ながら稔が何と言ったのか分からず、尋ねてみた。

「すみません」

 と一言言い添えた稔は、メルセルウストの言葉で言い直す。 

 ガルベルは顔を綻ばせた。

「そうだろう。その肉は家内に焼かせたのだ。あいつは肉を焼かせれば村一番でな。ほら、こっちも食べてみるといい」

 ガルベルが勧めたのは、ガガルガの肉や、見た事のない様々な野菜が一緒になったスープだった。

 木で出来た匙を稔は手に取って、早速手頃な肉を掬い取って食べてみる。熱くて、口の中で転がしてから噛んだ。すると長時間煮込んだのか、力を入れる事なく簡単に肉が崩れた。

 続けてスープを啜ってみる。程よい塩加減の熱い液体が、体中に沁み渡って行く。肉や野菜の栄養が溶け込んだ優しい味だ。

 ほう、と息を吐く。

 熱い何かが、胸の奥底から込み上げてくるようだった。

 ああ、そうか。

 思えばまともな食事は、本当に久しぶりだ。だからなのか、身体が次から次へとおいしい食事を求めてくる。そしてそれは、目の前にある。

 欲求に抗う事なく、稔は次から次へと口に放り込んで行く。

 由梨江の方も、おいしそうにどんどんと食べて行く。

 その場に居合わせた面々は、嬉しそうに笑みを浮かべながら、二人の見事な食べっぷりを見守ったのだった。


 宴が終わり、稔と由梨江は宿に案内された。と言っても、大きめのベッドと机があるだけの、簡素な一軒家だ。話を聞いてみると、元々住んでいた人が半年ほど前に亡くなって、それから今まで放置されていた物件だという。稔と由梨江が泊まることに決定して、急いで掃除をしたそうである。

 案内してくれた村の男性は、そうした説明を申し訳なさそうにしてくれた。

 それぐらいのこと、もちろん稔と由梨江は気にするわけがない。なにしろ今までいた所は、この家が豪邸に見えてくるぐらい酷い場所だったのだから。

 ただどうしてか、ベッドが一つだけなのが稔には気になって仕方なかった。そこで、

「あの、俺は床で寝るので何かありませんか?」

 と、聞いてみると、男性はぎょっとした顔をして稔と由梨江の顔を交互に見た。

「え? お二人は、その、そういう関係ではないのですか? ここなら気兼ねなくできるから、ということで、ご用意させてもらったのですが……」

 どうやら酷い勘違いが起きているようで、稔はどうしたものかと考える。だが由梨江が、慌てて稔の思考を遮るような形で口を出した。

「だ、大丈夫です! このままで平気です!」

 ものすごい迫力だった。稔と男性は思わずたじろいだ。

「そ、そうですか」男性は尻込みをしつつ、「なにかあれば、あの向かいにある家が私の家ですので、気兼ねなく言って下さい。それではおやすみなさい」

 と言って、その場から逃げ出すように稔たちの前から歩き去ったのだった。

 顔を見合わせる二人。先に言葉を発したのは由梨江だ。

「そ、それじゃあ、寝ようよ、稔!」

 何だかおかしなテンションになっている。

「そ、そうだな。……それなら、俺は床で寝るよ」

「え?」由梨江は思わぬ返事に驚きながらも、焦ったように続ける。「だ、駄目だよ。こんな所で寝たら風邪引いちゃうよ?」

「けど……さすがに悪いよ。一応、俺も男だしさ……。それに風邪を引いても、由梨江が治してくれれば一発だしさ」

「……今更だよ。あそこにいた時だって、背中合わせになって寝ていたわけだし……それに襲われても……大丈夫だし」

「ああ……。いや、それでも、さ」

「それにね。多分私、稔が隣にいてくれないと、眠れない、と思うの」

 由梨江のその言葉に、稔は大きくため息を吐いた。

「わかった。わかったよ。一緒に寝るよ」

「本当に! ありがとうっ」

 由梨江はぱんっと手を合わせ、満面の笑顔を浮かべた。あの岩窟にいた頃の光を通さない瞳は、徐々に、しかし確実に明るく輝くようになってきていた。

 嬉しそうにいそいそとベッドに上がり込んで、掛け布団の中に潜り込んだ由梨江を眺めながら、稔は脱出することができて本当に良かったと思った。

「……ね、ねえ? 早く、来てよ」

 掛け布団とシーツの隙間からひょっこりと顔を出した由梨江は、不安そうに言った。

 稔は仕方がなさそうに、彼女の隣にその身を横たわらせる。

 大きいベッドと言っても、二人が入ればさすがに少し狭い。だから背中をくっつき合わせる。

 稔は何だか緊張していた。

 由梨江が言っていたように、確かに岩窟にいた頃は、お互いを暖め合うように背中を合わせて眠っていた。慣れていたはずだった。

 なのにどうして緊張しているのだろう。

 岩窟で布団にしていた藁よりも柔らかいベッドが、日本にいた頃を思い出させるせいだろうか。あの酷い状況から解放されて、絶望から逃げ出す事が出来たからだろうか。

 それとも、由梨江と、不可抗力とはいえ、繋がったせいなのかもしれない。

 その時の記憶を、稔はよく覚えていない。けれども、柔らかくて、暖かくて、心地よい感触は、しっかりと身体に覚え込まされている。

 それに稔は、彼女が自分に好意を持ってくれていることも、さすがに自覚していた。

 もしも雫への想いに気が付かないままこの世界に来てしまっていたら、由梨江の想いに応えていただろうという確信めいた想像もしている。

 しかし、応えるわけにはいけない。いけないのだ。稔には雫がいる。もう会えない人になってしまったけれど、それでも……。

 稔は、目を瞑った。


 日の光が窓から差し込んで、ベッドの上で横たわる二人を照らした。

 もぞもぞと動き出したのは由梨江だ。彼女は身体を反転させて稔の方へ向けた。

 彼は身じろぎ一つしない。寝息も聞こえる。

 少しだけだから。

 由梨江は自分にそう言い聞かせて、稔の背中にそっと抱きつく。彼の背中から生えた角が、由梨江の柔らかな身体を刺激する。

 稔の気持ちは決して由梨江に向いてくれない。これからもそうに違いない。それだけ雫さんのことが好きなのだ。

 好ましい部分の一つであるけれど、やはり残念であることには変わりがない。

 由梨江は稔を起こさないようにゆっくりと身体を起こして、顔を彼の頬に近づけた。

 どきどきしている。いけないことをしている自覚がある。吐息で稔を起こしてしまわないだろうか。心配になる。

 でも、少しだけだから。

 由梨江は自分にそう言い訳して、唇で彼の頬に優しく触れた。

 稔が起きていないことを確認しながら、毎日のように眺めた彼の寝顔を今日も見つめる。いつまでもこうしていたいという欲求が、沸々と沸き上がってくる。

 それでも名残惜しそうに顔を離して、稔の身体を揺り動かした。

「ん……」

 稔は緩やかに目を覚ます。

「おはよう」

 由梨江は、これまでそうしてきたように、稔の顔を真っ直ぐに見つめ、微笑みを浮かべながら言った。

「……おはよう」

 稔もまた、これまでと同じように返す。

 すると、扉を二回叩く音がした。

 二人はベッドから降り立ってから、返事をする。

「どうぞ」

 扉を開けて中に入って来たのは、腰に剣を差したガルベルだ。

「おはよう、よく眠れたかね?」

「はい。おはようございます」

 と、二人は言った。

「朝食を私の家で用意した。ぜひ来てくれないか」

 もちろん稔と由梨江は承諾して、ガルベルの家に向かう。

 しかしガルベルは、途中で足を止めて空を見上げた。そして、

「おかしい」

 と、深刻な表情を浮かべて呟いた。

 ただならぬ様子に、稔と由梨江はガルベルの横顔を見上げる。

 その時、カカカン! カン! カカカン! と半鐘の音が三、一、三のリズムで鳴り響いたのだ。

「魔物が村に近づいている合図だ。すまないが私は行ってくる。二人は私の家に行くと良い」

 ガルベルはそう言い残して、村の入り口に走って行った。

 稔は村長の後ろ姿を見据えている。

「ねえ」由梨江は稔の袖を摘んで、言う。「言われた通りに、しようよ」

「……そうだな」

 稔たちは、村長の家へ再び向かう。

 殺伐とした騒がしい音が、すでに背後から聞こえ出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る