十四 狩人は陰にいる

 ヒカ大陸の中央には、グラウ山脈と呼ばれる大きな山脈が連なっている。だが、今やその雄々しい山脈には禍々しい巨大な穴が開いていた。

 ヒカ大陸で最も強大な力と広い版図を持つグラウノスト帝国の帝都グラウは、グラウ山脈の麓に広がっているグラウ平原の中心にある。帝都グラウの民が今現在最も話題にしているのは、見上げるだけで目につくグラウ山脈に開いた大穴についてであった。

 原因不明の大穴だが、空を引き裂いて行くような閃光が走るのを見た、という目撃者が後を絶たない。そのため何者かが魔法を使い穴を空けたのではないか、と魔法学者が見解を示す。

 しかし、山脈にあのような大穴を開けるほどの魔法など、誰一人として聞いた事がない。メルセルウストの常識に照らし合わせても、帝都による最新の魔法学でも、それはあり得ない事だった。あれ程の破壊力を得るためには、恐るべき量の魔力が必要なのである。だが人一人が扱える魔力量は、多少の個人差があるにせよ、限りがあり、山脈に穴を開けるほどの魔力を扱える人間はいないのが普通だった。

 ならば、誰が、どうやって山脈に穴を空けたのか。

 謎は憶測を呼び、憶測は恐怖を呼んだ。

 ある占い屋は言った。「これは世界滅亡の予兆である」と。

 ある屈強な兵士は言った。「新手の魔人によるものではないか」と。

 ある魔法学者が言った。「新しい魔法学による兵器が某国で開発されたのではないか」と。

 どれも推測の域を超えない眉唾物の話である。

 占い屋は大言壮語で客を呼ぶのが常だったし、魔人がヒカ大陸に出現したと言う話を聞いたのはここ数年なかった。兵器の話も、帝国の関係者が否定している。

 しかしだからと言って放置してよい問題ではなかった。

 そこで登場したのは、オルメル・ノスト・アスセラス三世である。言わずと知れた帝国の王である。彼は速やかに命令した。山脈に開いた穴について調べろと。

 そして今、調査団のリーダーであるルセイ・ジャカブが、報告のために一時戻って来たのである。

 ルセイが話した内容に、居合わせた王族と貴族たちは、驚きのあまりどよめいた。

 何しろ山に開いた穴に続くように、麓の森に一本の道みたいな傷跡が出来ていたと言うのだから。

「これらのことから、穴の正体はやはり魔法ではないかと、私は推察いたしました」

 と、ルセイは報告を締めくくった。

 オルメルは顎に手を添えて、ふむ、と考え込む。王族や貴族たちは、その帝王が沈思する姿を、何も言わずに見守った。

 やがて王は、口を開く。

「……新手の魔人である可能性は?」

「ない、とは言い切れません。しかし現状では、あまり考えられる事ではありません。海岸線の見張りからは何も上がって来ておりませんし、何よりも行動の意味が分かりません。奴らが魔法を使うのなら、直接町や城を狙うはずです」

「ならば、人か、魔法兵器と言った所か」

「はっ。恐らくは、その試し打ちだと考えるのが妥当な線ではないでしょうか?」

「なるほど……そうか」と、オルメルはにやりと笑う。「欲しいな、その力」

 その場にいる全員が帝王の笑みを見た瞬間、ぞっとするような寒気を覚えた。

 ヒカ大陸の覇権を一代でおさめた帝王の野望は、一体何処まで行けば満足するのだろうか。

 恐怖を覚えずにはいられなかった。



 そのようなことが起きているとは露知らず、津村稔の腹が森の中で盛大に鳴り響いた。

 何せ昨日ゴゾルの洞窟でパルツを食べてから水以外口にしていないのだ。食べ盛りの男子にとって、これは苦行と等しい。

「あれから、何も食べてないものね。私もお腹が空いたよ」

 稔の横を歩いていた喜多村由梨江は、お腹を抑えながら言った。もちろん彼女も何も食べていなかった。稔がこの世界に来るまで出来うる限りの方法で数々の自殺を試みて来た由梨江であったが、餓死という手段を選んで実行した事がない。空腹の地獄は、酷く堪え難いものなのだ。

「それにしても、あのでかい城があるのは本当にこっちの方なのか?」

 稔は思わずぼやいた。脱出に成功した後、二人は落下中に発見した白い城を目指して森の中を歩き続けていたのだ。空腹のせいもあって、稔はイライラしていた。

「多分……」

 由梨江は自信がなさそうに答えた。森の中は何処を見ても同じようにしか見えないため、目印となる物が何もない。そのため、迷っている可能性を否定できないのだ。というよりも、むしろその確率の方が高いと由梨江は思っている。

 それでも現状を確認する術はなく、二人はただ歩いて行くしかなかった。

 城に近づいているのか遠ざかっているのか、よく分からないまま時間が経つ。

「これは?」

 と、稔が物欲しそうな顔で呟いた。

 由梨江は稔の視線を追ってみると、そこには緑色の幹と群青色の葉が特徴的な一本の木が生えていた。幾重にも生えた枝から緑色のツタが下に降りていて、先端にはさくらんぼを彷彿させる丸くて小さい赤い実がぶら下がっていた。

「食える、のかな?」

 稔を見れば、今にも食いつかんとばかりに手を伸ばしている。確かにさくらんぼを思い浮かばせるその実を見ていると、あの懐かしい甘酸っぱい味を思い出さずにはいられない。

 だがここは日本でなければ地球でもない。稔たちが良く知っている生態系とは違う異世界にいるのだ。目の前の実が毒であるのかどうかすら、見ただけではまるで分からないのであった。

 しかし、二人のお腹の中は極限にまで減っている。

「もう無理だ」稔は赤い実をもぎ取って、言う。「食ってみる」

「ま、待って!」

 稔の口の中へと放り込まれるその瞬間、由梨江が赤い実を奪い取る。

 血走った目をした稔が由梨江を見る。由梨江は一瞬怯んだが、

「私が、先に食べてみるから」

 と、言った。

 稔は彼女の真剣な瞳を見て、はっと息を呑んだ。空腹で我を忘れた頭が、急に冷静になっていく。

 同時に、稔は由梨江の意図を見抜く。

 由梨江には超絶の回復魔法が常時発動している。そのため、由梨江は身体に何かしらの異常が起きてもすぐに回復してしまうのだ。恐らくそれは、毒であっても例外でないのだろう。つまり、由梨江は自ら進んで人体実験をすると提言しているのである。

「それは、駄目だよ」

 稔は首を振った。いくら由梨江の回復魔法が凄まじくとも、苦しみを感じる間もなく治る訳ではないのだ。ごく短い時間だが、それでも由梨江は確実に苦しむ。稔はそれが許せなかった。ゴゾルの手から逃げ出したのは、何よりも由梨江のためでもあったのだから。

「いいの」しかし由梨江は言う。「私の魔法は、どんどん利用して欲しい。それに私なら大丈夫。慣れてるし、実験に比べればこんなのは何てことないよ」

「だけど」

「いいから」

 由梨江は、稔が強引に止める間もなく赤い実を口の中へ放り込んで、じっくりと咀嚼した後に飲み込んだ。

 変化は思いのほかすぐに現れた。由梨江の顔色が蒼白になり、ぶわりと脂汗が滲み出た。

「う、げぇっ」

 由梨江は吐いた。ほとんど空っぽの胃からは、胃液しか出て来ない。

「げえ、おげえ」

 苦しそうにえづく由梨江の背中を、稔は歯痒そうに優しくさする。

「はあ、はあ、はあ」

 由梨江は口の端から零れている胃液を袖で拭った。

「だ、大丈夫か?」

「うん、もう大丈夫。落ち着いたから。でも、これは駄目ね」

「あ、ああ」

「じゃあ、次は何を試そうか?」

「い、いや。もういいよ。ありがとう」

「駄目だよ。早く食べれる物を見つけないと、死んじゃうよ」

 平然とした様子で喋る由梨江は、そのままきょろきょろと辺りを見回した。稔は呆気に取られて見ているしかない。

「あ、あれなんかどうかな?」

 由梨江が指差した所には、キノコとそっくりの形をした物が、木の根元から数本生えていた。色は白く、大きさが稔の手の平と同じぐらいである。

 由梨江はあっさりと近づいて、その大きな白いキノコを躊躇なく引き抜いた。それから頭を一口かじる。

「あ、結構おいしい、かも」

 と言ったのも束の間だった。

「あ、は」

 由梨江は唐突に、

「あはははははははははははははははははははははははははははははははっ!」

 腹を抱えて笑い出したのである。

 その一種異様な光景に、稔は言葉を失って狼狽える。

「ひー、ひ、ひゃはははははははははは、く、くる、あ、ふひゅあはははははははははははっ!』

 それから暫くして、笑い声が止んだ。由梨江は涙目になりながら荒く息を吐く。

「く、苦しかった。笑い死にしちゃうよ、こんなの」

 由梨江は稔に向かって屈託のない笑みを浮かべた。

 苦しい思いをしているはずなのに、どうしてこう何事もなかったかのように笑えるのだろうか。稔は少し恐くなった。

 由梨江はゴゾルの度重なる実験によって、苦痛に慣れすぎてしまっているのだ。

 彼女は嬉々とした様子で、次なるジグザグに折れ曲がった形の草を手に取って、躊躇なく食べる。

「あ、う……。これ、下剤……」

 由梨江は腹を抑えながら草陰に飛び込んで、ブビッ、ブブブビッ、と女子が聞かせたくないであろう音を恥ずかし気もなく放っている。

 彼女には羞恥心が欠けている。稔が日本の普通を思い出させなければ、彼女は人前で用を足す事もいとわないだろう。これもまたゴゾルの実験のせいだった。

 稔はそれが分かっているからこそ、由梨江のそうした振る舞いを幾らかは気にしないようにしていた。しかし年頃の男子として、気になるものはやはり気になってしまうのは仕方が無いとも言える。

 ともかく、食べられる植物を探し続けた。稔も開き直って、辺りに生えている植物を集めては由梨江の前に集めて行く。

 苦いが食べられる物や甘い果実のような物があれば、血を吐き出す物もあった。今後のことを考えると、これらの食物は覚えておいた方が良い。

 ただひとつだけ、由梨江が手に付けない植物があった。

「これは、駄目だよ」

 それは赤と黒のまだら模様を表面に描く丸い実だった。一見スイカに似ているが、拳大の大きさで、木からリンゴみたいに生えていた。

「どうして?」

 稔は尋ねた。由梨江が食べずに止めるのは初めてだったからだ。

「これはね、散魔の実なの。これを食べると、体内の魔力が散ってしまって、暫くの間魔法が使えなくなる特殊な木の実なんだ。スイカみたいだなって思って手を伸ばしたら、ゴゾルに止められたの」

「由梨江の魔法も、使えなくなるのか?」

「分からない。でも、その可能性が高いってゴゾルが言ってた。回復魔法を使う細胞は全身に渡っているから、もしかしたら使えなくなる細胞が出てくるのは一部だけかもしれないけど」

「そっか。けどまあ、それなら食べない方が良いな。それに、十分食べる物は集まったんじゃないのか? そろそろ大丈夫な物を食べようよ。腹が減って仕方がないんだ」

「うん……そうね」

 稔は、由梨江が散魔の実を名残惜しそうに見ている事に気がついていたが、見なかった振りをした。そうしなければ、ならなかった。


 森の中にある獣道。その途上に、四足で毛むくじゃらの獣の死体があった。獣の腹は鋭い刃物のような物で引き裂かれており、辺りに生えている草を血で赤く染めている。

 すぐ側の茂みの中には、目の前の死体を見続けている男が潜んでいた。男の名前はグリアノス。近くにある村で一番の狩人である。

 彼は草を隈無く貼付けたローブを身に纏い、獣の糞を目と鼻と口以外の全身の肌に塗り付けて体臭を隠し、最低限の呼吸のみを行いながら、身じろぎ一つせずに、血の臭いに惹かれて獲物がやってくるのを待ち構えていた。

 グリアノスは特に弓矢の扱いに長けている訳ではない。彼よりも長い距離を当てる狩人は多くいる。また魔法が優れている訳でもない。むしろ苦手な部類だ。

 グリアノスが秀でているのは、擬態の技術である。彼特製のローブは、茂みの中に入ってしまえば、よく目を凝らしても中々見分ける事ができない。糞を塗り付ける時は、時間をかけて念入りに行う。頭部も、股間も、呼吸器官に直結している部分以外は文字通り全てに塗り付ける。そして、僅かな呼吸で息を吸う音を最小限にまで減らし、じいっと停止する。あとは、獲物が来るまでただひたすらに待つだけである。

 長い距離を弓矢で当てる必要はない。起伏に富み、木々や足の長い草が生える森の中では、障害物が多すぎて長い距離を撃つことがほぼ不可能に等しい。魔法の場合は、魔力の気配を察知した獲物が逃げてしまう可能性がある。

 そもそも、獲物を狩るのに特別な魔法や弓の腕が必要なわけではない。確実に当たる距離で待ち構え、急所を射られればそれだけで事足りるのだ。

 問題なのは、獲物とする魔物や獣の感覚が鋭敏である事と、大抵臆病で用心深い点である。音に敏感な者、視力が発達した者、臭いを嗅ぐのが得意とする者、魔力を探知する事が出来る者。奴らは異変を察すればすぐに逃げてしまう。そして逃げ出した者は二度と仕留める事が出来なくなる。

 だが逆に、獲物が警戒せずにこちらの必殺の場所に現れてしまえば、簡単に仕留める事が出来るという事でもある。

 そこで重要になってくるのが、先述した擬態の技術なのだ。グリアノスはこれを徹底的に追及した。元々弓矢や魔法の才能がないために、狩人としてやっていくために選んだことでもあった。それがまさか村で一番の狩人になれるとは、本人を含めた村の誰もが夢にも思わなかった。

 だが擬態の技術は努力の賜物である。長い間研究し、試行錯誤し、ようやく身につけることができた。彼に天性の才があるとすれば、それは忍耐の力であると言い切れる。彼はかつて一日の間じっと待ち続けた事があった。無論、呼吸を極力抑え、糞の臭いに耐え、物音を発せずに、という条件付きだ。それが出来たのは村の中でグリアノスただ一人だけだった。他には誰にもできなかったのである。

 そうして今日もグリアノスは獲物を求めて茂みの中で息を潜めているのだ。

 

「うわああああ!」

 悲鳴だ。

 何者かがこの付近にいる。そして運悪く獣か魔物に出会してしまったのだろう。

 グリアノスはゆっくりと腰を上げた。もはやこの近くでの狩りは絶望的だった。今の悲鳴で、獣と魔物たちの警戒度が上がったのだ。

 耳を澄ませて、音の方向を探る。小さな足音が二つ、大きな足音が一つ。それから獣の呻き声と、切羽詰まった男と女の叫び声。

 グリアノスは気配を殺し、足音を消しつつ、声が聞こえた方向へと走り出した。速い。彼は森の中を熟知していた。

 ものの数分で現場に辿り着いたグリアノスは、木の陰に隠れて様子をうかがう。予想通り、少年と少女がいる。

 二人は怯えていた。それも当然だろう。彼らを襲っているのは、ガガルガと呼ばれる身の丈三メートルの三つの目と一本の角を生やした獣だ。基本的には四足歩行だが、戦闘時には二足で直立し、大きな前肢から生えた三本の爪を振るう。その威力たるや、岩を粉砕するほどである。ここ一帯の中で、最も危険視しなければならぬ獣の内の一匹だ。

 襲われている少年と少女は、驚くほど軽装で、この森の中を歩くにはまるで適していない。何しろ二人とも灰色のローブのみを纏っているだけで、何かしらの武器を持っている風には見えないのだ。

 少年は少女の前に立ち、ガガルガから身を挺して守ろうとしている。

 グリアノスは短弓に矢をつがえた。狙いはガガルガの真ん中の目だ。きり、きり、と弓を引く。

 ガガルガが右前肢を振りかぶった。少年は動けない。

 猶予はなくなった。もはや一刻を争う状況だ。グリアノスは冷静に限界まで引き絞った矢を解き放つ。

 真っ直ぐに飛翔する矢は、ガガルガの真ん中の目に見事に命中した。

 咆哮を上げるガガルガ。しかし即死には至らない。浅かったのだ。

 舌を打ち、草むらから飛び出したグリアノスは、急ぎ二本目の矢をつがえてガガルガに向けて放った。矢はガガルガの右肩に刺さる。急所ではない。しかしそれで良かった。グリアノスの狙いはガガルガの注意をこちらに向ける事だった。そしてそれは成功した。

 ガガルガはグリアノスに鋭い眼光を放ち、のしりのしりと重厚な音を立てながら近づいてくる。

 グリアノスは更なる矢を放った。しかし無造作に振るったガガルガの左前肢によって矢は防がれる。

 グリアノスにとってこういった局面は苦手だ。彼は狩りの達人であっても、戦闘の達人ではないのだ。だがこうやってこちらに引き付けておく事によって、少年たちが逃げる時間を稼ぐ事は出来る。

 グリアノスは少年の方を見た。逃げろ。視線で訴えかける。長くは持たないと。

 だが少年は驚くべき行動に出た。逃げるどころか、右手をガガルガに向けて突き出している。

 少年は魔法を使おうとしているのだと、グリアノスはすぐに直感した。しかしガガルガは並大抵の魔法では倒すことができない。平常時であれば驚かして逃がす手も考える事が出来ようものだが、痛みで我を忘れて興奮している今、逆効果でしかなく、矛先が再び少年たちへ向かう可能性の方が高い。危険な行為だった。

 止めさせるべく、グリアノスは少年を見ながら首を振った。だが少年は頷いた。自信に溢れた目だった。

「止めろ!」

 グリアノスは強く怒鳴った。しかし少年は、右手を降ろさない。

 そうこうしている内にガガルガがグリアノスに襲いかかった。ガガルガが振るう爪をグリアノスは頬を裂かれながらもかろうじて避ける。

「ハーゲン」

 と、声が聞こえた気がした。

 その瞬間、轟音と共に閃光がガガルガに襲いかかった。光はガガルガの肩から上を吹き飛ばす。大きな傷口から赤黒い血液が噴水の如く吹き出して、赤いシャワーを周辺にまき散らした。驚愕のあまり目を見開いていたグリアノスは、血の雨に降られて点々と赤い斑点に染められて行く。ガガルガは一歩、二歩とよろめきながら歩いた後に、どう、とその巨体を地面に横たわらせてぴくりとも動かなくなった。

 グリアノスは、ガガルガを一撃で、しかも強靭な身体を吹き飛ばすほどの威力ある魔法を初めて見た。少なくとも、村にいる魔法を得意とする者は、誰一人としてここまでの破壊力のある魔法を使える者はいない。

 呆然としているグリアノスに、二人は近寄って来た。

「助けて下さってありがとうございます」

 少年と少女は頭を下げた。しかしグリアノスには、この二人に助けはいらなかったのではないか思った。自分はただ、危険な場所に自ら飛び込んで、勝手に危機に陥っただけではないのかと。

「おかげで、魔法を使う時間ができました。感謝しています」

 少年は続けて言った。頭二つ分低い少年は、グリアノスを見上げている。少女も同様だった。

 グリアノスは不意に恥ずかしくなった。何せ狩りのためとは言え、身体は糞で塗れていて酷く臭い。ここまでやるのはグリアノス一人だけで、村の狩人は誰一人として真似をしようとはしなかった。だがこの二人は、眉をひそめる事もせずに自分を見ているのだ。

「あ」

 と少女が何かに気付いたようだ。それから手を伸ばすも、届かないようである。

「すみません。頭を下げてくださいませんか?」

 少女はグリアノスに頼み込んだ。意図は分からないものの、グリアノスは頭を下げる。それでようやく少女の手は届いたようだ。伸ばした先にはグリアノスが先ほど受けた傷があり、赤い血が垂れ流れたままになっている。

 実のところ、糞の細菌が入り、グリアノスは破傷風になりかかっていた。その知識はグリアノスにもあったのだが、一連の出来事に目を奪われて忘れていたのだ。

 少女は、糞に塗れたグリアノスの顔面を、さすがに一瞬躊躇したが、優しく触れた。場所はちょうど受けた傷である。ぼう、と仄かな光が少女の手の平から発せられた。

 暖かい、とグリアノスは思った。そして次の瞬間には、再び驚く事となった。何しろ引き裂かれた皮膚の出血が止まり、傷口が塞がれたのだ。痛みすらなくなっている。

 回復魔法。村にも使える者は当然いる。しかしこんなにも一瞬で治るものだったろうか。もっと時間がかかるものだったとグリアノスは記憶している。

「大丈夫ですか? 他にも怪我はありませんか?」

 少女は心配そうな表情で尋ねた。

「……もう……大丈夫、だ」

 言葉をぶつ切りにした独特の喋り方で、グリアノスは答えた。

「良かったです」

 少女は笑った。

「すみません」今度は少年が聞く。「近くに、村か、人が住んでいる所はありませんか?」

「ある」

「それなら、案内できませんか?」

 グリアノスは考える。この二人は身なりからして訳ありのようだ。面倒事が起きるかも知れない。だが、あの怪我を一瞬で治療する回復魔法なら、もしかしたら。

「いい、ぞ」

 グリアノスが答えると、二人は「ありがとうございます」と礼を言った。

「あ、俺の名前は、ミノル、と言います」

「私は、ユリエです」

「俺は、グリアノス、だ」

 変わった名前である。顔立ちも、皮膚の色も、この辺りの人間ではないものだ。遠くから来たのだろうか。それに彼らは名前だけを名乗った。名字を名乗れるのは貴族と王族だけだ。つまり二人は貴族ではない。もっとも、身分を隠すためにあえてそうしている可能性はあるが、どちらにしろ、グリアノスが考えることではないのだ。

 さて、どう村長に説明するか。グリアノスは頭を捻りながら、二人を案内するのだった。

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