十三 日々に疲れて、それでも求めて

「ご協力! お願いします!」

 青嵐駅、改札口前で、大きな声を上げて深々と頭を下げながら、西尾雫は今日も額に汗を掻きながらチラシを配っている。

 チラシを配り始めてからおよそ三ヶ月が経ったが、具体的な成果は何もない。集まってくる情報は、どれも津村稔と何ら関係のないものだった。

 協力をしてくれる級友たちも、一向に進展しない状況のせいで諦観した空気が漂っており、チラシ配りの人数は日に日に減って行く一方だ。

 それを咎める気はなかった。と言うのも、このまま続けても意味がないのではないかという考えが、ちらと頭によぎる事があるからに他ならない。それでもチラシを配り続けるのは、稔はきっと帰ってくると信じているからからだ。

 雫は津村実花の様子を横目で見た。彼女は淡々とチラシを配っている。端から見ても、やる気はあまり感じる事が出来ない。それは初めてチラシを配った時と変わらない姿だ。

 なぜなんだろうか。雫はずっと疑問に感じている。実花は初めから稔が帰ってくる事を信じていないのだろうか。

 そんなはずはない、と雫は自分の思考を即座に否定した。実花は自分の兄である稔の事が好きだ。それなのに稔が帰って来ない事を望まない訳がない。少しでも望みに繋がるのなら、努力を惜しまないはずなのだ。

 ならば積極的になれない理由でもあるのだろうか。どうもその線が強い気がする。例えば、チラシを配っても効果がないと分かっている、などだろうか。

 思えば実花は、稔がいなくなった場に居合わせたたった一人の人だ。彼女はその時、黒い四角の中に稔が吸い込まれたと警察に証言したと言う。当時は、何かの幻覚、あるいは錯覚だと思った。警察もそう考えたはずだ。

 しかし、もしも、実花の証言こそが真実であったのなら、彼女がチラシ配りに積極的になれないのも頷ける。もちろんそんなことが現実にあり得るわけがない。ないはずなのだ。

 実花と話する事はできる。軽い雑談を交わす程度になってはいる。けれど、稔がいなくなった時の事に今だ踏み込めない自分がいる。

 それは実花を傷つけるのが恐いからだった。だけど本当に理由はそれだけなのだろうか。本当は、実花の証言が真実だと認めるのが恐いからなのではないだろうか。

 そんなはずはない。そう言い切りたかった。

 けれど胸の奥底にわだかまっている不安が、否定する事を止めているのだった。


 太陽が沈み、辺りは暗くなって来た。

 チラシ配りが終わる時間である。チラシが捌けた枚数は、日数が経つにつれて減って来ている。その事実も、チラシ配りが不毛だという証明になってしまっている気がして、雫の口から思わずため息が漏れた。

「どうした?」

 雫に優しく声をかけたのは、稔の悪友である車田良光だ。彼は雫と同じくチラシ配りを休んだ事のない一人でもある。

「ん……ちょっと、ね」

 雫は視線を下に落として返事をした。

「疲れているんじゃないのか? 無理しているようなら、休んだ方がいいぞ」

 稔が行方不明になる前は、二人のことをからかうのが生き甲斐になっていた良光であったが、今では人が変わったみたいに雫に対してとても優しい。

「ううん。大丈夫」雫は軽く首を振って、「ただ、少し弱気になっていただけだから。でも、もう大丈夫だから」

 と言った。

「そうか」良光は神妙に頷く。「そうだな。三ヶ月も続けてるのに、何の進展もないもんな。つい弱気になってしまうのも、仕方ないさ。俺だって、このままあいつが帰って来ないんじゃないかって、思う時があるしな」

「うん……。でも、私たちが弱気になってたら、駄目なんだ。あいつは、稔は、今どうしているのか分からないけど、絶対にがんばってる。私たちの所に帰るために。だから、私たちが信じないといけないんだと思う。きっとそれが、稔へ繋がって行くはずだから」

「ああ、そうだな。その通りだ。あいつは絶対にがんばっている。そういう奴だ、あいつは。だから、俺たちもがんばらないとな。あいつに伝わるぐらいに」

「うん」

 雫は、良光と話をすることで少しばかり元気になっていた。明日もがんばろう。そう自然に思えていた。

 良光は根っこの所で良い人なんだ、と雫は思う。過去に雫と稔をからかっていたのも、二人の仲を応援していたからに違いない。それに二人の間を取り持つための作戦を発案したのも、元々は良光だったと、雫は二人の友達から力づくで聞いている。

 なんだかんだで、良い人に取り囲まれているなあ、と雫はじーんときた。それはとても素敵で、幸運な事だと実感する。稔がいないことは、本当に残念でならない。

 だから稔、早く帰って来て。良い人ばかりのこの場所が、あなたの場所なんだから。

 雫は暗くなった空を見上げて願った。


 チラシ配りを終えて、実花は母親の景子と共に帰宅する途中だった。

 二人の間に会話はない。何を話せば良いのか実花には分からなかった。稔が行方不明になる前は、ごく普通に話していたと言うのに。

 実花は景子の横顔をそっと覗き見る。目の下には隈ができ、やつれて頬骨が浮き出ていた。

 景子は実花の視線に気付くと、顔を傾けて実花を見た。うっすらとした微笑みは、隠しようのない悲しみに彩られている。だけどそれは実花も同じだった。

「どうしたの?」

 と、景子は尋ねた。

「ううん。なんでもない」

 実花は軽く首を振って答える。

「そう。……早く帰ってくるといいわね」

「うん」

 家までの道中で話したのはこれだけだった。前はどんな風に喋り合ったのか、今ではよく分からない。

 家に着いて、玄関の扉を開き、靴を確認する。当然ながら稔があの時履いていた学生靴は見当たらなかった。だけど実花は、家に帰ると必ず稔の靴を探してしまう。無駄だと知りながら、期待を抱かずにはいられない。

「ただいま」

 と、実花は言った。静かな家の中で、実花の声は寂しく響く。

 返事は返って来ない。当たり前だ。父親の浩一郎は仕事から帰って来ていないのだから、家に誰かいるはずがなかった。

 分かっていながらも、実花は落胆を禁じ得ない。

「……実花」と、景子は実花の背後から悲しそうな調子で言う。「ご飯、今から作るから、待っててね」

「うん」

 簡潔に返事をした実花は、自分の部屋がある二階に上がった。しかし中に入ったのは実花の部屋ではなく、稔の部屋だ。

 兄の部屋はあの日のまま保たれている。乱雑に散らばった漫画本、中央に敷かれた布団、コンセントが電源に差し込まれたままになっているゲーム機。細部は所々変わっているけれど、実花の記憶にある稔の部屋がそのまま残っている。ただし、塵一つ、埃一つ落ちていなかった。景子が一日も欠かさずに丁寧な掃除を行っているおかげだった。何も変わっていないのは、稔がいつ帰って来ても大丈夫なようにしているからだ。だけど肝心な部屋の主がいないだけで、生気を失っているようにも見えた。

 今日もやっぱり、お兄ちゃんはいない。

 実花は稔の部屋を見るたびに、物寂しく思ってしまう。それでも見てしまうのは、もしかしたらという想いを捨てきれないからだ。稔の痕跡が、匂いが、残っているような気がするからだ。

 実花の目は、一台のゲーム機に注がれた。お兄ちゃんが驚く顔が見たくて、お兄ちゃんに構って欲しくて、プレイ中にも関わらずにゲーム機の電源を切ったのを覚えている。あの時の表情は、瞼を閉じれば細かい所まで思い出す自信があった。

 あの時していたゲームを、稔はとても真剣にやっていた。毎日飽きずにプレイしていた。

 お兄ちゃんが好きだったゲーム。それは一体どういう物だったんだろう。

 好奇心に駆られた実花は、テレビとゲーム機の電源を入れた。

 企業のロゴがいくつか画面に表示されると、壮大な音楽に合わせて美麗なCGと共にタイトルが出現する。

 マジッククエスト4。

 あまり詳しくない実花でさえ、聞いた事があるほど有名なゲームだ。

 実花はコントローラーのスイッチを押して、ゲームを開始する。

 主人公の性別は男性で、名前は自分で決めるシステムだ。考えた末に、実花はミノルと入力した。

 オープニングが始まってすぐ、実花は文字通りのめり込んだ。夕飯に呼ばれても、中断するのが惜しいぐらいで、実花は勢いよくご飯をかっ込んだ。

 それからお風呂が湧くまでの間に、誘惑と戦いながら宿題を終わせる。お風呂もすぐに出た。

 そしてまた、実花はゲームにのめり込み、気がつけば稔の布団に包まれて眠っていたのだった。


 次の日のチラシ配りでは、あろうことかテレビの取材がやって来た。仕掛けたのは井上春香と山崎加奈。二人は雫や景子、さらに他の誰にも教えずに独断で行ったのだから、正に寝耳に水である。

 大変なのは雫だ。

 まず真っ先に春香と加奈に詰め寄って、有無を言わさずに強烈なボディブローを喰らわせた。彼女らは青ざめた顔で腹を抑え、苦しそうに呻くが、雫はまるで気にせずに二人の頭をぎしりと掴んだ。

「え」

 という呟きが聞こえて来たものの、雫はそのまま二人をずるずると引きずって、戸惑っている景子と実花の前に突き出した。

「こいつらが」と雫は申し訳なさそうに頭を下げる。「勝手なことをして、申し訳ありません」

 ついで、強引に春香と加奈の頭も下げさせて、殺気に満ちた視線で二人を睨んだ。恐ろしさで身を竦ませた春香と加奈は、

「ご、ごめんなさい!!」

 と、凄まじい勢いでがたがたと震えながら謝るのだった。

 そうした様子をこわごわと見守っているのはテレビのスタッフたちだ。もはや気が気でない。もしかしたら中止になるかもしれないと、はらはらしながらやりとりに注目している。

 果たして、景子はおずおずと口を開く。

「その……稔のためを思って、してくれたのでしょう?」

「は、はい!! もちろんです!!」

 直立不動の姿勢になって、春香と加奈は共に返事をした。

「何も聞いていなかったから、びっくししたけど……でも、きっとこれも、稔のためになると、私も思うわ」景子は、微笑みを浮かべて続ける。「だから、ありがとう。取材、受けさせてもらうわ」

 喜ぶのは春香と加奈だ。小さくジャンプしてハイタッチしている。その陰で胸を撫で下ろした雫は、二人が喜んでいる姿を微笑ましく見つめていた。

 雫も二人の考えは分かっていた。このテレビの放送は全国で流れるだろう。そうすれば稔を見たと言う人が現れるかも知れない。あるいはどこかで稔が見てくれる可能性だってある。そして、今大変な状況にあるであろう稔に、元気を与える事になるかもしれないのだ。誰にも何も言わなかったのは、雫や景子たちに余計な労力を使わせるのを避けるためだろう。

 ただやはり、一言言って欲しかった、と言うのが雫の正直な気持ちだ。

 だけど気になる点が一つあった。実花が冷ややかな目線で、雫たちのやりとりを見ていた点である。

 希望に繋がっているはずのテレビの取材。しかし彼女だけが、あまり乗り気ではないように雫には見えたのだった。


 数日が経過した。

 あの時取材を受けたテレビ番組が放映される日だ。

 今日はチラシを配るのを早々に切り上げて、実花は景子とリビングでテレビ画面を眺めていた。浩一郎は今日も仕事でいないため、録画して後で見せることにしていた。

 番組は始まった。ニュースの中で紹介される事になっている。

 政治、交通事故、窃盗。世の中は本当に色んな事が起きるなあと、実花はぼんやり画面を見ていた。だけどテレビに映っている内容は、どこか現実味がないように感じられた。まるでテレビの中に別の世界があって、実花たちはそれをただ傍観するだけの存在のように思えてしまう。

 やがて行方不明者の特集が始まった。

 毎年、9万人近くの行方不明届けが提出されていると言う。しかし、届け出が出されていない人数を含めた行方不明者は、推定で10万人だそうである。

 そうして、実際に身内から行方不明者が出た家族の話に移った。一人目は、偶然な事に、隣の県で起きた。行方不明になったのは少女で、年齢は稔と同じである。

 ある日突然いなくなった、とその子の母親は言った。どうやら塾から帰る途中でいなくなったらしい。

 家出なのかも知れない。母親は涙を流しながら語る。勉強勉強で縛り付けた。自分の理想を押し付けすぎた。娘が良く思っていないのは承知で、それが彼女のためになると信じていた。だけど間違っていた。そして最後にこう結んだ。この放送を見ているなら、どうか帰って来て欲しい。あなたがしたいこと、したくないことを、ちゃんと知りたい。それから謝りたい。酷い事をしてきたと。

 番組の中で、二人目に移る。今度は稔だった。

 みんなでチラシを配っている映像が流れ、次に実花がインタビューを受けている姿が映る。

 その日は一緒に帰る途中だった?

 はい。

 その時の事、覚えているかな?

 ……何か、黒いのが見えた気がします。ですが、それ以外は良く……。

 覚えていない?

 ……はい。

 ナレーションが入る。彼女は稔くんの妹で、一緒に帰る途中だった。その時に稔くんがいなくなったのだ。しかし、彼女はショックのあまり当時のことを良く覚えていない。その時何が起きたのか。彼女が唯一覚えている黒色の正体とは何なのか。警察の捜査は一向に進んでいない。

 最後に、稔くんに何か伝えたい事は?

 ……早く、帰って来て……お兄ちゃん……。


 翌日。

 実花が自分の教室に入った途端、クラスメイトの女子たちが、昨日の番組を見たよと口々に言い合い、さらにその内の何人かが、チラシを配るのを手伝いたいと申し出た。

 その様子を、木下雄二郎が机の上に頬杖を付いて、羨ましそうに眺めている。

 雄二郎は、難攻不落の城塞と呼ばれた実花のスカートを捲る事に成功し、男子の中で英雄と呼ばれた少年である。しかしその際に、実花による圧倒的な暴力を受けるという手痛いしっぺ返しを喰らっている。

 ただあの日、実花の下等な虫でも見るかのような侮蔑の瞳を見てしまってから、雄二郎はどうにもおかしくなった。

 雄二郎と言う少年は、よく女子にちょっかいをかける男子ではあった。けれど実花のスカートを捲った日から、ターゲットは実花にだけ絞られた。そしてその度に、殴られたり蹴られたりとお返しの暴力を受けるようになる。

 ぼこぼこにされてもめげずにちょっかいを出す姿に、友達から「お前、すげえな」などと言われるのだが、雄二郎は素直に喜ぶ事が出来なかった。

 なぜなら、実花の汚らしい汚物でも見るような視線が自分に向けられるのを期待して、実花にちょっかいを出しているからだった。

 雄二郎自身も、おかしいと思っている。殴られ蹴られ、蔑むような目を見たくてちょっかいを出すなど、およそ普通の人間が行うような事とは思えない。

 だがそんなある日の事、実花の兄が行方不明になったのだった。

 それから一週間ほど実花は欠席し、その後ようやく登校してきたと思えば、彼女は以前の彼女ではなくなっていた。

 目の下に出来ている濃い隈に、あちこちに飛び跳ねた黒髪。クラスメイトから挨拶されても表情は微動だにしない。かろうじて挨拶は返していても、耳を澄ませていなければ聞こえないほど声が小さかった。どこにも焦点を合わしていない瞳は、まるで薄気味悪い闇のようだった。

 声をかけようかと迷っているうちに時間は経って行き、ついには授業中に実花が泣き出して、担任の吉沢美津子先生に連れ出されてそのまま早退してしまったのである。

 果たして次の日も学校に来るのだろうか。その心配は結局杞憂に終わった。けれど雄二郎は、ずっと声をかける事ができなかった。

 それでもなけなしの勇気を絞り出して、実花の髪を後ろからくしゃくしゃに掻き乱してやったのは昨日の話である。

 実花は後ろを振り返って雄二郎を見た。来るか。雄二郎は身構える。

 だが実花は何もしなかった。殴る事も蹴る事も、蔑む目で見ることもしない。他の女子みたいに悲鳴を上げて罵ることもない。実花は本当に何もしなかった。怒りの表情を作る事すら。

 そうして彼女は、また前を向いて雄二郎から離れて行く。

 一体どうしてしまったんだ。そんなにお前の兄貴が大事なのか。

 雄二郎は愕然としながら実花の背中を見た。雄二郎にも兄がいる。しかし彼は兄の事をうっとうしいと思っている。早くいなくなれば良いのに、とさえ思う。

 彼の行為を見咎めた周りの女子が、罵りながらリンチを行うものの、雄二郎は全く頓着せずに実花の背中を見続けるのだった。

 学校が終わり、帰宅して、特に何もする気も起きなかったからぼーとしていると、リビングにいた母から声がかかる。

「ちょっとあんたんとこの実花ちゃんがテレビに映っているわよ」

 雄二郎は仕方なく見る風を装いながらも、その実興味津々にテレビを見た。

 実花と、その母親、それから実花の兄の同級生らしき人々がちらしを配っている。雄二郎の視線は意識せずとも実花の姿を追っていた。

 実花は無言でチラシを配っている。機械みたいに淡々とした動作だった。他のチラシを配っている人のように、声を張り上げることはしなかった。彼女の失意を如実に現しているようにも見える。

 だが雄二郎には違和感があった。

 違和感の正体を考える前に、場面は実花のインタビューに移る。

 雄二郎は驚いていた。彼女の目の前で兄貴がいなくなってしまったことなんて知らなかったし、何よりも最後に言った言葉が耳から離れない。

 ……早く、帰って来て……お兄ちゃん……。

 そう言った実花の顔はやはり無表情だったけれど、言葉には何よりも深い悲しみに満ちていた。兄の事を心の底から心配しているのだと、見ていてすぐに合点が行くほどに。

 それで今日、羨ましそうに実花の周囲にいる人たちを眺めていたのは、自分も一緒にチラシを配るのを手伝いたいと、そう言いたくても素直に言い出せない故であった。

 もどかしく思いながらも、雄二郎は言い出せないまま放課後を迎える。

 実花はいつも通りゆっくりとした足取りで自らの家に向かう。今日は一人で帰るようである。

 雄二郎は実花を目で追うばかりに、足も自然と追っていた。

 ふと、住宅街に入った所で、実花の様子が少し変な事に気がついた。足が止まり、何の変哲もない道をじっと見つめているのだった。

 その道の先には、稔が黒い四角の穴に吸い込まれた場所がある。雄二郎がその事を知らないのも無理はない。

 実花は結局、その道を進むのを止めて、横道の方へと入って行った。

 おや、と雄二郎は訝しむ。実花の家は、横道に行かずにこの道を進んだ方が早いのにどうして行かないのだろう。

 雄二郎はさらに実花の跡を追う。

 実花はとぼとぼと歩いて行く。顔は道路へ向けられている。背中に背負ったランドセルよりも、遥かに重たい何かを背負っているように雄二郎には見えた。

 やがて実花は、小さな神社の中に入って行った。その神社は寂れていて、神主がいるのかいないのかがよく分からないぐらいに境内は手入れされていない。

 雄二郎は、実花が賽銭箱前の階段に腰掛けるのを、鳥居の陰からこっそりと見た。

 実花はうなだれていた。ひっそりと涙を流している。

 彼女の涙を止めてやりたいと思った。

 だけど自分ではどうしようも出来ない事は分かっていた。やるせなかった。無力な自分が許せなかった。

 雄二郎はこれ以上実花が泣いている姿を見ていられなくなり、その場から後退りする。しかし足下にあった空き缶に気付く事が出来なくて、からん、と蹴飛ばしてしまった。

「だれ?」

 驚いた実花が鳥居の陰にいる誰かに目を向けた。涙の跡が痛々しい。

 雄二郎は仕方なく姿を現す。実花にとって彼の登場は意外だった。だから、

「……木下君? どう……して?」

 と言った。

「あーその、さ」

 雄二郎は何を言えば良いのかよく分からなくて逡巡する。それでも彼は言葉を振り絞る。

「昨日のテレビ、見たんだ」

 実花はきょとんと雄二郎の声を聞いた。今、唐突になぜそんな話を始めるのか、思考が追いついていなかった。

 続けて雄二郎は言う。

「確か、よく覚えていない、ってお前言ってたよな」

 実花は頷いた。

「あれってさ、嘘、なんだろ?」

 雄二郎は、そう言った直後、はっとした。自分でもどうしてそんなことを言ったのか疑問だった。

「どう、して?」

 そう思うの? と実花は返した。動揺している様子だ。

 どうしてだろうか。雄二郎は今更ながら考える。答えはすぐに出た。

「実花以外の人たちはさ、チラシを一生懸命配ってた。今出来る事を必死にやってるって感じだった。でも、お前は違ってた。お前は、どこかぼんやりしてて、身が入ってなかった。やっても無駄だって、そういう感じだった」

 実花の返答は無言だった。雄二郎はそれを肯定と受け止める。

「お前の兄貴がどうなったのか。どういう風にいなくなったのか。お前は本当ははっきり覚えてるんだろ? だから、無駄だって分かってるんだ」

 実花は何も言わずにじい、と雄二郎を見つめている。

「本当は兄貴の事を嫌ってるのかと思ったけど、それは違う。だってあの時からお前は元気なかったし、インタビューで最後に言っていた帰って来て欲しいって言葉。本当に、心の底から言ってるって感じだった。……なあ。本当は覚えてるんだろ? でも、誰にも言えてないんだろ? だったらさ……今、ここで言ってみないか? お前があの時見た全てを吐き出してみないか?」

「……でも」

 実花は言い淀んだ。悩んでいるようだ。

「誰にも言わないよ。約束だ」

「……本当に? 誰にも言わない?」

「ああ。約束だ」

 考え込んでいる実花は、やがて重々しく口を開けた。

 話し始めた内容は、雄二郎の想像を絶していた。

 現実とは思えない。この世の物とは思えない。普通に考えて信じる事などできようはずがない。

 だが、雄二郎は実花の顔を真っ直ぐに見つめている。

 やがて実花は全てを話し終えた。

「……信じ、られない、よね? こんな話」

 おどおどと彼女は言った。

「いや」雄二郎は首を振る。「信じるよ」

「え」

「そりゃあ、さ。話は、良く分かんねえよ。そんなことが起きるなんて、普通なら信じられねえよ。でも」

「でも?」

「でもお前が、お前の兄貴の事でそんな嘘吐く何て考えられねえんだよ。だから、信じるよ」

「……ありがと。……木下君ってさ、いっつも変な事してくるけど、意外と良い奴なんだね」

 見直した、と実花は小さく笑う。

「けっ」雄二郎は恥ずかしそうにそっぽを向いた。「んだよ、意外とって」

「ふふ。でも、少しだけすっきりした。本当にありがとう」

 実花は立ち上がって、数歩歩く。それから振り返って言う。

「またね」

「あ、ああ。また」

 実花が家に向かって歩いて行くのを、雄二郎は暫くの間黙って見続けていたのだった。


 今日も雫たちはチラシを配っていた。

 協力してくれる人数が増えている。それも雫の同級生ばかりでなく、実花の同級生たちも手伝ってくれているのが大きい。

 間違いなくテレビのおかげだ。

 実花の様子を見れば、相変わらず淡々とチラシを配っていた。同級生とはあまり話をしていないようだ。精々、来てくれてありがとう、と言った事務的なやり取りをする程度である。

 春香と加奈は、今まで休まずに来てくれたのだが、今日は休みだ。もちろん、嫌になってさぼったというわけではない。宿題を忘れて、放課後にやらされているのだ。涙目になって謝ってくれたけれど、学業は大事である。稔も許してくれるに違いない。

 良光は今日も来てくれていて、雫のすぐ近くで威勢の良く声を上げながらチラシを配っている。彼はあれで意外と優秀で、成績は中の上と言った所だろう。だがその気になれば、上位陣に食い込む事もできるんじゃないか、と雫は思っている。赤点をギリギリで回避し続けている稔とは違うのだ。

 やがてチラシ配りも解散となった。

 いつもよりも人数が多いおかげで、沢山配れた。暖かい言葉も普段よりも貰えたように思う。

 これで有力な手がかりが入れば良いのだけれど、何だか不安だった。これで本当に良いのか、本当に稔が見つかるのか。分からなかった。正解は別の所にあるんじゃないか、そんな気がしてならない。

 雫は思わずため息を吐く。弱気になってはいけないと、頭では分かってはいても、不安がこうして漏れてしまうのを止められないのだった。

「どうした?」

 と声を掛けて来たのは良光だ。そういえば前にもこんな風に声をかけてくれたなあ、と雫は思い返す。

「ん。大丈夫」

「そっか。でも、疲れてるんじゃないか? 毎日毎日頑張っているしな」

「そう、ね。疲れてるのかも知れない。だけど、ここで頑張らないといつ頑張れば良いのか分からないよ」

「けど、このままじゃストレスが溜まる一方じゃないのか?」良光は考える素振りを見せて、続ける。「そうだな。この後時間はあるか?」

「んー、少しぐらいなら。どうして?」

「気晴らしにさ、ゲーセンに行こうぜ」

 良光の提案に、雫は迷う。今は遊んでいる場合ではない、と思う。なぜなら稔は今も苦しい思いをしているはずだから。

 しかし雫は、

「……そう、ね。たまにはいいかも」

 と、頷いていた。


 ゲームセンターは楽しかった。こんなに楽しいのは久しぶりだ。

 クレーンゲームで良光が景品のぬいぐるみをあっさりと取ってくれた。以前稔と行った時、稔も挑戦してくれたのだが、その時は四苦八苦してからようやく手に入れていた。小遣いの半分は消費していたように思う。自分のために必死になってくれているのが分かるから、雫はとても嬉しかった。

 こうやっていちいち稔と比べてしまう。悪い癖なのかもしれないと、雫は自嘲する。だけどそれだけ稔が大切な存在である事の証明であるように思う。

 しかしだからこそ、良光と楽しく遊んでいる事に罪悪感を抱く。

 稔は今辛い思いをしているはずなのに。苦しんでいるはずなのに。

 楽しんでしまって、ごめん。

 雫は心の中で謝っていた。

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