十二 反抗、そして

 ここから逃げろと津村稔は言った。

 彼の表情は壮絶の一語に尽きる。

 鋭角の眉。眉間に刻まれたしわ。暗く輝く瞳。絶望の奥底から這い上がろうとする声は、あらゆる暗闇を殴ろうとするかのよう。だがその時流れた一筋の涙には、あらゆる哀惜が含まれている。

 身悶えるような悲しみと、全てを蹂躙せんとする怒気が同居している表情だった。

 喜多村由梨江は、そうした彼の表情を見た瞬間、まるで矢で縫い付けられたかのように身動きが取れなくなった。

 それでも、かろうじて、

「どう、やって?」

 と呟いた。

「あの、いつも用を足しているあの亀裂」と、稔は説明する。「不思議に思っていたんだ。どうして匂いがしてこないんだろうって。それで考えてみた。あの下には地下水脈が流れていて、水脈はループしていないんじゃないかって。だからあの流れを辿って行けば、きっと何処かに辿り着けるはずなんだ」

「あそこ、から? でも」

「穴は俺の魔法で広げられる。他にも問題があるのも分かる。本当は少しずつ調査して行きたかったんだ。でも、こんな所にこれ以上、君を一分一秒でもいさせたくなくなった。だから由梨江、君はあそこから逃げるんだ」

「え? 津村さん、は? 一緒に逃げるんですよね?」

 稔は首を横に振った。

「それはできない。水脈では息継ぎが出来るとは限らないんだ。俺には分の悪過ぎる賭けになる。けど、君の魔法なら生き延びることはできる。流れに上手く乗れれば、由梨江は逃げることができると思う。苦しい思いさせるのは、心苦しいけど。それに、俺には他にもやることがある」

「……やること、って?」

 稔は頬を指で掻いた。

 嫌な予感がした由梨江は、稔が何をしようとしているのか直感する。

「もしかして……あの男を?」

「……ああ。俺は、ゴゾルを殺す」

 由梨江は言葉を失った。稔がやりたいことに確信をもった。稔は由梨江を逃がすために、自らを囮にしようとしているのだ。

「俺の魔法なら、あいつを殺せる。あいつは生きてちゃいけない人間だ。これ以上、俺たちみたいな犠牲者を増やさないためにも」

 由梨江には、その台詞は建前だとしか思えない。

 稔の魔法は、確かに攻撃力に優れている。あれならばゴゾルを殺す事も可能だろう。だが優れているのは攻撃力だけだ。

 まず魔法を使うのに十分な時間が必要であるし、なによりも稔の肉体は普通の人間そのものだ。ゴゾルが使う簡単な魔法が一つだけ当たれば、稔はあっけなく死んでしまうに違いない。

 そもそもゴゾルは、稔たちと違って使える魔法は多岐に渡っている。その中には動きを封じてしまうものもある。他にもどのような魔法を使えるのかが分かっていない以上、どう考えてもゴゾルが有利なのは否めない。

 彼は、死んでも構わないと思っているんだ。由梨江はそう直感していた。

「それなら」気付けば、由梨江は言葉を発していた。「私も、一緒に戦います」

「だめだ。君は逃げるんだ」

「ううん。大体、津村さんの計画はいい加減すぎます。水脈が私一人すら通せないぐらい狭かったら、私は一体どうすればいいんですか? 永遠に溺死の苦しみを味わえばいいんですか? そんなの、私は嫌です。他にも不確定要素が多すぎます」

「う」

 今気がついたという顔を稔がしたのを、由梨江は見逃さなかった。恋人である西尾雫の苦労を思う。

「いいですよね? それに認めてくれたら、敬語を使うのを止めます」

「……ゴゾルと対峙するんだ。何が起きるのか分からない。それに、ゴゾルが死ねば、君が帰れる可能性がなくなってしまうかもしれない」

「今更ですよ」由梨江は苦笑して、続ける。「そんなの、私はとっくの昔に覚悟しているんです。元の世界に戻れなくたって、良いんです。それに、私はもう決めたんです。津村さんがこの世界に残るのなら、私も一緒にいようって」

「俺は……由梨江には、日本に帰って欲しい、そう思ってる。俺はもう普通の生活は望めない。この世界でも。だから、一緒にいても幸せに何てなれない。後悔するに決まってるよ」

「そうかもしれません。ですが、そうでないかもしれません。未来の事は誰にも分かりません。分かっていたら、こんな所にはいませんしね。ただ今の私は、あなたと一緒にいたいと思っています。あなたがゴゾルを殺したいのなら、私はその手助けをしたいと思っています」

「人を、殺すんだ。人を。本当に、いいんだな?」

「はい。殺しましょう、ゴゾルを。あの男を」

 稔はゆっくりと空気を吐き出した。

「分かったよ。手伝ってくれ、由梨江」

「うん。稔。任せて」

 由梨江は微笑んだ。

 少しも躊躇を見せない真っ直ぐな瞳だった。


 由梨江を一分一秒でもここにいさせたくない。稔のその想いは本物だ。だからすぐにでも行動を起こしたかった。

 そこで思い立ったが吉日とばかりに、稔は「今すぐ強襲しよう」と持ちかけたのだが、由梨江にあっさりと止められた。

「そんなの無謀すぎだよ。ありえない」

 真っ向から否定された稔は、意気消沈して肩を落とす。

「ゴゾルのことだから、何らかの対策を用意してると考えた方がいいよ」

 由梨江の言葉はもっともだった。

 なので稔は「じゃあ、いつ決行すればいいんだ?」と聞く。

「うーん」と由梨江は考える素振りを見せて、「実験の時が良いと思う」

 と答えたのであった。


 時間は過ぎ去り、翌日となった。

 今日は実験を行う日だと、パルツを持って来た由梨江は稔に伝え、続けて、

「どうする?」

 と、簡潔に聞いた。

「やる」

 稔もまた、簡潔に答えた。決意と殺意で彼の目はナイフのようだ。全身から険しさが迸っているのを隠しきれていない。

 由梨江は稔の両手を手に取った。柔らかな笑みを浮かべて彼を見つめている。

 稔は彼女の突然の行動に驚きながらも、由梨江の瞳から目を離す事ができない。彼女の瞳は、大きくて、丸くて、深くて、不思議な吸引力があった。

「落ち着いて」ゆったりとした口調で、由梨江は稔に語りかける。「そんなに殺気立っていたら、ばれちゃうよ」

 稔の心臓の鼓動が鎮まって行く。由梨江の声が、瞳が、手の平の冷たさが、稔の角立っていた気配を丸ませる。

「あ、ああ、すまん」

 稔は頷いた。

 それから数瞬の後に、扉が開いてゴゾルの姿が見えた。

 ゴゾルは二人の様子を眺めてから、

「来い」

 と、乱暴に言い放って踵を返す。

 二人は後を追う。 

 さすがの稔も緊張していた。由梨江が言った通り、ばれないか気が気でない事もある。けれど由梨江は、そんな稔の手を取って、彼の視線を自分に向けさせる。

 大丈夫。

 由梨江は、声を出さずに口の動きだけで言った。

 稔は頷いて答えた。

 ゴゾルは後ろにいる二人に気を払っていないようで、背後を振り返る事はしない。それはただ単に、二人が決して逆らわないという自信の表れなのか、あるいは背後から襲われても手玉に取る自信があるのか、稔には判断がつかなかった。

 今、ここで魔法を使えば。

 稔はそんな誘惑に駆られながら、由梨江に目で合図する。

 ここで、やるか?

 しかし、由梨江は首を小さく横に振る。

 まだ。

 稔は頷く

 わかった。

 ここで由梨江が許可をしなかったのには理由がある。それは、通路はループしているという事実と、ゴゾルの死後もループが残り続ける可能性があるということだ。

 問題なのは、どこでループしているのか、ということ。由梨江は、ゴゾルと連絡を行っている12本目のロウソク付近で通路がループしていると予想していた。

 もちろん確証を得ているわけではない。本当はもっと別の場所である可能性もある。だがそうした可能性を一つ一つ当たって行ってもキリがないし、可能性はどこまで言っても可能性でしかない。

 だから何処かで賭けに出る必要があるのだ。

 そして、今はまだ六本目を過ぎた所であった。

 もしも今ゴゾルを殺す事に成功したとしても、ループが解かれていなければ、二人は永久にこの岩窟の中に捕われ続けることになる。ゴゾルもいなくなってしまうので、不味いパルツを食べることも水を飲むことすらもできなくなるのだ。何もせずに過ごせば、餓死して行くのをじっと待つ他にない。だからそうなってしまえば、稔の魔法を使って強引な脱出を試みることになるだろう。だがこの場合、生還できる確率は格段に低くなると由梨江は読んでいた。

 無論、ゴゾルの死と同時に魔法が消える可能性もあるにはあるが、由梨江はこの世界の魔法について十全に理解している訳ではない。むしろ分からない事のほうが多いのだ。ならば、より安全な方を選ぶのは必然と言えた。

 果たして、十二本目のロウソクを通過する。

 稔は由梨江を見ていた。由梨江が許可をする瞬間を、今か今かと待っている。

 もしかしたら、私の推測は間違っているかも知れない。

 由梨江が自身の中で芽生えた不安を押し殺し、ついに稔へ合図を送ろうと決死の思いで口を開きかけた正にその時。

 ゴゾルは、振り返って由梨江を見た。

 嫌な事に、目と目が合ってしまう。

 まさか。ばれた?

 それは最も恐れている事態だった。

 稔の魔法には、十分な威力に達するまで相応の時間がかかるという欠点がある。

 そしてゴゾルは、稔を改造した張本人でもあった。

 つまりゴゾルは、ある意味では、稔以上に稔の身体と魔法について精通していると言っても過言ではない。稔と由梨江が知らない弱点を、ゴゾルだけは知っている可能性だってある。

 さらに厄介な事に、ゴゾルが使える魔法は未知数なのだ。何を仕掛けてくるのか分からない。

 ゴゾルと正面切って戦うのは、あまりにも危険すぎる。

 故に、稔が数少ない勝機を得るには、不意を打たなければならない。

 冷や汗が滲むのを由梨江は感じた。稔も由梨江の方を横目でちらちらと視線を送ってくる。

「今日は」ゴゾルは口を開く。「実験室で行う」

 どうやらばれてはいないようだ。由梨江は安堵したが、態度に出ないようにするのが大変だった。

 それにしても、実験室か。

 由梨江は考える。稔が魔法を使用するには、パスワードを唱える必要がある。けれどそれは、声を出さずに行う事が出来ないのと同意である。その瞬間、ゴゾルに気付かれるの恐れがあるのだ。

 もちろん失念していた訳ではない。事前の打ち合わせにおいて、ゴゾルに聞こえないような小声で唱える事は決定している。

 だが万が一と言う事もある。前述した通りゴゾルの魔法は未知数だ。集音装置のような魔法を発動していないとは限らない。

 ならば、最もゴゾルが油断している瞬間とはいつなのか?

 それは実験を行う瞬間ではないか。

 ゴゾルは実験が好きだ。実験中のゴゾルは、あらゆる変化を見逃さないように集中している。研究者として当然の姿勢であるその極限の集中は、同時に他の事に気を回せないと言う事でもあるのだ。

 これこそが、最大の隙と言えるのではないだろうか。

 由梨江は決めた。決戦の場は、実験室であると。


 ゴゾルに案内された実験室は、以前稔が壁を破損させた部屋だった。壁はいつの間にか修復されている。

 稔は沸き立ってくる感情を抑えるので精一杯だ。けれど由梨江は、冷静に何かを見極めようとしているようだった。彼女には何やら考えがあるらしい。

「それでどのような実験をするのですか?」

 由梨江の質問に、ゴゾルは邪悪に笑む。

「大した事はない。こいつの」とゴゾルは稔を指差して言う。「魔法をお前にぶつけるだけの、簡単な実験だ」

 ぞっとする思いで稔はゴゾルの発言を聞いた。今の稔は、ゴゾルが話すメルセルウストの言葉を理解する事ができていた。彼の感情は今にも爆発する状態になっている。それでも、平静を保つ。かなりギリギリの状態ではあったが。

 由梨江は稔を真っ直ぐに見る。強い意思を備えた瞳だった。

「撃って、ゴゾルを」

 由梨江はついに言った。無論、ゴゾルには理解できない日本語で。おそらくあの男は、いつも通り由梨江が訳していると錯覚していることだろう。

 驚いた顔を見せた稔。続いて怒りの視線をゴゾルに送ってみせる。

 実際、稔は怒っていた。非人道的な指示をするゴゾルの事を、もはや人間の皮を被った別の生き物にしか見えていなかった。

 それでもゴゾルは、嫌悪感を催すような嫌な角度で口角を上げている。

 待っていろ。今からその表情を崩してやる。

 稔は心の中でにやりと笑い、

「メドル」

 と唱えた。

 稔の全身から生えている角が、その職務を全うせんと、周囲から魔素を取り込んで魔力を精製し始める。

 それから掲げた右手を、ふらふらと右往左往させながら由梨江に向けた。手は振るえさせて、まるで指示を嫌がっているように見せかける。

 稔はお粗末な演技だと、我ながら思う。これで騙せる事が出来るんだろうか。演技の自信はない。しかしやるしかなかった。ここでばれては、全て水泡に帰す。

 まだか、まだか。

 じわじわと赤く染められていく角を、焦れったく思いながら見つめる。

 由梨江は稔を信じ切った眼差しで見据えてくる。稔の手元が狂う事をいささかも心配していない。

 ゴゾルはあらゆる事象を見逃さないとするかのようにじろじろと観察している。

 そうして、角の三分の一ほどが赤くなった。

「撃て」

 と、ゴゾルは告げる。

「撃って」

 と、由梨江は稔に言った。

 ついに。

 ついにこの時が来た。

「ハー」

 稔はパスワードを唱えながら、急速に旋回して右手をゴゾルに向ける。

「ゲン」

 ゴゾルが驚愕で目を見開くのと、パスワードを唱え終えるのは同時だった。

 稔の右手から、魔力が一条の光となって真っ直ぐゴゾルへと襲いかかる。

 ゴゾルは何かをする素振りはない。稔は確信した。ゴゾルを殺せると。

 だが信じられないことが眼前で起きる。

 魔力の光がゴゾルの目前で文字通り消えて行くのだ。それはまるで、空間に穴が空いていて、その穴の中に光が吸い込まれて行くようにも見えた。

「な!」

 稔は驚きのあまり愕然とした声を上げた。

 由梨江もまた、顔面を蒼白にさせながら、目の前で起きた現象を信じられない様子で見つめている。

 ゴゾルはそんな二人の様子がとても可笑しかった。酷く滑稽で、惨めで、たまらなかった。

 ゴゾルは嘲り笑った。

 悪魔のような声だった。

 ぎゃはははははははは。

 二人の耳の奥で、ゴゾルの嘲笑が大きく鳴り響いたのだった。


「お前たちのような低能が考えることなどたかが知れている」

 ゴゾルはせせら笑いながら説明する。

「いつか必ず俺に反抗する。そんな予測をしない俺だと思ったか? 最も油断しているのは実験中なのは確かだ。認めよう。しかしいつか反抗すると予測していながら、最も無防備になっているであろう実験の時の対策を怠っていないなどと、そんな事があるはずがないだろう? 所詮は実験体。脳みそが決定的に足りていないな。

 だが、そんな馬鹿にありがたい説明をしてやろうではないか。さっきの魔法はな、空間に穴を空けて、別の場所へ繋がるようにする魔法だ。お前たちの部屋の前の通路がループしているのは無論知っていよう。理屈はそれと同じなのだよ。ただ規模を小さくして、俺の周囲で常時発動するように仕掛けているだけでな。通路の空間を繋げる事が出来る俺が、これぐらいの芸当ができないはずがないだろう? まさか思い至らなかったのか? 低能はやはり低能でしかないな」

 ゴゾルは見下した目で、稔と由梨江を見やる。

 二人はゴゾルの説明をまともに聞いていない。

 特に由梨江は、失意と恐怖とで呆然としている。

 しかし、稔は諦めていなかった。小声で小さく呟いていた。「メドル」と。

「だがお前」興奮したゴゾルは稔を見て、さらに喋り続ける。「くくく。俺の言葉が分かるのに、今まで分からない振りをしていたな? 見事に騙されたよ。そこだけは褒めてやる。しかし無駄だったな。俺にはお前らの浅知恵は通用しない。そもそも、今、また、魔力を溜め始めたな? 全く低能はこれだからな。何度やっても無駄だ。俺の空間魔法は、どれほど強力な威力でも破る事はできん。だがお前の気が済むまでやってみせるがいい。これも実験の一環だ」

 稔は三分の一ほど角が赤くなっても、魔力を溜め続けている。破る事は出来ないと言われても、その目の輝きは未だ諦める事を知らない。

 由梨江は決める。稔が諦めないのなら、私も諦めないと。そして考える。稔は一体何をしようとしているのかを。稔は馬鹿なのかも知れない。だけれども、そこまでの馬鹿でもない。考え、自分なりの答えを導く事が出来る。稔は心底の馬鹿ではないのだ。稔の行動には、何かしらの意図が込められているはず。それを見極める必要があった。

 今や角は五割ほど赤くなっている。

 ようやく稔は右手をゴゾルへ向けた。

 ゴゾルはよほど自信があるのだろう。不敵に笑う。

 しかし、稔はにやりと笑い、右手をゴゾルの真上にある天井へと向き直す。ゴゾルは驚き、目を見開いた。

「ハーゲン」

 稔の右手の平から迸った閃光が天井に直撃。

 激しい音が鳴り響き、天井が砕け、崩壊を始める。瓦礫がゴゾルへと襲いかかるも、目の前の空間に吸い込まれて行くために当たる事はない。

「貴様。死ぬ気か!?」

 ゴゾルは吠えた。

「そんなわけ、ねーだろ! 由梨江!」

「はい!」

 二人の行動は早かった。

 瓦礫が次から次へと落ちて行く中、稔と由梨江は一心不乱に駆け出した。

 二人は何も言わずに手を取り合って、ゴゾルに向かって降り注ぐ瓦礫と一緒に空間の穴へと飛び込んだ。

 果たして稔の狙い通りに、二人は空間の穴を通じて何処かへと消え去ったのだった。

「ちぃ」

 ゴゾルは苛立たしく舌を打つ。

 周囲に展開されている空間移動の魔法は、ゴゾルに危機が迫れば自動的に発動するようになっている。また、ゴゾルが移動すればそれに合わせて魔法も移動するため、自身が空間の穴に飛び込む事は出来ないのだ。

 もちろん、自由に解除する事は出来る。だからもしも単身で空間の穴に飛び込もうとするならば、解除してそれを防ぐ事も可能である。しかし、解除をすれば瓦礫がゴゾルに直撃するためにそれも出来ない。

 さらに言えば、空気を固定して身動きを取れなくする魔法も、空間移動の魔法が阻害して発動を妨げるという欠点すらあった。

 そして、空間魔法は強力に違いないが、すぐに構築できる代物でもない。

 何よりも、稔が放った強力な一撃のせいで、岩窟全体が崩落する危機に見舞われている。

 ゴゾル自身がこの程度の事で死ぬ事はない。だが長い時間と金をかけて収集して来た実験材料や、実験の結果や過程などを記録した資料を今ここで失うわけにはいかない。

 故にゴゾルは、稔たちをすぐさま追いかけることが出来ないのだ。

「あの低能の実験体どもが」

 ゴゾルは憤怒と共に言葉を吐き出すと、瓦礫が落下してくる中を、平然とした様子で歩き始めたのだった。


 稔と由梨江は、手を繋ぎ合わせたまま空中へ投げ出された。

 周囲には同じように移動して来た岩の瓦礫が無数に散らばっている。

 何処までも続く青空。山頂が白く輝く山々や、鬱蒼と生い茂る森に、太陽の輝きをきらきらと反射している大海原。それから遥か先に見える大きな町並みと城らしき白色の大きな建造物。その雄大な光景に、稔と由梨江は刹那の間思わず見蕩れた。

 だが次の瞬間には落下が始まった。急速な加速が二人を襲い、大音声が迸る。

「うわああああああああああああああっ!!!」

「きゃああああああああああああああつ!!!」

 ジェットコースターやフリーフォールが児戯に等しく思えるほどの恐怖。そもそもパラシュートすらないのだから軽々しく比することはできまい。

 稔と由梨江の両目から涙が零れて流れて空に散らばる。加速による空圧によるものなのか、純粋に恐いからなのかは定かではない。

 それでも、稔と由梨江は諦めないと決めた。

「め! メドル!」

 稔は唱え、右手を下に向ける。角が赤く染まって行くスピードを、今ほど遅く感じた事はない。

 由梨江は稔を正面から抱きしめる。まるで自分自身の身体をクッション代わりにと言わんばかりに。

 そして容赦なく落ちる。落ちる。落ちる。

 あらゆる景色が下から上へ飛ぶように流れて行く。

 風が痛い。

 空気が壁のようだ。

 稔は痛みをこらえながら下を見る。

 美しく澄んだ広大な湖が広がっていた。一秒ごとに急激に近づいて行く。

 どこまで魔力が溜まったのかを見ている余裕はなかった。

「ハーゲン!」

 魔力の光が発射される。その反動で落下する速度が僅かに和らいだ。

 光が水面に当たり、爆発音と共に水が跳ね上がる。

 存外に深い湖らしく、それだけでは水量はほとんど変わらない。

 由梨江はより強く稔を抱きしめ、両手の平にある魔力穴を全て開いた。それから衝撃に備えて歯を食いしばる。

 そして二人は息を止めた。

 五体がバラバラに引き裂かれるような衝撃が来て、耳をつんざくような轟音と共に、二人は水中へと沈む。

 由梨江は常時発動している自身の回復魔法のおかげで、身体のあらゆる異常はすぐに回復した。稔もまた、あらかじめ由梨江が魔力穴を開いてくれたおかげで、由梨江からやや遅れて回復する。

 しかし安心するのはまだ早かった。

 瓦礫が矢継ぎ早に落ちてくるからだ。

 二人は慌てて泳ぐ。ここで死んでは元も子もない。

 瓦礫は二人の数ミリ先を沈下していく。

 当たらなかったのは、それこそ、本当に幸運の連続だった。

 そうして息が絶え絶えになりながら、二人は辛くも岸に上がる事が出来た。

 稔と由梨江は、よろよろと数歩歩くと、同じタイミングで草むらの上にばたりと仰向けに倒れる。手足を投げ出して、新鮮な空気をお腹いっぱいに吸い込んだ。

 視界はさわやかな蒼穹で埋まった。瓦礫が湖に落ち込んで行く音の中に、鳥の鳴き声が混じっている。頬を撫でる風が心地いい。

「ぜぇ、はあ……はあ……やった、な」

 稔は、顔を横に向けて由梨江を見た。由梨江もまた、稔の方へと顔を向けている。

「はあ、はあ……うん……夢……みたい……」

 二人は満面の笑顔で頷き合う。

 ゴゾルが瓦礫に埋もれて死ぬイメージは湧いて来ない。間違いなく生き延びているだろう。

 しかしあの地獄から抜け出す事は出来た。

 久しぶりの開放感に、稔と由梨江は存分に酔いしれたのだった。

 

「これからどうするの?」

 と、草原に寝そべったまま由梨江が尋ねた。

「落ちてくる途中でさ」あらかじめ考えていたのか、稔はすぐに答える。「でかい城と街が見えただろ?」

「うん」

「あそこに行ってみないか?」

「……あそこに?」

「ああ。……せっかくファンタジーな世界に来たんだ。いろいろ見て回ってみたいと思わない?」

「そうね。良いと思う」

「じゃあ、そろそろ行こうか。ゴゾルが来たら面倒だ」

「うん」

 二人は立ち上がる。由梨江は城がある方向を覚えてくれていて、「あっちだよ」と稔を促した。

 稔と由梨江は木々の間をすり抜けるように歩いて行く。険しい道だ。日本の山にあるみたいな綺麗に整えられた道はない。木々の根っこが、高い背丈の草が、二人の足取りを阻害する。

 それでも二人は文句も弱気も口に出さずに進んで行く。

 やがて日が沈んで来た。辺りは徐々に暗くなって行く。

 稔と由梨江は、ちょうど開けた場所に出会す。

 ここで寝る事にした二人は、寝そべって空を見上げた。

 日本の夜空にはない満点の星空が広がっている。

 それから、稔は気付いた。地球とは決定的に違う天体の様相について。

「あれは……!」

 驚きの声をあげる稔に対し、由梨江はあらかじめ知っていたのかどこか自慢げだ。

「うん。ここは、メルセルウストには」

 瞬く星々の海の中で、真円を描いた月が二つ浮かんでいる。地球では有り得ない幻想的な輝きは、とても神秘的で、美しい。

「月が、二つある!」

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