十一 決意
絶望だ。
ただひたすらに絶望だけしかなかった。
喜多村由梨江にとって、岩窟の生活はそれだけしかなかったのである。
死ぬ間際まで行われた麻酔なしの手術では、気絶と覚醒を繰り返し、失禁も嘔吐も数知れないほど行った。涙は計量カップで計りきれないほど流し尽くして来た。
手術が終わっても、待っていたのは果ての見えない苦痛と汚辱に塗れた実験だ。
死は許されず、精神を壊す事すらできない日々は、地獄をさらなる暗黒のただ中へと沈ませるよりもなお恐ろしかった。
光が届きようもない状況下で、原子分解されて跡形もなく消滅した希望を見出せる訳がない。ただ感情を殺し尽くし、夢を見る事もせずに、無気力に従順に日々を過ごすしかなかった。少なくとも、命令にさえ従っていれば、苦痛も汚辱も最低限で済むからだった。
だけど、変わった。
新しいモルモットを召還すると言われた時、期待は僅かすらなかった。
新しい可哀想な被害者が増える。新しい実験が加わる。さらなる苦痛が増える。ただそれだけしか思わなかった。
どうでもよかった。もはや自分に何が起きようとも、何か待っていようとも、そこにあるのは色濃くした絶望しかないと思っていた。
津村稔が来るまでは。
一目見て分かった。彼が日本人だと言う事は。
親近感が湧かなかったと言えば嘘になる。殺し尽くしたはずの感情が、先っぽだけ芽吹いたのを覚えている。
だが由梨江が染まっている絶望の色は、その程度の事ですぐに分かるほどの変色はしないと思っていた。
今にして思えば、その認識は間違っていたと認めるしかない。
稔と生活を共にする中で、闇よりも深くて濃い絶望の色が、徐々に変化して行ったのだ。それはほんの少しの変化でしかなかった。けれど確かにほんの少しだけ、明るくなっている事に由梨江は気付く事ができたのだ。
これを恋愛感情と呼ぶべきなのかは分からない。男女が危機的状況下にいる時、本能的に求め合うようになる言う吊り橋効果のせいかもしれない。そもそも、由梨江にはそうした経験が一切なかった。
しかし稔のためならば、どんな苦痛だって耐えられる覚悟でいる。稔がしたい事を、全力で受け止め、サポートをする腹積もりでいたのだった。
例えば稔が死にたい、殺してくれと言えば、多少は迷えども、最終的に殺す事を選ぶだろう。その後、なりふり構わずに、あらゆる方法で由梨江は自殺を試みるに違いないが。
だから当然、由梨江は稔の味方だ。稔が苦しんでいるなら、どうにかしてその苦しみを和らげたいと思っている。
しかし。しかしだ。
由梨江は、ゴゾルにどうしても逆らう事ができないのだった。
それはゴゾルの手によって、頭からつま先までびっしりと恐怖を植え付けられたせいだ。
ゴゾルの姿を見るだけで身体が萎縮する。ゴゾルの声を聞くだけ肢体が震える。命令をされるだけでこの身は自動的に従ってしまう。
由梨江は、稔への罪悪感で圧し潰されそうだった。
今日もお互い、実験も手術も何もない安息の日である。
いくつ食べてもやはり不味いままのパルツを食べきった稔は、どうにも由梨江の様子がおかしいと当たりをつけた。先ほどからちらちらとこちらをうかがって来ているのだ。
「どうした?」
と尋ねてみても、由梨江は「何でもない」と首を振る。
「そう?」稔はこれ以上触れないことにして、続ける。「今日はどうする? まずは言葉を勉強するか」
「それもいいけど。たまには勉強から離れてみない?」
「あ、それいいな。休みの日は勉強ばかりで飽きて来た所だったんだよ。それで、なにする?」
「んー」と、由梨江は小首をかしげて考える。「しりとりは?」
「しりとりか」
懐かしい、と稔は思った。日本の言葉でしりとりをする。それはとても良いアイデアであるように思う。何よりも故郷を感じられるのが良い。
「いいな。そうしよう」
「じゃあ、私から。リンゴ」
赤い果実が頭の中で描かれる。子供の頃に風邪を引いた時によく食べさせてくれた甘酸っぱい果物は、当時の好物だった。
「ゴリラ」
家族で動物園に行った時、人ごみをかき分けて見た記憶がある。沢山の観客に興奮したゴリラが、大きな声で吠えながら鉄柵の中で暴れていた。その頃幼稚園児だった妹の実花が、怖がって泣き出した事を思い出す。
「ら、ランドセル」
そうやって一つずつ単語を交わしながら、稔は思い出を噛み締める。
しりとりなんて他愛ない遊びだ。日本にいたころの稔なら、しりとりをしようと持ちかけられてもあまり良い気はしなかっただろう。せいぜいちょっとした時間つぶしにするぐらいだ。
でも今やっているしりとりは違っていた。一つ一つの言葉には、何かしらの思い出が詰まっている場合が多かった。言葉だけ知っていて実体験が伴っていなくても、やり取りだけで十分に楽しかった。
しりとりで楽しいと思うとは、稔には考えられないことだった。けれど実験と手術を繰り返す殺伐とした今の日常において、心穏やかな時間を生み出したのが、しりとりという他愛ない遊びであった。
「ルール」
稔は由梨江が発した言葉の語尾を受け継いで、さらなる言葉を紡ぎだす。
一つ一つの言葉は宝石みたいに輝いて、稔の心の中に沁み渡る。
これからも時間があれば、しりとりをやろう。稔はそう心に決めた。
「瑠璃」
「リコーダー」
「ダイヤモンド」
「ドラマ」
「マスカラ」
「ラーメン」
稔はつい頭の中に浮かんでしまった単語を呟いた。それからすぐにしまったという顔をする。
最後に“ん”が付くと負け。それはしりとりにおける絶対的なルールなのだ。
「津村くんって」と、由梨江は言う。「弱いね」
笑われた。
沢山、本当に沢山しりとりを繰り返した。稔は負けっぱなしだ。
だけど不思議と悔しいと言う気持ちはない。単語を呟くたびに、心の中が暖かくなっていくおかげだ。それとも相手が由梨江だからなのかもしれない。もしも雫や実花であったなら、ものすごく悔しく感じていたはずである。
「喉、乾かない? 水を汲んでこようか?」
由梨江の申し出に、稔は一度は頷いたが、すぐに首を横に振った。
「いつも喜多村さんに持って来てもらうのも悪いし。たまには俺が行くよ」
「んー。でも、多分、津村君には許可が下りないよ」それから由梨江は続けて言う。「それに、メルセルウストの言葉は喋れないって事になってるじゃない」
稔は、あ、と口を開けた。ついその事を忘れていたのである。
「ごめん。じゃあ悪いけど、お願いするよ」
「うん」
由梨江は部屋から出て行った。
一人になった途端に、稔は昨日の事を思い出してしまう。もちろん汗拭きの時のことである。
由梨江の輝くように美しい背中が、稔の脳裏にはっきりと焼き付いていた。
あの時触れた柔らかくて心地良い感触は、今もまざまざと手の中に残っている。
そして、稔を見つめるあの熱っぽい瞳。
もしかしたら、稔を誘っていたのだろうか。そう考えると、あの唐突とも言える提案にも合点が行く。
だがあの大人しい由梨江が誘惑するとは思えない。稔の勘違いであるはずだった。そうであって欲しかった。
しかし間違いなく言える事は、もしもあのまま言われる通りに前を洗っていれば、稔は確実に由梨江の事を襲っていただろうということである。
そして由梨江は、まず間違いなく受け入れていただろうということ。
惜しいことをしたのかもしれない。据え膳食わねばなんとやらである。
けれど心の奥底から沸き上がってくるのは、雫への想いであった。
稔が置かれている現況を考えると、雫への義理立ては必要ないことかもしれない。そもそも事に及んだとしても、雫には知る方法が存在していない。
それでも、いや、それだからこそ、だろうか。稔は不義を避けたかった。それが雫への想いの証明に繋がると信じていたのだ。
だけど頭の中でもやもやと浮かんでくる由梨江の身体は、そうした稔の理性を打ち破らんとちくちくと突いてくる。
ああ、くそ。
抱いた邪念を振り払うように、稔は頭を振るった。けれどそんなことで、邪念が振り払えるはずがなく、稔はただ懊悩し続けている。
扉が開き、由梨江が入って来たのはそんな時だった。
「どうしたの?」
「い、いや。なんでもない。それよりも、水を」
変にどぎまぎする心臓が憎たらしい。
「はい」
由梨江が手渡したコップを乱暴な手つきで受け取った稔は、そのまま一気に飲み干した。冷たい液体が身体の中に浸透して行く。これで少しは懊悩する身体が落ち着くはずだ。稔はそう思った。
「あ」
けれど由梨江は、心配そうな顔と共に、驚きの声を小さく上げた。
何か変だと稔が感じた時には、もうすでに手遅れだった。
稔の身体が、熱く火照り始めたのである。しかしそれだけではない。頭の中までもが、熱くなって行く。
冷たい水を飲み干して、むしろ身体は冷えるはずだったのに、これは一体どうしたことだろうか。
しかし今や、稔の思考能力は、まともに機能しなくなっていた。
稔は目の前にいる由梨江の身体から視線を外せなくなっているばかりか、上から下までを、じっくり舐めるように見つめている。
頭の何処かで、おかしい、という警告が聞こえてきたが、まともでなくなっている思考は、その発言を無視している。
血液が、自身の股間へと集まって行くのを感じ取る。
心臓の動悸がやけに激しい。
稔は欲情していた。獣みたいに呼吸が荒かった。
本来なら食い止めているはずの稔の強固な理性は、恐ろしく弱々しくなっていた。
異常だった。
頭の中ではひっきりなしに警告が発せられている。
やめろやめろやめろ。
だがついには、その最後の理性とも言える警告すら聞こえなくなり、ただ目の前にいる女を血走った目で見つめている。
彼女が由梨江と呼ばれる名前の少女だと言う事すらもはや消え失せていた。
女。女。女。
極限にまで達した欲求をぶつけるべき相手としか認識されていなかった。
そしてついに、稔は由梨江に襲いかかったのだ。
由梨江の悲しそうな表情に気付く事もなく。
そこにあるのは激情の坩堝。
凝縮された本能の爆発。
ひたすら激しい行為。
己の欲を発散する事しか考えていない獣よりも獣らしい行いだ。
当然相手の事を少しも考えない。
自分自身の快楽のことしか頭にない。
だが、由梨江は何も言わずに全てを受け入れていた。
どれほど痛くとも、どれほど苦しくとも、由梨江は無言だった。
慈愛に満ちた眼差しを、豹変した稔へ悲しそうに送るだけである。
暴風雨に似た激烈な時間が過ぎた。
次に訪れたのは、凪の如く穏やかなひととき。
心安らかな表情を浮かべた稔は、裸の由梨江に覆い被さるように眠っている。
由梨江はそんな彼の黒い髪を、慈しむように撫でていた。
彼が目が覚めた時の事を考えると、恐ろしさで身が縮む思いがする。
稔は自分がした事を、決して許しはしないだろう。それが由梨江には恐怖でしかなかった。
理解してもらうには、全てを話すしかない。しかしそれでも稔は自分を責める。それが彼の好ましい所でもあるのだが、由梨江は見たくなかった。
だから、今のこの時間がいつまでも続けば良いのに、と思う。
稔の体中から生えている堅い角のちくちくした感触も、波風立たぬ時間も、気持ち良さそうに寝息を立てる稔の顔も、何もかもが愛おしかった。
だけど、時間は何者にも止められることができないのだ。
稔の目が、緩やかに開いていく。
ああ、ついにこの時が来てしまった。由梨江は覚悟を決めて、言葉を紡ぐ。
「おはよう」
稔は徐々に瞼を開けて行く。
暖かくて柔らかくて心地よい感触がしていた。微睡みの中にいる頭では、その正体が何なのか分からない。
「おはよう」
聞き覚えのある声が聞こえて来て、稔は完全に目を開く。かつて美術の資料集で見たラファエロの聖母像のような微笑みを浮かべた由梨江の顔が、視界一杯に埋まっている。
頭の中で疑問符を踊らせた稔が認識したのは、お互いが全裸になっており、さらに己自身が由梨江をベッド代わりにしていたということだった。
「え」
稔は素っ頓狂な声を上げて、上体を起こそうとしたところで停止した。
由梨江は視線を落とす。聖母のような微笑みは、僅かな陰を落としている事に今さらながら気付く。
そして、稔は自分がしでかした狂乱を思い出したのだ。
途端、稔の顔から血の気が失せて、ぞっとするような青ざめた顔色になった。
慌てて後ろへ飛び退いた稔は、流れるような動作で膝を付き、上半身を折り曲げて、手の平をべっとりと岩の床に当てると、額をそのまま岩肌へ擦り付けた。土下座である。
「俺は! 俺はなんてことを!」
叫ぶように稔は言った。
その光景を、由梨江は苦しそうに見ていたが、稔には彼女の顔は何も見ていない。
稔は続ける。
「許してくれとは言わない! 俺がしたことは許されるべきことじゃない! 言い訳もしない! 君が気が済むように、煮るなり焼くなり好きにしてくれ! いや、してください!」
稔の全身から冷や汗が流れて落ちる。
由梨江が口を開ける一瞬間、稔は生きた心地がしなかった。死ねと言われれば稔は喜んで死ぬ。椅子になれと言われればそうなろう。殴られようと刺されようと構わない。それだけのことを稔はした。しでかしてしまった。だからどんな罰でも甘んじて受けると稔は心から誓う。
どうしてそんな事をしてしまったのか。稔には理解の範疇にない。
ただどうしようもなく身体が熱くなって、頭も熱くなった。それから、女をやる、その一点のみの欲求が膨大になり、雫という存在によって固められた強固な理性が、あっさりと崩壊してしまったのだ。
それからのことを、稔は曖昧にしか覚えていない。由梨江を襲った記憶も、映像を眺めているような他人事な感覚しか持ち合わせていない。しかし確かな実感として、稔は由梨江を襲ったという乱暴な感触だけが、吐き気がするほど手の中に残っているのだった。
「顔を、上げてください」
と、由梨江は言った。敬語に戻った彼女の口調に確かな壁を感じられて、稔は酷く悲しく苦しくなりながらも、おずおずと顔を上げた。
しかし由梨江が続けて述べた言葉に、稔はぎょっとした。
「私の方こそ、申し訳ありませんでした」
事態が飲み込めない。なぜ由梨江が謝っているのだろう。酷い事をしたのは稔なのに。
「あなたが飲んだ水には、薬が入っていました」
クスリ?
「実験の、一環だったんです」
由梨江の瞳は、絶望の底からさらに穴を際限なく掘り下げた暗黒の色をしていた。
「魔法を使えるように改造された私たちの間から、どんな子供ができるのか。あの男の興味はそこにありました」
由梨江は言葉を重ねる。
「それなのに、あなたはこれまでずっと私に手を出しませんでした。あの男はそれが気に入らなかったのです。昨日の汗拭きは、薬を使わせないために私が提案したことでした」
稔は彼女の淡々とした語りを呆然と聞いていた。
「だけど、予想していたことでしたが、結果は知っての通り失敗。薬を使う事が、決定されてしまいました」
視線を下に落とした由梨江の様子は痛々しかった。
「津村さんは、悪くないんです。悪いのはあの男と、私……」
「……だとしても」稔はここでようやく口を挟んだ。「薬のせいで前後不覚になったとしても、俺が喜多村さんを乱暴に扱ったのは事実なんだ。それは、許されるべき事じゃない」
「いいえ、あなたは悪くないです」由梨江は首を横に振った。「私が、悪いんです。私は、あなたに抱かれたかった。あなたの温もりが欲しかった。あの男の命令にいやいや従う振りをしながら、私はあなたが欲しかったんです。私は、あの男の命令を言い訳にしたんです」
「だけど」
何か言おうとした稔の口を、由梨江は強引に言葉を繋げる事で塞いだ。
「乱暴で無理矢理で、津村さんがそういうやり方が好きじゃないのは分かっているんです。でも、私はそれでも構わなかった。すでに処女ではありませんでしたし、これまで受けて来た行為に比べれば、津村さんが与えてくれる痛みは全て、好ましかった」
「これが、初めてではなかった?」嫌な予感がした稔は恐る恐る尋ねる。「えと、それは、メルセルウストに来る前にすでに、 やった、て事?」
「……いえ。初めてしたのは、この世界に来て暫く経ってからのことでした。私は実験でたびたび外へ出される事がありましたよね。あの実験は、メルセルウストの人間と私との間に子供が生まれるのか、生まれるとしたら、どのような子供なのか。それを調べるためでした。私は、色々な男と、寝かされたのです。数えきれないぐらい、たくさん。子供はもちろん生まれませんでしたが」
稔は頭を抱えた。
なんだ、それは。なんなんだ、これは。
あの男はどこまですれば満足なのか。どこまでいたぶるつもりなのか。
答えは決まっていた。ゴゾルは己の知的好奇心に従っているのだ。だからこそ、際限がなかった。稔と由梨江をただのモルモットとしてしか見ていないから、なおさらだった。
「あの、津村さん?」
身体を震わせる稔に、由梨江は心配そうに声をかけるも、彼はポーズを崩さない。
稔の全身から迸っているのは、怒りであった。それも凄絶な怒り。
やがて稔は顔を上げた。決意に満ちたギラギラした瞳で、由梨江の顔を真正面から見つめた。
「由梨江。ここから逃げろ」
稔が彼女の下の名前を呼んだのは、これが初めてのことである。
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