十 甘美たる汗拭きの誘惑

「なあ、お前西尾と仲いいよな。なに? できてんの?」

 津村稔と西尾雫が市立中央小学校の六年生になって、二学期が始まってからしばらく経った時、同級生の一人が稔に向かって何気なく言った。

 よくあるからかいの言葉だ。あるいは彼は、雫に気があったのかもしれない。しかし思春期真っ盛りの稔は、その言葉をとても気にしてしまった。

 そのせいか、稔はなんとなく雫を避けるようになってしまったのである。

 例えば廊下でふと会ってしまい、雫が話しかけようとすると、稔は一目散に逃げ出してしまうし、授業中に目と目が合うと、率先して目を逸らすようになったのだ。

 もちろん稔は罪悪感を感じていた。けれど女子と付き合うのは恥ずかしい事だと、訳も分からず思い込んでいた。また、クラスメイトたちからかわれるのが嫌だという気持ちもあったのだった。

 そうして一週間が経った。どういう経緯でそうなったのかを稔はよく覚えていないのだが、誰もいない神社で二人きりになってしまったのだ。

 いつも通り逃げ出そうとする稔を、雫は手を掴んで阻止した。

「ねえ」と、雫は悲しそうな顔をして尋ねる。「どうして話してくれないの?」

 う、と稔は言葉に詰まった。

 みんなにからかわれるのが嫌だから、恥ずかしいから、何て事が言えなかった。

 雫は不可解そうに稔の顔を覗き込む。

 けれど稔は、まっすぐな雫の視線に耐えきれなくて、顔をついと横に向けた。

「ねえ、こっちを見てよ」

 雫は声を荒げた。苛ついている空気が、稔の肌に伝わって何だかひりひりする。

 一向にこちらを向いてくれない稔に業を煮やした雫は、両手で彼の顔をぱんと挟み込んで、無理矢理こちらへと方向を変えさせた。

 女子とは思えない力に、稔は抗う事すらできない。

 おかげで、稔は雫の顔を直視するはめになって、そのバランスの良い顔の造形に思わず見蕩れてしまい、顔が熱く火照っていくのだった。

 雫の方は、自分が行った行為のおかげで、稔の顔がすぐ近くに迫ってしまっているのに気がついた。さらには、友達から借りた少女漫画に、似たようなシーンがあったことを思い出す。

 確かこの後、き、キス、してた、ような。

 でもでもまさかまさか。

 雫の思考は錯乱した。

 見つめ合うまま硬着する二人の心臓の音が、高鳴りながらシンクロする。

 だが、その二人の均衡を破る声が、静かな神社の中で木霊した。

「おうおう、見せつけてくれちゃってよぉ」

 それは大きく野太く、威圧感に溢れた声だ。雫と稔は、思わず肩を振るわせながら声の主を見た。

 見た所中年男性である。脂ぎった肌の上を、玉のような汗が滑り落ち、でっぷりとした腹が異様な存在感を強調している。頭はつるつるのスキンヘッドで、太陽の光を反射させてきらめく。雫の顔が二つほど並びそうな横幅の広い顔は、紅潮しながら気持ち悪い笑みを浮かべていた。

 ただ足取りはおぼつかない。右手に握られた酒瓶から推察するに、十中八九酔っぱらいであった。

 けれど小学生の何倍もある大きな身体付きは、二人を怯えさせるに十分過ぎた。

「お嬢ちゃん、よく見れば可愛いねぇ。そんなガキと遊ばないで、おじさんと大人の遊びをしようぜ。最初は慣れなくて大変だろうけど、慣れれば病み付きになっちまうんだ、これが」

 男は舌なめずりをした。下品に口角を上げ、ギラギラと目を輝かせて、雫の幼い身体を舐めるように観察している。

 雫は恐怖で身体が震え、無意識のうちに稔の身体を両手で掴んでいた。

 稔もとても恐かった。だけどすぐ側にいる雫の震えが稔の身体にも伝わって来る。

 理由なんて、それだけで十分だった。

 稔は、雫の身体が背中に隠れるように、一歩だけ前に出て、キッと男を睨みつける。

「ンだあ? ガキぃ? 喧嘩ぁ売ってるんかぁ?」

 男は凄んでみせた。あまりの迫力に、稔は一瞬たじろく。だけど雫の怯えた手の平が、稔に下がる事を許さない。

「ええかぁ。そこのお嬢ちゃんはこれから儂と大人の遊びをするからよぉ、おめーみてーなガキの遊びはおよびじゃねぇんだよ。だからよぉ、早く家に帰ってママのおっぱいでもしゃぶってろっつってんだよッ! 分かってんのかぁッ! くらぁッ!」

 男の怒声はそれだけで人を殺してしまいそうな迫力があった。

 稔の背後にいる女の子が、「ひいっ」と小さな悲鳴を上げて、身を強張らせる。

 それを見た男は、にやにやしながらふらふらと近寄ってきた。

 もうなりふり構っていられる状況ではない。

 稔は足下を見やった。小石がいくつか落ちている。

 前を見れば、男が千鳥足でゆっくりと近づいてくる。

 稔は迷わなかった。

 腰を落とし、複数の小石を右手で一遍に掴み取ると、そのまま男に向けて全力で投げた。

 ばらばらに飛んだ小石の群れは、男の顔や身体に次々と当たる。

「ぐわぁ!」

 男は叫び声を上げた。身体や顔を痛そうに手で押さえる。

「てんめぇッ! この糞ガキゃ! 痛ぇじゃねぇかよぉ! ああんッ!」

 激昂する男の顔は、頭頂部まで真っ赤に染まった。怒りのまま、男は駆け出そうと足を出す。

 しかし酩酊している男の足は、咄嗟の動きに対応が出来ない。そのまま足をもつれさせて、男は派手な音を立てて転倒してしまった。

 手に持っていた酒瓶が地面に叩き付けられて、木っ端微塵になった。飛んだ破片が、男の顔や頭や身体に容赦なく突き刺さる。中に入っていた透明な液体が辺り一面に撒かれ、酒の匂いで周囲が充満した。

「ぎやぁっああっ!」

 男は二度目の叫び声を上げた。痛そうに身体を丸め込んでいる。

 まさか小石を投げただけでこんな事になるとは思わなかった稔であったが、ともかく今がチャンスである。

「今だ! 走れ!」

 手を繋ぎ合った二人は、一心不乱に走って逃げた。

 後ろから追ってくる気配はない。

 それでも二人は駆けた。

 駆けて駆けて、ようやく立ち止まったのは、家からほど近い住宅地の中だった。

 息を弾ませながら、稔と雫は顔を見合わせた。手は今でも繋がっている。お互い汗ばんでいるにも関わらず、どういうわけか不快じゃない。むしろ心地いいぐらいで、二人とも手を離そうとはしなかった。

 緊張の糸が途切れて、どちらともなく笑い始めた。恐かったーと、口々に言い合う。

 それから稔と雫は手を取り合ったまま家に帰った。

 この事がきっかけだったのだろうか。

 稔は学校でも雫と普通に話すようになったのである。





 改良の手術と、実験と、休日をただ繰り返すだけの日々を送るある日の事だ。

 稔は昔の記憶を夢で見てしまったのである。

 しかし今となっては、それはまるで映画でも覗いているような、どこか他人事な感覚でしかなかった。

 もちろん、あの頃に戻れる事なら戻りたい。あの幸福な日々の続きを続けたい。そうした渇望は今でも胸の奥底でくすぶっている。

 だけれども、稔はそうした感情に蓋をしてしまっていた。そうせざるえなかった。元の世界に戻る事が出来たとしても、あの頃と同じ日常を送る事が不可能なのは自明なのだから。

「おはよう」

 稔が起きたのに気付いた喜多村由梨江は、恒例になっている朝の挨拶を行った。

「おはよう」

 稔も当然返す。もっとも岩窟の中にいる限り、稔には今が朝なのか昼なのか晩なのかがよく分からないのであるが。

 けれどこうした些細なやりとりは、地獄のような今の日常を和らいでくれているようで、ほんのりと嬉しい気分にさせてくれた。

 稔は時折、もしも由梨江がいなかったらどうなっているんだろうかという空想に捕われる。

 多分、自暴自棄になっているだろう。ここに来た当初は自殺を否定していたけれど、今では死ぬのもありかもしれないと思うほどには絶望している。

 しかし、由梨江と言う存在がそれを押し止めてくれているのだ。稔にとって由梨江は、大切な存在である事は間違いようのない事実だった。

 ただ問題もある。男女が同じ部屋で共に暮らし続けていく今の生活の中で、稔は性的な欲求をどうにかこうにか抑えているのが現状なのだ。

 特に由梨江は、女性として大変魅力的なのが本当に心憎い。ふくよかな胸、腰のくびれ、程よいサイズのお尻。顔だってとても奇麗だと思う。

 眠っている最中に、由梨江が寝ぼけて稔を抱き枕状態にして来た時などは、本当に危なかった。襲ってしまいそうだった。

 何とか手を引っ込める事が出来たのは、雫の事を思い出すのに専念したおかげだ。

 弊害として、悲しくなって涙を流してしまったが、些細な事である。

「いただきます」

「いただきます」

 と、稔と由梨江はパルツを食べ始めた。このパンのような物を食べるのもいい加減慣れたものだ。以前は毎回躊躇してから口に入れていた稔であったが、今では気にせずに食べることができている。

「今日は確か、実験も手術も何もないんだったな」

 まずいパルツを水で強引に流し込んだ稔が尋ねると、由梨江は「はい」と答えた。

「そっか。それならのんびりできるなぁ」

 それから稔は、「ごめん、トイレ」と言った。

 由梨江が部屋から出て行くのを確認してから、稔は部屋の隅の床に刻まれている亀裂に向かった。

 亀裂の幅は用を足すのに不便がない程度だ。その穴に向けて、稔は小水を放った。

「ふぅう」

 ここに出すのも、嫌な事に慣れてしまった。

 仕切りなんてないから、お互いする時は、相手に部屋から出て行ってもらっているのだが、しかし最初の頃は面食らったものだった。何せ由梨江は、平気で稔の前でしようとしたからだ。

 さすがに稔が必死になって止めると、由梨江ははっと何かに気付いたような顔をして、恥ずかしそうに顔を赤く染めた。

「そうでした……。つい、癖で」

 例の見えない穴底のような瞳をした由梨江は、バツの悪そうな顔をして謝った。

 そう。確かにあの時、彼女は、癖、と言ったのだ。

 一体何が癖なのだろうか。そこに踏み込んでは行けない気がした稔は、追求するのを止めたのだった。

 思えば由梨江には、深海の底みたいに触れられない部分がある。

 男の前で慣れた様子でしようとするのもそうであるし、日本にいた頃の話もあまりしたがらない。それから、実験で彼女は外に出て行く事があるのだが、実験の内容を頑に話そうとはしなかった。

 由梨江には話したくない部分が多いのだ。

 無論、由梨江は人間だし、年若い女の子だ。男である稔に触れられたくない部分があるのも頷ける。

 だからもしも、由梨江が抱えている闇の一端でも解消する事が出来たなら、彼女の瞳が映す闇に、少しばかしでも光を宿らせる事ができるのではないか。稔はそう思った。

 問題なのは、その闇の一端をどのように知り、どうやって解決するかなのだが、稔には皆目検討もつかないことだった。

 やがて用を終えた稔は、身支度を整えてから由梨江を呼んだ。

 けれどいつもならすぐに返ってくるはずの返事はなく、少し待ってみても扉が開かなかった。

 悪い予感がした。

 稔は扉を開ける。しかしどこにも由梨江の姿は見えない。

 探しに行くべきだろうか。だがこの通路はループしている。許可がない限りは反対方向から帰ってくるだけだ。

 逡巡していると、

「津村君」

 と呼ぶ声が聞こえた。

 由梨江が通路の奥から出て来たのだ。白い布切れを二枚持っている。

「何処に行っていたんだ?」

 稔は聞いた。

 由梨江はそれに答えるように、布切れを掲げる。

「あの人に貰ったの。これで汗を拭いてさっぱりしようよ」

 彼女は艶やかに笑った。


 稔の心臓がばくばく鳴っている。どうしこんな展開になっているのか理解できなかった。

 眼前にあるのは背中だ。

 当然、由梨江の背中である。稔と違ってほっそりとしていて、簡単に折れてしまいそうなほど儚げだ。きめの細かい肌は汚れてはいるものの、本来の色がとても奇麗なのは簡単に推察できた。

 そして、彼女は特に何も身に付けていない。裸なのである。

 せめて前だけでも隠したらどうかと稔が提案してみたが、由梨江は邪魔だからと言って拒んだのだ。

 この状況はまずいと稔は思う。すごくまずい。主に理性が。

 特に暑くないのに汗が出て来ている。手も震えている。

「あの」と、一向に動き出さない稔に業を煮やした由梨江が聞く。「まだ、ですか?」

 ごくり。

 稔は生唾を飲み込んだ。

 そもそもの話、由梨江が稔に頼んだのだった。背中を拭くのを手伝って欲しいと。

 もちろん稔は断って、先に部屋から出ようとしたのだ。だけど由梨江は珍しく食い下がった。一人じゃ出来ない。私も拭いてあげるから、稔に拭いて欲しいと。上目遣いで。

 イチコロだった。稔は気がつけば頷いてしまっていた。

 ごめん。雫。

 稔は心の中で謝りつつ、水で湿らせた一枚の小さな布切れを由梨江の背中にあてがう。

「ん」

 少しこそばゆかったのか、由梨江は声を漏らした。

 それがとても色っぽく聞こえて、稔は気が気でない。

 やばいやばいやばいまじやばい。

 稔は動転しつつも、布で由梨江の背中を拭いて行く。なるべく優しく、丁寧に。

 布越しでも由梨江の肌の感触が伝わって来る。

 稔には例えられる物がないぐらいに、彼女の肌は滑らかで、柔らかかった。いつまでも触っていたくなるほど、由梨江の肌はとても心地いい。

 大した手入れができるはずもないのに、どうしてこんなにも奇麗なんだろう。

 疑問に対する答えはすぐに出た。それは由梨江の回復魔法のせいに違いない。聞けば彼女は前まではよく風邪を引く子であったらしい。なのに手術をしてからは一度も風邪を引いていないそうである。

 彼女の回復魔法は、言い換えれば、身体を最も健全な状態にする魔法なのだ。だからこそ、劣悪な環境下でも肌は若さと瑞々しさを保ち続けているに違いない。もちろんそれは頭髪にも当てはまる。ただお風呂には入れないから、身体が汚れてしまっていて、そのせいで本来の美しさが隠されてしまっているのだった。

「あの、ついでに腕もお願いします」

 大体拭き終わった事を察した由梨江は、右腕を水平に上げた。

 稔は躊躇する。

 言われた通り拭いていたら、由梨江の豊かな乳が見えてしまうんじゃないだろうか。

 稔は誘惑に駆られていた。正直言って見たかった。そればかりか触ってみたかった。思うまま揉みしだいてやりたくなった。

 しかし、脳裏に浮かぶのは雫の顔だ。

 稔は天井を眺めながら、手を動かす。

 最初は指先から始め、それから二の腕に到達する。

 由梨江の二の腕は柔らかいけれど、それ以上に柔らかくて弾力性に富んだ何かが稔の手の甲に当たった。

 まさか、あれか? 稔はさらなる強い誘惑に駆られたが、必死に無視して天井を眺め続ける。

「ん」

 吐息みたいに出した由梨江の声は、やはりとても色っぽい。

 それでも稔は腕を拭ききった。右腕だけでなく左腕も。

 終わった。あとは自分でやるだろうと稔が安堵したその時、

「その、前の方も、いい、ですか?」

 頬を赤らめた由梨江が、顔を横に向けて上目遣いでそう言った。

 もう勘弁ならぬ。

 稔は必死こいて逃げ出した。へたれと言われようが知った事じゃない。

 雫は、裏切れないのだ。


 結局稔は、自分の背中を由梨江に拭いてもらうのは止めて、何とか自力で拭いたのだ。

 それからさらに、稔は由梨江にトイレをしたいと再度訴えた。

 さっきしたばかりなのにと怪訝そうな由梨江に、稔は恥ずかしそうに大きい方だと言った。

 暫くしてから出て来た稔の顔は、とてもすっきりしていたという。




「それで、失敗したと言うのか」

 十二本目のろうそくの所に由梨江はいた。

 声の主はここにはいない。なのに何処かからか声が響いてくる。

「……はい……申し訳ありません……」

「まあ、いい。予想できた事だ。だが次は、分かっているな?」

「…………はい…………」

 由梨江はしゃがみこんで、落ちているそれを手に取ると、稔が眠っているはずの部屋へと戻って行ったのだった。

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