八 君、想う日々

 津村稔がいなくなってから、一週間が経った。


 市立中央小学校四年一組の教室の中は、朝にもかかわらず騒がしい。

 男女の仲は相も変わらず悪いものの、かのスカートめくり事件が起きてからは、男子は男子同士の、女子は女子同士の結束をより強くしていた。

 そのため仲良し同士のおしゃべりは、とても止まりそうにない。何しろ担任の先生も手を焼くほどだ。

 だけれども、教室の扉が開いて、無言で中に入って来た子をクラス全員が見た瞬間、さっきまでの喧噪が嘘のようにぴたりと止んだ。

 中に入って来たのは、津村実花だった。稔の妹である。彼女は家庭の事情で一週間ほど学校を休んでいた。

 実花と特に仲が良かった何人かが声をかけようと近寄った。けれど実花の顔を見た瞬間、彼女たちは声をかける事が出来なくなっていた。

 あの明るい子が、スカートめくり事件で男子に制裁を喰らわした英雄が、人が変わったみたいに酷く暗い顔をしていたからだった。

 それでも、彼女の内の一人が勇気を振り絞って、

「おはよう」

 と、ひきつった笑みを浮かべながらも、かろうじて挨拶をすることに成功した。

「……おはよう……」

 挨拶をしてくれた子に一瞥した実花は、ぼそぼそとした消え入りそうな声で返した。いつもなら、教室中に響き渡るような大きな声で挨拶をしていた。なのに今や見る影もない。

 その光景に衝撃を受けたのは実花に近寄った彼女たちだけではなく、教室中の誰もが等しく静かに驚いていた。

 けれど当の実花は、クラスメイトたちの様子が全く目に入らないようで、その暗く濁った目を足下に向けて、自分の席に向かってとぼとぼと歩いて行くのである。

 もちろん、クラスメイトの全員が、実花の兄が行方不明になっていることを知っていた。だけどあの実花がこうも変わるとは誰もが予想をしていなかった。

 教室の空気は、実花の沈鬱な雰囲気に引っ張られるようにして、まるで葬式の会場みたいだった。

 チャイムが鳴って、担任の吉沢美津子が入って来た。

 実花以外の誰もがほっと安堵する反面、吉沢はいつもの明るすぎる教室とは正反対な様子に軽く驚愕する。すぐさま生徒たちを見回して、その原因となった実花を見つけてようやく合点がいった。

 稔が行方不明になり、三日経っても実花が学校を休み続けた時、心配になった吉沢は臨時の家庭訪問をするために実花の家に行っていた。

 その時の実花の顔を、吉沢は忘れたくても忘れる事が出来ない。

 実花の目の下に酷い隈ができており、髪はぼさぼさで、その表情は虚ろだった。何よりもあの明るかった瞳には、深い陰が落ちていて、何も映していないようであった。顔と顔を合わせても、実花は無言で顔を床へ向けている。ここではない何処かへ、そのはかない意識を飛ばしているみたいだった。

 吉沢は、事前に用意していた実花を励ますための言葉の数々が、どれもとても陳腐に思えてきて何も言う事が出来ない。何を言えば彼女を元気にすることができるのかもまるで分からない。どんなに画期的な言葉でも、彼女の暗く濁った心に光を射す事は不可能に思えて仕方がなかった。もしそれができるのなら、それは彼女の兄である稔以外にあり得ない。

 だから吉沢は、「来たくなってから来てね。みんな待ってるから」と声をかけるので精々だったのである。

 果たして一週間経った今日、実花は学校に来てくれた。それだけで吉沢は嬉しかった。

 顔色も四日前に会ったときよりも幾分か良くなっている。

 そうして授業は始まった。実花はきちんと授業を受けているようには見えない。話していることを聞いている様子もない。かろうじてノートは取っているが、どれも機械的に写しているだけだった。

 授業中に実花を当てる事もしない。いつもなら、ひいきだひいきだと騒ぎ立ててもおかしくない男子たちが、今日はやけに大人しくしている。

 ただやはり吉沢は実花の事が心配で仕方がない。学校に来さえくれれば、周囲のクラスメイトたちに当てられて元気になる。そんな淡い期待を抱いていたが、実花は一向に元気になる様子がない。

 まあ、いい。仕方がない。よほどお兄さんの事を慕っていたのだろう。吉沢は、少しずつでいいから実花が元の元気を取り戻してくれればいいと思った。





 実花は一週間続けて同じ夢を見続けていた。

 それは稔があの黒い触手に連れ去られる夢だ。

 実花の記憶が、まるでブルーレイディスクの映像みたいな鮮明さで、繰り返し繰り返し再生されるのである。

 実花の手を掴まなかった稔が、微笑みを浮かべながら消えて行く瞬間を、毎朝毎朝当てつけの如く見せつけられるのだ。

 あの時、どうして稔は実花の手を掴んでくれなかったんだろう。あの時、どうして手を伸ばす事しか出来なかったんだろう。夢を見るたびに考えて後悔する。深い絶望の中にいる実花の心が、その度により深く沈んで行く。

 一週間が経ち、またいつものように稔が闇の中へ引きずり込まれる所で目が覚めた実花は、ああ、そうかと不意に分かった。

 稔が実花の手を掴まなかったのは実花を巻き込まないためで、微笑んだのは実花を心配させないようにするためだったのだ。

 それはすぐに分かるはずの答えだった。我ながら馬鹿だなあと実花は自嘲した。そして稔の事も馬鹿だと思った。だってあんな風にいなくなったら、心配するに決まってる。

 実花はベッドの片隅に視線を投げた。赤いランドセルが、一週間前と同じ場所に居座っている。ランドセルの蓋は外れていて、そこから教科書やノートが飛び出ていた。

 学校に、行かなきゃ。

 唐突にそう思って、実花は今日の分の準備をして、一階の居間へ降りた。

 両親が対面する形でテーブルの座席に座っている。テーブルの上には四人分の食器が置かれていた。一つは母の、一つは父の、一つは実花の、そして最後の一つは稔の分。

 父の浩一郎と母の景子は、ぎょっとした顔で実花を迎えた。たった一週間しか経っていないのに、二人の顔は少しやつれていた。

「おはよう。学校に、行くの?」

 と、景子は実花に尋ねた。実花は小さな声でうんと頷いた。すでに集団登校の班は出発している。景子があれからも毎日迎えに来てくれている西尾雫に、言伝を頼んでいたからだった。

「……分かった。なら、私が送っていくわ」

 景子の申し出に、実花はやはり頷いて答えた。

「無理するんじゃないぞ。駄目そうなら保健室で休むんだ。いいな」

 浩一郎は心配そうに言った。これにも実花は頷いた。

 今の状態で行かせても大丈夫なんだろうか。景子と浩一郎は同じ事を考える。けれど、他ならぬ実花自身が、自分から行くと言ったのだ。一週間、昼と晩のご飯の時だけ居間に降りて来た実花が、ほとんど部屋の中に引きこもっていた実花が、自分から言い出した事なのだ。二人は実花の意思を尊重したかった。

「ご飯、食べる?」

 景子の提案に、ううん、と実花は首を振った。実際食欲はなかった。

 学校へは車で行った。

 久しぶりの教室は、何だかいつもと違って見えた。人と会話をする気も起きなかった。

 授業中も休憩中も、トイレ以外で席からは離れなかったし、級友たちも朝登校した時に挨拶した事以外で近寄ってくる事がなかった。久しぶりの給食も、食欲があまり湧かなかったから、ほんの数口だけ食べるだけだった。それだって、前はそれなりに美味しかったはずなのに、今では美味しく感じなくなっていた。胸の中にぽっかりと大きな穴が空いているみたいで、とても空虚だった。あらゆる景色が色褪せて見えていた。

 お兄ちゃん。

 実花は毎日兄を想う。考えまいとすればするほど、頭の中は稔の事で一杯になってしまうのだ。

 数々の思い出がシャボン玉みたいに浮かんでは消えて行く。

 そしていつも最後に浮かぶのは、稔が消えて行くあの瞬間の微笑みだった。

 その後に来るとめどない悲しみは、とても深くて莫大で、実花はいつも抑える事ができなかった。悲しみは涙に姿を変えて溢れ出した。

「……うう……ぐす……」

 実花は授業中にも関わらず、泣き出してしまった。すすり泣く悲しい声は、静かな教室の中で悲痛に響く。

 吉沢は思わず手を止めて実花を見た。

 小さな身体を震わせて泣く姿は、かつて男子を蹴り飛ばして泣かせた姿と結びつかない。酷く弱々しくて、ちっぽけで、危うげだった。

「水原さん」吉沢は学級委員長の名を呼んだ。「自習にするので、あとはよろしくお願いね」

 水原が返事をするのを確認した吉沢は、実花の近くに移動した。それからかがんで実花の視線と同じ高さになる。

「大丈夫? 保健室に行こうか」

 うん、と実花は首を縦に振った。

 吉沢は実花の手を優しく握って、保健室に向かって連れ出した。

 保健室にいるのは、妙齢の保険医だけだ。

「どうなされましたか?」

 保険医はむせび泣く実花を一目見るなり、吉沢に向かって問い掛けた。

「実は……」吉沢は実花に聞かれないように声を潜めて言った。「例の子なんです」

「まぁっ」

 目を丸くして驚きの声をあげた保険医は、実花に柔らかな視線を送る。教師陣は実花の事情をすでに知っていたし、特に保険医は吉沢と何度も話し合っていた。それと言うとも、今起きているような事態、あるいは他の何かが起きたときのために対処をするためだった。そしてそれは無駄ではなかった。

 両手を広げた保険医は、実花の事を包み込むように抱きとめる。

「つらいわね。寂しいよね。お兄ちゃんの事、大好きだったんだね」

 暖かい保険医の言葉は、冷たくなった実花の心の中にすっと沁み入るように入って来た。

 そうして、実花は生まれて初めて気付いたのである。

 ああ、そうか。私、お兄ちゃんの事が大好きだったんだ。とってもとっても、大好きだったんだ。

「うわあああああん!」

 実花は、大きな声で泣いた。


 その数十分後に景子が迎えに来て、泣きつかれて眠っている実花を車に乗せて早退したのであった。




 西尾雫は心の中にあるパズルのピースが欠けている事を自覚していた。欠けたピースの名前は津村稔。大切な幼馴染みで恋人だった。

 しかしその大切な稔は今や行方不明だ。警察は事件と家出の方向で調査をしていると、景子さんから直接聞いている。

 だが家出はあり得ないと雫は考えている。彼を知るものなら、誰もがそう思うはずである。

 ならば何らかの事件に巻き込まれたと考えるのが自然な発想だった。

 だからこそ、雫は後悔していた。

 あの日。稔がいなくなった日、稔と一緒に帰宅している途中で実花と出くわした。実花自身は自覚がないようだったけれど、実花は稔の事が大好きだ。だから、雫は稔を実花から奪ってしまった事に少なからずも罪悪感を抱いていた。そこで用事を思い出した振りをした雫は、実花と一緒に帰るように稔を促したのである。

 かくして、稔が姿を消した。

 あの時、変に気を遣わずに一緒に帰ってやれば、もしかしたら稔が居なくなるのを防げたのかもしれない。そう思うと、いても立ってもいられない。

 実花が何かを知っているはずだが、彼女とはこの一週間会える事が出来ない。警察で事情聴取行われた時、実花はよく分からない事を口走ったらしい。黒いものの中に稔が連れ去られたと。それは人ではなかったと。

 幻覚に違いない。事実、警官はショックのあまりそういう風に見えたと解釈している。そこで警官は黒い車の目撃情報や、防犯カメラの映像に何か映っていないかを主に調べているようだ。しかし問題なのは、今の所それらしいものは一つも出て来ていないという点である。

 結局、一番真相に近い所に居るのは実花なのだろう。それは揺るがしようのない事実だ。

 雫は実花から話を聞きたかった。あの時何が起きたのかを詳しく知りたかった。

 ともすれば、半ば強引に実花の部屋に押し入って、面と面とを向き合って、問いただしたい気持ちに駆られる。

 もちろん、そんなことはしない。きっと今一番辛いのは実花だ。なにしろ目の前で稔がいなくなったのだから。その衝撃は計り知れない。

 稔がいなくなっても、毎朝津村家のチャイムを鳴らすのは、実花から色々と話を聞きたかったというのもあるし、何よりも彼女の事が心配であったからに他ならない。

 だから一週間経った今日も、雫はいつも通りの時間に津村家のチャイムを鳴らす。

「おはよう」

 と出て来たのは、景子である。

 日々やつれていく顔、濃くなって行く目の下の隈。一日が経つだけで、年老いて行くようだった。

 雫は、そんな景子の顔を見るのがつらくて、つい目をそらしてしまう。

「おはよう……ございます」

「いつもありがとうね、雫ちゃん。でも、ごめんね」

「じゃあ、やっぱり今日も」

「うん。また、よろしくね」

「……はい」

 言うだけ言って、景子は家の中へと戻って行く。

 雫は今まで続けて来た事と同じように、実花が登校できない事を彼女の集団登校の班に伝えると、ゆっくりとした足取りで駅に向かうのだった。

 高校から最寄りの駅から出ると、「おはよう!」と元気な声で声をかける同級生が二人いる。

 井上春香と山崎加奈だ。二人はクラスメイトの中でも最も仲がいい友達で、彼女たちは、ここ最近は毎日のように駅で雫を出迎えてくれる。春香と加奈は雫を間に挟んで歩き始めた。

 あの日から意気消沈している雫は、口数が明らかに少ない。けれどそんな雫を励まそうとするかのように、春香と加奈はマシンガンみたいに言葉を吐き出す。もともとお喋りな二人であるが、いつにも増して言葉数を増やしている。

 だけれども、それは空元気だった。稔がいなくなった衝撃は、二人にも与えているのである。ただ空元気すら振るえなくなった雫を、どうにかして元の調子を取り戻したいが故の行動だったのだ。

 雫も二人のそんな意図をありがたく思う。気持ちに答えられないのが本当に嫌だった。

 それから、雫の事を心配しているのは春香と加奈だけではない。

「よっ! 今日も仲いいな!」

 と、自転車に乗って背後から声をかけたのは、同じく同級生の車田良光である。

 良光は稔の悪友だった。だから彼も稔がいなくなった事に心を痛めているはずだった。

 しかし良光は、いつもと変わらない風を装っている。もちろん彼も空元気に違いない。

「あったりまえよー。親友だもんねー」

「そうよ。誰にも渡さないんだから」

 春香と加奈は、雫と腕を絡ませて、身体同士を密着させた。雫は思わず苦笑する。

「おー羨ましいねえ」口笛を混じらせながら良光は言う。「俺も混ぜてくれよ」

「いやですー」

「べーだ」

 春香と加奈は、良光に向けて舌を出した。

「ちぇっー」

 良光は少しも嫌そうな顔をしなかった。むしろ笑みを浮かべていた。

 ああ、この場に稔がいたならな。そんな風に思うぐらいに、この日常が心地よくて、何だか物足りなかった。

 稔、どこにいるの? 早く帰って来てよ。

 雫は心の中で願っていた。

 

 時間が経って、放課後になった。

 雫は春香と加奈、それからおまけで良光に声をかける。

「稔のために、何かしたい。何か私たちで出来る事って、ないかな」

「……定番な所だと、チラシを配ったりして、稔の目撃情報を集めることかな」

 意見したのは、良光だ。行方不明の少年少女を探すために、彼らの家族や友達がチラシを配っているのを雫もニュースで見た事がある。

 雫は春香と加奈に目配せをすると、二人は頷いた。

「そーだね。ニュースで見た事ある」

「でも、あれって効果あるのかなあ」

 うーんと四人は考え込んだ。

「でも」と雫は口を開く。「やってみる価値はあると思う。少なくとも何もしないよりはマシのはず」

「そうだね。うん、雫がそう言うなら私は賛成」

 真っ先に言ったの春香で、そのあとすぐさま「私も!」と加奈が手を挙げた。

「俺もそれぐらいしか思い浮かばないしな。とりあえずチラシを配りながら、他の手も考えるってことでいいんじゃないか」

 と良光は言った。

「じゃあ、私が稔のお母さんに言ってみるよ。春香と加奈はクラスのみんなに声をかけて。車田君の家には確かパソコンがあったよね?」

 良光はうんと頷く。

「じゃあ、チラシを作って。あとで写真を送るから」

 雫がそう言ってこの場を閉めた。

 とにもかくにも行動するしかないと思った。あるいはその行為は、自らの寂しさを埋めるためだったのかもしれなかったが、雫自身はその事に気付いていなかった。

 雫はまっすぐ稔の家に行って、チャイムを鳴らした。

 がちゃりと音を立てて、扉を開けた景子が雫を見た。

「雫、ちゃん? どうしたの?」

「提案があります、景子さん」

 と、雫は言った。その真剣な瞳を見た景子は、

「中に、入って」

 と、言った。


 雫が家の中に入ってくるのを、実花は自分の部屋から呆然と眺めていた。

 今更この家に何の用だろう。どこにもお兄ちゃんはいないのに。

 やがて、雫が家の中から出て来た。何度もお辞儀を繰り返すのが見えた。

 それからややあってから、

「実花」

 と景子の声が扉の向こう側から聞こえてくる。

 だけど実花は返事をしなかった。それでも景子の声は続いて聞こえてきた。

「明日から、みんなで、稔のチラシを配る事になったわ。これですぐに見つかるわけじゃないけど、少しでも稔の事を見つけてくれた情報が集まれば、きっと稔を探す手がかりに繋がってくると思う。だから」

 実花も手伝って、お願い。

 無理だ。と、実花は思った。お兄ちゃんはどこにもいない。この世界から消えてしまったのだ。

 景子の足音が遠ざかって行く。下の階に降りたのだ。

 でも。と、実花は考える。あの時、あの瞬間の事を、実花はなるべく詳しく警官に話した。けれど警官は信じてくれなかった。真っ向から否定しなかったけれど、それは態度でよく分かった。

 だけど、もしも本当にただの幻だったとしたら?

 実花は悩んでいた。あの時見た光景は、本当に真実だったのか。間違っているのは実花の方だったのだろうか。

 分からなかった。考えれば考えるほど、分からなくなっていた。

「何処に居るの? お兄ちゃん」

 呟いた小さな声は、空気の中であっけなく消えてしまった。


 次の日も、実花は小学校に行く事にした。

 出迎えてくれた雫は、とても驚いていた。

 何しろとても酷い顔をしていたから、驚くのも無理はない。ほお骨が浮き出ているほどやつれているし、髪もセットしていないし、泣き腫らした目は赤い。実花も自分が酷い顔をしていた事には自覚していた。だが、きちんと整えようとは思わなかった。

 反対に、雫は奇麗だった。髪はまっすぐで、肌にはうっすらと化粧が乗っている。表情はさすがに陰気になっていたけれど、身だしなみはきちんと整っていた。

 雫は実花の背後に回ると、懐から櫛を取り出して彼女の髪を梳いてやった。

 心地よさに身を委ねながら、実花は不意に、どうして雫はこんなにもきちんとできるのだろうと思った。

 実花には無理だ。稔がいないだけで、他の全てがどうでも良くなっていた。

 小学校へ徒歩で向かう。登校の班員からは、特に何も言われなかった。

 到着し、今度は早退する事なくやり過ごす。だがやはりつまらない。授業も、友達も張りがない。

 昨日に比べれば話すようになったが、それも2、3言うだけで、会話にはならなかった。

 そして、放課後を迎えた。

 実花はまっすぐ家に帰った。一緒に帰ってくれる友達もいた。だけど特に意識をしていなかった。何を喋ったのか、誰が来てくれたのか、家に着いた今ではもう忘れていた。

「お帰りなさい。これから駅に行って、昨日言ったチラシを配ってくるわね」

 実花はどうする? と景子は尋ねた。

 考えた末に、実花は頷いた。

 駅には歩いて行った。ここでチラシを持っている雫たちを待つらしい。

「学校はどうだった?」

 景子は何でもない風を装って、実花に聞いた。

「別に、普通だよ」

「そう? それならいいけど。まだ辛いようなら、学校に行かなくてもいいのよ。先生も了解してくれているわ」

「ううん。大丈夫」

「そうね」と、景子は何かを察したように言う。「稔が帰って来た時に、学校に行ってなかったら、心配しちゃうものね」

「……うん」

 それが学校に行く理由なんだろうか。実花は考えてみるも、違うような気がする。自分の事なのに、自分の事が分からないのは、おかしな事なんだと思う。だけどなぜ学校に行くのかが、実花には分からない。もしかしたら、母が言うような理由なのかもしれないし、もっと他の理由なのかもしれなかった。

 しばらく経ってから、雫たちがやって来た。思ったよりも多い。一五人ぐらいいる。その中には稔の担任もいるようで、景子がかしこまった様子で挨拶をしていた。

「みんな、学校のクラスメイトたちなの」と、雫は言った。「他の人たちも来たがっていたけど、部活とか、塾とかでどうしても外せなくて、今日はこれだけなの」

 それでも、これだけの人数を集められることができたのは大したものだと実花は思う。稔はみんなに好かれていたんだろう。でもこれだけの人数を集める事が出来たのは、むしろ雫の人徳のおかげに違いない。

 駅周辺を何人かで分担してチラシを配る事になった。実花の班は、景子、雫、春香、加奈の五人だ。

 実花以外の四人は、大きな声を上げながら、チラシを配って行く。実花の方は、ただ行き交う人に無言でチラシを差し出すだけだった。

 そんな消極的な行為であっても、チラシを受け取ってくれる人たちがいる。中でも印象に残ったのは、年老いたおばあちゃんだった。

 実花が渡したチラシを一瞬見たおばあちゃんは、視線をあげて実花の顔を見た。おばあちゃんは目を見開いて、

「この子の、妹かね」

 と、聞いた。実花は無言で頷いた。

「そうかい。一束貰えるかね。近所の人たちや、私の友達にも聞いてみるよ」

 とりあえず手に持っている全てのチラシを実花は差し出した。けれど、おばあちゃんは受け取らずに、実花の手を暖かく握りしめる。

「きっと、帰ってくるよ。だから元気を出すんだよ」

 悲しそうな顔でおばちゃんは言い、それからようやくチラシを手に取った。

「それじゃあ、がんばるんだよ」

 はい、と実花は答えた。満足そうに頷いたおばあちゃんは、景子や、他の人たちにも同じように声をかけてから、ようやくその場から離れて行ったのだった。

 

「ただいま」

 雫は家に帰って来た。

「お帰りなさい」

 と、母である良枝の声が奥から聞こえてくる。

 居間に入ると、ちょうど良枝が台所で晩ご飯を作っている最中だった。

「チラシ、どうだった?」

「うん。結構配れたよ。それに、実花ちゃんも来てくれたんだ」

「そう、良かったわね」

「うん」

 親子の会話もそこそこに、雫は二階に上がった。

 階段を上がって右手にある部屋の中に入る。ここは雫の部屋だった。

 鞄を床に置いて、制服を脱ぎ、ジャージに着替える。それからベッドの上に突っ伏した。

 今日は疲れていた。

 軽く化粧をして、最近は出せなかった空元気を無理矢理ひねり出した。それでもやっぱり無理があったらしく、春香と加奈、それから良光までもが何度も何度も「大丈夫?」と聞いて来てくれた。

 それでも無理を通したかいはあったと思う。予想よりもたくさんチラシを配れた。暖かい言葉をたくさん頂いた。初日としては上々の滑り出しといえるのではないだろうか。

 それから、実花と会えた。彼女の心のダメージは思ったよりも大きいらしく、元気の塊みたいな子がすっかり変わってしまっていた。聞きたかった事が、顔を見ただけで色々と吹き飛んでしまうほどに。

 でも、これからだ。これから少しずつ前進して行けば良いのだ。

 待っていろよ、稔。必ず見つけてやるからな。

 心の中での決意表明をしていると、ご飯を呼ぶ声が聞こえて来た。

 暖かな食事を取り、宿題を済ませて、お風呂に入る。

 心地よい温度のお湯が、体中に沁み渡る。

 お風呂から出て、自分の部屋に戻ると、一日の緊張感から解き放たれて、まるでゼンマイが切れたおもちゃみたいにベッドの上に倒れ込んだ。

 後は眠るだけだ。疲れていて、眠気もある。

 だけど、そんな風に気が抜けた瞬間に、稔の顔がぽんっと浮かんだ。

 雫は猛烈に寂しくなった。心の中に空いた穴から、強くて冷たい風が勢いよく吹いてくる。

 稔に会いたい。

 馬鹿みたいな会話をしたい。

 手を繋ぎたい。

 稔の体温を、鼓動を、感じていたい。

 寂しくて寂しくて苦しい。涙だって出てくる。止まらない。

 雫は手を伸ばした。真っ白な抱き枕を引き寄せて、足も手も絡めて力一杯に抱きしめる。

「寂しいよぉ、稔ぅ。どこにいるのよぉ」

 雫は泣き続けた。眠ってしまうまで。

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