七 久しぶりの肉は、至高の一品
いつもの実験を終えた喜多村由梨江は岩窟に帰っていた。首輪は外されている。
一瞬の躊躇の後に、由梨江は扉を開ける。
見れば津村稔が、うなだれた様子で岩壁に身を任せて座っていた。
いつからそうしていたのだろうか。少なくとも、短い時間そうしているわけではないだろう。由梨江は直感的に分かっていた。彼女自身にも似たような経験があったからだった。
「津村くん……」
由梨江が思わず呼びかけると、稔は呆然と顔を上げた。涙の跡が付いている。ずっと泣いていたのか、目が赤い。由梨江の胸が苦しくなった。
稔の側に近づいて、屈み込んだ由梨江は、何も言わずにその豊かな胸で彼の顔を包み込んだ。稔はされるがままにしている。
由梨江は稔の頭を撫で付ける。母親が幼い子供をあやす動作に似ていた。
「なあ」と、稔が呟く。「……知っていたのか?」
何を? と由梨江は聞かなかった。言われなくとも察していた。
「……はい。……ごめんなさい」
「……謝らないでくれよ。喜多村さんが悪い訳じゃないんだから。あと、それと」
「何?」
「離れてくれない? その、恥ずかしい」
「あ……うん」
由梨江は離れた。お互いの顔が紅潮していて、二人とも相手の姿をまともに見れない。
少しの間を置いてから、稔は口を開ける。
「あれは、やっぱりあいつの魔法なのか」
あいつ、とはゴゾルの事である。
「うん。多分だけど、ワームホールで空間を繋ぎ合わせて、通路をループさせているんだと思う」
「そっか」
「あの、それから……」
「うん?」
「明日は、その、手術をするって……」
「また、あの苦しみを味わえってか」
稔は強く頬を掻く。
「……」
由梨江は何も言えなかった。
翌日になり、稔と由梨江が居る部屋の扉が開いた。中に入って来たのはゴゾルだ。
今回はゴゾル自ら稔を連れて行くらしい。
「行くぞ」
ゴゾルがメルセルウストの言葉で言った。稔にも意味が分かったが、あえて何も言わずにゴゾルを睨みつけている。
「行くぞ……と、言っています」
由梨江がゴゾルの言葉を日本語に訳した。
「誰が、行くか」
稔は眉間に皺を寄せて日本語で言った。その言葉を、今度は由梨江がゴゾルに通じるように恐る恐る訳す。
「ふん」ゴゾルは鼻で笑う。「昨日、お前が脱出を計ったのは知っている。しかし、今回、大人しくしていれば何もしないつもりでいたのだがな」
そして、ゴゾルは凄絶に笑った。
稔にはゴゾルの言葉は飛び飛びにしか分からなかったが、何を言いたいのかを感覚的に理解する事が出来た。
由梨江はゴゾルの恐ろしい笑みに打ち震えながらも、言葉を訳し続けている。
「ユリエ」
と、ゴゾルが由梨江を見た。青ざめた表情で、由梨江はゴゾルを見返した。
「ちゃんと、訳せ」
ゴゾルは笑みを浮かべながら言う。酷く楽しげな様子だった。
「……はい」
消え入りそうな声で由梨江は返事をする。
同時に鈍い音が鳴った。
ゴゾルが間髪入れずに由梨江の鼻面を殴打したのだ。
悲鳴を上げた由梨江は、手で鼻を押さえながら俯いている。ぽたりぽたりと鼻血が滴り落ちて、小麦色の藁に落ちて行く。
「てめえっ!」
稔は激昂した。拳を握りしめて、ゴゾルに襲いかかる。
だが、奇怪な事に、寸での所で稔の身体は一歩も前に進めなくなった。そればかりか、横にも後ろにも行けない。まるで透明で堅牢な箱の中に閉じ込められたみたいだった。
「なっ」
驚きの声を上げる稔を、ゴゾルはせせら笑う。
「……お前が……逃げ出そうと……したから……この……娘を相手に……実験を……する事にした……」
由梨江は、息も絶え絶えにゴゾルが言う事を訳していく。
ゴゾルはさらに、由梨江の顔面を殴りつけた。
まぶたを切ったのか、由梨江の右目が赤く染まる。それでも、由梨江はゴゾルの言葉を言った。
「再生力……テストだ……。……それから……動こうとしても、無駄だ……。魔法で、周囲の空気を……堅くした……からだ……。お前は、そこで、この娘の再生能力を、見ていろ」
次にゴゾルは、ようやく鼻血が止まった由梨江の腹を殴りつける。
「ぐぶっ」
由梨江は腹を抑えながら呻く。
しかしゴソルは、手を挙げろと命令する。由梨江は従った。
そこにすかさず、ゴゾルはまたも由梨江の腹に拳を突き刺した。何度も、何度も、執拗に拳を由梨江の腹にめりこませる。
「……うげぇっ」
由梨江は嘔吐した。今朝食べた不味いパルツが、胃液でどろどろになって藁の上にぶちまけられた。
「……げほっ。げほっ……き、きたねえな……げほっ」
そんな言葉ですら、由梨江は健気に訳す。
「やめろ」悲壮な顔を浮かべて、稔は懇願した。「もう、やめてくれ。お願いだ。手術するから」
「げほ……。……これは……実験……はあ、はあ、……だ。私が……ごほ、満足するまで……止めない」
由梨江は、稔の言葉すら訳した。
「俺に、俺にすればいいだろ。逃げ出そうとしたのは俺なんだ。だから……!」
「ぜえぜえ。……これだから凡人は……理解力がない、げほ。お前には回復魔法を備えていない……実験には、ならない」
事実、由梨江の身体は回復魔法が効いているおかげで回復していく。もう血が止まっている。
しかし、ゴゾルの攻めは止まらない。今度はナイフを取り出して、由梨江の腹に突き刺し、捻りを加える。
「……あがぁっ」
見ていられない。稔は顔をそらし、目をつぶろうとした。だがそんな行動すら出来なくなっている。
これが、魔法なのか。耳を塞ごうとしても、今度は手が動かない。
由梨江は呻き声を発しながらも、ゴゾルの言葉を稔に伝える。
「……ううう……だめだ……。お前は……っぎゃあっ」
ゴゾルは由梨江が喋っている途中で、突き刺したナイフの柄を足で押し込んだ。それでも、由梨江は口を動かすのを止めない。
「げふ……はあ、はあ。見ていろ……聞いていろ……それが……お前に対する……実験だ……あぅ」
由梨江は身体を震わせて失禁した。飛び出た尿がじょろじょろと藁を濡らし、灰色のローブを湿らす。アンモニアの匂いが鼻を突いた。
由梨江の回復魔法は、意識を失わせる事すら許さない。白目を剥きそうになった目が、再び真ん中へと戻った。
「はあ、はあ、次は……げほげほげほ。これだ」
ゴゾルは、稔にも見えるように右手を掲げた。人差し指と中指だけを立てている。そこから、火が点いた。
「……え」
由梨江の顔が、恐怖で強張った。
「はあ、はあ、ぜえ……こ、これは……はじめて、はあ、はあ、だったな……え、……い、いや、やめて……」
ゴゾルの左手が伸びて、由梨江の口を無理矢理開かせる。
涙をぽろぽろを零しながら、由梨江は首を振った。
「いや。やめていやいやいやっ」
「やめろ。やめてくれ。おねがいだから」
稔も必死になってお願いをする。
けれど、ゴゾルの手は止まらずに、まっすぐ燃える指先を由梨江の口の中へと差し込んだ。
「……あが、ぐ、ああああ」
にやり、とゴゾルは笑った。
そうして次の瞬間、由梨江の頭部が一瞬にして燃え上がった。
指を引き抜いたゴゾルは、研究者らしく冷徹に観察する。
「ぎゃああああああっ」
苦痛に満ちた叫び声が発せられた。
皮膚が、頭髪が燃え尽き、頭蓋事が灰になって行く。
だが恐るべき事に、叫び声は止まない。
死が来る前に、由梨江の声帯は再生し、頭蓋骨は再び生まれ、皮膚が覆い、髪が伸びる。
頭部が燃え尽きても、由梨江の生命は燃え尽きないのだ。
「ひ、ひい、はあはあ、ひぐ」
由梨江の頭部は、数瞬前と全く変わらずに復活した。
ゴゾルが何かを言ったが、由梨江は何も反応しない。
がつ、とゴゾルは由梨江の頬を殴った。強い痛みを感じているはずの由梨江は、はっとして、
「……あ。あう。……や、やはり……な。思った通り……これでも死なない……すばらしいな」
ゴゾルの言葉を訳した。
稔は呆然と眺めている。見開かれた目からは、溢れた涙が流れている。
ゴゾルの実験は容赦なく続く。
普通の人間なら何度も死ぬほどの責め苦をその身に受けながら、由梨江はその度に復活し、ゴゾルの言葉を機械的に訳し続ける。
一体何リットルもの血液を流したのだろうか。藁はもはや真っ赤に染まっている。岩の部屋は、むせ返るような血の匂いと、糞尿の匂いと、汗の匂いとで、満たされている。
八つ裂きにされ、燃やされ、串刺しにされたせいで、由梨江が纏っている灰色のローブはぼろぼろで、ほとんど原型を保っていなかった。全裸に近い格好となっていた。しかしそんな事が気にならないほど、由梨江の姿は痛々しくて、もはや稔は声を出す事すらしなかった。いや、むしろ、今の由梨江に対して話しかける事は、さらなる負荷を彼女に与える事になってしまうのだ。だから、稔は積極的に声を出さないように努めていた。
由梨江が自らの死を望む気持ちを、稔はようやく理解するができた。こんな鬼畜の所行を受けていては、死にたくなるのも無理はなかった。
こんな目に遭い続けていたら、気が狂ってしまう。だが、きっと由梨江の回復魔法は、気を狂わせて現実から逃避する事すら許してくれないのだろう。
はっきり言って異常だった。
この世に地獄があるのなら、まさしくここがそうに違いない。
「はあ、はあ、実験は……ここまでだ。……ぜえ、ぜえ」視線を下に向けたまま、由梨江はゴゾルの言葉を訳す。「……こい……次は……手術だ」
ゴゾルはまっすぐ稔を見つめている。
「……わかった」
稔は力なく返事をしたのだった。
岩製のベッドに稔は横たわった。
心配そうな表情を稔に向けている由梨江は、膝立ちになって彼の左手を両手で包み込むように握っている。由梨江の手はひんやりとしていて、心地いい。
「ごめんなさい。私のせいで」
今にも泣き出してしまいそうな由梨江は、暗い瞳と声で謝った。
「喜多村さんのせいじゃないよ。こっちこそ、ごめん。俺が迂闊なマネをしたせいで、喜多村さんは……」
「ううん。私は、慣れているからいいの。こんなの、私にとっては日常茶飯事なのよ」
何て事のないように由梨江は言うが、その目は虚ろだった。
不意に足音が聞こえた。後ろの方で準備をしていたゴゾルが、右手でメスを握って稔に近づいてくる。
「お待ちかねの手術の時間だ」
喜悦に満ちた顔でゴゾルは言った。それを由梨江が訳すと、続けて、
「心配しないで。あなたは私が守るから」
とゴゾルに聞こえないぐらいの小声で言った。
稔はゴゾルにうつ伏せにさせられる。由梨江は稔の手を握りしめてくれている。
「はじめるぞ」
と、ゴゾルは言った。
ゴゾルはメスを稔の首筋に突き立てて、乱暴に縦に引き裂く。
あまりの激痛に、稔は絶叫した。
こんな、こんな痛みを。いやこれ以上の痛みを、由梨江は日常茶飯事に受けていたと言うのか。
稔は改めて実感したが、次の瞬間には更なる激痛が襲って来て、そんな思考は何処かに吹き飛んでしまった。
稔のわずかな意識の中で、ただ唯一の安らかな感覚だったのは、由梨江の冷たくて柔らかい手の感触だけだった。そしてそれだけが、心の支えであった。
手術は数時間にも及んだ。失神と覚醒を繰り返し、時に死の淵を彷徨いながらも、無事に終了した。
今回の手術では、ちょうど首の後ろの頸椎に沿って、三本ほどの角を生やさせられたのだ。角について何の説明も受けていないので、一体どういう役目を負っているのか皆目検討もつかない。
だが今は、考察するよりも早く休みたかった。
稔は由梨江に肩を貸してもらい、たどたどしい足取りで自分たちの部屋に戻る。
辿り着くと、由梨江は扉を開けて、顔を思わずしかめてしまった。
忘れていた。
床に敷き詰められた藁が血で赤く染まっていて、生臭い匂いを醸し出している事を。
「どうしようか、これ」
「どうしようね、これ」
稔と由梨江は、ハハハと乾いた笑い声を出した。
疲労は限界に達しているから、二人とも正直何もしたくなかった。今すぐにでも横になって、眠ってしまいたかった。
だけどこの現状では、寝たくても寝られる訳がない。だから最後の気力を振り絞って、血に染まった藁を部屋の外へと押し出した。
奇麗な藁は僅かしか残らなかったが、致し方がない。幸いにも、二人並んで横になるだけの分は残っていた。
それから、稔と由梨江はばたりと倒れて、深く寝入ったのだった。
稔の手術は二日おきに行われ、その度に身体の角が増えて行く。
もはや稔に抵抗する気力はなく、ただただ手術を受け入れる日々だった。
角が増えて行くに連れて、稔から元気が失われて行くようで、由梨江は気が気でない。
どうにかして稔を元気にしてあげたい由梨江は、一計を案じた。
手術を終えた次の日に、由梨江は早速行動を起こす。
部屋から出て、左側の通路を歩き、ちょうど12本目のロウソクの所で立ち止まった。
壁の隅には、あの不味いパルツが2個置かれている。いつも、由梨江はここに置かれたパルツを取りに来ていたのだ。
由梨江は意を決して、
「あのっ」と、誰もいない空間に向かって声をかける。「お願いがあります」
返事は返って来ない。それでも、由梨江は構わずに訴える。
「毎日同じものでは、栄養が偏ってしまいます。もっと他のものを。出来れば、美味しいものを食べたいんです」
由梨江の声が、通路を跳ね返って木霊するだけで、他には何も聞こえない。きっと、駄目、という答えなのだろう。
「わ、私はともかくっ、このままでは津村君が……実験体の男の子が、疲弊してしまいます。ただでさえ食べ盛りなのに、こんなパルツ一個だけでは、下手すれば栄養失調で死んでしまうかもしれないです。ですので、何かもっと他のものをっ」
必死な訴えは、チッ、という舌打ちの音で返って来た。
やっぱりだめなのね、と諦めかけたその時、黒い何かが一つだけバルツの隣に置かれているのに気がついた。手に取ってよく見れば、それは干し肉である。
「ありがとうございますっ」
由梨江は腰を折って礼をした。
バルツと干し肉を抱えた由梨江が部屋に戻ると、ちょうど稔が起きた所だった。由梨江は稔に見つからない様に、慌てて干し肉を持った手を背中に回す。
稔の姿はここに来た当時よりも遥かに変貌していた。度重なる手術のせいで、たくさんの角が上半身に生えている。おかげで高校の制服を着れなくなり、由梨江と同じ灰色のローブを羽織っている。
由梨江は稔の姿を見るたびに、心が痛くなるのを感じていた。
だけど今日は決めたのだ。稔に元気を出してもらう事を。
だから、無理矢理にでも自分の顔を綻ばせて、空元気をこれでもかとひねり出し、
「おはようっ」
と、出来るだけ元気な声で言ったのだった。
「お、おはよう?」
珍しく笑顔を浮かべ、おまけにハイテンションな由梨江を見た稔は、戸惑いを隠せない。目の前にいるいつも暗い少女は、何だか別人にでも変わってしまったようだった。
「……ど、どうしたんだ?」
「じつはね」と、由梨江は後ろに隠していた干し肉を稔の前にさらけ出す。「はい、これ」
「え、これって」
稔は素直に驚いている。いつもの不味くて不味くて仕方のないパンのようなものではなくて、見ているだけで涎が出てくる美味しそうな干し肉が目の前にあるのだから無理もない。
そもそもここに来てから肉を食べた事がないのだ。焼き肉を腹一杯食べている夢を時折見るぐらいに肉に飢えている。そんな夢を見て目が覚めて、いつものパルツを見た時の絶望と言ったらもう言葉にできない。
「津村君が食べて」
たった一切れの、されど山盛りの札束よりも価値があるように見える干し肉を見せながら、由梨江は言った。
ごくり。稔の喉が鳴った。思わず喉の奥から手が伸びてきそうだった。
それでも稔はかろうじて、
「けど、じゃあ、喜多村さんの分は?」
と、尋ねた。
「私は大丈夫。いつものパルツで十分。慣れてるとこれはこれでいけるんだよ?」
嘘に決まってる、と稔は思った。妙に不自然なハイテンションに、笑顔だってなんだかぎこちない。そもそもあんなに不味いパルツをいけるだなんて表現するのが信じられない。
「なら、ちょっとナイフを貸してよ。ほら、干し肉ってさ、堅くてちょっと食べにくいからさ」
それならば、と稔は嘘を吐いた。本音を言えばこのままかぶりつく方が絶対に美味しいと思っている。というかしたい。もう見ているだけでも辛抱たまらない。
だけどそれよりも美味しく食べる方法を、稔は知っていた。
「あ、そ、そっか、そうだよね。干し肉って噛みにくいもんね」
由梨江はナイフを取り出して、干し肉と一緒に渡す。
受け取った稔は、若干の迷いの後に、干し肉を真ん中で切り分けた。そうしてさらに、二つを良く見比べて、多大に迷いながらも若干大きい方を右手で持ち、由梨江の方へ伸ばしてみせた。
「ほら。喜多村さんも食べなよ」
「……え? でも、私はパルツだけで……」
「いいから。それにさ。こういう美味しそうなのは、一人で食べるよりも二人で食べた方が美味しいんだよ、絶対にね」
そう言った稔は、半ば強引に干し肉を由梨江に渡す。
「う、うん」
戸惑いながらも由梨江が干し肉を手に取ったのを見ると、
「いただきます」
と言って、干し肉を一かじり。
瞬間、稔の身体が喜びで打ち震えた。
ああ、これだ。
これこそが、肉だ。
旨味が、舌の上をじわーと広がっていく。
無駄に堅くてその上ぱさぱさしているパルツと違って、干し肉の噛み心地はとても気持ちいい。
例えば、砂漠を幾日も彷徨い歩き、水筒の水が尽き果て、喉がからからに乾いた末に辿り着いたオアシスの池みたいだった。
それほどの感動。これほどの希望だ。
ここでさらに、もう一度噛んでみる。
さらなる旨味が沸き上がり、身体の中へ浸透して行く。
ああ、至福だ。
だけれども、この金塊よりも貴重な干し肉を、目の前の少女は手に持っているだけで食べようとしていない。
もったいない、と稔は思う。
大体、稔は由梨江の魂胆を分かっているつもりだ。
手術続きで、その度に身体に角を植えさせられ、どんどん人間から離れて行くように感じられて、落ち込んでいるのは事実だ。
由梨江は、そうした稔の心をなんとかしようと思って、結構な無茶をして干し肉を入手したのだろう。そうして、今は、何処かのタイミングで、やっぱりいらないと稔に干し肉を渡そうとしているに違いない。
その行為や、思惑自体は、とても嬉しい。感謝している。だけど、由梨江にも干し肉を食べて欲しいと思う。この感動を彼女にも味わって欲しかった。そうすれば、きっと今よりもずっと干し肉が美味しくなる。二人とも元気になることができるのだ。
だから、
「ほら、食べてみなよ。すげー美味しいよ」
と、稔は言った。
ごくり。由梨江の喉が鳴ったのを、稔は聞き逃さなかった。
「ほら」稔は由梨江に見せびらかすように干し肉を齧る。「うん。美味い。これは絶対に食べた方が良いって」
由梨江はじぃ、と自分の手の内にある干し肉を見つめてから、干し肉にかじり付く。
瞬間、彼女の顔が、とろけた。
それから数十回の手術を行い、ようやく全ての術式が終了した。
頭、首筋、背中、肩、胸、腹、足。稔の身体の至る所から、角は生えている。
変貌した自分の身体をまじまじと見つめながら、稔は呟く。
「……なあ、俺って、今、人間なのかな。俺は今、化け物なんかじゃないのかな」
稔の顔色は、絶望に染まっている。
由梨江は、稔の顔を見ているのがただひたすら悲しくて、辛くて、苦しかった。
だから由梨江は、稔の身体をぎゅっと抱きしめた。
稔の身体から生えた角が、由梨江の柔らかな身体を突いてくる。力一杯抱きしめているから、少し痛い。だけど痛みなら慣れている。何よりも稔が与えてくれる痛みだと思うと、何だか心地よかった。
「ううん。人間だよ。化け物なんかじゃない。人間だよ。絶対に。だって、こんなにも」
暖かいから。
由梨江の両目から、ついと涙が流れた。
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