一 賑やかで、幸福で、穏やかな日々 その1
淡い青色に染められたカーテンの隙間から、白い朝日が射し込んだ。
夜の間に冷えた部屋を、春の陽気が暖かく照らす。
畳が敷かれた部屋の本棚には漫画が詰め込まれ、隅の液晶テレビにはゲーム機が繋がり、白い布団が部屋の中心に敷かれていた。
部屋の主である十六歳の津村稔は、掛け布団を蹴飛ばして眠っている。着ている青いジャージがめくれて腹が見えていた。
聞こえてくるのは安らかな寝息と、小鳥の可愛らしい鳴き声。
とても穏やかな朝の光景だった。
けれど静かな朝は、唐突に終わりを告げる。布団の側で四角い目覚まし時計がけたたましく鳴り響いたのだ。
稔は夢うつつの中手を伸ばすと、目覚まし時計のアラームを切った。そして一切の抵抗もなく再び眠りにつく。
そのままきっかり五分が経過する。身じろぎ一つしない稔の顔は気持ち良さそうだ。
突然、勢い良く稔の部屋の扉が開いた。大きな音が立ったが、やはりそれでも稔の目は覚めない。表情は少しも変わっていない。
足音をドカドカと鳴らしながら部屋に入ってきたのは、稔の妹である実花である。今年で十歳になった実花は大きく息を吸い込んで、
「お、き、ろ!!」
と家が震撼するほど大きな声で叫んだ。
しかし稔の目は開かない。実にしぶとい。しかもおちょくるように腹を掻く始末。
ぷちん。実花の中で何かが切れた。
その時の実花の顔を誰かが見たならば、きっと誰もが青ざめ、恐れおののき、その場から逃げ出しているか、平伏している事だろう。それほどまで彼女が浮かべた表情は、凄絶な怒りを表していたのである。
実花は稔が眠っている布団の側までずかずかと歩いていき、大きく足を上げてそのまま振り下ろした。踵は実に見事に、稔のみぞおちに炸裂する。
「ぎょおがわあああ!」
意味の分からない叫び声が稔の口から盛大に発せられて、家は再び揺れた。
稔は腹を両手で押さえ、涙目で悶えている。まるで羽を奪われてのたうち回る虫のようだ。嗜虐心を刺激された実花は思わずほくそ笑む。
「て、めー。なにしやがるんだ、実花」
稔は痛みのあまり起き上がる事が出来ず、怒りを込めて実花を睨め上げた。
「お兄ちゃんが起きないから、こうやるしかないんじゃない」
と、実花は稔の頭を踏みつける。ぐ、と呻いた稔の屈辱に塗れた表情を見た瞬間、ぞくぞくっとした震えが実花の全身を走った。
何これ、病み付きになっちゃいそう。
実花にとって、それは初めての感覚だった。もっとお兄ちゃんを痛めつけて、苦しめて、その表情を見たい。そんな得体の知れない欲求が沸き上がる。
だが、もちろん稔にとって実花の行動は許せる範疇を超えていた。
「こ、の」
稔は立ち上がった。
「きゃわっ」
すってーん。
それはもう見事に実花は転んだ。
床に後頭部が当たってしまったのか、いったーいと呟いて頭を抑えながら起き上がった実花は、怒り心頭に来た稔の顔を見た。
実花も伊達に十年ほど稔の妹をやっていない。だから分かった。あ、これはやばいやつだ、と。
となれば、取るべき方法は一つだけだった。
「うわーんっ! お兄ちゃんがーいじめるー!」
「あ、待て!」
稔の制止を無視した実花は、泣きわめく振りをしながら稔の部屋から走って出て行く。
「……しまった」
稔は己の失策を恥じ、次にくるであろう母、景子の雷声に対して身構えた。
程なくしてまたも家が震えるのだが、それは言わずとも分かる事であろう。
「あらあら、今日も騒がしいわねえ」
箸で卵焼きを口に運ぶ途中、呑気な口調で発言した西尾良枝は、お隣の津村家へと壁越しに視線を向けた。
「どーせあいつが何かやったんでしょう。まったく馬鹿なんだから」
険のある瞳を母親の良枝と同じ方向に向けた雫は、苛立たしい声で言った。
「あらあら」
と、良枝は微笑みを浮かべ、暖かな眼差しで雫を見る。
「何よ、母さん」
「いーえ、別に何でもないわ。ただ、一体いつになったら稔君と付き合うのかなーって」
「ぶふぉ」
と、口に含んだご飯を思わず吹き出した雫は、げほげほとむせた。
「な、ななな何を言ってるのよ、母さん」
「付き合わないの?」
「つ、付き合わないわよ! あんな奴!」
焦ったように言った雫は、それから時計を一瞥すると、ものすごい勢いで残っているご飯を一気にかき込んだ。
「ご、ごちそうさま。そろそろ行くわね」
逃げるように立ち上がった雫に対し、良枝は微笑みを絶やさずに、
「今日も稔君と一緒に行くの?」
と聞いた。
「し、仕方ないじゃない。だってあいつったら、私がいないとすぐに遅刻しちゃうに決まってるんだから」
雫は何もかもを見通しているような良枝の視線に耐えきれず、居間のソファーに置いておいた鞄を手に取って一目散に家から出た。
向かった先は、西尾家の正面から見て左隣にある津村家だ。
前髪を二、三回手で撫で付け、深呼吸をした雫は、ためらいがちにインターフォンを押した。
ピンポンという間の抜けた音が、津村家の中で鳴り響く。
すると家の中で、ドタバタと音がして玄関が開いたと思うや否や、鞄を持った稔と、赤いランドセルを背負った実花が並んで立っている。
「おはよう、稔。実花ちゃん」
「おはよう」
「おはようございます、雫さん」
何度となく行った挨拶を今日もすると、三人は連れ立って歩き始めた。
「それで、今日はどうしたの?」
最初に口火を切ったのは雫だ。
実花は大げさな脚色と省略を加えた説明をし始める。これでは一方的に悪役になってしまうと感じた稔は、訂正および補足を加えようと口を開けた。が、しかし、
「稔は黙ってて」
などと雫に一蹴されるからたまらない。
そして、最終的に雫は、
「それは稔が悪い」
と予想通りの所感を述べた。
「確かに俺も悪かったけども!」
稔は再度説明を試みる。けれど雫は、問答無用とばかりに「何が起きようとも稔が悪いに決まってる」と言い切ってしまうのである。
稔にはもはや弁解をする権利すら認められていないのだ。
理不尽だ。そう稔が心の中で呟くのも無理からぬことであった。
実花を集団登校のための集合場所まで送り届けた二人は、最寄りの青嵐駅に向かった。それからおよそ15分ほど電車に揺られて、ようやく二人が通っている公立青嵐高校の最寄り駅にたどり着く。
とりとめもない雑談を交わしながら、十分ほどの道のりを歩いていく二人に声をかけたのは、自転車に乗っている車田良光だった。
「よっす。相変わらずお二人は良い夫婦だねえ」
良光のからかいに、
「だれが夫婦だ」
「だれが夫婦よ」
と、稔と雫の反論の声が重なった。
「これこれ。全くいつもながら素晴らしいコンビネーションなことで」
二人の歩行速度に合わせて自転車をこぎながら、良光はにんまりと笑いながら言った。
思わぬ指摘を受けた二人は睨み合う。火花が散っているように良光には見えた。
「真似すんな」
「真似すんな」
またもや二人の声が重なる。しかも言っている言葉も一字一句同じなのだ。良光は再び苦笑し、稔と雫はより一層顔を険しくさせて睨み合う。
そこからギャーギャーと言い合いが始まった。事態の発端である良光は、その光景をスマートフォンでこっそりと撮影すると、自転車を漕ぐスピードを速めてその場からすばやく立ち去ったのだった。
稔と雫はその事に全く気づいていない。むしろ罵り合いがヒートアップしている。
周囲もその光景に注目している。しかし飛び交っている声は、二人の関係を心配しているものではなかった。
「お、今日も始まったな」
「毎朝毎朝よく飽きないわよねー」
「仲いいよねー」
「お似合いだよねー」
「なあなあ、知ってるかあの二人。まだ付き合っていないんだぜ」
「うっそー。信じらんないー」
「早く付き合っちゃえば良いのにねー」
「ねー」
もちろん稔と雫は、そうした内容の会話を誰もが行っていることを知らない。周りの声を耳は捉えていないし、目も映していない。完全に二人だけの世界に入っている。その事実は周囲の人たちもよく分かっていた。だから本人たちの前で噂話を平気で行うのだ。
二人はこの校内におけるちょっとした有名カップルなのであった。
ちなみに目撃した人たちには幸運が訪れるとか、なぜ二人は付き合わないかと言うのが七不思議の一つになっていたりするが、二人にとっては与り知らぬ事である。
稔と雫は二年三組だ。ついでに良光も同じクラスである。
眠たくなる数学の授業中、こいつとは長い付き合いだよなあ、と稔は雫の背中を斜め後ろから眺めながら思う。
幼稚園、小学校、中学校と来て、さすがに高校は別だろうと考えていた矢先、どういうわけか同じ高校に通う事になった。雫の成績ならもっと上を目指せるはずだったから、稔は本当に不思議だった。
だから、稔は一度だけ聞いた事がある。その時の返答は、
「だって、ランク落とした方が勉強が楽じゃない」
というものだった。聞く人が聞けば嫌みになりそうな発言をさらっとするものだからたまらない。さらに、稔は後に続いた言葉を思い出して顔つきが苦々しくなった。
「あ、そうそう。景子さんから稔の勉強見てあげてって言われているから、覚悟しておくように。何せケーキがおいしかったからね。もう本気でやっちゃうよ」
稔はあの鬼のようなスパルタ勉強会を思い出すと、今でも怖気が走る。特にケーキの件は一生忘れまいと思う。
しかしあれがあったからこそ、公立晴嵐高校に通えるようになったのだと思うと、さすがに感謝せざる得ないのであった。
「では、この問題を……津村!」
呼ばれ、反射的に立ち上がり、「はい!」と返事をした稔は、教壇に立っている数学教師に睨まれた。
「この問題、解いてみろ」
えっくすとか、わいとか、数字とかが書かれた黒板の文字列を凝視し、稔は一念発起して黒板に向かった。
白チョークを持って、しばし思案する。もちろんさっぱり分からない。だから過程の式をすっぽり書かずにいきなり答えを勘で書いた。X=7。
教室中からどっと笑いが起きた。
きょとんとする稔に対し、数学教師は手で追い払うように、
「もういい。戻れ」
と、呆れた様子で言った。
言われた通り戻る稔に、雫は口パクで言う。
「ばか」
全く持ってその通り過ぎて、稔は何も言い返す事が出来ずにすごすごと自分の席へと戻るのであった。
「じゃあ、次は雫。代わりに解いてやれ」
次に当てられた雫は迷いなく立ち上がって、黒板の前に行った。白チョークを動かす手先は淀みがない。考えている風にも見えない。板書された内容は、もちろん過程の式も答えもしっかりと書かれている。
「さすがだ。文句なし。正解だ」
数学教師は感心した様子で言い、赤チョークで大きく丸を付けた。
自分の席に戻っていく雫の表情は涼しげだ。
けれど雫が椅子に座る前、ほんの少しの間、口角をわずかにあげたのを稔は見逃さなかった。
稔は声を大にして言いたかった。これがこの女の本性なのだと。
しかし雫の勝ち誇った笑みは稔のみに向けられていて、他の誰にも気づく事はないのだった。
昼休み。
友達の井上春香や、山崎加奈と弁当を食べた雫は、用事があると言って教室から出て行った。
「ねえねえ、春香さんや。これはやっぱり、あれでございましょうか?」
「加奈さんや、あれで間違いないことでしょう。……さて、どうします?」
残された春香と加奈は、何やら声を潜めて話し始めた。
「決まっておりますよ、げへげへげへ」
「決まっておりますな、げへげへげへ」
二人は立ち上がって、やらしく笑いながら、雫の後を追う。
やがて辿り着いた場所は、体育館の裏だった。定番中の定番である。
雫は一人でぽつんと立っている。その様子を、春香と加奈が物陰に隠れて観察していた。
加奈は、雫に聞こえないようなひっそりとした声で、隣にいる春香に話しかける。
「むむむ、ここは、なるほど相手は基本に忠実のようでございます」
「しかし、どうなのでしょうか。相手は百戦錬磨の雫嬢。今更普通な舞台設定では満足しないのでは?」
「いやいや、むしろ今までは奇をてらった場所が多かったほど。ならばこそ、こうしたごく普通な場所の方が、かえって雫嬢にとって新鮮なのではないでしょうか」
「なるほどなるほど。一理ありますな。しかし、今回の彼はすでに雫嬢を待たせてしまっています。これは痛い。デートの待ち合わせ場所における定番なやり取りを期待しているのか、相手を焦らす作戦であるのか分かりませんが、女を待たせるのは如何なものか。減点五」
「全く同感でありますな。減点五、――あ、来ましたよ」
奥の方から現れたのは、よく引き締まった身体の男だった。
「おっとこいつは、我が校屈指のイケメン、サッカー部のエース和田島先輩ではないですか」
「これは驚きましたねー。加奈さん、見てください。雫嬢も驚いているご様子。しかし無理もない。何せ彼にはファンが多いですから、自己評価の低い雫嬢にとっては意外だったのでしょう。何よりも彼はイケメンです。イケメンは全てを許される存在なのです。これはポイント高い。加点二十」
「加点二十五」
和田島は「遅れてごめん」と何度も頭を下げている。それに対して雫は、許す素振りを見せて、「それで、話って何ですか?」と聞いた。
「おおっと。駆け引きもなく、いきなり切り出しましたね雫嬢は。どう思いますか春香さん」
「雫嬢はまじめです。昼休みが終わる前に話を終わらせたいのではないでしょうか」
「なるほどなるほど」
和田島は勢い良く身体を九十度に折り曲げ、「ずっと好きでした! 僕と付き合ってください! お願いします!」と叫ぶように言った。大きな声に驚いた様子の雫は、一瞬、周りをきょろきょろと見渡しながらも、まっすぐ和田島を見返している。それが気持ちを伝えてくれた彼に対する真摯な対応だと言うように。
「キ、キター! キマしたよ、春香さん。どストレートな告白です。これは大抵の女ならば濡れてしまうんじゃないでしょうか?」
「ええ。ええ。これは強い。しかも普段の一人称が俺である和田島先輩が、僕と言ったのです。これはギャップ萌えです。ポイント高し。加点……五十」
「むむ、高得点を付けましたねえ。ですがその気持ち、分かります。女の子なら変化球な告白よりも直球ど真ん中に憧れると私は思います。それを見事にやってのけた和田島先輩。素晴らしいです。私は五十五ほど加点いたしましょう」
「加奈さんもやりますねえ。さて、肝心の返答の方はどうでしょうか」
「ふむ。雫嬢はもったいぶっております。それにしても余裕の笑みを浮かべていますな、和田島先輩。絶対の自信がおありのようで、態度の方にも表れている様子です」
「さすがは校内屈指のイケメン、と言った所でしょうか。付き合った女子の数は数知れず、噂に寄れば他校の生徒もその手にかけたとかなんとか。きっと振られた事は一度もないのでしょう。これは雫嬢もピンチなのではないでしょうか?」
雫は勢いよく頭を下げて、「ごめんなさい」と言った。和田島は衝撃を受けているようだったが、かろうじて「どうして?」とだけ尋ねる。雫はそれに答えない。ただ「ごめんなさい」と断り続けている。和田島は「そうか」と一言だけ呟くと、ふらついた足取りで歩き去っていく。
「やはりこういう結果に落ち着きましたか。しかし最大の敗因とは一体なんだと思いますか、加奈さん」
「そもそも雫嬢をターゲットにした時点で間違っていた。それに尽きるのではないでしょうか」
「なるほど、やはりそうですか。私も同意見です。何しろ彼女にはすでに心に決めた人がいるのですから」
「減点五百」
「減点五百」
二人が声を合わせてそう言ったとき、唐突に不吉な人影が覆う。ぎょっとして顔を見合わせた春香と加奈は、恐る恐る見上げてみる。
そこには、雫がいた。殺人的な視線を放っている。
春香と加奈は互いの両手を握りしめ合い、がたがたと怯えた様子で身体を震えさせる。
「あ、な、た、た、ち~。な、に、を、し、て、い、る、の、か、な~?」
「あ、これは……そのぉ」
と、春香は目に涙を溜め込んで狼狽える。
「な、なんていうのかな、ほら、ね?」
加奈は気の毒になるぐらいに青ざめている。
「問答無用!」
雫のげんこつが振り下ろされた。ハンマーで思い切り叩いた時みたいな大きな音が二回鳴る。
後には、頭を抑えながら、ぴくんぴくんと痙攣しながら倒れている二人の姿があった。
雫が告白される少し前、稔と良光は教室内で弁当を食べていた。
「おや」
と、良光は雫が教室から出て行くのが見えた。
「どうした?」
稔は訝しんだ。
「いや、なんでもないよ」
良光はかぶりを振って、赤いウインナーに噛み付いた。
どうして雫が教室から出て行ったのか。それは春香と加奈がこそこそと雫の後を追っていくのを見つける事でおおよその察しはつく。
あいつはモテるからな。
良光は稔の能天気にご飯を食べている姿を見てほくそ笑んだ。
不思議そうに見てくる前方の友人は、きっと雫の身に今起きているであろうイベントについて知らないのだろう。そして、ことごとく断っている事についても。
鈍い奴だと思う。だが、何処か憎めない奴でもあった。
だからこそ、良光は二人の仲を応援してやろうと思っている。それが例え、自分の気持ちを押し隠す事になったとしてもだ。
最も、二人の事をからかうのが面白いからという理由が大半なのであるが。
一日における全ての授業が終わった。
開放感に包まれた稔は、手早く荷物をまとめて席を立った。
稔はクラブに入っていない。いわゆる帰宅部である。何かしらのクラブに入る事を一度は考えたものの、中学で所属したサッカー部における過酷な練習と先輩による後輩いびりを思い出して、稔は嫌になったのだ。一年経てばマシになるのだろうが、それでも一年間も我慢し続けなければならないのは正直うんざりしてしまう。
もちろん、高校でも同じような後輩いびりが起きているとは限らない。その事は稔にだって理解している。けれど部活に時間を縛られ、苦しい思いをして、その癖、試合に負けてしまった時、稔は思ったのだ。
ああ、俺の三年間は何だったのか、と。
文化部に入る事も一応は考えてみた。しかし自分で楽器を吹こうとは思わなかったし、絵の事も大して好きではない。書道にもまるで興味がなく、科学部も合っていなさそうだった。
それで結局稔は部活をすることを止めたのだ。
後悔はしていない。むしろ放課後の時間を好きに使えることや、先輩後輩という煩わしい関係から解放されてせいせいした思いだった。
そうして今日、稔はすぐさま家に帰る事を選択した。寄り道をしようという考えはなかった。
家に着いて部屋に入ってまずした事は、ゲーム機の電源を入れる事だった。
マジッククエストⅣ。
超人気ロールプレイングゲームシリーズの四作目、そのリメイク版である。シリーズを通して魔法が重要なキーワードになっていることが共通点であるが、それぞれ独立したストーリーを展開している。また基本的には同じシステムで一貫しているのも、根強いファンを生み出した原動力になっている、というのが一般的な批評だ。
今、正に稔がはまっているこのゲームは、シリーズ屈指のシナリオと名高い。
地上界に出てきた魔界の王子ツァルケェルが、その強い力で人々を助けてきたにも関わらず、人間に裏切られ、迫害される。その結果、真の悪は人間だと結論を下したツァルケェルは、魔王と自称し、人間界を滅ぼそうとするという衝撃的な内容だ。善と悪を考えさせられるとして評価が高く、シリーズ最高傑作と言う人も多い。
稔は魔王ツァルケェルが待っているラストダンジョンに挑むために、レベル上げをしている最中であった。すぐに逃げるが、倒せば莫大な経験値を所得できる銀色のレアモンスターを探しては、倒し続けていく。
何度か逃げられたものの、それでも一時間の内に何匹か倒す事が出来た。おかげで三つほどレベルが上がった。だが目標としている数値までまだ足りない。だから再び同じような場所を行ったり来たりし続けていると、
「たっだいまー!」
元気のいい声が玄関から聞こえてきたのである。遊びに行っていた実花が帰ってきたのだ。
勢い良く階段を上る音が聞こえたと思うと、ばん! と稔の部屋の扉が開いた。
「ただいまっ! お兄ちゃん!」
と、中に入ってきた実花が開口一番に言った。
「おう、おかえり」
稔は画面を見ながら言う。
「む、むー。またゲームしてる」
実花はうなり声をあげて頬を膨らませる。やはり稔は画面を注視しているままだった。
「ねーお兄ちゃん。遊ぼうよー」
「おー、後でなー」
実に気のない返事である。
苛つきを覚えた実花であったが、同時に企みごとを思いついてにやりと笑った。
気配を消して忍び足でテレビに近づく。
そして、手を伸ばす。
「ぽちっとな」
実花はそう言ってゲーム機の電源を切った。
途端、テレビの画面は真っ暗になり、ゲーム機の駆動音が消えた。
「あ」
稔は呆然と画面を見つめる。頭の中でセーブをした瞬間を思い出そうと考える。
していない。ゲームを始めてから一度もセーブを行っていない。
つまり。
「あ、あ、あ」
一時間と少しをかけて集めた経験値の全てがパー。
「いうえお?」
首を傾げて実花は言った。しかしその目は笑っている。
震え始める稔。
「どーしたの? お兄ちゃん?」
そうそう、こんな顔が見たかったの。とでも言っているような愉悦に歪んだ実花の表情である。
稔は実花を睨みつけた。怒っていた。怒鳴ってやろうと思い切り息を吸い込んだ。
その瞬間だ。
「うえ……!」
と、実花が得意の嘘泣きをしようとして、稔は慌てて実花の口を塞いだ。一日に二度も母の雷声を聞くのはさすがにたまらない。
「ま、待て。遊んでやるから、それはやめてくれ」
本気で懇願する稔を見た実花は、満足そうにゆっくりと頷いた。
稔はほっと安堵の息を吐きながら手を離す。
「本当に?」
「も、もちろん」
「じゃあじゃあ、トランプしよ」
夕飯まで楽しく大富豪をした。稔はわざと負けた。
こいつはろくな大人にならないな、と実花の将来を心配する稔であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます